大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

請負業に於ける先主の總决算

先主が明治二十五年一月二十五日業を創められて以來、大正五年一月二十四日長逝せられるまで、キチツと滿二十四ケ年間に於て、先主の消化した請負工事の件數は、工場六五、倉庫二八、鐵道(停車場を含む)二五、兵營二二、銀行及商舖二〇、學校一三、官廳(かんちょう)公署一二、橋梁及道路一一、發電所九、病院七、劇場及類似のもの六、博覽會場二、水道二、港灣一、雜一〇、材料及人夫調達一五等で、其の他小工事をこれに加へたなら、總件數四百以上に達し、請負金額も約七千萬圓を超過するであらう。近時に於ける一ケ年の請負高が貳億圓に達する現状と比べると、比較にならないほど僅少のものであるが、經濟力も貧弱で建設物の規模も小さかつた過渡時代たる當時の我が國に於ける一ケ年の總工事量に對する歩合からするならば、必ずしも當時の數千萬が小なるものとは斷じ難く、まして貨幣價値に於て大なる逕庭があるのだから、一概にその多寡を論ずることは出來ないのである、かやうに先主はその請負工事の内容に於て、嶄然(ざんぜん)他を凌駕する幾多の誇りを有つてゐることは、明治年代に於ける請負業の先驅者であり、且つ元勳たるに恥ぢないと確信するのである。即ちその誇りとするものを拾つて見ると、大阪灣の築港工事の如きは我が國に於ける港灣工事としての首位であり、第五回内國勸業博覽會は古今を通じて我が國博覽會中の最大なものだけにその工事も大きく、又最も機密を要する旅順口閉塞船艤裝の大命を拜し、濱寺俘虜(ふりょ)收容所工事の速成の如きは空前絶後の急工事と稱し得べく、更に軍備擴張の七個師團中、一個人を以て一時に約四個師團の工事に膺り、歡樂境として我が國第一の稱ある新世界及寶塚の各種工事を完成し、又我が國最初の廣軌複線にして長さ二哩八鎖に亙(わた)る生駒隧道掘鑿(くっさく)工事に成功し、大阪に於てトツプをなす百三十銀行曾根崎支店の鐵筋コンクリート工事に先鞭をつけ、明治、大正年間に於ける民間木造美術建築として我が國第一の稱ある曾根崎演舞場に絶大の手腕を現はし、更に畏くも 明治天皇及昭憲皇太后の伏見桃山御陵工事の恩命を拜して幄舍參列の光榮に浴し、又鐵骨煉瓦造として東洋一と稱せられた東京中央ステーシヨン工事を施工せるなど、數々の光輝ある誇りを有つたものである。只惜しいのは多年の理想であつた建築物の本格的改造期、即ち最近の鐵骨鐵筋コンクリート造の殷賑(いんしん)時に入らないでこの世を去られたことで、天もし先主に藉(か)すに壽(しゅう)を以てしたならば、一般の事業界は勿論、請負界に思ふ存分の活躍が出來たであらうと、最もよく先生の雄大な手腕を知りぬいてゐた私は、それだけ一層痛惜の念に堪へないのである。

