大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

7 住宅事業と土地取得

■―営業用に土地取得

わが国の経済が戦後の復興から成長へ転じた時代、景気の上昇に伴って地価が高騰し、企業がビルや工場の新築を企画した時も、用地の入手難によって躊躇する場合が少なくなかった。そのため、これらの発注者に敷地を斡旋、提供することは、工事の獲得に直結するところから、当社は昭和30年(1955)1月、当社の全額出資により浪速土地株式会社(45年10月、大林不動産株式会社に改称)を設立して、不動産事業に進出した。

事業内容は不動産の所有、売買、賃貸、仲介ならびに保険代理業務であるが、その性格は一般の不動産企業と異なり、当社の営業活動を直接、間接に支援することに重点がおかれた。したがって土地の取得も、それを前提とした先行投資であって、投機が目的でなかったことはいうまでもない。

一方、当社において得意先の依頼を受け、各種建築物の用地の手当てを行う業務は、とくに東京圏、京阪神圏において急増し、顧客層の拡大とも相まって、専門的かつスピーディな対応が必要となってきた。このため38年には、当時の本店、東京支店に相次いで営業不動産部が設置された。以後、営業用不動産にかかわる営業活動は年を追って活発になっていった。

46年にドル・ショックが襲い、41年以来の長期好況に一時的に水を差すかたちになった。これに対処するための景気浮揚策がとられ、金融緩和、公共投資の増大、予算執行の前倒し等が行われたが、外貨増による過剰流動性の増大と相乗効果を生み、列島改造ブームといわれた不動産投資熱を高め、全国的な地価の高騰を招いた。

この機に不動産投資・投機に走る個人、企業が相次ぎ、この4~5年間に民間企業の取得した全国の土地は40万㏊を超え、そのうち80%は山林・原野で、利用目的別ではゴルフ場、別荘、レジャー施設用地が60%を占めていた。

このような時代背景は、営業不動産部の業務に大きな影響を及ぼさずにはいなかった。工事獲得のための斡旋、代行取得、調査、情報サービス提供等の従来業務も増大したが、なかんずく土地取得業務は繁忙を極めることになった。

営業不動産部所管不動産の保有高は、47年ころから急増し、49年3月末には948億円となり、47年3月期の投資額448億円から2年間で2倍以上の増大であった。ピーク時の51年3月末には984億円に達している。

これらの不動産投資には、当社の投資用として独自に購入したもののほかに、工事獲得の条件として得意先から購入したもの、得意先の委託として取得したもの、工事獲得のための得意先引き当て用として取得したものがあった。

東京圏における地価、国民総生産の推移
東京圏における地価、国民総生産の推移

■―住宅事業への進出

当社は昭和45年(1970)10月27日、第62期(45年9月期)の決算記者発表において、今後最も高い伸び率が予想される住宅需要に応ずるため、すでに相当の実績をあげているコンクリート系中高層プレハブのほかに、新たに開発した木質系プレハブ住宅の生産および販売の計画を具体的に進めていること、また手持ちの土地のほかに宅造用土地の調達を積極的に進めていること、そして木質系プレハブ製造工場の土地造成、建物その他設備に6億円程度の投資を予定していることを発表し、住宅産業への進出を明らかにした。

この表明に先立ち、当社ではすでに44年8月、本店および東京支店にそれぞれ住宅事業部を新設し、本店には名古屋支店以西を、東京支店には横浜支店以東を所管させ、宅地の造成、分譲、プレハブ住宅の提供等、不特定多数の顧客を対象とする新分野への進出を着々と進めていた。

