大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和49年~昭和53年ころ

高速道路ネットワークの形成を目指して

姿を現した日本列島縦貫高速道路網

昭和40年代以降のわが国の自動車交通量の増え方は、まさに激増という表現がふさわしい。自動車保有台数は、42年度(1967年度)に1,000万台を突破するやいなや、そのわずか4年後の46年度には2,000万台に達し、51年度には3,000万台を超えるという加速度的な伸長を示した。

このようなモータリゼーションの進行に対応して、全国高速道路ネットワークの形成を目指して急ピッチで高速道路の建設が進められた。名神、中央(東京~富士吉田間)、東名に引き続いて、国土の背骨となる東北・中央・北陸・中国・九州各自動車道の縦貫5道を中心に、北海道縦貫・関越・東関東・近畿・関門・沖縄等の各幹線自動車道を加え、40年から50年代初頭にかけて高速道路の建設は全国に展開していった。

この間、環境問題や石油危機など社会・経済環境の変化による影響を受けながらも工事は次々と完成していき、48年9月の中央自動車道瑞浪~多治見間の開通によりわが国の高速道路の供用延長は1,000㎞を突破、3年後の51年には2,000㎞を超えた。この時点で、縦貫5道の合計予定延長約2,600㎞の4割強が完成し、その骨格がようやく姿を現すに至った。

一方、高速道路建設の全国展開に伴い、名神・東名時代に培われた建設技術はさらに進歩した。工事では、全国各地でその地方特有の土質、地質にあった土工技術が要求されるようになった。盛土材としてその取扱いがとくに問題となった土は、東北自動車道の鹿沼土、九州自動車道植木地方の阿蘇火山灰土、南九州および東北北部に分布するシラスなどであり、これらの施工経験は土工の技術・ノウハウの拡充に大きく寄与した。

また、日本の脊梁部を通る路線が多くなり、トンネル本数の増大とともにその延長が長大化し、中央自動車道笹子トンネルや同・恵那山トンネル(他社施工)に代表される本格的な山脈を貫く道路トンネルが出現した。

40年代後半から50年代前半に当社が施工した代表的な高速道路は次表のとおりである。このほかに一般有料道路などの大型道路工事も全国で相次いで完成している。

沖縄自動車道石川工区(JV)
<沖縄県>昭和49年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
沖縄自動車道石川工区(JV)
<沖縄県>昭和49年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東北自動車道平泉工区(JV)
<岩手県>昭和52年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東北自動車道平泉工区(JV)
<岩手県>昭和52年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団

中国自動車道佐用工区(JV)

工事区間は、兵庫県の西端部に近い佐用郡南光町・漆野村~佐用町奥金近間8,094mで、これを当社(幹事会社)とフジタ工業で分担施工し、当社は漆野村をはさんで北へ金近トンネル上下線(上り線1,063m、下り線845m)、南へ漆野トンネル上下線(上り線200m、下り線184m)のトンネル延長計2,292mの工事のほか、バスストップ362mなどの工事を担当した。着工は昭和47年(1972)7月である。

このトンネルは並列トンネルであり、通常このようなトンネルの施工の場合、1本を掘削完了してからあとの1本を掘削するか、同時掘削であってもどちらかを一定距離先進させるのが通例である。しかし当現場では工期や進入路の関係で並列トンネル同時掘進となった。なお、上下線の離間距離は全線にわたって20m以下であった。

並列トンネル同時掘進では、経済性と発破時における安全性を考慮して、一つの作業パーティ、1セットの施工機械で上下線を交互に掘進したが、当方式は安全の確保と作業人員および工事機械の削減に大いに効果があった。請負金は22億9,078万円、所長は宮本英朗である。

中国自動車道佐用工区(JV)
<兵庫県>昭和49年11月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 金近トンネル上下線(上り線1,063m、下り線845m)、漆野トンネル上下線(上り線200m、下り線184m)、バスストップ362m、トンネル掘削土量18万749㎥、道路掘削土量1万856㎥、土運搬12万8,067㎥、盛土量3,702㎥
中国自動車道佐用工区(JV)
<兵庫県>昭和49年11月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 金近トンネル上下線(上り線1,063m、下り線845m)、漆野トンネル上下線(上り線200m、下り線184m)、バスストップ362m、トンネル掘削土量18万749㎥、道路掘削土量1万856㎥、土運搬12万8,067㎥、盛土量3,702㎥

東北自動車道北上工区(JV)

当社工区は延長7㎞、JV相手工区が3㎞の分担施工で計10㎞、土工量170万㎥(当社施工分)という大型高速道路工事であった。当工区はまたランプウェイが国道、国鉄、河川をまたぐインターチェンジを含み複雑な大型構造物が数多くあり、さらに計78カ所のパイプカルバート、ボックスカルバートが含まれるというものであった。工区はほとんど盛土であったが、そのための大量の土は10㎞先から運ばれた鹿沼土であった。この土は水分を多量に含んでおり、そのため、ダンプに揺られ、現場に到着するころには“しるこ状”になってしまうという難物で、乾燥すれば締まって固くなる土質であるが盛土時には相当に厄介なものであった。

当地は岩手県下でも有名な豪雪地帯で、12月、1~3月の4カ月は工事ができなくなるという悪条件のなかでこうした大量土工事を行い、多いときでは1日200台を超える大型ダンプを運行した。このため交通安全には最大限の注意を払って工事を進め、その結果、130万時間無災害記録を達成するとともに、発注者、地元各方面から感謝状が多数授与された。工事は昭和51年(1976)8月工期どおり完了、請負金は42億5,574万円、所長は内田稔郎である。

東北自動車道北上工区(JV)
<岩手県>昭和51年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 道路延長7,047m、土工量170万㎥、橋梁下部工15橋、橋梁上部工2橋、ボックスカルバート40カ所、パイプカルバート38カ所、インターチェンジ1カ所
東北自動車道北上工区(JV)
<岩手県>昭和51年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 道路延長7,047m、土工量170万㎥、橋梁下部工15橋、橋梁上部工2橋、ボックスカルバート40カ所、パイプカルバート38カ所、インターチェンジ1カ所

中央自動車道笹子トンネル東工区(JV)

笹子トンネルは延長4,784mで、当時わが国の道路トンネルでは2番目(平成3年現在5番目)の長大トンネルであるとともに、最大150㎡に及ぶ大断面をもち、換気、防災、交通制御施設なども最新鋭の設備を備えたトンネルであった。

当社はこの下り線東工区延長1,972mとそれに続く黒野田トンネル下り線延長260m、さらに道路延長525mを担当したが、これほど長大かつ大断面の道路トンネルは当社としては初めてであった。

笹子峠にはすでにトンネルが5本掘られており、地質は良好と予想された。しかし、当工区のちょうど中間地点でその1本と立体交差するということ、また、当トンネルのトンネル断面は90~120㎡と変化し、非常駐車部分では断面が150㎡にも及ぶところが2カ所あることなど、安全かつ早期に施工するには対処すべき難問が幾つかあった。