先主逝く

先主は病褥(びょうじょく)に親しむこと十ケ月、大正五年一月二十四日午后九時、五十三歳を一期として眠るが如く大往生を遂げられた。先主は幼にして父を喪ひ、世の荒波に揉まれ揉まれて纔(わずか)に身を起て、後、拮据(きっきょ)經營、苦鬪二十數年、更に病と鬪ふこと十ケ月、實に先主の一生は亂戰苦鬪の歴史で埋められ、鬪つて鬪つて鬪ひぬいたのである。大林芳五郞としての人間價値はそこに存在するのであつて、殊に病と鬪つた十ケ月間は先主掉尾(ちょうび)の苦鬪史といふべく悲愴を極めてゐる。生に對する執着と死の恐怖は、生きとし生けるものゝ本能といふばかりでなく、先主は遠大な志を展べ、且つ有終の美を濟す上に於て前途に爲すべき多くのものを有つてゐたればこそ、どうしても生きようとする執着が人一倍強烈な譯で、幾多醫師の苦言を甘受して病と鬪つたのも眞意はそこにあつたのである。實際私も先主の逝くまでは理性的に考へたら甚だ愚昧とでもいふのだらうが、信念的に、先主は必ず癒えるものとのみ信じきつてゐたもので、今日の如く醫學の發達しなかつた當時に於ては、肺壞疽(はいえそ)は不治の難病とされてゐたが、曾て上原元帥が同病で全癒された實例もあり、又宇宙自然の玄妙さは人智を超越した何か大きな働きのあることを信じてゐたので、朝夕神佛に祈願してその大きな自然の働きを渇仰して已まなかつたのである。と云つても人事を盡すことだけは徹底的にこれを行つた。しかるに大正四年十一月に入つて病遽に革り、多くの醫師も匙を投げたものであらう、或る時その内の一人の醫師が、「饀餅でも何でもお好きなものをあがりなさい」と嚴重な醫戒を緩めた。先主は豫(かね)てから糖尿病をも併發してゐたので、病中の調味は砂糖を嚴禁してサツカリンを用ひ來つてゐたのに拘らず、豫期しない某醫師の破天荒なその言は、銳敏な頭腦の持主たる先主として何條無關心で聽かれよう。先主は死の宣告を與へられたと同樣に、萬事休すと觀念され、煩悶の極遂には自暴自棄に陷つたものゝ如く、左右を顧みて饀餅を要求して已まなかつた。家人及看護婦連中は當惑の餘り、これを社にある私に急報して來た。私は急遽先主の枕邊(ちんべん)に驅けつけ、人事を盡さずに天命を俟つは天を揶揄するものに等しい所以を極諫(きょっかん)し、且つ先主の病は必ず癒えるといふ私の堅い信念を述べ、涙を揮つて自重を要望した結果、先主も怒を抑へて私の苦諫を容れられたのであつたが、しかし幾多の煩惱を去つて大悟徹底するまでの心の苦鬪は容易のものでなく、その後さうした驕兒に類した要求が數回繰り返され、私はその都度諫止(かんし)の役を勤めたもので、私は先主の逝かれた後、その胸中を忖度(そんたく)して覺えず慄然たらざるを得なかつたのである。その時こそ先主は死の恐怖と鬪つて生死の間を彷徨し、惱みに惱みぬいてゐられたことが想像されるからである。そして先主は遂に死生命あり、生者必滅の眞諦を大悟して煩惱を一擲することが出來たのであらう。その後安心解脱の相が眉宇(びう)の間に形はれ、穆(ばく)として淸風の如きものがあり、空さへ寒い師走の或る一日、片岡翁と渡邊千代三郞氏とを枕頭(まくらもと)に請じて後事を託され、又重だつ社員に對しても將來の針路等を懇に諭されるなど、從容として永訣を覺悟された樣が窺はれるのであつた。そこで私は、最後まで生きようとする頑張りを強調して已まなかつたが、既に解脱の境に入つた先主は私の言を一笑に附するばかりで何等の効もなかつた。自ら死期を察知し、生ける者の最も恐怖する死に直面して遂にその煩惱を征服し、かくの如く泰然たるの態度は、餘程修養の出來た人でない限りは眞似も出來ないことで、しかも往生の際現社長を顧みて「今は何時か」と問はれ、その答に肯いたまゝ眞に眠るが如く靜に瞑目された如き、實にその立派な往生は、即ち生死交謝の間際まで私等に無限の大敎訓を垂れられたもので、唯々懼(おそ)れ戰慄くばかりである。

泰山は頽(くず)れ梁木は折れた。私は死の直前まで、先主は生きるものとのみ思ひ詰め、先主の在ることを幼兒が母の懷に眠るやうに氣強く感じてゐたのに今や全く空しく、突如千仭(じん)の谷底に蹴墜(おと)されたやうな、盲者が杖を失つたやうな感がして、涕涙漣漣、私の一生涯を通じての最大悲嘆事であつた。かうした心情は人によつて強弱深淺の差こそあれ、先主を圍繞(いじょう)する多くの人々の等しく浮んだ感慨であつたのではあるまいか。しかし德孤ならず必ず隣ありとか、或は積善の家に餘慶ありとか、先主一生涯の足跡が光彩陸離たればこそ、翕然(きゅうぜん)と起る四圍(しい)幾多の同情が雨露となつて、先主の蒔いた種子がその死後に於て、花も咲き、實も結び、大林組の今日ある所以と私は確く信じてゐる。だから先主の骸は北邙一片(ほくぼういっぺん)の煙と化しても、業を創め、統を垂れた五十三年の苦鬪史は、我が大林組の職に從ふものをして永久に瞻仰(せんぎょう)するところあらしむるものである。

