碁盤を覆へす
補缺選擧に三谷軌秀氏を應援した時、故人は自ら陣頭に立つて奮戰力鬪したが、或る日各選擧事務所を見廻つて士氣を皷舞しつゝ上本町の事務所を訪ねると、そこに最も有力な運動員の某氏が悠々と烏鷺(うろ)を戰はしてゐる。故人はその呑氣さを見て心中穩かでなかつたが、さあらぬ體で傍から『碁を打つて負けたら氣持はよくあるまいね』と某氏に質問した。某氏は『負けて氣持のよい人があるものか』と答へた。故人はすかさず『碁でさへさうだ。今度の選擧に負けたらどんな氣持がするか』といきなりその碁盤を覆へしてさつさと歸つてしまつた。選擧終了後某氏は『あの時の大林君の眞劍さには流石の俺も吃驚(びっくり)した。飯より好きな碁であつたが、選擧中は一切これを封じ、お蔭で意氣揚々凱旋の將兵中に加はることが出來た』と述懷された。