大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第1章 創業と信用の獲得

富国強兵・殖産興業策のもとで

近代以降、わが国は政治・経済・社会にわたる2度の大変革を経験した。初めは明治維新であり、2度目は太平洋戦争の敗戦に伴う被占領と諸改革である。前者は徳川幕府による封建制度を打倒し、天皇親政による近代日本建設を目指し、後者は天皇制を残しながらも象徴天皇と位置づけ、天皇主権から国民主権へと移り、民主主義国家建設を目指すものであった。

そのいずれも政体の変化はもとより、法制、軍事、経済、社会的諸制度、ひいては国民の日常生活、意識にまで及ぶ広範な変革をもたらした。今日、わが国が世界をリードする経済大国の一つとして繁栄し、高い生活水準や平均的に高度な知的文化的水準を維持できているのも、この2度にわたる大変革を巧みに乗り切り、以後の繁栄に結びつけていったからにほかならない。

現代日本を生み育てるに至ったこの2度の大変革は、ともに外国勢力によるところが大きかった。昭和20年(1945)の敗戦と民主的諸改革が連合国、とくにアメリカの力によることは明白であるが、明治維新も英仏米露など当時の列強の影響は大きかった。極東と呼ばれ辺境視されていた位置にある一島国日本も、列強の勢力争いのなかで泰平の夢をむさぼっていることはできなかった。

そして、ひとたび開国するや、これら先進諸国に追いつくことが、国を挙げての目標となった。文明開化が合言葉であった。すなわち、西洋諸国と対等の力をもち、対等の地位に立つこと、そのために欧米化を進めて近代国家を建設することであり、その方策は富国強兵、殖産興業にあるとされた。

そのため明治新政府は根強い反対を押さえながら次々に新制度、新政策を施行していった。版籍奉還、廃藩置県、学制発布、徴兵令施行、新橋~横浜間鉄道開設、キリスト教解禁、地租改正などを打ち出し、明治10年(1877)の西南の役を経て、内政的にはその基礎を固めた。
外交的にも多難であったが、ロシアとの国境確定、12年の沖縄県設置によって版図を安定させた。

当時すでに欧米列強は高度な資本主義的発展を遂げ、海外に勢力を拡大しつつあった。後発のわが国が独立を全うしつつ、不平等条約を改正し、強大な国力を養うには、強い中央集権国家の力によって近代的産業を興し、これを背景に強い軍事力をもつ必要があった。

政府は諸産業の保護育成策をとり、まず外国人雇入れ、留学生の派遣、学校の設立など新知識の吸収に努めるほか、製鉄所、造船所、製糸所、紡績所、海運業、鉱山などを官営し、近代的経営法、技術を導入し、後に民間に払い下げていった。博覧会などにも力を入れ、10年以降、ほぼ5年ごとに内国勧業博覧会を開き、殖産興業政策推進をアピールした。

民間でも殖産興業策に応じて金融、貿易、鉄道、海運、製糸、紡績、製紙、造船、窯業その他の諸工業が興った。

急速な近代化、西欧化は多くの矛盾をはらみながらも進められ、わが国の国力は充実していった。そして、極東における列強の勢力争いのなかで、27~28年の日清、37~38年の日露と2度にわたる戦争を経験しなければならなかったが、その勝利によって日本の国際的地位は一層高まったのである。

明治という時代が、いまなお多分に敬愛の念をもって語られるのは、その国家目標に向かって大多数の国民がこぞって協力し、2度の国運を賭した大戦争にも勝利を収めて、近代国家日本の基礎を築いたからにほかならない。この時代を築いた有名無名の多くの人たちの生涯に、明治人の気概をみることができる。当社創業の祖大林芳五郎も、まぎれもなく、こうした明治人の一人であった。

芳五郎の人物、事業については後に述べるが、その生涯は明治時代45年の前後それぞれ4年を加えるのみで、時期といい、人柄、事業といい、まさに明治時代を生きた男であったといえる。