片岡直輝翁と先主の友

先主の死は直に大林組の瓦解を聯想されるほど先主の存在は大なるものであつた。事實先主の遺德がなかつたなら或は土崩瓦解したかも知れない。北濱銀行に對する負債の整理は容易のものでなく、先主の死は北銀の眼光を彌(いや)が上に爛々たらしめその追求も辛辣の度を加へ來り、實にその時の大林組は風前の燈にも比する危期であつて、世間の一部では大林組の瓦解をさへ取沙汰したのであつた。この間に處する私等の苦心は、肉を裂かれ、骨を削られるやうな感をなしたが、朋友は切々偲々たり、艱難(かんなん)に逢つて初めて眞友を知るといふが、この時片岡翁を首(はじ)めとして、今西林三郞、渡邊千代三郞、志方勢七、天野利三郞、谷口芳藏、高倉藤平の諸氏が擧(こぞ)つて來援せられ、本記にも詳記する如く大林組への勢援を江湖(こうこ)に呼びかけられた爲、信用忽ちに回復して累卵の危期を脱することが出來たのである。殊に片岡翁と渡邊氏の如きは先主の遺託に對する然諾を宿めず、親身も及ばぬ友情愛を傾けられたことは、友誼は死亡によりて消滅するものでないといふ西諺(せいげん)を如實に示されたもので、殊に大阪財界に於ける大御所たる翁の勢援は、百萬の味方を得たやうな強みがあり、負債整理の方面も當時慘憺(さんたん)たる思ひをなしたのであつたが、今から考へると順調有利に運ばれたことを感謝して已まないのである。忘れもしない大林家所有の帝國座(北濱五丁目)賣却に際し、債權者たる當時の北銀當事者は、所有者たる大林に何等の交渉もなく、しかも非常な安價を以て關西信託會社に讓渡を約し、突如その調印を求め來つたのであるが、私はその傍若無人さに呆れてこれを片岡翁に圖つたところ、あの物堅い片岡翁のこととて怫然色をなし、直に北銀の當事者を難詰して大に將來を戒飾されたのであつた。債權者に勝たれないのは一般の例なのに、その時ばかりは北銀當事者も餘程恐縮したものと見え、今後抵當物件の處分に際しては必ず豫め大林の承認を求むること、大林の擔保整理は可成最後に廻すといふ二つの條件を代償とした妥協が成立し、お蔭を以てその後北銀の態度が緩和され、日夜戰々競々たるの思ひが薄らぎ、困苦の裡にも春が訪づれ來たやうな心地がして、その後順調に整理を進めることが出來たのであつた。就中(なかんずく)北濱二丁目の舊(きゅう)店舖五百二十坪の處分の際の如き、北銀より坪單價五百圓での賣却方を慫慂(しょうよう)されたのであつたが、これとて餘りの安價なので私は耳さへ藉さず何かの序(ついで)に笑話として翁に告げたところ、翁は胸中成算あるものゝ如く、倍額の一千圓ならば賣るかとの問であつたので、私は喜んで貴意に應ずる旨を答へて別れたのであつたが、遂に翁の熱心な斡旋で大正七年の初夏勸業銀行に坪一千圓で話が纒つたのである。これとて時間の餘裕があつたればこそである。その他阪神間に點在する大部分の不動産並に各種の所有株券を有利に處分し、或は書畫什器等の賣立金及生命保險の收入は全部營業資金に充當し、舊(きゅう)店舖賣却の五十二萬圓は整理最終の收入であつて、最早負債の返還に充てる必要がなく、大林分家その他の財産分けに振り當てることが出來、洵に立派な整理を完了し得たことは、翁の權威に依る北銀戒飾の賜に外ならなかつたのであつて、一に翁の先主に對する無限大の友情を想ふとき、唯々恐懼(きょうく)稽首してその德に畏服するのみであつた。しかしてこゝに特に申述べて置きたいことは、片岡翁と渡邊千代三郞氏との關係であるが、翁の赴くところには必ずその影に渡邊氏があり、渡邊氏は翁にとつての善良な懷刀でもあり、女房役でもあつたのである、元來翁は謹嚴にして剛直の性であつたから、合縱連衡といふやうな神謀籌畫(しんちゅうちゅうかく)の要に迫られたときは、必ずその帷幕(いばく)に渡邊氏の參じないことはなく、渡邊氏は多く翁の名によつて馳驅(ちく)奔走されたものである。故に渡邊氏の談にもあるやうに、大林救濟時に於ける各銀行への借欵交渉の如きは殆ど渡邊氏が活躍されたもので、片岡翁の半面に、渡邊氏の大きな力のあつたことを遺れてはならないのである。

