お三時(やつ)の出面
夙川邸の一部增築に日々六、七名の大工が作業してゐたが、大した工事でもないので時々見廻る外、監督員も附けなかつた。そして日毎のお三時には饂飩(うどん)、牡丹餅、壽司などを必ず振舞つた。故人は窃に女中頭に命じてその日々のお三時數を正確に記録させて置いた。月末大工棟梁から請求書が提出されたので、その出面數とお三時の數とを對照して見ると、驚いたことには請求書の出面超過は三十名にも達してゐた。そこで故人は唐突に『お前さんとこの若い者の中にお三時が食べられないほどの病人があるかい』と訊ねた。棟梁は昂然と『そんな者は一人もありません』と明瞭に答へた。故人は『それは不思議だ。俺の家では日毎お三時の數をキチンと記録してゐる。それに請求書の出面とお三時の數が合はない。定めし計算の間違ひだらうから、もう一度調べ直して來なさい』と請求書をつき返へした。棟梁はかうしたことのあることは夢にも豫期してゐなかつたので舌を卷いて驚き呆れ、再提出のものは無論正確のものであつた。後、故人は『正直な者でないと成功しないよ』と嚴に棟梁を戒めた。この逸話は後日その棟梁が他人にこれを物語つたので知られたのである。