大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

2 対立から協調への労使関係

■―労働組合の結成

占領政策の大きな柱は民主化であり、これは労働政策にも強く表れ、日本の労使関係を個人の権利・義務に基づく西欧的なものに改め、新しい労働組合を育成しようとした。しかし、そうした労働組合活動や労使のあり方には労使双方とも急速にはなじめず、厳しい生活難を背景に、新しい労使関係が根づくまでは、各地で各様の混乱も免れなかった。

労働3法のうち「労働組合法」は、新憲法に先立って昭和21年(1946)3月に施行されて、労働者の団結権、団体交渉権が保障され、同年9月には「労働関係調整法」、22年4月には「労働基準法」がそれぞれ公布された。

当社でも21年2月、まず東京支店に労働組合が結成され、次いで本店および各支店ごとに結成され、同年12月、これを統一して大林組従業員組合となった。初代組合長は吉川 勝であった。組合はユニオンショップ制をとったため、従業員はすべて組合員となり、当時の職制による社員、准社員、試傭員、雇傭員で構成された。

22年3月、会社と組合とは労働協約を締結したが、その第5条には、組合が事業経営に参加することを認め、そのため相互の協議機関として経営協議会を設けることが謳われた。

このほか、当時のGHQ労働担当部がとった政策の一つとして下請負禁止がある。これによって、元請業者は作業員の直傭を強いられ、下請負制による生産体制をとっていた建設現場は大混乱に陥った。GHQはその実施を厳しく監視するため査察を行ったが、これは担当官の名をとって“コレット旋風”と呼ばれた。その後この直傭制度はわが国の建設業界にはそぐわないとする業界の強い要望により、間もなく廃止されたのであった。

■―越年資金要求をめぐって

労働協約に基づく経営協議会発足に先立ち、昭和22年(1947)1月、第1回経営協議会がもたれたが、その議題は次のとおりで、当時の生活状態を如実に物語っている。
1 危機突破資金の支給(預貯金が封鎖されているため、月収の5割を新円で支給すること)
2 遅配の対策(米穀等の配給が10日以上遅れた場合、10日を超える日数に対して貸金をする)
3 宿日直手当の増額(1回につき30円、雇傭員は20円)その他時間外手当、別居手当の増額等

この要求が容れられたのに続いて、年齢別生活給、物価の地域差に対する地域給の支給が決定したが、同年10月開かれた経営協議会で会社側は経営内容を次のように説明し、組合の協力を求めた。

「施工残高は2億4,300万円にすぎず、取下げ固定額は7億5,000万円に達し、経営はきわめて苦しい。経費は増大し、ことに給与は労働基準法施行に伴い、甚だしく増加して、時間外手当のみで年額1,800万円に達する。この対策として、工事を積極的に獲得すると同時に施工の合理化を図らねばならない。また執務能率を最高度に上げ、超過勤務を避け、支出の抑制、減少に努力しなければならない。」

22年7月発表の『経済白書』によれば対昭和12年比で家計費は60~70倍、これに対し賃金上昇率は23倍であり、組合の要求はやむにやまれぬ切実なものであったが、会社の経営も苦しく、そのすべてに応じることは実際問題として不可能であった。この現実は、同年末の越年資金要求にあたって鋭い対立となって表れ、要求総額1,500万円に対し、会社回答は160万円で双方の開きは大きく、交渉は決裂した。その結果、大阪、神戸、札幌を除く各支部は半日ストあるいは定時退勤を行ったが、その後交渉が継続され、翌23年1月末、1人平均手取額3,500円の会社回答をもってようやく妥結した。

越年資金闘争が解決すると、石田信夫、本田 登、久保彌太郎、妹尾一夫の4常務取締役が、任期中であったにもかかわらず辞任し、同年3月、取締役田邊 信、河合貞一郎が常務取締役となった。この異動によって体制を一新し、新時代に対処しようとしたのである。

■―人員整理問題と賃金交渉

またこれと同時に、経営の合理化にも着手しなければならなかった。当時、会社は「企業再建整備法」により整備計画を作成中であったが、その進行に伴い、人員過剰がおおうべくもない事実として表れた。それは戦時中、応召・応徴による欠員を新規採用によって補充したことや、既述のとおり終戦後復員者・引揚者が続々と復帰したほか、進駐軍工事の急に応じて各地方支店が現地採用したことなどが原因であった。

経営合理化のためには、まずこの過大な人員と、乏しい工事量との不均衡を是正しなければならなかった。そこで会社側は、23年6月、収支目論見書と再建整備計画書を経営協議会に提出し、人員整理のやむを得ない事情を説明した。しかし組合はこれを受け入れず、その後も協議を重ねたが、ついに同意を得られず、会社側は摩擦を避けていったん撤回することを余儀なくされた。そればかりでなく、組合の強い要求により従業員の身分区分による生活給の格差を撤廃し、同一基準に引き上げたため、さらに負担が増大した。

