亡友大林芳五郞君の令嗣※1義雄君、頃日來り告げて曰く、先人逝いてより十有一年、風樹の嘆※2轉(うた)※3た深し。今春家人と相謀り、傳記を編纂して餘慶※4の因由する所を明にし、子孫をして永く遺德を記念せしめんとせり。然るに先人辱知※5の諸氏相次ぎて凋落し、傳記の材料を蒐集するに既に困難の憾あり、是に於て編者を督勵して速に其の完成を期せしめしに、曩日(のうじつ)※6漸く其の稿を脱し、將に剞劂(きけつ)※7に附せんとす。請ふ之れに序せよと。余故人と相交る其の晩年約十星霜※8に過ぎず。從て余は其の少壯時※9の事を知る稀なり。然れども兩者の交誼は眞に深厚なりしを以て、漫に※10文章の巧拙を云爲(うんい)※11して令嗣の懇請を辭退するに由なく、茲(ここ)に往時を追懷(ついかい)して所感を述べんとす。余の初めて故人と相識りしは明治四十年の頃にして、君は業已に遂げ、當代の成功者として土木建築業者間に嶄然(ざんぜん)※12頭角を見はせしも、人に接するや毫も※13驕傲(きょうごう)※14の辭色を示さず、謙讓以て他を推すを常とせり。然れども一旦知友の急難を見るや、卒先之れに赴きて賑恤(しんじゅつ)※15之れ旨とせり。天資貨殖の途に敏なれども未だ曾て同人と利益を爭はず。義俠にして然諾を重んじ、運籌周密※16以て陶朱の富※17を致せり。晩年岩下淸周翁の大阪電氣軌道株式會社の創業經營に苦心するや、時運翁に利ならず、資途殆んど盡きて工事を中止するの悲境に陷りしが、君の義俠心は之を視て勃然擡頭(たいとう)※18し、自家得失の計を顧みず、進んで巨萬の資財を投じて其の工事を竣成せしめ、之れが爲め君の家運は一時累卵の危殆※19に瀕したり。大正四年春君二豎(にじゅ)※20の冒す所となり、療養數月醫治(いじ)※21效少く、臥床(がしょう)越年自ら再起す可からざるを覺り、臨終前數日余を病床に招き、片岡直輝翁と余に後事の善處と遺族の補翼※22とを懇請せられたり。幸に令嗣義雄君の賢明と、二代の忠勤者白杉龜造君の精勵盡忠※23と相待つて、大林家の家運は爾來※24年と共に隆昌に向ひ、今や本邦建築業者中の白眉※25と稱さるゝに至れり。惟ふに泉下の英靈は現時の盛况を見て怡然微笑(いぜんびしょう)※26するや必せり。晩年刎頸(ふんけい)※27の友に片岡直輝、奧繁三郞、岩下淸周、加藤恒忠、今西林三郞、志方勢七の諸氏あり。皆當時の名士ならざるなし。噫(ああ)人世は電光の如く朝露の如し、諸同人多くは君を逐つて白玉樓中の人と爲り※28、今猶生存する者僅に岩下淸周翁と余の二人在るのみ。豈(あに)※29今昔の感に堪へざらん哉。憮然※30筆を投じて斯の文を結び、以て序と爲す。
昭和丁卯(ひのとう)※31臘尾(ろうび)※32
渡邊千代三郞 謹識※33
序文注釈
序文のみ注釈を付記しています。
- ※1
- 令嗣:跡取り。
- ※2
- 風樹の嘆:親に孝行をしようと思った時には、既に親は死んでしまっていて、孝行をしようにもできないという嘆き。
- ※3
- 轉(うた) た:ますます。
- ※4
- 餘慶:祖先の善行によって子孫が得る幸運。
- ※5
- 辱知:知り合いであることを、へりくだっていう語。
- ※6
- 曩日(のうじつ):先日。
- ※7
- 剞劂(きけつ):出版。
- ※8
- 星霜:星は1年に天を1周し、霜は毎年降るところから、歳月をいう。
- ※9
- 少壯:若くて元気のよい年頃。
- ※10
- 漫に:これといった理由もなしにそうなったり、そうしたりするさま。
- ※11
- 云爲(うんい):言ったり、したりすること。言行。
- ※12
- 嶄然(ざんぜん):一段高くぬきんでているさま。ひときわ目立つさま。
- ※13
- 毫も:少しも。みじんも。
- ※14
- 驕傲(きょうごう):おごり高ぶること。
- ※15
- 賑恤(しんじゅつ):貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。
- ※16
- 運籌周密:周到な準備。
- ※17
- 陶朱の富:巨万の富。
- ※18
- 勃然擡頭(たいとう):すぐに立ち上がるさま。
- ※19
- 累卵の危殆:非常に危険な状態のたとえ。
- ※20
- 二豎(にじゅ):病気、病魔のこと。
- ※21
- 醫治(いじ):病気を治すこと。療治。治療。
- ※22
- 補翼:助けること。補佐。
- ※23
- 精勵盡忠:仕事に精を出し、忠義をつくすこと。
- ※24
- 爾來:それ以来。その後。
- ※25
- 白眉:多数あるもののうち、最もすぐれているものや人のたとえ。
- ※26
- 怡然微笑(いぜんびしょう):喜び微笑むさま。
- ※27
- 刎頸(ふんけい)の友:その友のためなら、たとえ首を切られても悔いないくらいの親しい友人のこと。
- ※28
- 白玉樓中の人と爲り:文人が死ぬことをいう。
- ※29
- 豈(あに)…哉:あとに推量を表す語を伴って、反語表現を作る。どうして…か。
- ※30
- 憮然:失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。
- ※31
- 丁卯(ひのとう):干支の一。序文では昭和2年を指す。
- ※32
- 臘尾(ろうび):年末。歳末。
- ※33
- 謹識:つつしんで記す。