大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

お三時(やつ)の出面

夙川邸の一部增築に日々六、七名の大工が作業してゐたが、大した工事でもないので時々見廻る外、監督員も附けなかつた。そして日毎のお三時には饂飩(うどん)、牡丹餅、壽司などを必ず振舞つた。故人は窃に女中頭に命じてその日々のお三時數を正確に記録させて置いた。月末大工棟梁から請求書が提出されたので、その出面數とお三時の數とを對照して見ると、驚いたことには請求書の出面超過は三十名にも達してゐた。そこで故人は唐突に『お前さんとこの若い者の中にお三時が食べられないほどの病人があるかい』と訊ねた。棟梁は昂然と『そんな者は一人もありません』と明瞭に答へた。故人は『それは不思議だ。俺の家では日毎お三時の數をキチンと記録してゐる。それに請求書の出面とお三時の數が合はない。定めし計算の間違ひだらうから、もう一度調べ直して來なさい』と請求書をつき返へした。棟梁はかうしたことのあることは夢にも豫期してゐなかつたので舌を卷いて驚き呆れ、再提出のものは無論正確のものであつた。後、故人は『正直な者でないと成功しないよ』と嚴に棟梁を戒めた。この逸話は後日その棟梁が他人にこれを物語つたので知られたのである。

凱歌の手水鉢

故人は頭が銳かつた加减であらう、當意即妙の所謂洒落などは頗(すこぶ)る倚麗で鮮かなものであつた。或る日故人と親友のM氏が某所に太白を擧げた時、M氏もその道にかけては中々の剛の者であつたので、忽ち洒落の競技が展開され、何れも技は神に入つて輸贏(しゅえい)は容易に決すべくもなかつた。姑くして二人は共に便所にたつた。故人は前きに用を濟まして手水鉢を切りに眺めてゐる。後から出て來たM氏が柄杓を手にし『君は何を見てゐるのだい』と問うた。故人は眞面目顏に首を傾け『この手水鉢は金だらうか、石だらうか』とさゝやいた。M氏は『これは金にきまつてゐるぢやないか』と柄杓で手水鉢を叩いた。故人はすかさず『君も慾深い男だね。そんな手水鉢を叩いたつてお金が出るものか』とサツサと座に戻つた。この問答でその日は遂に故人の勝に歸したのであつた。

閉門

故人は常に簡單で意味の徹底した獨得の用語を使用するに妙を得てゐた。そして又剛直の性格が到るところに流露されたものである。病中の時も何か氣に障つたことがあると、何人を問はず『お前は閉門だ』と申渡した。閉門の一語は頗る簡單だが、お許しの出るまでは病室への出入を差止めるといふ意味なのである。楠本博士でさへ何かの誤解から閉門を喰つたことがある。或る時故人が苦しさうに『胸を切れ、胸を切れ』と言つて已まない。誰しも互に顏見合せ躊躇逡巡してゐた。爲に遂に全部閉門の申渡を受けてしまつた。あとは給仕の後藤與男少年(現名古屋支店會計主任)一人となつた。與男少年は直ちに胸部に貼つてある膏藥を切れといふことだらうと氣付き、鋏でその中央部を切つた。故人は『アヽ樂になつた』と喜ぶこと限りなく、やがて少年の功を愛でられて、その進言により全部の閉門が解かれた。

妾腹の子

親戚の大門益太郞氏は次男新三郞氏が生れた時、母乳が足らないので主として牛乳で育てゝゐた。これを聞いた故人は、同情の餘り、大阪の市中より空氣もよいといふことで夙川邸に乳呑み兒を引取り、乳母まで附けて愛育した。その時は岩下翁の勸めに從つて最愛の義雄氏を東都に遊學させた直後であつたから、故人はこの幼兒に依つてやる瀨ない心の寂しさを醫(いや)してゐた。かやうに手を盡して養育した甲斐があつて、新三郞氏はまるまると肥り、三、四歳の頃から故人をお父さん、お父さんと呼んでまつはりつき、故人も亦露ほども他人の子とは見えないほどに可愛がつたものである。そして故人はこの事情を知らない出入の者などに『これは妾腹に出來た子なのだよ』と告げてゐたので、多くの人はそれを眞實として疑ひもしなかつた。しかるに故人の歿後事情が判明して、その人々等は故人の子煩惱さに驚かされたのであつた。

門前に禮拜する人

本社がまだ北濱にあつた時のこと、某社員が出張先より早朝歸社すると、まだ扉の開かれてゐない本社の正面に向つて、身なりの賤しくない一人の人が、恰も社前に額つくやうな謹嚴な態度で禮拜してゐる。あまりの訝しさに近よつてそのわけを問ふと、その人は目に涙を浮べながら『先代樣(故人)には一方ならぬ御恩があります。今日恙なく暮してゐられるのも皆先代樣のお蔭であります。だから御社の前を通るときはかうして御子孫の繁榮をお祈りしてゐるのです』といふことなので、某社員もその奇特さに胸を打たれ、慇懃(いんぎん)にその人の姓名を問ふたのであつたが、その人は如何にも躊躇する樣で『姓名は聞いて下さるな、つまらない者で御座います』といつて風の如くにたち去られた。某社員は美しい心根のその人の後姿を見えなくなるまで恍惚として見送つたのであつた。

木乃伊(ミイラ)取が木乃伊

或る年の秋、大林組の遠足會として琵琶湖巡りが行はれ、その夜數百の社員が大津公會堂に會し、盛大な宴が催された。思ひ思ひの餘興などに和氣靄々、歡は盡きるところを知らなかつた。しかるに來賓中に下請の三木老親分がゐて、興が增せば增すほど盛んに泣き廻つてゐる。少年時代から故人に事へた古參の三上社員がこれを見兼ねて三木親分を廊下に連れ出し、『お前はこの目出たい席で何故泣くのか。泣くならもう歸りなさい』と叱責した。すると三木親分は『泣くなと言はれても泣かずにゐられますか。こんな盛大な宴會に先代さん(故人)が生きてゐられたならどんなに喜ばれたらうと想ふと、思はず泣けて來るのです』といつて猶も泣き續けた。これを聞いた三上社員も思はず三木親分の手を取つて、共に廊下の眞中にドツカとばかり尻餅を搗(つ)き、『お前もさう想つてゐたか、俺もさう想つてゐた』と今度は二人が共に聲を放つて泣き出した。

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