工法は底設導坑先進上下並進工法を採用したが、底設導坑は作業可能な最小断面(8㎡)とし、早期貫通によって水抜き効果を発揮させるとともに地質の把握を行った。本坑掘削には全長50m、幅4.7m、重量110tの当社開発の移動式斜路を導入し、掘削には9ブームドリルジャンボや2ブームトラックドリル、ズリ出しには1.2㎥パワーシャベル、13.5tダンプトラックなど大型の重機を多く投入した。また、先述の立体交差部分では制限発破を実施するとともに、支保工に工夫を施して地山のゆるみを少なくするなどの対策を講じた。

当社と大成建設のJVで、換気立坑および内装天井板工事を含め昭和52年(1977)9月にすべてを完了、請負金は42億3,821万円、所長は矢野元暎であった。

中央自動車道笹子トンネル東工区(JV)
<山梨県>昭和52年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 笹子トンネル下り線延長1,972m、黒野田トンネル下り線延長260m、道路延長525m、トンネル掘削土量21万5,392㎥、巻立コンクリート量4万2,905㎥、切盛土量11万6,000㎥
中央自動車道笹子トンネル東工区(JV)
<山梨県>昭和52年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 笹子トンネル下り線延長1,972m、黒野田トンネル下り線延長260m、道路延長525m、トンネル掘削土量21万5,392㎥、巻立コンクリート量4万2,905㎥、切盛土量11万6,000㎥

湾岸地区に展開する都市高速道路

昭和34年(1959)、東京都心部で初めて高速道路建設が開始されたが、これら都心部での高速道路は、構造的にはすべての交通路と平面交差のない高架形式あるいは堀割形式が採用された。しかし、すでに過密化した都心部では、道路の勾配や曲線形状などの線形条件が厳しく、さらに橋脚の位置や形状に多くの制約を受けたため、非常に複雑な構造物の建造を余儀なくされ、これらの設計・施工にはさまざまな新しい試みが行われた。そして、このころ東京では都心部から郊外や湾岸地区へと高速道路が延伸していったが、阪神高速道路では45年の万博後は住民の公害反対運動などの影響もあり、46年度から51年度までに供用に付されたのは16.8㎞にとどまった。

ちなみに湾岸地区での工事では、埋立地や航路を横断して高速道路が設けられるため、埋立地での大規模な地盤改良工事が行われたり、橋梁形式としてゲルバートラス構造{注1}や斜張橋が採用され、トンネル形式では軟弱地盤内に長さ1㎞を超えるトンネルを構築する沈埋工法{注2}が採用された。ゲルバートラス構造としては、前章で述べた阪神高速道路の港大橋(JV)がその代表的なものであるが、首都高速道路では荒川湾岸橋(下部工)(JV)がこの時期完成している。阪神高速道路大阪湾岸線の大和川橋梁(当社は第3工区下部工・JV)は、斜張橋として中間支間355mの日本最長級の橋梁であり、下部工も鋼管井筒としては施工例がきわめて少ない直径33mという巨大なものであった。当社は、その下部工を55年3月完成させている。沈埋工法としては、首都高速道路東京港(沈埋)トンネル(JV)がその代表的なものであった。

注1 ゲルバートラス構造:比較的細長い棒状部材を三角形を基本にして骨組みにした構造をトラスといい、トラスを主桁に用いたものをトラス橋という。また、ゲルバー橋とは橋の支承条件による分類の中の一種で、連続梁に適当なヒンジを挿入して静定構造とし、安定を増した構造である。主構造にゲルバー構造を応用したトラス橋をゲルバートラス橋という。

注2 沈埋工法:河川、運河、港湾などを横断して水底にトンネルを建設する工法の一つである。トンネルの一部分(エレメント)をドライドックや造船台などで製作し、これを浮かべて現場まで曵航し、あらかじめ掘削しておいた水底に沈めて順次接続したあと、埋め戻してトンネルを完成させる工法である。

首都高速道路荒川湾岸橋(下部工)(JV)

東京湾に沿って走る首都高速湾岸線の第1期工事が東京港(沈埋)トンネルを含め延長3㎞で工事の最盛期を迎えていたころ、第2期工事延長16㎞の先陣として、この荒川湾岸橋下部工工事(橋脚6基、橋台2基)を昭和48年(1973)3月に着工した。

荒川湾岸橋は、一級河川・荒川放水路の河口にある埋立地(14号地その1)と対岸の埋立工事中の江戸川区葛西沖を結ぶ橋長840m、幅員30.5~48.5mの7径間ゲルバートラス橋である。船舶航路の確保、現場作業の省力化、工期の短縮から、河川の中の6橋脚についてはいっさい仮締切りは行わず、新しい水中基礎工法を採用した。その施工法は、基礎杭として直径1.5m、長さ53mの長尺大口径鋼管杭を打設し、杭頭を所定の高さで水中切断した後、基礎杭の上に工場製作した鋼橋脚(1基約1,300t)を曳航してきてクレーン船を使用して据え付け、その中にプレパックドコンクリート{}を打設した。このプレパックドコンクリートの水中打設量は約2万㎥に及び、同工法をこうした橋脚下部工に大規模に適用したのは日本で初めてのことであった。当社(幹事会社)、前田建設工業のJVで、請負金は18億3,282万円、所長は田中正彦である。

注 プレパックドコンクリート:あらかじめ粗骨材を型枠に詰め、その空隙にモルタルをポンプで注入してつくるコンクリート。

首都高速道路荒川湾岸橋(下部工)(JV)
<東京都>昭和50年5月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 橋台2基、橋脚6基、浚渫工40万㎥、敷砂工8,600㎥、基礎杭工(直径1,000~1,500㎜)350本、プレパックドコンクリート工1万9,200㎥
首都高速道路荒川湾岸橋(下部工)(JV)
<東京都>昭和50年5月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 橋台2基、橋脚6基、浚渫工40万㎥、敷砂工8,600㎥、基礎杭工(直径1,000~1,500㎜)350本、プレパックドコンクリート工1万9,200㎥

首都高速道路東京港(沈埋)トンネル(JV)

このトンネルは沈埋工法による6車線トンネルとしては日本で初めてのものであり、昭和50年(1975)1月完成した西独ハンブルグのエルベトンネルに次ぐ世界第2位の規模を誇るものであった。

地震多発地域でかつ軟弱地盤の海底でのこの工事は、土木技術史上、注目に値する工事でもあった。たとえば、新しい耐震設計方法の開発とこれに基づく各函体間の耐震継手構造の実用化や、地盤沈下に対する措置として、将来の地盤沈下に追随しうる特殊な杭基礎を開発したことなどもその例であった。また、沈埋函基礎工法では、新工法の開発に鋭意取り組み、その結果、函体沈設後、函底部と掘削底面との隙間に函内からベントナイトモルタルを充塡して基礎とする工法を世界に先がけて採用した。この方式はすべて函内作業のため、船舶の航行、天候、波浪など海象条件に左右されることなく確実な施工が可能であり、品質の点でも、また安全性、経済性にもすぐれ、画期的なものとして評価された。

