大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 経営の合理化と業容拡大

■―予算統制制度、現場従業員指針

大林賢四郎は副社長としては義雄社長を補佐し、白杉とともに当社を支える大きな柱であったが、技術者としては建築部門を統轄した。営業担当者としてもその才能を発揮したが、経理面にも明るかった。

賢四郎の資質、才能と、その努力は当社経営に多くの足跡を残しているが、昭和7年(1932)制定の「工事費予算統制規程」はその発案によるものであり、10年に刊行した『現場従業員指針』はその編集によるものであった。これらはいずれも賢四郎が、技術者として科学的な目で不合理を排除し、経営合理化の推進と経営内容の向上を目的として作られた。

工事費予算統制規程は、従来、入札見積書を工事決定後はそのまま予算基準としていたのを改め、内容をいま一度分析再編成して実施予算とするものであった。

『現場従業員指針』は、事務経理、建築、設備、電気の4部に分かれ、ポケット型通巻2,300ページにわたるハンドブックで、科学的経営の基礎をなすものであった。

たとえば工事予算統制について、「予算統制の意義は、予算と実施との計数対照をもって満足するものにあらず、事前に損益を予想し、しかもこれが対策上あらゆる合理化を強調して、正当なる生産原価を低下するの点に存す。すなわち購買の合理化と現業の合理化とはその主たる方法にして、この二個の合理化を行なう上においての苦心、手腕、努力が予算統制上の真の意義たるを知るべきなり」と説いている。

購買の合理化については、実質的な安価購買、適時・適質・適産・適法購買を追求し、主として購買掛の責任事項とした。
また、現業の合理化については、正当なる数量の短縮を根本目的として、これを材料、手間、時間、経費の短縮の4項に要約し、それぞれ観念に走るのではなく、具体的な手法を掲げて、これを現場主任の責任事項とした。

『現場従業員指針』(昭和10年刊行)
『現場従業員指針』(昭和10年刊行)

■―営業網の整備と経営陣の強化

昭和に入ってからの不況は深刻であったが、当社では資金需要に応ずるため、昭和2年(1927)7月、4年3月、5年3月の3回にわたり、株式の払込みを行い、資本金500万円を全額払込済とした。一方、配当金は3年以後年1割2分に減じ、6年に年1割、7年には年7分へと減配のやむなきに至った。

さらに経費節減や合理化について諸規程をつくって推進し、若干の人員整理も行った。こうした施策の一方、積極策として地方機構を強化し、工事の獲得に努めた。2年に神戸、京都(出張所を昇格)に営業所を、3年1月には京城に、6年1月には台北と大連に外地出張所を設け、5年2月には小倉支店を福岡市中島町59番地に移し、福岡支店とした。また5年から7年にかけ、金沢、静岡、広島、仙台にも営業所を開設した。台北出張所は、6年10月、台湾電力から日月潭発電所第2工区工事を、さらに10年10月、日月潭第2発電所第3工区工事を受注し、大連出張所も、満州事変を契機として、大陸に発展する重要な基地となった。

また6年10月、大林組工作所の製材・木工部門を分離独立させ、内外木材工芸(のち内外木材工業)株式会社を設立した。社長は置かず大林義雄が取締役会長となり、富田義敬が当社監査役から転じて常務取締役に就任し、経営の衝に当たった。資本金は100万円(払込金額25万円)で、その後大いに業績をあげ現在に至っている。

昭和初期においては不況のうちにも前記のように積極的な展開が図られたが、首脳陣の強化も進められた。すなわち7年12月近藤博夫、中村寅之肋が入社し、ともに取締役支配人に就任したのがそれである。

近藤は京都帝国大学土木工学科出身で、大阪市港湾部長の現職から招かれたもので、20年7月、戦時建設団近畿地方団設立に際し理事・総務部長に推され、さらに22年4月の統一選挙には大阪の初代民選市長となった。また、中村は東京帝国大学政治学科を卒業後、内務省を経て朝鮮総督府に入り、当時高等官一等、殖産局長の任にあり、入社後は機構の整備、制度の近代化などに努めた。定年制を実施し、従来作業現場の休日が1日、15日であったものを第1、第3日曜日と改め、本店、支店は毎日曜日を休日としたのもこの当時のことであり、他産業に比べて遅れていた業界にとって、これらは画期的ともいうべき制度であった。

近藤、中村の入社によって首脳陣を強化した当社であったが、10年3月31日には賢四郎副社長の急逝という不幸に見舞われた。4月4日、四天王寺本坊において盛大な社葬をもって、その霊を送った。ようやく景気も好転し、社業も繁忙を加えつつある時期に、人格、識見、手腕ともにすぐれた副社長を失った打撃は大きかった。

賢四郎の死により社長補佐の重責はひとり白杉の双肩にかかることになった。そこで10年12月、白杉を専務取締役に、取締役支配人鈴木 甫、近藤、中村の3名を常務取締役に任じ、従来の植村克己との4常務制をしいて万全の体制とした。

この年5月19日、社長大林義雄が祭主、白杉亀造が委員長となり、当社慰霊祭が本店6階講堂で挙行された。創立者芳五郎以下役職員、下請業者、殉職した下請従業員のほか、砂崎庄次郎氏、岩下清周氏、片岡直輝氏ら、大林家および当社の縁故者、後援者の霊を合わせ祀ったものである。これを第1回として、その後慰霊祭は毎年秋季に行われ、終戦後一時中断されたが、27年に復活し現在に至っている。