それから序に述べて置きたいのは、先主は豪宕濶達の半面又非常に纎細周到の性も具備してゐたので、多年、阪急や阪神沿線、その他大阪、神戸等に於て十數萬坪の土地を、廉價な時代に逐次入手して置かれた爲、家政整理に際し非常に役立つたことは、先主の卓見として見遁すことの出來ない大きな一ツの事績であつたのである。

しかしてその後の大林組は、片岡翁その他友人諸氏の勢援によつて大方の同情を聚(あつ)め、衆心城をなす底に社員相戮力(りくりょく)して事に當り、漸く更生の曙光を認めつゝあつた折に、恰もよし歐洲大戰時の好况に惠まれて業務日と共に榮え、先主沒後三年にしてさしも辛苦を重ねた負債の償却を全部完了し、更めて社礎の固柢(こてい)を見るに至つたので、大正八年三月、組織を株式會社に改め、先主亡き後の飛躍の第一歩を印したのであつたが、その時片岡翁は自ら進んで相談役たることを甘受され、陣容に一段の重みを加ふることが出來たのであつた。そして花咲く春の四月、落成後間もない中之島公會堂に於てこれが披露の宴を敷き、住友男爵を首め大阪財界の名士五百氏を招待したのであつたが、翁は起つて亡き先主の德を讃へられ、財産整理を完了して遺業達成の緖に就いたことを披露され、來賓に對して將來の愛顧と指導を懇望されたのであつた。言々句々、偶々たる友情愛が肺腑より出で、しかも謹嚴犯すべからざるの威容は雲中の白鶴を見るやう、その他翁と共に勢援を吝(おし)まなかつた今西、渡邊、志方、天野、谷口、高倉の諸氏も、自分のことのやうに斡旋の勞を執られ、又來賓總代として彼の謹直な小山健三氏が眞實の溢れた激勵の答辭を述べられるなど、信義友愛の花が繚亂として一堂に咲き亂れたやうな美しい會合であつた。片岡翁は又常に社長及私等を戒めて、一人一業主義の下に傍目も觸らず自家の本業に驀進すべきを訓(おし)へられ、私等は拳々服膺(けんけんふくよう)今にその敎訓を遵守してゐるのであるが、先主亡き後の大林家並に大林組の肝要事は、必ず先づ翁の許に走つてその指導を仰いだのである。殊に決算書類の如きは翁も亦熱心巨細に閲了され、具さに指導の任に當られたのである。まして父なき現社長に灑(そそ)がれた愛情の如きは、眞の父にも勝る深海の如きものがあり、その熱意ある阿保敎訓は現社長の今日ある所以で、社長結婚の際などは親代りとして式に列せられ、長い間の重荷を卸されたやうな歡びの樣が明瞭りと窺ふことが出來、且つ又大阪倶樂部等にお見えになつたときであらう、その傍の大林邸を訪はれて玄關先に佇立(ちょりつ)された儘、「皆御無事か、未亡人はどうして居られる」とたづねられ、無事の旨を聞かれるといと滿足さうに肯きつゝ飄然(ひょうぜん)と去られるを常とした。かうしたことが何回となく繰り返へされるのであつて、事は頗(すこぶ)る簡單に見えてゐて熱情の無い限りは容易に出來るものでなく、私はこのことを聞く度に何時も感極つて泣くほどその德に畏服したのである。况んや翁と先主との交友關係は明治四十二年の廣島瓦斯創立當時に始つたもので、先主の死まで僅に六ケ年に過ぎない、にも拘らずかくも美しい温情を寄せられたことは、大林としては勿論、私等としても忘るゝことの出來ない一大感銘である。