45年6月着工後、最初のハイライトは全沈埋函を同時に製作できる幅126m、長さ645mの巨大なドライドックの築造であった。次いで、このドライドックで函体を製作し、ドライドックに復水、函体重量約4万tは全函無事浮上した。

函体製作と並行して、トンネルの両坑口では、完成後は換気所となる立坑(大井立坑および13号地立坑)工事を行った。とくに13号地立坑付近は埋立て後の歴史が浅く、超軟弱地盤であったため、生石灰パイル工法による地盤改良や上部の土を除去して土圧の軽減等を行い、鋼管矢板土留めによる開削方式を用いてこの難工事を克服した。こうして沈埋函沈設の出発点となる大井立坑工事、トンネル部分の浚渫工事も完了し、ドックから沈設地点まで約4㎞、東京港の玄関口の船舶航行の激しい航路をぬって曳航してきた函体の沈設を開始した。函体の据付けには、測量タワーと超音波位置探査装置によって水中位置を測定し、すべての作業を沈設作業船指令室で制御する集中管理方式をとり、また函体各部材の応力を常時計測しながら工事を進める万全の施工管理方式を採用した。50年2月、9号函を最後に無事全函の沈設を終了、最終端面である9号函の隔壁を切断撤去して東京港トンネルは貫通、51年8月開通した。

その間、各界から多数の見学者が訪れ、とくに50年2月4日、皇太子殿下が当工事現場を視察されたことは、現場員一同にとって大きな励ましとなった。当社、大成建設、鹿島建設、熊谷組、前田建設工業の5社JVで、請負金は28億7,580万円、所長は松下照夫であった。

沈埋函沈設作業要領図(側面図)
沈埋函沈設作業要領図(側面図)
首都高速道路東京港(沈埋)トンネル(JV)
<東京都>昭和51年3月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 トンネル延長2,800m、沈埋トンネル部1,035m、函体(37.4m×115m×高さ8.8m)9個
首都高速道路東京港(沈埋)トンネル(JV)
<東京都>昭和51年3月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 トンネル延長2,800m、沈埋トンネル部1,035m、函体(37.4m×115m×高さ8.8m)9個

都市圏の交通はより遠く、より深く

都市への人口集中はとくに首都圏、阪神圏、中京圏の三大都市圏で著しく、昭和52年(1977)ころにはその傾向は鈍化するものの、51年度末にはこの三大都市圏で全人口の46.2%を占めるまでに至った。しかも、住宅事情の関係で人口が都心部から郊外に移るドーナツ化現象が年々目立ち、この傾向は交通機関にも反映していった。

高度成長に伴う都市への人口集中が起こり始めたころから私鉄、国鉄ともに輸送力の増強に努めていたが、それも追いつかず、これを補うものとして地下鉄と自家用自動車が徐々にその輸送比率を上げてきていた。しかし、石油危機によって自動車交通のあり方の見直しが迫られ、また、住宅地が都心から遠ざかるにつれ、自動車輸送よりも大量輸送ができる鉄道輸送への依存率が高まり、既存線の拡充、郊外への新線の建設、地下鉄網の整備、郊外からの乗換え客の集中するターミナル駅の拡張工事も大型化していった。

東京では、国鉄の根岸線、武蔵野線、京葉線のうち、武蔵野線の工事が急ピッチで進む一方、平成2年に開通した京葉線の工事がこの時期すでに始まっていた。3線での当社の代表的な工事は次のとおりである。

<根岸線>(48年3月全線開通)

大道隧道その他工事

<武蔵野線>(53年10月全線開通)

第2稲城隧道(南・中)

<京葉線>(平成2年3月全線開通)

羽田隧道(大井埠頭南部付近)、夢の島東部高架橋(BL、BL2、BL3)、二俣高架橋、新幕張駅高架橋(現・海浜幕張駅)、東京地下駅(建築仕上げ工事はJV)

ターミナル駅では東京地下駅が47年7月に完成したのに続いて、京成電鉄上野駅や京王帝都電鉄京王新線新宿駅が大規模にあるいは地下深く拡張されていった。また、国鉄横浜駅では東西自由通路が56年11月に完成している。49年6月に完成した京浜急行電鉄湘南線の環状6号線との立体交差工事(JV)も大規模な工事であった。

大阪では、能勢電鉄日生線の工事や南海本線玉出~大和川間高架化第1工区(JV)も進め、このほか近畿日本鉄道大阪線の新青山トンネルも50年7月に竣工した。

なお、50年には瀬戸線松山隧道(愛知)、51年には久慈線普代隧道(北)(岩手)、羽越線小波渡~三瀬間八森山トンネル(山形)など、地方の国鉄工事も大規模なものが目立った。

近鉄新青山トンネル
<三重県>昭和50年7月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 全日本コンサルタント
近鉄新青山トンネル
<三重県>昭和50年7月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 全日本コンサルタント

京成電鉄上野駅改良工事(JV)

京成上野駅は、昭和8年(1933)12月、東京都立上野恩賜公園の南側に地下駅として営業を開始した。この工事も当社施工であったが、当時恩賜公園の御料地を通るということで御前会議の許可が必要であり、工期的にも施工的にも大突貫・難工事であったという。

それから約40年、京成電鉄沿線の通勤・通学客が激増し、あわせて成田の新東京国際空港と都心を結ぶ交通機関としての整備拡充が要望され、さらには上野周辺の再開発の一つの拠点としての改造という3点から大改良工事が計画された。しかし、上野の山の自然環境保全という問題のため着工が大幅に遅れ、工事を開始したのは計画から1年8カ月後の47年7月のことであった。このため、工法についても最新の技術を導入するとともに、施工中は東京都に京成上野駅改良工事監理委員会が設置され工事の指導と監視が行われた。また、施工区域内の大半の樹木は千葉県八千代市にある移植先に慎重に移植し、移植が不可能なケヤキの大木などは現地にそのまま残し、メッセル工法を使用して深さ3m、幅8m四方の大きな植木鉢をつくり支持杭で支えた形とした。

さらに西郷隆盛像のある台地側の斜面は、約100mにわたって景観保護の観点から樹木を残したまま工事をした。その施工は、斜面全体をアンダーピニングする方法をとり、斜面下に鋼管矢板を水平に連続して押し込み、上部法面地盤を樹木や建物を含めて仮受けするパイプルーフ工法を採用し、その下部を掘削して地下2階の電車階を築造した。

こうして景観保護対策に万全を期したのであったが、工期面での制約も大きく、急速施工が強く要請された。工事のための日暮里~上野間の運休(国鉄へ振替輸送)は6カ月間しか許可されておらず、そのうえ着工が大幅に遅れていたため突貫工事を行っても工期は大変厳しく、工期短縮のため現場は万策を講じなければならなかった。そこで従来の切梁支保工をアースアンカー工法に変更し、作業空間を大きくとることによって既設構造物の撤去と新設軌道工事の並行作業を可能とした。

