大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第5章 内需拡大と進む国際化

内需主導型経済への転換

石油危機や円高など、わが国経済発展の前に次々と立ちふさがったハードルは、政府・企業・国民を挙げてのエネルギー対策、技術革新、産業構造の転換、合理化推進等の努力によって大方がクリアーされ、わが国は世界一の貿易黒字国・債権国への道をひた走っていた。

すでに述べたように、貿易摩擦は欧米各地で火を噴き出し、とりわけ日米間のそれは、日本の米国依存度が高いだけになお深刻さを増してきていた。そして、世界経済のなかでわが国の影響力が高まる一方、国際協調を求める声も一段と強まってきた。こうした状況のなか、中曽根首相の私的な諮問機関として「国際協調のための経済構造調整研究会」が設置され、対外経済摩擦解消への道を探ることとなった。同会はその諮問に答え、昭和61年(1986)4月「前川リポート」を発表し、その対応策を示すとともに、「わが国の経済政策および国民生活のあり方を歴史的に転換させる」必要を強調した。政府は、翌5月の東京サミットにおいてこの報告の実施を事実上の国際公約に掲げ、これまでの外需依存型経済から内需主導型経済を指向する政策へと転換していったのである。

60年9月の「プラザ合意」以降の急激な円高によって、輸出に支えられていた景気は後退局面に入っていたが、個人消費の面では、物価の安定と実質賃金の上昇から底固い伸びが見られたほか、企業の円高対策としての合理化や生産工場の海外立地などが進められ、円高に対する体力はしだいに強まっていた。

一方、政府は公定歩合を61年1月以降5次にわたって引き下げ(62年2月には戦後最低の2.5%となった)、公共事業の執行促進、円高差益還元策などの内需主導型の景気対策を相次いで実施した。また、この時期の原油価格は下落傾向にあったため、円高は輸入価格の一層の値下がりをもたらし、物価の安定に寄与する一面をもっていた。

こうして、低金利・円高・原油安のトリプル・メリットといわれる状況が生じ、個人住宅建設をはじめ民間設備投資が活発となって景気後退局面は意外に早く終わり、61年末から景気は回復過程から拡大過程へと一気に進行していった。

景気の拡大に伴い、地価や株式市場にも大きな変化が見られた。まず地価については、東京の中心商業地の事務所ビル不足が顕著となった58年ころから上昇傾向にあったが、60年代に入ると土地不足や低金利が土地投機を呼ぶことにもなって一気に高騰を続け、それはまたたく間に首都圏の商業地域・住宅地域に波及し、その後さらに大阪圏、名古屋圏、そして地方都市へと全国的に拡大していった。

株式市場については、金融自由化の進展や金利安を背景に、企業・個人の豊富な余剰資金が市場に流入して活況を呈し、株価は一本調子の上昇相場をみせた。しかし、米国では、財政と貿易の“双子の赤字”の増大が62年10月、ニューヨーク証券取引所の株価暴落を呼び、世界経済を震撼させた。それでも東京市場はいち早く立直りをみせ、平成元年末には過去最高の3万8,915円(日経平均株価)を記録し、世界の株式市場のリード役を担うほどの地位を占めるまでになった。

この間、わが国は幾多の困難にあいながらも世界有数の経済力をもった豊かな国となり、国際社会での影響力は一段と高まっていった。同時に、その繁栄のなかにあって、それにふさわしい個人の豊かさが達成されてきたのか、真の豊かさとは何かも問われ始めていた。そして激動の昭和は64年1月7日、昭和天皇の崩御によって幕が閉じられたのである。

建設ブーム迎えて

昭和50年代後期からの建設業冬の時代は、61年(1986)には終わりを告げ、62年に入ると一変して建設需要は急速に増大し、以後新元号となった平成の初年度さらに2年度に及んで、建設ブームにわき上がった。

この間の建設投資額(名目)を見てみると、61年度は53兆5,631億円、62年度61兆5,257億円、63年度66兆6,555億円、平成元年度73兆7,600億円と、61年度に比べると62年度からの3年間で37.7%、額にして20兆円を上回る増加となった。元年度の国家予算(一般会計)が60兆4,142億円であるから、この年度の建設投資額はこれをはるかに凌駕する額であったわけである。

このような急激な伸長が見られた背景には、金融国際都市・情報都市としての中枢管理機能を高める東京への一極集中化が、首都圏のオフィスビル建築、都市再開発、住宅、ウォーターフロント開発など民間の多様な建設需要を呼び起こし、計画中の大型プロジェクトが次々と具体化されていったことがあげられる。このほかに、当初は民間活力の導入によることを基本としていた政府の内需拡大策も、専売公社・電電公社・国鉄の民営化など一連の財政再建の課題とされた事項が実施に移されたことから、62年以降、積極的に公共投資を進める政策へと転換したことも大きな要因であった。

ますます進む情報化時代に対応するインテリジェントビルの登場、東京大改造計画、東京湾臨海部再開発、マンション建築等、官民の建設投資増が東京圏を中心に一気に建設ブームを巻き起こし、全国的な広がりとなっていった。内需主導型経済への移行は、日本が国際社会との協調を保ちながら繁栄を続けていくためにとられた施策であり、また一方では、遅れている生活関連社会資本の整備を強く意識したものでもあった。

この間、建設省建設経済局長の私的諮問機関・建設産業ビジョン研究会は、昭和61年2月、「21世紀への建設産業ビジョン」を発表し、建設産業の将来をめぐるさまざまな提言を行った。また政府は、62年6月、21世紀に向けての国土づくりの指針を示した第4次全国総合開発計画を決定した。さらに、建設業の制度の整備・改革も進められ、「建設業法」が63年6月に改正された。

そのほか、日米建設摩擦が浮上し、国内の市場開放をめぐって激しい攻防があったが、入札制度の改善など協調の具体策が進められ、一応の決着をみるなど、業界の国際化が進展したこともこの時期の特徴である。

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