内外木材工芸工場(当時、大阪市港区千島町)
内外木材工芸工場(当時、大阪市港区千島町)

■―積極的に業容拡大

昭和初期には不況に悩む一方、当社は積極的に打開策を講じ、業容の拡大にも努めた。住宅地の造成、分譲と住宅建設もその一つで、関西における住宅産業の先駆をなすものであった。すなわち、昭和4年(1929)5月、賢四郎副社長の発意によって、阪神沿線浜甲子園健康住宅地の開発に着手した。担当は、邸宅、旅館、社寺などの設計・施工に当たるため大正14年に設置された住宅部であった。

6年初め浜甲子園一帯の海辺6万坪(約20万㎡)に宅地、道路、上下水道、緑地帯の造成を完了し、まず日用品の店舗、居住者用のクラブハウス、幼稚園を建設した。同時に大阪毎日新聞社と提携し、その紙上で同地にふさわしい健康住宅の設計を懸賞募集した。その入選作十数戸のほか、当社設計のモデル住宅も建設し、同社の後援で「浜甲子園健康住宅展覧会」を開いて入居者を募集した。

この宣伝は成功して、モデル住宅はたちまち売り切れ、その後も申し込みが相次いだ。土地は坪当たり30円から40円、1区画は100坪(330㎡)内外が多かった。設計は無料で、当社が施工に当たり、建築費は坪当たり120円ないし150円、支払いは3年または5年年賦であった。

阪神電気鉄道でもこの住宅地のため線路の延長、停留所の2カ所新設、居住者に対する浜甲子園駅から大阪または神戸までの1年間の無料乗車券の発行など積極的な施策を行った。不況時でもあり、また住宅事情のよい当時のことで、約500戸の全区画を売りつくすのに5年を要したが、計画としては成功であった。当社の経営は12年に終了したが、クラブハウスと幼稚園は地域に寄付し、14年までその幼稚園経費を負担した。

浜甲子園の宅地造成に続き、8年8月、道路舗装とその関連業務を行う東洋鋪装株式会社(代表者=専務取締役牛島 航)を設立した。資本金10万円(半額払込)、本店は東京丸の内1丁目三菱仲28号館であった。

同社は日本ビチュマルス株式会社(昭和5年11月に創立。現・東亜道路工業)から分離独立したもので、元来は当社と日本液体アスファルト工業、米国スタンダード石油系会社との日米合弁会社であった。アメリカからアスファルトを輸入し、アスファルト乳剤の製造、販売とともに、これを使用した簡易舗装工事を施工していたが、当時の日本では道路舗装は開始されたばかりであったため、業績はきわめて順調であった。ところが7年、日米合弁会社と知らず横須賀海軍施設部は同社に、硫黄島飛行場建設を秘密に命令したが、これは当然将来の日米開戦に備えるためと推測されたので、同社はこの特命を辞退した。当社としても、今後の国際情勢を考慮し、当社系重役および社員はこの会社を脱退して、新たに東洋舗装を設立するに至ったのである。

東洋舗装は海軍、国鉄、東京市などのほか、青森、愛知、京都、島根などの各府県でも工事を請け負い、一時は大いに発展した。しかし12年、日中戦争の勃発とともに道路工事が激減した。このため業務は当社東京支店が管理することとなり、同社の牛島専務は退任して、植村克己が代表取締役となった。戦後の23年に復活し、42年2月、大林道路株式会社と改め、46年4月の東京証券取引所第2部上場に続いて47年3月大阪証券取引所への上場、そして48年2月には、両証券取引所第1部上場を果たすなど、優良企業へと成長していった。

これらのほか外国航路客船の室内装飾を試みたのも、新規事業開拓の熱意のあらわれであった。

当時、日本郵船ヨーロッパ航路の国産優秀船では、ロビー、ラウンジ、ダイニングサロンなどの公室は、外国の内装業者に仕上げを依頼していた。4年2月、太平洋航路の浅間丸と龍田丸が新造されるに際し、当社がこれを請け負うことに成功した。しかし、1等公室はすでにイギリス業者と契約済みであったので、試験的に2等公室のみを施工することになり、本店工作所が担当した。設計は本店設計部の鈴木 久、中村一秀であった。

続いて同年4月には、大阪商船の南米航路船「りおでじあねいろ丸」と「ぶえのすあいれす丸」の2船を、さらに6月と12月には大阪鉄工所から日本郵船のアメリカ航路、「平洋丸」、「平安丸」の各1、2、3等客室その他の内装を受注、施工した。当時、当社工作所は木彫の名工安田父子をはじめ優秀技術者を集めており、また材料、工作機械の面でも他に比類をみなかった。したがって、これらの船内装飾も絶讃を博し、木工事業は、既述のように工作所から独立した内外木材工芸へと引き継がれたのである。

浜甲子園健康住宅(写真はモデル住宅を兼ねた案内所)
浜甲子園健康住宅(写真はモデル住宅を兼ねた案内所)
東洋鋪装横浜工場(現在の横浜駅西口駅前。アスファルト乳剤製造工場)
東洋鋪装横浜工場(現在の横浜駅西口駅前。アスファルト乳剤製造工場)
東京・上野公園内5,300㎡舗装工事中(昭和9年5月ころ)
東京・上野公園内5,300㎡舗装工事中(昭和9年5月ころ)
日本郵船・龍田丸社交室
日本郵船・龍田丸社交室
大阪商船・ぶえのすあいれす丸社交室
大阪商船・ぶえのすあいれす丸社交室
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