そして51年7月中旬の新聞各紙は「都心の緑は守られた」と一斉に上野の自然環境保全の快挙とともに当工事の完成を報じた。当社(幹事会社)、大成建設、清水建設の3社JVで、請負金は29億5,296万円、所長は江頭成人である。

京成電鉄上野駅改良工事(JV)
<東京都>昭和51年6月竣工
発注 京成電鉄
設計 復建エンジニアリング
工事概要 土木工事/工区延長397m、掘削土量15万3,000㎥、コンクリート量3万9,000㎥
建築工事/RC造、B2一部B3、島式ホーム2面(延長200m)、延1万9,000㎡
京成電鉄上野駅改良工事(JV)
<東京都>昭和51年6月竣工
発注 京成電鉄
設計 復建エンジニアリング
工事概要 土木工事/工区延長397m、掘削土量15万3,000㎥、コンクリート量3万9,000㎥
建築工事/RC造、B2一部B3、島式ホーム2面(延長200m)、延1万9,000㎡

京王帝都電鉄京王新線新宿駅(都営地下鉄10号線新宿停車場)

都営地下鉄10号線は新宿を起点として、都心方向へは市ケ谷、江東区東大島を経て千葉県・本八幡から千葉ニュータウンへ、西へは新宿で京王線と相互乗入れをして多摩ニュータウンへ至る、ニュータウン同士を結ぶ路線である。

当駅は新宿駅南口に位置し、交通量の多い国道20号線(甲州街道)の下32mにできる日本で最も深い駅であった。当社工区はこのうち都心寄り107m部分で、地中では在来の京王線がこの地下鉄路線を横断しており、工事はその下で幅20m、地下5階の地下駅をつくるというものであった。

工法は覆工式開削工法で、掘削は深く、幅が広いため地下13m以深は施工の安全を図って逆巻き工法を採用した。この工事の大きな特徴の一つは、地中で交差する京王線を平常運転しながら、新設の10号線地下駅に収容することであった。施工は、京王線の在来トンネルを一時仮受けした後、このトンネルを包み込んで新しい地下駅を築造し、トンネル躯体を解体して軌道を新地下駅の2階部に本受けするという順序で行った。このため、国道20号線の交通荷重を支える路面覆工は、22mという長スパンの桁と地下36mからの橋脚で支持するという、本格的な橋梁構造物に匹敵する大型架構であった。

また、ちょうど新宿駅南口開発のための建設ラッシュがぶつかったのもこの工事の特徴であった。地下鉄10号線に隣接して地下4階、地上8階の国鉄ターミナルビル「新宿ルミネ」と、同ビルと京王デパート前の通路地下に地下2階建でマンモス駐車場(地下2階部分、300台収容)と京王モール街(地下1階部分、既設の小田急地下商店街につながる新しい商店街)がともに昭和51年(1976)3月の同時オープンに向け、48年12月に着工した。

このようにほぼ同時期に100m四方の地下が深さ20m以上にわたり掘られることとなったが、幸い、新宿ルミネは当社と鹿島建設のJVで、地下駐車場第2工区も当社の単独施工するところとなり、輻輳する諸工事間の調整はスムーズに運んだ。土木工事は着工から6年の歳月を経て53年3月ようやく完成し、建築仕上げ工事も同年10月に完成した。工法的にも多彩でかつ施工環境も複雑ななかで、全工期無災害の記録を達成した。請負金は地下鉄10号線関連工事(土木、建築工事を合わせて)総額50億円にのぼった。所長は米澤義信(土木工事)であった。

京王帝都電鉄京王新線新宿駅(都営地下鉄10号線新宿停車場)
<東京都>昭和53年10月竣工
発注 京王帝都電鉄
設計 京王帝都電鉄、鉄道会館
工事概要 工区延長107m、5層3径間RCラーメン構造、連絡通路45m、掘削土量6万8,000㎥、コンクリート量2万2,000㎥、建築仕上げ工事(B5、延1万4,000㎡)
京王帝都電鉄京王新線新宿駅(都営地下鉄10号線新宿停車場)
<東京都>昭和53年10月竣工
発注 京王帝都電鉄
設計 京王帝都電鉄、鉄道会館
工事概要 工区延長107m、5層3径間RCラーメン構造、連絡通路45m、掘削土量6万8,000㎥、コンクリート量2万2,000㎥、建築仕上げ工事(B5、延1万4,000㎡)

神戸・京都・福岡にも地下鉄が登場

地下鉄の輸送人員は、昭和40年(1965)の12億800万人から49年には27億7,800万人へと急増し、輸送シェアは6.7%から10.5%へと拡大していた。とくに東京では私鉄との乗入れでこの伸びはさらに著しいものがあった。一方、地下鉄の距離数はこの10年間に2.3倍になり、すでに東京、横浜、名古屋、大阪、札幌では都心部交通の中軸となってきていた。

そして、この時期に神戸、京都、福岡に地下鉄が新たに登場した。神戸は46年に着工し、52年3月に西神線新長田~名谷間5.7㎞が初めて開通し、京都は49年8月に着工し、烏丸線北大路~京都駅間6.9㎞が56年5月開通した。また、福岡市は50年11月に工事に着手、57年4月に1号線、2号線で部分開通をみた。

しかし、50年代に入ると、地下鉄の建設費は急騰し、その建設は曲がり角に立たされることになった。40年代後半に建設された営団地下鉄の有楽町線(工期45~49年)の建設費(用地、車輌ほかも含め)が1㎞当たり112億円であったものが、51年に建設中の都営地下鉄新宿線では250億円にまではね上がっていた。また、建設地点が地下深くなるなど施工条件も一段と厳しさを増していった。

こうした苦しいなかであったが、緊要であった輸送力の増強に応えるため建設工事は進み、53年は全国的に地下鉄新線の開業が目立った。札幌市の南北線全線開通を皮切りに、東京の営団地下鉄8号線(有楽町線)、都営地下鉄10号線(新宿線)、名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)などで次々開業区間を延ばしていった。

50年代前半(一部55年竣工)の当社の代表的な地下鉄工事は下記のとおりである。

<東京>

営団8号線(有楽町線)西池袋第2工区、営団8号線(有楽町線)池袋駅工区、都営10号線(新宿線)小川町工区、都営10号線(新宿線)・営団11号線(半蔵門線)九段下駅
※50年3月に営団8号線成増第1工区が完成しているが、駅建築工事は58年になって完成をみたため、ここには入っていない。

<名古屋>

3号線(鶴舞線)伏見駅

<札幌>

東西線バスセンター前駅(JV)

<神戸>

新長田駅及び地下線路第1工区

<福岡>

1号線天神停車場および天神工区(JV)

<横浜>

3号線横浜駅工区(第7工区)

<京都>

烏丸線七条工区(JV)(55年6月竣工)