経済の高度成長と国民所得の上昇に伴って住宅需要は盛り上がり、30年代半ばころからプレハブ住宅メーカーも続々と誕生した。37年度から軽量鉄骨系プレハブ住宅が、39年度からは木質系住宅についても住宅金融公庫の融資対象となったことがプレハブ業界を勢いづけた。一方、40年代に入って住宅建設戸数も大幅に伸び、43年には100万戸台を初めて突破し、120万戸を記録した。また、この年に初めて住宅戸数が世帯数を上回った。しかし、都市部における潜在的住宅不足はなお解消されておらず、さらに量的な問題から先進国としてふさわしい住環境の確保へと、質的向上が切に希求され始めていた。住宅事業はこれからのリーディング産業の一つとなるという趣旨の論調もみられ、“住宅産業”という言葉が登場した。このころから数年の間に、他の業種からプレハブ業界に参入する企業も続出した。当社の住宅事業進出も、こうした背景を踏まえたものであった。

そして、46年度に始まる長期経営計画の中で「住宅事業計画」の方針として、「住宅事業は宅地の開発分譲を主軸とし、(略)分譲マンション等の事業の具体化をも図り」、さらに「新規分譲地の開発は首都圏、近畿圏内のみに限定せず、需要動向を的確に把握して宅地需要が大幅に増加するとみられる地方中核都市、新産業都市、工業整備特別地域等における開発も積極的に行う」ことを掲げた。

■―住宅事業の進行

住宅事業部が当初に着手したのは、大阪府箕面(販売面積2万4,000㎡)、兵庫県長尾山(同59万8,000㎡)、静岡県熱川(同15万4,000㎡)等の開発であった。

さらに住宅産業の一部をなす住宅供給のため、内外木材工業が開発した木質系プレハブ住宅の生産を開始すべく、昭和46年(1971)12月、大林ハウジング株式会社を設立し、当時注目されていた工業化住宅の生産・販売事業に進出した。同社では、一般の軸組構造に代えて、住宅の一室の壁を4枚の大型木質パネルで構成するという、当時としては画期的な壁式構法を採用し、主要部材である大型木質パネルの生産のため、滋賀県八日市市に近畿圏を対象市場とする新鋭の工場を建設した。これに伴い、当社は事業をより強力に推進するため、同年12月、住宅事業部を住宅事業本部(本部長=副社長嶋道朔郎)に昇格した。

住宅事業本部は、当面宅地の開発に全力を傾注することにしたが、それにはさらに多くの土地を取得する必要があった。

一方、47年7月に成立した田中内閣は、日本列島改造論を下敷きとする「経済社会基本計画」を48年2月に発表した。その主軸をなす工業再配置、新25万都市、高速道路、新幹線鉄道建設等は、いずれも土地に基礎をおいた政策であるところから、今後の産業は不動産業が主導するものと予想され、その認識が各方面に浸透しつつあった。

こうして総合商社をはじめ大手、中小を問わず多くの企業が競ってこの分野に参入したが、金融機関も積極的に不動産投資への融資を行った。また、地方自治体も地域開発の立場から、これら企業の進出を歓迎し、初期には公共負担金さえも課さないほどであった。したがって許認可条件も比較的寛大であり、都市では市街化区域と市街化調整区域の線引きが行われていたにもかかわらず、20㏊以上の大規模開発については、市街化調整区域の場合でも、許可の取得は容易であると考えられていた。

当社が本格的に不動産事業に進出し、住宅事業本部を脱請負業体質を目指す戦略部門と位置づけ、土木、建築両本部とともに経営の三本柱の一つとしたのは、上記の情勢を背景としたものであった。しかし、土地ブームが進行し、地価は加速度的に上昇しつつあったため、早急に計画用地の取得を促進しなければならなかった。そこで、これに要する巨額の資金をまかなうため、各種の金融機関に融資を求めていったが、しだいに借入金が増大し、ついに経営を圧迫するに至ったのであった。

大林式木質系プレハブ住宅
大林式木質系プレハブ住宅
大林ハウジング八日市工場
大林ハウジング八日市工場

■―用地取得の状況

住宅事業部が最初に開発を行った前記3カ所は、いずれも当社の既保有地であったため、事業はきわめて順調に進行し、昭和46年(1971)から翌47年にかけて造成、販売を完了し、業績に寄与した。

