大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

3 芳五郎の実業界進出

■―芳五郎と岩下清周氏

芳五郎はその生涯のなかで、師と仰ぐ何人かの人に出会い、大きな影響を受けている。芳五郎が大をなし得たのは、第1には自らの資質、努力にあるのはもちろんであるが、これらの師の導きによるところも大きい。岩下清周氏もその一人で、芳五郎の後半生に大きな影響を与えた。

とくに岩下氏は建設業以外の分野に対する芳五郎の目を開かせ、その実業界進出を促した人物で、その関係は深く、晩年、岩下氏の苦境に際しては、芳五郎はわがこととして彼のために誠意を尽くした。

岩下氏は明治16年(1883)、26歳で三井物産パリ支店長となった逸材で、その後三井銀行大阪支店長となったのを機に大阪の財界人となり、三井を辞して北浜銀行{}設立に参画、常務に就任した。同行頭取には歴代有名人を迎えたが、実務は岩下氏が取りしきり、後に自ら頭取となった。すなわち岩下氏は北浜銀行を地盤に、当時の大方の銀行とは違って積極的方針で融資し、関西財界に大きな力をもつに至ったのである。

38年2月、大阪有数の実業家今西林三郎氏は、芳五郎が多くの工事を抱えて資金調達に苦しんでいたのを見て、岩下氏に紹介した。これが芳五郎が岩下氏を知るきっかけとなった。

岩下氏と芳五郎は初対面で互いに相手の人柄、識見を見抜いて固い信頼が生じた。芳五郎の側からいえば、岩下氏に心服したのである。この後、岩下氏は一銀行家の枠を超えて芳五郎の指導者となり、芳五郎もまたその信頼に応えた。

岩下氏は40年に小林一三、松方幸次郎、野田卯太郎ら諸氏によって創立された箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の社長に就任したが、不況と電鉄への世人の無理解とによって、創業は難航した。

事態打開には路線開通が先決であるとされ、第1期線の諸工事が当社に一任されたが、芳五郎は岩下氏らの苦境を救うため、一業者の立場を超えて協力し、自ら現場に出て工事を督励、1年間で完成した。その後、43年から44年にかけ同社経営の宝塚新温泉諸施設、箕面山遊覧道路新設工事に従事した。この方面はこれを契機に今日に及ぶ発展の道を進むことになった。

このころから芳五郎は岩下氏の示唆によって本格的に実業界への進出を考えるようになり、42年には前述のとおり合資会社組織とし、自らは相談役となって、やや自由な立場に立つことにしたのである。

芳五郎の実業界活動は次に述べるように岩下氏やその周辺にいた実業人との関連が深い。

注 北浜銀行:後に三十四銀行に合併され、さらに鴻池、山口、三十四の3行が合併して現在の三和銀行となった。

岩下清周氏(北浜銀行頭取時代)
岩下清周氏(北浜銀行頭取時代)
宝塚新温泉 <兵庫県>明治44年3月竣工
宝塚新温泉 <兵庫県>明治44年3月竣工

■―瓦斯・電鉄事業に参画

明治37年(1904)7月、芳五郎は大阪商業会議所議員に立候補し当選したが、これは今西氏の勧めによるものであり、この事実は芳五郎に実業界進出の志向が芽生えたことを物語っている。

実際に本業以外に手がけたのは、40年の競馬場運営が最初であった。競馬はわが国では軍馬のための馬匹改良の手段として認可されたが、その動きを知った岩下氏は競馬場開設をもくろみ、芳五郎その他同志と出願し、40年6月、関西馬匹改良会社が設立された。

芳五郎は代人を役員として送り、自らはこれを運営する競馬倶楽部の理事となった。競馬場は兵庫県武庫郡鳴尾(現・西宮市)につくられ、当社がこれを施工した。40年11月、関西最初の競馬がここで行われ、事業としては大成功であったが、賭博公認という非難の声の前に41年5月以降馬券発行を禁止され、会社は解散をやむなくされて短命に終わった。