横浜地下鉄3号線横浜駅工区
<神奈川県>昭和50年12月竣工
発注 横浜市
設計 横浜市
横浜地下鉄3号線横浜駅工区
<神奈川県>昭和50年12月竣工
発注 横浜市
設計 横浜市
神戸地下鉄新長田駅及び地下線路第1工区
<兵庫県>昭和50年12月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
神戸地下鉄新長田駅及び地下線路第1工区
<兵庫県>昭和50年12月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)伏見駅
<愛知県>昭和52年3月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市
名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)伏見駅
<愛知県>昭和52年3月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市

都営地下鉄10号線(新宿線)・営団地下鉄11号線(半蔵門線)九段下駅

沿道住民との5年越しの協議にめどがつき、都営10号線・営団11号線の九段下駅の準備工事に着手したのは昭和49年(1974)9月で、本格的工事は50年5月からであった。この区間は、並行して走る都営10号線と営団11号線が靖国神社に沿った都道下をシールドで施工してきて、この両線が九段坂の途中で同じ高さになったところから九段下駅(全長228m)が始まっており、そのうち駅部の85%に当たる193mが当社の施工区間であった。

工事は2駅合わせて4線4ホームとなる変則4層、幅40m、掘削深度23~33mという大規模な地下構造物の建設であった。施工区間のうち新宿方は、掘削深度が最も深く、また片側が牛ケ淵の濠に面し土留めの両側で地盤高が10m以上異なるため、掘削時には土留工全体が偏土圧を受けるという困難な条件下の施工であった。さらに、既設地下鉄(東西線)と地中で交差する区間は、東西線九段下駅の下を掘削して、新駅を構築しなければならなかった。

施工法は覆工式開削工法とし、新宿方80mは路下式地中連続壁および深礎工による鋼管の柱を支えとした逆巻き工法を併用した。また、既設地下鉄横断部40m区間のアンダーピーニングはトレンチ工法{}を採用し、両側の土留めには水平鋼管土留工法、連続柱列杭およびアースアンカーまたは切梁など多彩な工法を駆使し、難条件の克服に成功した。現場は大部分が6~7%という勾配のある九段坂に位置し、一部は勾配9%の所もあったため安全対策にも最大限の注意を払った。

都営10号線と営団11号線の二つの九段下駅は、土木工事のあと建築仕上げ工事も行い、55年3月すべて完了した。請負金は土木、建築工事合わせて88億2,660万円(桁、切梁、鋼材は支給)、所長は中沢 忠であった。

注 トレンチ工法:地下構造物を築造するのに、壁の部分を溝形に交互に掘削して構築を完成(これで上部を受ける)させた後、他の部分の掘削と構築を始める工法。

都営地下鉄10号線(新宿線)・営団地下鉄11号線(半蔵門線) 九段下駅
<東京都>昭和55年3月竣工
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 工区延長193m、変則4層、開削工法、路面覆工9,400㎡、掘削深度23~33m、掘削土量18万㎥、出入口5カ所、建築仕上げ工事一式
(写真は都営新宿線九段下駅)
都営地下鉄10号線(新宿線)・営団地下鉄11号線(半蔵門線) 九段下駅
<東京都>昭和55年3月竣工
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 工区延長193m、変則4層、開削工法、路面覆工9,400㎡、掘削深度23~33m、掘削土量18万㎥、出入口5カ所、建築仕上げ工事一式
(写真は都営新宿線九段下駅)

営団地下鉄8号線(有楽町線)池袋駅工区

営団8号線は東武東上線和光から銀座新富町を経て新木場に至る延長28.3㎞の路線で、当社は成増第1工区(成増駅)、西池袋第2工区(未使用・別路線に西池袋第3工区工事も施工)、池袋駅、飯田橋第1工区(飯田橋駅)、豊洲第3工区(豊洲駅)を施工した。

池袋駅は国鉄、東武東上線および西武池袋線を横断して地下に設置され、同時に国鉄山手線・赤羽線、東武東上線ならびに西武池袋線の各線との連絡設備を設けることになったため、国鉄および東武鉄道に委託され建設された。国鉄池袋駅を横断する90m部分の区間には、電車線、貨物線など合計17本の線路があり、列車本数も1日1,190本、終電・初電の間は最大210分程度しかとれない過密ダイヤのもとでの工事であった。さらに、利用客があふれんばかりのホーム、跨線橋などがあり、これら支障物の仮受け、切替えなどはすべて深夜2~3時間で施工するという苦しい工事であった。しかも、施工区域の外周は東武鉄道、西武鉄道、西武百貨店などによりふさがれ、道路から直接出入できなかったため、構外の国鉄用地内に立坑を設け、ここから道路と東武鉄道下を横断して構内作業基地まで延長約60mのトンネルを掘削して工事用運搬路とした。

この運搬路工事と並行して、線路下を掘削するための軌道仮受け工事を施工した。仮受け用工事桁は全数112連、約1,100tに及ぶもので、その敷設作業は昭和46年(1971)2月から6カ月間の連日、1連/1日~2連/3日の施工速度で進め、予定どおり完了した。続いて、線路下に総延長480mのトレンチ(溝)を掘削し、このトレンチ内で深礎工により72基の鋼製橋脚をつくり工事桁の受け台とした。

掘削工事では1次掘削の土留めは矢板工法で、地下2階の2次掘削は1次掘削面から地中連続壁を施工し、これを仮土留めとした。この地中壁施工では、従来の地中壁掘削機を狭隘な地下空間で使用できるよう改良し威力を発揮した。49年12月、営業線直下の地下駅本体工事は無事完了した。請負金は総額20億円で、所長は太田 清から高橋良一に引き継がれ、その後、駅建築仕上げ工事も行い、すべてが完了したのは51年7月であった。

営団地下鉄8号線(有楽町線)池袋駅工区
<東京都>昭和51年7月竣工
発注 日本国有鉄道、東武鉄道
設計 日本国有鉄道、東武鉄道
工事概要 国鉄池袋駅構内/RC造、B2、延長90m、営業線工事桁架設・撤去7m×12連、営業山手線ホーム仮受け新設1,150㎡
東武池袋駅構内/SRC造、B2、軌道仮受け工延長197m、乗降場仮受け新設667㎡
営団地下鉄8号線(有楽町線)池袋駅工区
<東京都>昭和51年7月竣工
発注 日本国有鉄道、東武鉄道
設計 日本国有鉄道、東武鉄道
工事概要 国鉄池袋駅構内/RC造、B2、延長90m、営業線工事桁架設・撤去7m×12連、営業山手線ホーム仮受け新設1,150㎡
東武池袋駅構内/SRC造、B2、軌道仮受け工延長197m、乗降場仮受け新設667㎡

福岡地下鉄1号線天神工区(天神駅)(JV)

福岡市のマヒ寸前であった都市交通に対処するため、地下鉄の建設が昭和50年(1975)11月から始められた。姪浜~博多駅間の1号線11.7㎞(姪浜以西の国鉄唐津線との相互乗入れで運転)と中洲川端~貝塚公園間の2号線5.5㎞で、当社はこのうち1号線天神工区(JV)518mと2号線東公園工区(JV)536mを施工した。