これと並行して44年以降、住宅事業部およびその後の住宅事業本部が用地の取得計画を進めていたのは以下のとおりであった。

昭和44年、45年

兵庫県川西芋生(当初計画面積52万㎡)、奈良県生駒(同36万㎡)、大阪府岸和田貝塚(同26万㎡)、奈良県大和郡山(同8万㎡)、静岡県伊豆熱川(同23万㎡)、千葉県臼井(同48万㎡)、千葉県飯重(同58万㎡)

昭和46年

兵庫県姫路豊島町(同88万㎡)、兵庫県淡路島南淡町(同54万㎡)、神戸市押部谷(同50万㎡)、滋賀県草津岡本(同59万㎡)、神戸市塩屋(同10万㎡)、岡山県日生(同54万㎡)、千葉県下志津(同59万㎡)

昭和47年

熊本県阿蘇(同12万㎡)、兵庫県玉瀬(同38万㎡)、大津市堅田(同53万㎡)、三重県青山町(同54万㎡)、栃木県宇都宮長岡(同122万㎡)、千葉県印西町木下(同40万㎡)、静岡県熱海和田山(同67万㎡)

また、開発方式としては、他社を事業主とし、当社は匿名組合員として事業に参加する匿名組合方式、および土地区画整理組合方式の二つが採用された。これまでにあげた物件のうち、長尾山、塩屋、阿蘇、宇都宮長岡等は匿名組合方式で実施したが、これには造成工事を当社が受注しうること、1物件当たりの資金負担が少なく、多くの事業に参加できること等のメリットがあった。

一方、土地区画整理組合方式を用いたのは、臼井駅南、臼井生谷、大下、生駒等であり、この方式の利点として、造成工事を当社が受注できる可能性が強いこと、造成工事も組合収支で別個に行うため負担金が少ないこと、単独開発の場合と異なり計画地を全面買収する必要がないこと等があげられる。

伊豆熱川別荘分譲地
伊豆熱川別荘分譲地
同分譲地内の別荘
同分譲地内の別荘

■―開発事業本部の発足

田中角栄元首相の私的な論文であった『日本列島改造論』は、田中内閣が成立するとその対内政策の柱として推進されることになったが、雄大な構想の列島改造計画には、その実現を疑問視し、あるいは公害を懸念する声もあった。しかし、一方では田中首相の実行力に期待し、国土開発が産業界に新時代をもたらすことを予想して評価、歓迎したものも少なくなかった。

昭和48年(1973)1月、大林社長は年頭訓示において、全社的な業務改善に関するアピールを行ったが、その中に次のような部分がある。当時の業界の期待感を反映したものといえよう。

「最近は当社の長い間の得意先である製造業部門の企業から、脱本業化を目指して、新規分野への進出、あるいは遊休土地の高度利用を図るための事業目論見などにつき、相談をもちかけられるケースが目立ってまいりました。

このような情勢のもとにおきましては、わたくしたちは企画の段階から協力するとともに、資源、マーケット、労働力の確保など、各種のデータ調査に基づく有望な土地の斡旋から、工事の施工、施工後の管理、さらにテナントの紹介に至るまで、あらゆる相談に応ずることができるような企業体制を早急に整えなければ工事を獲得することはできません。(略)

新規得意先を積極的に開拓すること、ならびに有望な土地を先買いして、営業用不動産として確保し、これを工事の受注に結びつけていくことに関しましては、関係部門の皆さんの熱意で、しだいによい成果をあげつつありますが、なかなか時間のかかることなので、引き続き地道な努力を続けてほしいと思います。」

次いで48年4月、この方針に基づいて組織の再編成を行い、住宅事業本部と都市開発室を統合し、開発事業本部を発足させた。

従来、当社では開発事業に関し、当社が事業主体となる宅地、マンションの建設、分譲については住宅事業本部が担当し、工事獲得のために行うプランニング、コンサルティング、プレゼンテーション等の業務については都市開発室が担当することとしていた。