片岡直輝翁
片岡直輝翁
渡邊千代三郞翁
渡邊千代三郞翁

今西林三郞氏との交友

片岡翁、渡邊氏その他の友交關係の濃密さはさることながら、とりわけ先主の創業以來最後まで眞に苦樂を共にして來た仲は、佐々木伊兵衛氏と今西林三郞氏であらう。佐々木氏に就ては既に本記上に詳載されてあるので、私は最後に今西林三郞氏との交友に就て聊(いささ)か述べて見たい。

今西氏と先主の交友は先主が明治二十五年に獨立創業後間もない折、安治川南通二丁目に今西氏の店舖工事を請負つた時のやうに聞いてゐるから、二十ケ年以上に彌(わた)る長い間の親交であつたのである。素より今西氏と先主とは出所も異なり、氏は先主からするとお華客でもあつたので、最初は無論氏に敬事したのに相違あるまいが、同聲相應じて遂に肝膽(かんたん)相照す仲となつたものと見える。しかし事業上に於ては岩下翁や志方氏のやうな深い關係はなく、單に松浦炭鑛とか、伊賀鐵道等の二、三に過ぎなかつたが、私交上に於ては斷金の交りと云はうか、交情實に密なものがあつたのである。相互財布の中まで知り合つた仲で、互に資を融げて手形の裏書に當るなど、全く鹽(しお)を嘗め合つて苦樂を共にしたと云つてよいのである。かの阪神沿線夙川の開拓にも今西氏の勸誘に應じて附近五萬坪を入手し、更に阪神電車の開通と同時にこれ亦氏に倣つて別墅(べっしょ)を營み、又當時大阪商業會議所の副會頭たる氏の勸めに從つて先主も亦議員たることがあり、殊に氏の熱心な斡旋によつて岩下翁との連繫を遂げ、方向こそ違つてゐたが氏が展びて行かれたやうに、先主も亦轡(くつわ)を列べて展びて行つたのである。

先主の歿する二ケ年ほど前と記憶するが、神戸の村野山人氏等が灘循環電鐵と稱する神戸より西宮に通ずる山の手線の布設認可を得、事情あつて未だ起業に至らなかつた利權を、先主が中心となつて小林一三氏と速水太郞氏の三名が北濱銀行の融資を仰いで讓受けたことがある。北銀と岩下翁、箕面電鐵と岩下翁、岩下翁と小林一三氏、岩下翁と先主といふ關係から推して、當然これは箕面電鐵に歸すべき可能性が最も濃厚であつたが、時偶北銀問題の前後であつたので箕面電鐵としても資金が豊富でなく、且つ先主としては今西氏との友交關係もあり、先主は小林、速水兩氏の諒解を得て、當時阪神電車の專務たりし今西氏にこれを持ち込んだのであつた。無論この線の出現は既設の阪神電車に少からざる脅威を及ぼすことを憂ひ、これを無斷で他に讓ることは友を賣る不信行爲であるとの堂々たる見地から出發したもので、今西氏も先主の深厚な友情愛を謝されたのであつたが、不幸阪神電鐵としては機運が熟せず、重役會はこれを採擇しなかつたので、遂に箕面有馬電鐵が岸本兼太郞氏の資を仰いでこれを買收し、今日に於けるかの有力な阪急線が出來上つたのである。先主は病床中に箕面電鐵に買收された成行きを靜かに眺め、他日今西氏が不利を釀さなければよいがと言つて友の身を案じてゐられたことがある。

今西氏の晩年は、大阪に於ける財界の重鎭として邊りを拂ふの勢威があつたが、糟糠の妻は堂に置けと云ふやうに、苦樂を共にした友ほど懷しいものはなく、先主の死後も親戚同樣に親交が續けられ、片岡翁、渡邊千代三郞氏等と共に何くれとなく大林家及大林組を援助されたことは、交友を物語る敎化材と云つてもよく、茲(ここ)に纔にその温情を記録して永くその德を讃美したいと思ふ。