天神工区は福岡市随一の繁華街にあり、市内最大の交通量がある場所である。また天神駅は、地下1階が駅舎設備、コンコース、出改札口、地下2階がプラットホームとなっているが、地下1階中央で天神地下街(当社JV施工)とクロスし、周辺のビルと計8カ所で接続するという施工には大変厄介な条件が重なっていた。さらに、施工区域の沿道には古いビルや基礎の浅いビルが多く、また施工地盤は透水性の大きい砂質土で地下水位も高いため、掘削に伴う地下水位の低下や周辺地盤の沈下を防止することが強く要請された。

このため、土留壁は遮水性の高い地中連続壁工法を採用し、ケリー掘削機3台を投入して約2万㎡に及ぶ地中連続壁を約4カ月の昼夜兼行で施工した。また、施工中に交通に支障のないよう、作業基地を道路中央部の地下に設けて泥水製造設備等の仮設備を収納した。こうして掘削工事は、地中連続壁が所期の遮水効果を発揮し、外部の地下水位をほとんど変化させることなく、建物の沈下や傾斜もなく無事完了した。また、近接する福岡銀行の地下にある音楽殿堂に地下鉄の振動が伝わらないよう、土留地中壁と躯体の間にウレタン防振壁を設置したことも当工事の特色の一つであった。

土木工事は順調に進行し、40カ月工程を36カ月に短縮して54年8月竣工、続いて駅建築仕上げ工事も施工したが、この建築仕上げのグレードは高く、プラットホームの電車走行部壁まで全面大理石を使用し、日本の地下鉄駅には、当時他に例のない豪華さであった。施工は当社(幹事会社)と若築建設とのJVで、請負金は土木、建築工事合わせて49億7,498万円、所長は白神 稔であった。

福岡地下鉄1号線天神工区(天神駅)(JV)
<福岡県>昭和55年9月竣工
発注 福岡市
設計 福岡市
工事概要 土木工事/オープンカット工法、工区延長518m、掘削土量15万7,750㎥、躯体コンクリート量2万9,935㎥、鉄筋3,683t
建築工事/駅部(2層、延1万926㎡)、コンコース(幅員20m、長さ490m)、プラットホーム(島式、幅員10m、長さ135m)
福岡地下鉄1号線天神工区(天神駅)(JV)
<福岡県>昭和55年9月竣工
発注 福岡市
設計 福岡市
工事概要 土木工事/オープンカット工法、工区延長518m、掘削土量15万7,750㎥、躯体コンクリート量2万9,935㎥、鉄筋3,683t
建築工事/駅部(2層、延1万926㎡)、コンコース(幅員20m、長さ490m)、プラットホーム(島式、幅員10m、長さ135m)

進む下水道の整備

わが国の下水道{}の整備は現在でも著しく立ち遅れているが、昭和47年度(1972年度)末当時の普及率は18%にすぎなかった。主要都市の状況をみても、欧米先進諸国の主要都市の多くが当時すでに100%またはこれに近い普及率を示していたのに対し、同年度、東京都区部で53%、大阪市は82%、京都市は46%とかなり低い普及率にとどまっていた。

こうした低い下水道の普及率を飛躍的に高め、各都道府県が下水道の整備をより一層速やかに拡充・強化できるよう、地方公共団体の支援組織として下水道事業センターが設立されたのは47年11月のことであった。50年にはこれが日本下水道事業団に改組され、下水道整備の推進に大きく寄与した。

折から第3次下水道整備5カ年計画(46~50年)が実施中であったが、51年度からは新たに第4次下水道整備5カ年計画が発足、投資も前計画の2.8倍を超え、とくに流域下水道事業と都市下水路は3倍以上の伸びをみせ、特定環境保全公共下水道も第4次計画で初めて登場した。日本経済が高度成長から安定成長に転じていたなかにあって、社会資本整備の重点分野として下水道事業への投資は大幅に増加し、下水道普及率は年1.4~1.5%程度で着実に上昇していった。

ちなみに、下水処理場の建設は数期にわたって段階的に工事が進められることが多く、大きい処理場では5~6年かかってようやく完成し、完成後も多くは増設工事が続く。40年代後半から50年代初めにかけ、当社が建設した大規模な下水処理場、ポンプ場、下水管渠は以下のとおりである。

●下水処理場

<東京>

日本下水道事業団東京都森ケ崎処理場(東)、日本下水道事業団江戸川第二終末処理場(JV)

<大阪>

大阪府中央処理場・同川俣処理場

<その他>

日本下水道事業団丸亀市終末処理場(香川)、千葉県印旛沼流域下水道花見川終末処理場(JV)、金沢市東力処理場(JV)、八戸市東部終末処理場、京都市石田処理場、姫路市中部処理場

●ポンプ場

東京都西小松川ポンプ所、日本下水道事業団丸亀市城西ポンプ場

●下水管渠

東京都西小松川幹線その2、豊田市梅坪雨水1号幹線、東京都古川幹線(その7)、大阪府北部流域下水道茨木箕面幹線(第3工区)

注 下水道:下水道は、①公共下水道、②流域下水道、③都市下水路に大別される。さらに公共下水道には、市街地の汚水・雨水を排除する公共下水道、工場排水を排除する特定公共下水道、農山漁村・湖沼周辺の汚水を排除する特定環境保全公共下水道の3種がある。ちなみに、流域下水道は二つ以上の市町村の区域における汚水・雨水を排除し、都市下水路は市街地の雨水を排除するものである。

大阪府川俣処理場曝気槽、最終沈澱池その他
<大阪府>昭和50年6月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
大阪府川俣処理場曝気槽、最終沈澱池その他
<大阪府>昭和50年6月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府

東京都森ケ崎処理場(東)

羽田空港北側にある東京湾埋立地、昭和島の一角に建設された東京都森ケ崎処理場は、東京都の下水処理計画面積の4分の1の区域をカバーし、東京では最大、完成すると東洋一の規模になる処理場であった。京浜運河を隔てて東西2カ所に分かれており、すでに西処理場は完成、使用されていたが、この東処理場を含め全施設の完成は昭和60年(1985)であった。

50年11月着工した当工事は、東処理場の第一沈澱池を主体とする一連の工事で、沈澱池、曝気槽など処理施設の躯体は221m×108m×10.3m(高さ)の2層式半地下構造で、一部2階には汚水の滞水、通水部、1階に機械、電気設備室や管理上の通路等があった。

当工事の特色である大規模なコンクリート工事では、打設するコンクリート量が11万2,000㎥、1回の打設量が1,500㎥、型枠も20万㎡に及ぶもので、底版では2.5~3.0mと厚いマスコンクリートとなるため、3層に分けて打設した。

施工区域内の地下を国鉄貨物線トンネルが縦断していたが、掘削によるトンネルの浮上がりが懸念され、これに対しウエルポイントによる地下水の低下、掘削範囲の分割施工、アースアンカー工法等を駆使し、また長期にわたるトンネル内の精密な動態観測をもってこれを防いだ。また、羽田~浜松町間のモノレールの橋脚部も掘削による影響が心配されたが、これも観測を入念に行った結果、事なきを得た。