当時、地域開発が時代の要請として重要性を増したのに伴って、前者では単に宅地、マンションにとどまらず、さらに別荘地、ゴルフ場、マリーナ等の新分野に進出する必要が生じ、また後者では単にコンサルティング等の業務にとどまらず、事業主体の一員としてさらに積極的に業務を推進する必要が生じてきた。

しかし、前者ではプランニング機能の弱さが、後者ではプランニング以後の実施部門の欠如が、当社のデベロッパーとしての業域拡大上の隘路として問題にされるに至った。そこで、この両者を統合し、デベロッパー業務とコンサルティング業務を一部門で担任するよう、業務組織を整備することにしたのである。これに伴って定款の一部改正を行い、開発事業、住宅事業に関する業務を事業目的に追加した。

開発事業本部の組織は大阪、東京とも同様とされ、それぞれ計画第一部、同第二部、用地部、事業部が置かれ、ほかに名古屋支店に開発事業部、福岡支店に開発課を置いた。

そのころ土地の買収を進めつつあったのは次の諸地域であった。

奈良県天理(当初計画面積46万㎡)、滋賀県伊香立(同69万㎡)、岡山県中和村(同173万㎡)、京都府宇治(同5万㎡)、兵庫県猪名川(同25万㎡)、奈良県大淀川(同42万㎡)、大阪府河内長野(同33万㎡)、大阪府熊取(同3万㎡)、茨城県水海道(同52万㎡)、千葉県大下(同11万㎡)、栃木県宇都宮河内(同126万㎡)、茨城県美浦村(同7万㎡)、福島県棚倉(同84万㎡)

一方、販売物件については、既取得物件のうち、大和郡山(販売面積13万1,000㎡、750区画、当社はその3分の1)、兵庫県鷲林寺(同10万2,000㎡、130区画)が加わり、48年3月期から急速に業績に寄与した。

翌49年3月期決算では、石油危機発生後のインフレと不況にもかかわらず、富士見台マンション(185戸)、大津市堅田(23万5,000㎡)、滋賀県草津岡本(45万5,000㎡)の素地売りを含め、最高の売上利益をあげることができた。

油壺シーボニアヨットハーバー
油壺シーボニアヨットハーバー
住宅事業の本格的分譲マンション(富士見台マンション)
住宅事業の本格的分譲マンション(富士見台マンション)
発売を開始した鷲林寺分譲住宅地
発売を開始した鷲林寺分譲住宅地

■―悪条件重なる

政府は土地ブームによる地価の異常ともいえる上昇を抑制するため、昭和48年(1973)から49年にかけ新土地税制(特別土地保有税、法人の土地譲渡所得に対する重課税の新設)を施行するとともに、国土利用計画法による土地取引規制の強化に踏み切った。そのため、すでに購入した物件の大部分は、市街化調整区域内の該当物件として、開発許可の取得はきわめて困難になった。

また、石油危機後の総需要抑制策に伴い、金融はにわかに逼迫して買収交渉は難航したほか、ようやく交渉が解決した土地についても、資金手当てのめどが立たない状態となった。その結果、大半の物件は交渉の途中において断念することを余儀なくされたのである。こうして、不動産事業が拡大への道をたどっていたこの時期、あらゆる悪条件が次々と重なり、開発事業の前進をはばんだ。

ここにおいて開発事業本部は最大の難局を迎えたにとどまらず、資金の固定化と金利負担の増大は、当社の経営に重圧を加えるに至ったのである。

後発ながら時流に沿って木質系プレハブ住宅へ進出した大林ハウジングの事業も、主要部材の工場生産や不特定多数の個人客への販売など、従来の当社の事業から得られない数多くのノウハウが要求された結果、事業収支が採算ベースに達せず早くも挫折を味わわねばならなかった。

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