当時の土木建築請負業

文明開化の新しい国づくりの国是のもとで、建設業者の活躍の場は量的にも大いに拡大し、質的にも大きく変化してきた。鉄道建設、築港など交通運輸の整備、従来にも増した治山治水事業、軍備の拡充、近代的諸産業勃興による工場建設、発電所建設、諸官庁・学校建築など需要は大いに起こった。

文明開化の名に恥ずかしからぬこれら建造物に対し、これを建設する側の業者の当初の実態は、昔ながらの棟梁・親方制ともいうべき“人”中心の集団で、旧態依然のままであった。

土木建築の請負業は江戸時代末期には明らかな形となっていたが、維新以後、土木と建築にはっきり分化する傾向をみせたのは一つの特徴であった。

明治の前半約25年間ほどは、土木工事といえば鉄道建設とこれに関連する橋梁、トンネルなどが主であり、それ以外は河川改修が最も大きく、他は小規模な埋立て、道路改良などであった。このうち河川関係は、為政者による治山治水の伝統を引き継いで国の直営工事であった。

したがって、この時代、土木業者といえば鉄道請負業者であるといっても過言ではなかった。鉄道工事は長期、安定的な需要を創出したため請負業者を育てることとなり、現在でも活躍している古い大手業者には、このころ鉄道工事で事業の基礎を固めたものも多い。

明治30年代も半ばになると、国内鉄道幹線網が一応完成に近づき、工事の需要は急速に減少した反面、朝鮮や台湾における鉄道工事がにわかに盛んとなった。日露間の緊張関係から朝鮮の鉄道工事は速成を命じられ、わが国土木業者のほとんどはこれに従事した。これらの工事は業者を悩ました点も多く、後述するように当社もそのなかにあった。

明治40年代に入ると、土木では水力発電所工事も大きな比重を占めるようになり、39年(1906)の鉄道国有化以降、国内鉄道工事も再び活発となってきた。

建築についても明治時代には新しい洋式技術が導入され、洋風建築が現れたが、一般民家にまで及ぶものではなく、官庁、学校、公共建物、工場、兵営などにまず取り入れられた。それには木造のほか、煉瓦、石などの新素材が用いられた。セメント、鉄などはごく一部に限られていた。

建築請負業は資本家化した旧来の町方棟梁による親方制であり、棟梁のなかには幕末以来、洋風建築の技術をもつ者もいたが、技術の面は初期には外国人技師の指導を受けたのである。西洋建築の移入という新しい需要によって建築請負業者も伸びることになった。

明治の初期までは大工の棟梁が臨時に土木事業に手を出したり、雑務請負業的な御用達が土木事業を手がけたりすることもあった。しかし、対象の事業が大きくなり、土木、建築の別がはっきりするにつれて、両分野の専門業者が育ってきた。

わが国初の法人請負業者が現れたのは明治20年のことで、資本金200万円という巨大企業「有限責任日本土木会社」がそれである。19年、海軍は佐世保軍港の建設を大倉組商会、藤田組の両組に請け負わせ、さらに大工事を請け負わせるため両組の合併をすすめた。また同年、日比谷官庁街建設の大計画が発足し、経済的、技術的にしっかりした請負業者が必要となった。これらが契機となり、財界有力者渋沢栄一の斡旋によって、大倉、藤田、渋沢3者の出資により同社が設立された。3者とも専門請負業者ではなく、大倉、藤田は請負に手を出してはいたが、御用達を主として財をなした資本家であった。このことは、政府要人との関係を利用して公共工事はもとより、勃興期にあった民間産業施設をも独占的に受注することを目指していたことを物語っている。

そして、この構想は当時一般的であった公共工事の特命見積り方式に立脚していたが、22年の会計法公布によって一般競争入札方式に変更されたため挫折し、早くも26年に同社は解散のやむなきに至った。同社大阪支店の業務を引き継ぐため、同年7月、大阪に資本金20万円で大阪土木会社が設立されたが、これが関西初の法人建設企業である。

一般競争入札制度は請負業界の新風となり、新しい時代に即応した業者を育てることになった。この制度は群小業者を乱立させたが、一方では当社のように新しいタイプの請負業者が勃興し、競争入札によって獲得した工事の成功で信用をつけ、当初から土木、建築両面にわたる総合請負業者として急成長を遂げるのである。

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