さらに、現場は羽田空港の滑走路延長線上に位置しているため高度制限区域内で、とくにクレーン作業では細心の注意を払った。その徹底した安全管理の成果は、31カ月、120万時間に及ぶ無災害記録の樹立となり、53年労働大臣優良賞を受賞した。請負金は64億6,351万円、所長は藤井 実である。

東京都森ケ崎処理場(東)
<東京都>昭和53年7月竣工
発注 日本下水道事業団
設計 東京都
工事概要 下水処理場/第一沈澱池(2層式)221m×108m×高さ10.3m、掘削土量23万㎥、PC杭(直径60㎝)1,156本、リバース杭(直径1.2~1.8m)680本、鉄筋1万4,000t、型枠20万㎥、コンクリート量11万2,000㎥
(写真点線部分が当社工区)
東京都森ケ崎処理場(東)
<東京都>昭和53年7月竣工
発注 日本下水道事業団
設計 東京都
工事概要 下水処理場/第一沈澱池(2層式)221m×108m×高さ10.3m、掘削土量23万㎥、PC杭(直径60㎝)1,156本、リバース杭(直径1.2~1.8m)680本、鉄筋1万4,000t、型枠20万㎥、コンクリート量11万2,000㎥
(写真点線部分が当社工区)

大阪市天王寺~弁天幹線下水管渠(第3工区)

大阪上町台地東側から平野川までの地域でたびたび起こる浸水被害に対処する事業として、弁天抽水所(ポンプ所)とともに天王寺~弁天幹線下水管渠が計画され、昭和48年(1973)工事がスタートした。この事業によって流量の小さい平野川に並行して“地下河川”がつくられ、雨水は流量の大きい大川(旧淀川)に直接流すことができるようになった。

下水管渠は延長6.9㎞、これを6工区に分け、当社は第3工区、東成区中道から生野区鶴橋までの延長1,380mを担当した。工事は全線シールドで掘り、51年11月にスタートした当社工区は土圧バランス式シールド工法を採用した。このタイプのシールドは当時まだ施工実績が少なく、直径6mを超えるのは当工事が最初のことであった。また、工区の約半分の700mが4.5mという浅い土被り、付近が軟弱地盤という困難な地盤条件での施工であり、さらに近鉄大阪線の橋台に近接し、地下鉄千日前線の上を通る区間であった。このため薬液注入やBH杭で防護工を施し、中道立坑からの発進部には凍結工法を用いるなど万全の対策を講じ、工事は56年10月完成した。請負金は56億4,032万円、所長は伊藤住吉であった。

57年5月、弁天抽水所で通水式が行われ、8年半の歳月と460億円、延80万人の労力を投入した天王寺~弁天幹線はここに完成した。なお、当社工区を含む天王寺~弁天幹線建設事業には57年度土木学会技術賞が授与され、また当工区施工に対しては57年度土木学会関西支部技術賞が授与された。

大阪市天王寺~弁天幹線下水管渠(第3工区)
<大阪府>昭和56年10月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 発進立杭/8.3m×22.9m×深さ20.0m、地中連続壁1,950㎡
シールド/土圧バランス式シールド、マシン外径6.75m、工区延長1,380m シールド防護工/薬液注入1,986万ℓ、凍結工380㎥ほか
大阪市天王寺~弁天幹線下水管渠(第3工区)
<大阪府>昭和56年10月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 発進立杭/8.3m×22.9m×深さ20.0m、地中連続壁1,950㎡
シールド/土圧バランス式シールド、マシン外径6.75m、工区延長1,380m シールド防護工/薬液注入1,986万ℓ、凍結工380㎥ほか

第1次ゴルフブーム

当時の余暇活動の傾向を経済企画庁の調査でみると、独身サラリーマン・OLのレジャー活動で増加傾向にあったのは、ドライブ、観光旅行、ゴルフ、観劇、寄席などであり、このうちゴルフは昭和42年(1967)以来ずっと上昇傾向にあった。こうした傾向とともにゴルフ場も増え続け、自治省調べでは47年2月に620カ所であったものが、50年3月には倍近い1,139カ所に増加している。いわゆる第1次ゴルフブームである。

当社の受注したゴルフ場造成工事も、47~51年の5年間で受注総額は400億円以上にのぼった。しかし石油危機後、ゴルフ場の建設ブームはいっきょに冷え込んだ。この時期の当社施工の代表的なゴルフ場は以下のとおりである。

<46年>

宮島カントリークラブ志和コース(現・宮島志和カンツリー倶楽部)

<47年>

今治カントリークラブ朝倉コース(現・今治カントリー倶楽部)、信州塩嶺高原ゴルフ場(現・信州塩嶺高原カントリークラブ)

<48年>

錦山カントリークラブ(高知)、児玉ゴルフ場(現・こだまゴルフクラブ)(埼玉)

<49年>

西宮グリーンカントリークラブ(現・西宮グリーンカントリー倶楽部)、TBS苫小牧カントリークラブ、亀岡カントリークラブ

<50年>

夜須高原カントリークラブ(福岡)、岐阜本巣カントリークラブ、六甲国際ゴルフ場(現・六甲国際ゴルフ倶楽部)、京都カントリークラブ(現・京都カントリー倶楽部)(福岡)、大平台カントリークラブ(栃木)、岡山御津カントリークラブ、鹿沼国際カントリークラブ(現・南摩城カントリークラブ)(栃木)、大福岡ゴルフ場(現・筑紫ヶ丘ゴルフクラブ)(福岡)

<51年>

三原京覧カントリークラブ(広島)、名張石橋ゴルフ倶楽部(現・桔梗ケ丘ゴルフコース)、東広島カントリークラブ、山東カントリークラブ(現・山東カントリー倶楽部)(兵庫)、菊川カントリークラブ(静岡)、阿蘇ハイランドゴルフコース

<52年>

山陽シーサイドゴルフ場(JV)(現・山陽グリーンゴルフコース)(山口)、松山カントリークラブ五明・横山城コース、武雄嬉野国際カントリークラブ(現・武雄・嬉野カントリークラブ)(佐賀)、総成カントリー倶楽部(増設)(千葉)

