大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

碁盤を覆へす

補缺選擧に三谷軌秀氏を應援した時、故人は自ら陣頭に立つて奮戰力鬪したが、或る日各選擧事務所を見廻つて士氣を皷舞しつゝ上本町の事務所を訪ねると、そこに最も有力な運動員の某氏が悠々と烏鷺(うろ)を戰はしてゐる。故人はその呑氣さを見て心中穩かでなかつたが、さあらぬ體で傍から『碁を打つて負けたら氣持はよくあるまいね』と某氏に質問した。某氏は『負けて氣持のよい人があるものか』と答へた。故人はすかさず『碁でさへさうだ。今度の選擧に負けたらどんな氣持がするか』といきなりその碁盤を覆へしてさつさと歸つてしまつた。選擧終了後某氏は『あの時の大林君の眞劍さには流石の俺も吃驚(びっくり)した。飯より好きな碁であつたが、選擧中は一切これを封じ、お蔭で意氣揚々凱旋の將兵中に加はることが出來た』と述懷された。

世は末世

肥後橋南詰邊の道路が擴張される時、五、六軒の住民がどうしても立退かなかつた。愈多數の警官が立會つての強制執行となり、家宅の取毀には、その筋の依囑に依つて、故人と別懇(べっこん)であつた有力な某顏役がその衝に當つた。附近は物々しい人だかり。これを聞いた故人は『男達といふものは弱きを扶けて強きを挫(くじ)くのが古今の玉條である。如何に對手が不埒者とはいへ又その筋の依賴があつたにせよ、男を賣る堂々たる顏役がそんな酷たらしいことに携はるとは自分で男を下げるといふものだ。俺が諫止(かんし)して來よう』と走り出して現場に赴いたのであつたが、時既に遲く九分通進行してゐた。故人は恨めし氣にその顏役に向つて『親分ともあらうものが、世は末だなア』と嘆聲(たんせい)を洩らした。素より智者の某顏役のことだから衷心は愧ぢてゐたのであらう。故人の一言に頭を搔いて苦笑してゐた。飛ぶ鳥も落す勢威のあつた某顏役に憶面もなく苦言を呈したのは故人なればこそである。

(なさ)けの計畧

山科の有名な奴茶屋の姉妹娘が共に長らく大林家に奉公してゐた。他の女中連は月に一度か二度のお暇に道頓堀とか寶塚とかで一日の歡に浸るのを樂みとしてゐたが、二人の姉妹は何處へ行かうともせず御家大事と忠勤を抽(ぬき)んでてゐた。或る日故人が慌しく電話室から出て來て二人を呼び、『今本店からの電話だが、山科が大火ださうでお前等の家も危いらしい。早く仕度をして行つて來なさい』と告げた。姉妹は取るものも取敢へず身仕度を整へて故人の前に『これから行つて參ります』と挨拶を述べた。すると故人はニツコリ笑つて『火事といつたのは噓だよ。仕度が出來たのだから、これから寶塚へでも行つて緩つくり骨休みをして來なさい』とお小使までも與へた。二人は一時吃驚したものゝかくまで劬(いたわ)つて呉れる故人の慈けに泣かされた。

腰痛の原因と按摩

故人が官廳(かんちょう)又は華客先その他長上、先輩などを訪問したときは、入口の前で早や中腰となつて戸を開け、應對のときも必ず中腰の姿勢を崩さない。そして腰かけてゐても、坐つたときでも、前屈みに端然として謙遜の態度を保つてゐる。殊に感心なのは、俥上にあつたときでも傲然と反りかへることは全くない。偶俥上で歩行の知人等に邂逅したときは時に俥より顚落(てんらく)せんばかりに屈むことさへあり、俥夫は常にこの呼吸を呑み込んで檝棒(かじぼう)を加减しなければならないので、常に氣を配つてゐたものである。かうした前屈みの習慣が遂に腰痛の持病を招いたものであらう。その腰痛は膏盲(こうこう)に達して腕利きの按摩でさへ弱らされたものである。しかるに面白いことには、金鵄勳章(きんしくんしょう)の奉持者で日露戰の勇者、しかも四十貫の重量を安々と擔ぎ上げるといふ剛力の治平といふ抱俥夫の指であつたなら按摩の効能も顯著で、常に治平君が按摩の役をも勤めたものである。『俥に疲れた主人の腰痛を俥夫の私が揉んで上げるのは、これも何かの因縁でせう』と治平君がよく言つてゐた。

兵舍の倒壞で五圓の昇給

曾て富田義敬氏が入社早々主任として德島聯隊の兵營を建築中、或る夜組立て直後の兵舍一棟が強風の爲に倒壞したことがある。富田氏は、時を移さず大工その他人夫等を召集し、拂曉(ふつぎょう)までに拭ふが如くにこれを一定の場所に片付け、木材中再度使用に堪え得るものと否とを擇り分けて明細を作成し、直ちに再註文を發すると同時に、強風の爲とはいへ施工中の建物の倒壞は技術者としての大失態なりとして自責の念に耐へず、隱さず、僞らずに事故發生の顚末とこれに對して行つた臨機の處置とを詳細に報告すると共に、進退伺を添へて罪を故人に謝した。富田氏自身としては無論免職又は罰俸等の制裁あるものと覺悟してその命を待つたのである。數日後富田氏は社長たる故人よりの親展書を受理した。愈やつて來たとばかり激しい心臟の鼓動を抑へながら封を開いた。中には書信と辭令書とがあつた。氏はその瞬間免職の辭令だなと直感した。しかるに披いて見るとその辭令は何ぞ圖らん五圓の昇給を示すものであつた。富田氏は自分の眼を疑ふほど吃驚した。かの赦免状に洩れた俊寬の場合とは正反對である。一方書信には、無論倒壞に對する技術的失態を叱責してあるが、臨機の處置の迅速且つ徹底と僞らざる報告とを賞し特に五圓昇給の旨が記してあつた。富田氏はその時完全に泣かされてしまつた。この人ならばといふ堅い決心はその時に出來た。さうして遂に生涯を通じて大林組に身を捧げたのである。故人は常に賞罰の分野を非常に明かにしたもので、多くは大きな功勞があつても小さな過失の爲にその功勞が抹殺され勝ちのものであるが、故人はそのやうな卑劣な措置を採つたことがなく、賞するものは何處までも賞し、罪は何處までも罰したのである。故に社員全部が活き活きとして職に安んじたものである。

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