またこれと同時に、経営の合理化にも着手しなければならなかった。当時、会社は「企業再建整備法」により整備計画を作成中であったが、その進行に伴い、人員過剰がおおうべくもない事実として表れた。それは戦時中、応召・応徴による欠員を新規採用によって補充したことや、既述のとおり終戦後復員者・引揚者が続々と復帰したほか、進駐軍工事の急に応じて各地方支店が現地採用したことなどが原因であった。
経営合理化のためには、まずこの過大な人員と、乏しい工事量との不均衡を是正しなければならなかった。そこで会社側は、23年6月、収支目論見書と再建整備計画書を経営協議会に提出し、人員整理のやむを得ない事情を説明した。しかし組合はこれを受け入れず、その後も協議を重ねたが、ついに同意を得られず、会社側は摩擦を避けていったん撤回することを余儀なくされた。そればかりでなく、組合の強い要求により従業員の身分区分による生活給の格差を撤廃し、同一基準に引き上げたため、さらに負担が増大した。
続いて12月、給与体系改正によるベースアップ交渉が開始された。当時、賃金交渉は常に「食えるか食えないか」をめぐって争われた。
会社、組合がそれぞれの根拠に基づいて計算した1日の飲食費は、組合側97円、会社側91円22銭であった。このとき組合要求額(1万3,388円)に対し示された会社案(基準内賃金1万714円)は、建設業界では最高で、一般産業に比べても中位以上にあった。
賃金交渉は、翌24年にまたがって継続したが、会社案を了承しない組合は2月15日スト権確立を宣言し、16日、会社は中央労働委員会に斡旋を申請した。しかし、3月2日ついにストライキは決行され、4月5日にようやく解決をみた。妥結金額は1万4,000円であるが、これには時間外手当の10%相当分が上積みされたものとして了解され、結果として組合の要求額を考慮する一方、時間外手当の抑制を図るものであった。また、このときの協定により、社員、准社員、試傭員、雇傭員の身分制は廃止され、前年8月にさかのぼって、職員、臨時職員、嘱託員と改められた。
こうした強い労働攻勢によって人員整理は一時見送られたものの、合理化は避けて通れなかった。会社は、慎重な検討の結果、最小限度800名の職員(臨時職員は含まない)を整理する必要があるとして、これを24年9月、臨時経営協議会に諮った。
組合はもとより原則的に反対であったが、ドッジ政策下で業界は不振を極め、また経営内容も組合内部に周知されていたから、ある程度の整理はやむを得ないことを執行部もほぼ認めていた。
ところが、当時GHQの労働政策転換により労働法規が改正され、労働運動にも制限が加わることとなり、当社においても新たな労働協約の締結をめぐって組合と交渉中であったが、そのことと人員整理問題がからんだため、事態は紛糾した。会社はついに団体交渉を打ち切り、10月12日、本支店を通じて785名(希望退職者を含む)の整理を組合に通告した。このとき、整理者名簿中にたまたま組合役員が数名入っていたため、一部の者はこれを不当労働行為として中央労働委員会に申し立てると同時に、東京、名古屋両地方裁判所に解雇無効の仮処分を申請した。
この紛争は、裁判所の和議勧告により、12月6日、会社は整理者のなかから50名を再採用し、組合は会社再建に協力するということで円満解決した。
これら賃金闘争や人員整理問題の団体交渉には、副社長中村寅之助{注}が陣頭に立って当たり、収拾に努力した。
終戦に伴うかつてない業績不振のなかで、法律による企業再建を迫られていた会社幹部は、内部でもこのような困難に直面しなければならなかったのである。また従業員もそれを知りながら、なおかつ生きるために、闘争という手段に訴えねばならなかったのがこの時代であった。
しかし、こうした数次の闘争が対外的に悪影響を及ぼしたことは事実である。従来関係の深かった得意先で、指名を外したり発注を見合わせるところもあった。金融機関からも警戒の目をもって見られるようになった。これらのことは組合員自身も直接体験し、反省の材料としたため、その後の運動は闘争を捨てて協調の方向をとるようになった。そして、世相が安定し始めた25年3月、組合は規約を改正して、臨時職員などを構成員から除き、名称も「大林組従業員組合」から「大林組職員組合」と改称した。
注 中村寅之助:明治21年広島県に生まれ、大正3年東京帝国大学政治学科を卒業、内務省に入り、11年朝鮮総督府に転じて、土地改良部長、殖産局長等の要職を歴任した。昭和7年4月退官、翌5月の斎藤 実内閣成立にあたり内閣書記官長(現在の内閣官房長官)就任の交渉があったが、当社入社の約束があったため受けなかった。正式入社は同年12月で、近藤博夫(のち大阪市長)とともに取締役支配人として迎えられた。10年常務取締役、16年専務取締役となり、さらに18年大林義雄前社長没後は副社長として、白杉取締役会長とともに芳郎社長不在(応召)中の留守を守った。
この間関係諸会社の役員を兼ね、また日本土木建築工業組合連合会、日本土木建築統制組合(ともに全国建設業協会の戦時中名称)には当社を代表して参加し、その豊富な法制知識と的確な論理によって、全国業界に名を知られた。当社が個人企業的色彩を脱し、組織、制度を確立して近代化したのは、主として中村の力によるものであるが、同時にこれが業界全般に及ぼした影響は大きい。さらに戦後の危機に際し、白杉相談役とともに社長をたすけ、会社再建を完成した。28年副社長を辞し相談役となったが、40年8月10日、76歳で病没した。葬儀は8月17日、大阪阿倍野斎場において社葬によって行われた。
なお中村は在官中、正四位勲三等に叙せられていたが、死去にあたり旭日中綬章を加綬された。