続いて12月、給与体系改正によるベースアップ交渉が開始された。当時、賃金交渉は常に「食えるか食えないか」をめぐって争われた。

会社、組合がそれぞれの根拠に基づいて計算した1日の飲食費は、組合側97円、会社側91円22銭であった。このとき組合要求額(1万3,388円)に対し示された会社案(基準内賃金1万714円)は、建設業界では最高で、一般産業に比べても中位以上にあった。

賃金交渉は、翌24年にまたがって継続したが、会社案を了承しない組合は2月15日スト権確立を宣言し、16日、会社は中央労働委員会に斡旋を申請した。しかし、3月2日ついにストライキは決行され、4月5日にようやく解決をみた。妥結金額は1万4,000円であるが、これには時間外手当の10%相当分が上積みされたものとして了解され、結果として組合の要求額を考慮する一方、時間外手当の抑制を図るものであった。また、このときの協定により、社員、准社員、試傭員、雇傭員の身分制は廃止され、前年8月にさかのぼって、職員、臨時職員、嘱託員と改められた。

こうした強い労働攻勢によって人員整理は一時見送られたものの、合理化は避けて通れなかった。会社は、慎重な検討の結果、最小限度800名の職員(臨時職員は含まない)を整理する必要があるとして、これを24年9月、臨時経営協議会に諮った。

組合はもとより原則的に反対であったが、ドッジ政策下で業界は不振を極め、また経営内容も組合内部に周知されていたから、ある程度の整理はやむを得ないことを執行部もほぼ認めていた。

ところが、当時GHQの労働政策転換により労働法規が改正され、労働運動にも制限が加わることとなり、当社においても新たな労働協約の締結をめぐって組合と交渉中であったが、そのことと人員整理問題がからんだため、事態は紛糾した。会社はついに団体交渉を打ち切り、10月12日、本支店を通じて785名(希望退職者を含む)の整理を組合に通告した。このとき、整理者名簿中にたまたま組合役員が数名入っていたため、一部の者はこれを不当労働行為として中央労働委員会に申し立てると同時に、東京、名古屋両地方裁判所に解雇無効の仮処分を申請した。

この紛争は、裁判所の和議勧告により、12月6日、会社は整理者のなかから50名を再採用し、組合は会社再建に協力するということで円満解決した。

これら賃金闘争や人員整理問題の団体交渉には、副社長中村寅之助{}が陣頭に立って当たり、収拾に努力した。

終戦に伴うかつてない業績不振のなかで、法律による企業再建を迫られていた会社幹部は、内部でもこのような困難に直面しなければならなかったのである。また従業員もそれを知りながら、なおかつ生きるために、闘争という手段に訴えねばならなかったのがこの時代であった。

しかし、こうした数次の闘争が対外的に悪影響を及ぼしたことは事実である。従来関係の深かった得意先で、指名を外したり発注を見合わせるところもあった。金融機関からも警戒の目をもって見られるようになった。これらのことは組合員自身も直接体験し、反省の材料としたため、その後の運動は闘争を捨てて協調の方向をとるようになった。そして、世相が安定し始めた25年3月、組合は規約を改正して、臨時職員などを構成員から除き、名称も「大林組従業員組合」から「大林組職員組合」と改称した。

注 中村寅之助:明治21年広島県に生まれ、大正3年東京帝国大学政治学科を卒業、内務省に入り、11年朝鮮総督府に転じて、土地改良部長、殖産局長等の要職を歴任した。昭和7年4月退官、翌5月の斎藤 実内閣成立にあたり内閣書記官長(現在の内閣官房長官)就任の交渉があったが、当社入社の約束があったため受けなかった。正式入社は同年12月で、近藤博夫(のち大阪市長)とともに取締役支配人として迎えられた。10年常務取締役、16年専務取締役となり、さらに18年大林義雄前社長没後は副社長として、白杉取締役会長とともに芳郎社長不在(応召)中の留守を守った。
この間関係諸会社の役員を兼ね、また日本土木建築工業組合連合会、日本土木建築統制組合(ともに全国建設業協会の戦時中名称)には当社を代表して参加し、その豊富な法制知識と的確な論理によって、全国業界に名を知られた。当社が個人企業的色彩を脱し、組織、制度を確立して近代化したのは、主として中村の力によるものであるが、同時にこれが業界全般に及ぼした影響は大きい。さらに戦後の危機に際し、白杉相談役とともに社長をたすけ、会社再建を完成した。28年副社長を辞し相談役となったが、40年8月10日、76歳で病没した。葬儀は8月17日、大阪阿倍野斎場において社葬によって行われた。
なお中村は在官中、正四位勲三等に叙せられていたが、死去にあたり旭日中綬章を加綬された。

大林組職員組合旗
大林組職員組合旗
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