大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

即時即決

故人の命令は綸言(りんげん)汗の如しといつた風であつた。一度び命が發せられると響の聲に應ずるやうに、一刻の猶豫さへ與へられないのが常であつた。妹婿の故大林龜松氏(後常任監査役)が東京支店に在勤の折、當時少年の義雄氏が激烈な猩紅熱(しょうこうねつ)に冒されて危險の状態にあつたので、故人より龜松氏宛に『ヨシヲキトク、イエシマツテアスカエレ』との電命があつた。普通の人なら、居宅は一時誰かに預けて一ト先づ歸つて來い、といふ程度のものだらうに、家をたゝんで翌日歸れといふのだから隨分短兵急なもので、總べてにキビキビした故人の性格が躍如としてゐる。平常から故人の性格に馴れきつてゐた龜松氏は、電命のまゝ家をたゝんで翌日歸阪したのである。故人はさも滿足氣にその行動の敏速さを賞讃したものであつた。又故人の命令そのものも間髮を容れない底のものがあり、出先だらうが、自宅だらうが、夜中だらうが、寢起きだらうがお構ひなしで『明日會社へ行つてから言ひつける』とか、或は呼び寄せた社員が自分の入浴中にでもやつて來ると、『風呂からあがるまで待たせて置け』といつた悠長さはない。疾風的に風呂の中からでも命を發したものだ。伊藤順太郞氏も曾て風呂の中から命令を受けた一人で、『君は今から直ぐに支度をして善通寺の工事場に行つて貰ひたい。お金が入るなら奧さんから貰つて行きなさい』といつた調子。もし愚圖々々してゐやうものなら、信任忽ち地を拂つて『あの男は駄目だ』となつてしまふ。かくして大林組の全機關が活氣橫溢、潑刺として運行して行つたのであつた。

印半纒(しるしばんてん)の利用

或る時下職の小頭某が、大林組から與へられた新しい平袖の印半纒を細い筒袖の仕事着に仕立直して得々としてゐた。これを巡視中に發見した故人は『何故大きな袖を初めから細い袖にするのか。態(わざ)と細くするやうな不經濟なことをしないで、最初は大きな袖のまゝとし、古くなつて後に仕事着に直して着るが可い』と諭した。故人はさうした印半纒の利用のやうなことにさへ細心の注意を怠らなかつた。

健啖

故人は健啖且つ豪飮家で有名であつた。しかしその偉大な體軀と對照するときは、何人も珍らしいとは思ひもすまいが、さうした點に上品な人の眼から見るならば、天眞爛漫で無遠慮な故人の健啖は驚くべきものであつたに相違ない。居常用ふる食膳は高さ一尺二寸、方二尺五寸の盤臺(ばんだい)に等しいもの、又食碗は普通人のものより二倍大の五郞八茶碗で、その他皿、小鉢などもこれに應じて大型の器を用ひ、五、六種の佳肴(かこう)は大膳の上に列べられ、しかもその全部を平げて剩すところがなかつたものである。酒も無論豪の者で、小さい盃でチビチビやるのでなく、底深いコツプやうのもので一氣に嚥下するのを好んだ。又香の物は最も愛好して毎食一鉢乃至二鉢を平げたものである。故人が友人などと共に晩餐を料亭に攝つたときなど、次ぎ次ぎと仲居が運んで來る割烹は忽ちにして平げてしまひ、次の佳肴を待つ間ももどかしいほどに皿や鉢は何時も空虚になり勝であつた。そんな時に折々茶目が發揮され、仲居が各人に吸物を配りつゝある間に故人は自分の椀をそつと一氣に飮み干し、『俺の吸物は空つぽだよ、それ御覽』と葢をあけて見せ、仲居が吃驚(びっくり)して謝るのに笑ひ興ずることなどもあつた。或る時京都の知名な旅館に一泊した際、吸物を五、六杯お替りして京都風の愼ましやかな女將を驚かしたこともあり、又或る日、これ又健啖の豪の者であつた妹婿の龜松氏と茶臼山の雲水で會食し、共に三人前の料理と銚子三十六本を平げて平然と歸つたこともあつた。だから旅館などの體裁のよい一人前の膳部では足らないのが當然で、或る夕暮に故人が飄然(ひょうぜん)某旅館に着き『來客があるから御膳を二人前拵(こしら)へて下さい』と命じた。暫くして仲居が『お客樣はまだ參りませんか』と待ちあぐんでゐる樣子に、故人は『もう來るだらうから御膳を運びなさい』と命じ、『來る筈であつたが來ないね、僕がやつてしまふよ』と二人前をペロリ征服したことなどもある。無論お客といふのは自分の健啖を醫(いや)さうとした架空の策であつたのだ。

嫌ひなもの

世の中のことは理屈ばかりで判斷の出來ないことが澤山ある。自他共に勇壯剛邁を以て任じ、何ものにも怖れないといふ故人ではあつたが、蛇と來ると全くの苦手で、尺を出でない小さなものであつても、これを見ると魍魎鬼神にでも出會つたやうに怖氣ついたものである。かやうに故人は大の蛇嫌ひであつて、野外の視察などに行つたとき偶蛇の話でも出ると、思ひ出したやうに『お前先に行け』といつて從者を先拂ひにしたものである。もし蛇が道を橫ぎつたりすると周章(あわ)てゝ逆戻りした上、態(わざ)と大迂回をすることなどが度々あつた。面白いことには分家の龜松氏も亦蛇嫌ひで、宅にゐるときはお互に強さうなことを言ひ張つてゐるが、曾て紀三井寺へ參詣した折に、道の行く手を大きな蛇が橫切つたとき、思はず道の眞中に座つてしまつたといふ珍談があるが、それは故人であつたか龜松氏であつたか、どちらかには違ひないが、互に祕して語らなかつたので知るよしもなかつた。蛇の次は蚊が大嫌ひであつた。

米搗(こめつき)バツタ

堺筋の或る店で購つた大火鉢は、その重さが二十四、五貫もあつたらう。故人は俥夫の治平君を顧みて無雜作に『大きいので俥には乘らぬだらうから、お前一寸宅まで持つて行つて呉れ』と言ひ附けた。するとその店の番頭が『旦那、こんな重い火鉢が持てますか。こちらからお屆けします』と親切に言ひ出した。結局その方が手數もかゝらないので結構ではあるが、こんな重い火鉢が持てますかと言つた番頭の言葉にフト興を催し、故人は『有難たう、しかしこの火鉢が持てたなら君はどうするか』と反問した。すると番頭が『たゞで差上げませう』と答へた。治平君は故人の氣持をよく知つてゐる。番頭の答へを得ると同時に輕々に擔いで走り出したので、番頭や店の者はその剛力にたゞ仰天するばかりであつた。故人は隙さず『あの火鉢はたゞで貰うよ』とからかつたので、番頭は米搗螇蚸(こめつきばった)のやうに謝り、大笑ひの中に事はおさまつた。

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