實に先主はかくも立派な先輩や友人を有つたもので、更に先主の一生涯に眼を注ぐならば實に數多の敬畏する先輩と膠漆(こうしつ)の友人とを有つてゐたことに驚かされるのである。先づその先輩としては砂崎庄次郞氏、片岡直輝氏、岩下淸周氏、男爵郷誠之助閣下、子爵元帥上原勇作閣下等で、友人としては前掲一般事業界進出時に密接な關係にあつた人々の大半を占め、その他野口榮次郞氏、宗像半之助氏、金澤仁作氏、天川三藏氏、橋本善右衛門氏、神戸萬太郞氏、森作太郞氏、三谷軌秀氏、本出保太郞氏、中山説太郞氏、土橋芳兵衛氏、渡邊菊之助氏等であつたらう。殆んど孰(いず)れもが當代に於ける錚々(そうそう)たる人物たらざるなく、まして皆自己以外の自己と云つてよいほど眞情の溢れた人々のみで、一人の友は百の親戚よりも貴いと云はれてゐるその貴重な寶をかくも多く先主は摑んだものである。これといふのも先主の純眞璞のやうな全人格が交情の上に發揮され、所謂仁者敵なしで衆人の愛を一身に鍾められたからではあるまいか。

先主の遺訓

先主の印した足跡は悉(ことごと)く私等に示された遺訓と云つてよく、就中私が先主に侍した十八年間に於て最も痛切に感じたことは、先主は人一倍慈悲心に富んでゐて、偶社員が病んだときなどは必ず醫師を派してこれを慰め、時には自ら見舞して百圓札を布團の下に押し込んで歸られたことなどもあり、皆その慈愛に泣かされたもので、かうした類似の逸事は獨り對社員のみでなく、知人朋友間にも發露されたことが尠くない。しかるに一度社用となると掌を反したやうに嚴格で、一歩も假借しなかつた。例へば出張を命ずる場合でも、時には言下直に出發を命じ、自宅に立寄る寸時の餘裕さへ與へず、殊に手不足や緊急の業務の爲二晩や三晩の徹夜位は珍しくなく、事ある毎にそれ伊藤、それ白杉、と次から次と眞に應接の遑(いとま)がないほど頤使(いし)せられたことも數限りがない。私は常に唯々諾々として頗る從順であつたが、酷使と云へば語弊があるが、實際酷使とはこんなものだらうと、時には昂奮の餘り心中甚だ穩でない場合もあつた。しかし退いて冷靜に考へて見ると、或る難問題の解决を命ぜられた場合に、最初は頗る心を傷め且つ時間も消費したものであつたが、二度、三度と同樣な問題に經驗を積んで行くと、氣合、筋道、段取等が自ら領會されて、所謂裁斷流るゝ如く忽にして解决がついたものである。故に嚴肅(げんしゅく)な號令は任務を完うするの鞭でもあり、業務負擔の荷重は切磋琢磨、業務修練の糧であることに思ひ當ると同時に、しみじみと先主の有り難さに泣かされたのである。飜つて今日私が社員を指揮するに際し、常に先主を學ばんものと心を鬼にして臨んで見ても、先主の爪の垢ほどにも及ばないのは、素より人物に天淵の差があるにせよ、その俯甲斐なさに心竊(こころひそか)に愧入つてゐるのである。

世には先主と同じく赤手空拳を以て、より巨大な富を造つた人も多々あるだらう。しかし私は産を成した多寡によつて人物の大小を論じようとはしてゐない。その産を成した美はしい逕路に對してのみ敬意を拂ふものである。智と、腕と、正義と、涙と、汗とで築き上げた先主の功績は、確に立志傳中の尤なるものと云つてよく、事實は何ものを以てしても抹殺されるものでなく、先主を讃へる私の言葉は私の主觀でも慾目でもないのである。願くば大林家にとりても、大林組にとりても、本傳記に浮み出た先主の全貌をば、即ち先主の尊き遺訓として永く後昆に垂れ、先主の遺業をして倍々光輝あらしめなければならない。幸ひにして遺風餘烈、先主の積まれた美行が餘慶を齎(もたら)し、今や大林組は日に月に榮えつゝある。私も老いたりで齡華甲を過ぐること既に四歳、再び先主に侍する日も遠くはあるまい。その時こそ大林組の隆昌を唯一の土産話として先主に語りたいと思ふ。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
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