昭和初期には不況に悩む一方、当社は積極的に打開策を講じ、業容の拡大にも努めた。住宅地の造成、分譲と住宅建設もその一つで、関西における住宅産業の先駆をなすものであった。すなわち、昭和4年(1929)5月、賢四郎副社長の発意によって、阪神沿線浜甲子園健康住宅地の開発に着手した。担当は、邸宅、旅館、社寺などの設計・施工に当たるため大正14年に設置された住宅部であった。
6年初め浜甲子園一帯の海辺6万坪(約20万㎡)に宅地、道路、上下水道、緑地帯の造成を完了し、まず日用品の店舗、居住者用のクラブハウス、幼稚園を建設した。同時に大阪毎日新聞社と提携し、その紙上で同地にふさわしい健康住宅の設計を懸賞募集した。その入選作十数戸のほか、当社設計のモデル住宅も建設し、同社の後援で「浜甲子園健康住宅展覧会」を開いて入居者を募集した。
この宣伝は成功して、モデル住宅はたちまち売り切れ、その後も申し込みが相次いだ。土地は坪当たり30円から40円、1区画は100坪(330㎡)内外が多かった。設計は無料で、当社が施工に当たり、建築費は坪当たり120円ないし150円、支払いは3年または5年年賦であった。
阪神電気鉄道でもこの住宅地のため線路の延長、停留所の2カ所新設、居住者に対する浜甲子園駅から大阪または神戸までの1年間の無料乗車券の発行など積極的な施策を行った。不況時でもあり、また住宅事情のよい当時のことで、約500戸の全区画を売りつくすのに5年を要したが、計画としては成功であった。当社の経営は12年に終了したが、クラブハウスと幼稚園は地域に寄付し、14年までその幼稚園経費を負担した。
浜甲子園の宅地造成に続き、8年8月、道路舗装とその関連業務を行う東洋鋪装株式会社(代表者=専務取締役牛島 航)を設立した。資本金10万円(半額払込)、本店は東京丸の内1丁目三菱仲28号館であった。
同社は日本ビチュマルス株式会社(昭和5年11月に創立。現・東亜道路工業)から分離独立したもので、元来は当社と日本液体アスファルト工業、米国スタンダード石油系会社との日米合弁会社であった。アメリカからアスファルトを輸入し、アスファルト乳剤の製造、販売とともに、これを使用した簡易舗装工事を施工していたが、当時の日本では道路舗装は開始されたばかりであったため、業績はきわめて順調であった。ところが7年、日米合弁会社と知らず横須賀海軍施設部は同社に、硫黄島飛行場建設を秘密に命令したが、これは当然将来の日米開戦に備えるためと推測されたので、同社はこの特命を辞退した。当社としても、今後の国際情勢を考慮し、当社系重役および社員はこの会社を脱退して、新たに東洋舗装を設立するに至ったのである。
東洋舗装は海軍、国鉄、東京市などのほか、青森、愛知、京都、島根などの各府県でも工事を請け負い、一時は大いに発展した。しかし12年、日中戦争の勃発とともに道路工事が激減した。このため業務は当社東京支店が管理することとなり、同社の牛島専務は退任して、植村克己が代表取締役となった。戦後の23年に復活し、42年2月、大林道路株式会社と改め、46年4月の東京証券取引所第2部上場に続いて47年3月大阪証券取引所への上場、そして48年2月には、両証券取引所第1部上場を果たすなど、優良企業へと成長していった。
これらのほか外国航路客船の室内装飾を試みたのも、新規事業開拓の熱意のあらわれであった。
当時、日本郵船ヨーロッパ航路の国産優秀船では、ロビー、ラウンジ、ダイニングサロンなどの公室は、外国の内装業者に仕上げを依頼していた。4年2月、太平洋航路の浅間丸と龍田丸が新造されるに際し、当社がこれを請け負うことに成功した。しかし、1等公室はすでにイギリス業者と契約済みであったので、試験的に2等公室のみを施工することになり、本店工作所が担当した。設計は本店設計部の鈴木 久、中村一秀であった。
続いて同年4月には、大阪商船の南米航路船「りおでじあねいろ丸」と「ぶえのすあいれす丸」の2船を、さらに6月と12月には大阪鉄工所から日本郵船のアメリカ航路、「平洋丸」、「平安丸」の各1、2、3等客室その他の内装を受注、施工した。当時、当社工作所は木彫の名工安田父子をはじめ優秀技術者を集めており、また材料、工作機械の面でも他に比類をみなかった。したがって、これらの船内装飾も絶讃を博し、木工事業は、既述のように工作所から独立した内外木材工芸へと引き継がれたのである。