芳五郎の本格的な実業界進出は、広島瓦斯の創立に始まるといえよう。広島では軍関係工事を請け負い、支店を設けるなど縁が深まっていた。42年春、同地の実業家松浦泰次郎氏から瓦斯会社設立の誘いを受けた芳五郎は、岩下氏と大阪財界の指導者片岡直輝氏に相談し、42年10月、広島瓦斯の設立にこぎつけ、自ら役員に加わった。

社長には大阪瓦斯社長で瓦斯事業界の元老である片岡氏が就任したが、いまだかつて他事業に参加しなかった片岡氏の出馬は、芳五郎の人格に動かされたものとして話題を呼んだといわれる。

同じころ地元有力者から電鉄会社創立の相談を受けた芳五郎は、岩下、片岡両氏にはかり、ただちに出願手続きをとった。しかし、福沢桃介氏、松永安左衛門氏らを中心とする強力な東京派をはじめ5件に及ぶ競願があり、容易に妥協は見出せなかった。

このとき芳五郎は単身松永氏を訪ね、誠意を尽くして懇談した結果、松永氏は無条件で出願権を放棄した。実業界の新人芳五郎が、電力界の雄松永氏を譲歩させたことは奇跡とまでいわれ、43年2月、広島電気軌道(現・広島電鉄)は設立された。

芳五郎自身が社長に就任し、日常経営は当社支配人池田源十郎を常務として、これに当たらせた。役員陣には岩下、片岡両氏のほか松方幸次郎、志方勢七、武内作平、速水整爾の諸氏ら一流の政財界人が名を連ね、芳五郎の人脈の豊かさを示している。同社は大正元年に開業し、広島瓦斯とともに好業績を誇ったが、数年後には芳五郎が没したため、大阪資本は引き揚げ、両社は合併して地元資本の経営に移った。

芳五郎は地元関西においても電鉄事業に参画している。その一つは阪堺電軌の設立である。当時、関西における私鉄は大阪と堺を結ぶ南海電鉄(初め阪堺電鉄)があるのみで、この沿線には遊覧地が多く、押し寄せる大阪市民の足をさばくには不十分であった。

そのころ財界人のなかには電鉄事業熱が盛り上がり、この南海方面にも並行線が企画され、6件の競願となった。芳五郎も大阪市南区恵美須町~浜寺間の新線を発起、出願した。当然、競願者の間に激しい競争が起こり、芳五郎は岩下、片岡両氏をバックに奥繁三郎氏(のち衆議院議長)らとともに戦った。やがて最も有力な競争相手の真意が電鉄事業よりも株式のプレミアム稼ぎにあることを知るや、この一派といったんは妥協し、42年12月、出願区間の軌道敷設の認可を得て、阪堺電気軌道を創立した。

会社設立後、前記一派よりただちに3万株が売り出されたため、芳五郎はこれをプレミアム付きですべて買収して会社の実権を手中にした。社長には片岡氏を迎え、自らは取締役となり、岩下氏、松方氏、渡辺千代三郎氏を監査役に迎えた。

同社路線は44年12月、恵美須町から堺市大小路までが開通し、大正元年11月末には、浜寺終点まで開通した。営業成績はきわめて好調であったが、それは当然南海電鉄と激烈な競争を招いた。大阪財界ではこれを憂慮し、東洋紡績の谷口房蔵氏の熱心な和解工作の結果、両社は4年3月に合併するに至った。

このほか43年3月に設立された京津電気軌道にも、芳五郎は取締役として参加した。同社線は逢坂山トンネルを経て京都~大津間を結ぶもので、大正元年12月に全通した。同社は13年京阪電鉄と合併した。

以上、自ら積極的に関与した3電鉄の建設工事は、すべて当社以外のものが施工した。これは実業家としての立場と建設業者としての立場を峻別した芳五郎の方針に従ったもので、その公明正大さを示す事例である。

鳴尾競馬場 <兵庫県>明治40年11月竣工
鳴尾競馬場 <兵庫県>明治40年11月竣工
広島瓦斯の原始定款(複写)
広島瓦斯の原始定款(複写)
阪堺電気軌道(現・南海電気鉄道)の電車 (明治44年ころ)
阪堺電気軌道(現・南海電気鉄道)の電車 (明治44年ころ)
OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top