<53年>

ダンロップゴルフコース(兵庫)、グリーンエースゴルフ場(現・グリーンエースカントリークラブ)(兵庫)、いずも大社カントリークラブ

信州塩嶺高原ゴルフ場(現・信州塩嶺高原カントリークラブ)
<長野県>昭和47年11月竣工
発注 信州塩嶺高原開発
設計 コース/上田 治(18ホール)、当社(9ホール) クラブハウス/当社
信州塩嶺高原ゴルフ場(現・信州塩嶺高原カントリークラブ)
<長野県>昭和47年11月竣工
発注 信州塩嶺高原開発
設計 コース/上田 治(18ホール)、当社(9ホール) クラブハウス/当社
ダンロップゴルフコース
<兵庫県>昭和53年6月竣工
発注 柏泉グリーン開発
設計 コース・クラブハウス/当社
ダンロップゴルフコース
<兵庫県>昭和53年6月竣工
発注 柏泉グリーン開発
設計 コース・クラブハウス/当社
大平台カントリークラブ
<栃木県>昭和50年7月竣工
発注 クラレ不動産
設計 コース/佐藤 昌(都市計画研究所) クラブハウス/翼建築設計事務所
大平台カントリークラブ
<栃木県>昭和50年7月竣工
発注 クラレ不動産
設計 コース/佐藤 昌(都市計画研究所) クラブハウス/翼建築設計事務所
グリーンエースゴルフ場(現・グリーンエースカントリークラブ)
<兵庫県>昭和53年8月竣工
発注 日本グリーン開発
設計 コース/大橋剛吉 クラブハウス/当社
グリーンエースゴルフ場(現・グリーンエースカントリークラブ)
<兵庫県>昭和53年8月竣工
発注 日本グリーン開発
設計 コース/大橋剛吉 クラブハウス/当社
六甲国際ゴルフ場(現・六甲国際ゴルフ倶楽部
<兵庫県>昭和50年3月竣工
発注 伊藤忠商事
設計 コース/加藤福一 クラブハウス/大丸建築設計事務所
六甲国際ゴルフ場(現・六甲国際ゴルフ倶楽部
<兵庫県>昭和50年3月竣工
発注 伊藤忠商事
設計 コース/加藤福一 クラブハウス/大丸建築設計事務所

ニュータウンの建設

昭和40年代に入り、公的機関、民間による住宅・宅地の供給はともに著しく増加したが、40年代後半になると地価の高騰や大規模団地開発にあたり必要とされる水資源の確保、大量輸送機関の建設等が円滑に進まず、さまざまな宅地供給への制約要因が顕在化してきた。しかし、根強い宅地需要はとくに三大都市圏で著しく、46年(1971)~50年の実績では、全国の宅地供給実績6万7,600㏊のうち、三大都市圏は3万2,400㏊と約48%を占めていた。

ところで、千里(15万人、開発済み)、多摩(41万人)、泉北(18万人)、北摂(13万人)の各ニュータウンは公的機関によるわが国の当時の代表的なニュータウンであるが、供給主体別にみると、46~50年では公的機関約17%、区画整理事業によるもの約25%、民間デベロッパー等が約56%と民間による供給が半数を超えた。また、この時期、三大都市圏の宅地では外延化(ドーナツ化現象)が進み、そのほとんどが20~30㎞圏に集中し、とくに首都圏ではさらに外延部である40~50㎞圏の立地も目立ってきた。

当社の宅地造成工事も、この時期、三大都市圏から広島、九州各県、北海道にまで広がっていった。そのうち、大型宅地造成工事を地域別に一覧すると以下のようになる。

<兵庫>

クラレ不動産宝塚中山台ニュータウン、日生鈴蘭台ニュータウン、阪急日生ニュータウン、神戸市須磨ニュータウン落合団地、兵庫県北摂ニュータウン南地区

<奈良>

西大和開発西大和ニュータウン、伊藤忠生駒イトーピア、東急土地開発あやめ池宅地、近鉄不動産真弓住宅地(JV)

<その他の西日本>

日生不動産岡崎滝団地(愛知県)、デベロッパー三信八幡宅地(滋賀県)、東洋不動産紀の川東洋台宅地(和歌山県)、近鉄不動産三滝台宅地(三重県)、近畿日本鉄道桔梗が丘住宅地(三重県)、広島県廿日市地区住宅団地(JV)、ハイビレッジ観光熊野皇帝ハイツ(広島県)、栄泉興産熊本泉ケ丘住宅地(熊本県)、丸善石油不動産日豊八景山ニュータウン(JV)(福岡県)

<東日本>

大林不動産宇都宮長岡(栃木県)、佐倉市臼井駅南土地区画整理組合事業(千葉県)、高野観光開発岩見沢西ニュータウン(北海道)、大林不動産湘南桂台(神奈川県)、成瀬土地区画整埋事業(東京都)

日生不動産岡崎滝団地
<愛知県>昭和49年3月竣工
発注 日生不動産
設計 当社
日生不動産岡崎滝団地
<愛知県>昭和49年3月竣工
発注 日生不動産
設計 当社

大林不動産湘南桂台

湘南桂台の宅地造成は大林不動産(旧・浪速土地)が事業主として企画、当社が設計・施工を担当し、大林道路が道路を舗装、一部に大林ハウジングが住宅を建設した、文字どおり“大林グループ”の総力を結集しての事業であった。

東海道線大船駅から東方3.5㎞、京浜東北線(根岸線)本郷台駅から南東1.5㎞の高台に位置し、敷地面積110㏊のニュータウンの造成工事は、第1次工事が昭和46年(1971)3月まで、続いて第2次工事は47年7月から始まり、56年3月に完成した。

当工事は、横浜市においては初の民間デベロッパーによる超大型造成工事であったため、監督官庁で注目の的となり、県下では初の調整池{}の築造も義務づけられた。切盛土量700万㎥に大型重機械を投入し、盛土では当時日本に数台という自走式コンパクターで入念に転圧を施した。排水は雨水、汚水の分流式となっており、延長9万mの排水管を埋設した。宅地内擁壁は大谷石積みとして敷地全体にあたたかさを感じさせ、その面積は9万2,000㎡、外周の擁壁は5万2,000㎡の間知ブロック積みとして重厚な安定感をもたせている。

第2次工事では設計上も第1次工事の教訓を生かして種々の新機軸を取り入れていた。住宅地内を静かな環境に保つため、道路をループさせて通過交通を極力減らすようにし、中央に自然の地形を利用した1万2,000㎡の公園を設けるとともに、各所に小公園を設け、それを有機的に結ぶ全長1,200mの歩行者専用道路を通って公園、ショッピング等に行けるよう配慮した。

こうしてじつに着工以来13年8カ月という長い年月を経て第1次、第2次の全工事は完成した。労働延人員48万7,500人、労働延時間は390万時間にも達し、全工期無災害という金字塔を打ち立て、53年労働大臣進歩賞の栄誉に輝いた。当住宅地には、イトーヨーカドーを中心としたコミュニティセンター、中学校1校、小学校2校、11カ所の児童公園、少年野球場、花壇を備えた歩行者専用の緑道など、“ゆとりを形にした町”に約1万人の人々が独立家屋2,669戸、4~5階の集合住宅32棟(679戸)で生活を始め、最初の入居が始まってからはや20年がたつ。請負金は第1次、第2次合計で112億2,700万円、所長は小川 要である。なお、60年代にも第4次造成工事(第3次は未着工)を行った。

注 調整池:山林を開発することによって、降雨時に雨水が急激に流れ出し下流の河川が氾濫するのを防ぐため、水を一時湛水させて、徐々に放流していく池。

大林不動産湘南桂台
<神奈川県>昭和46年3月竣工(第1次)
昭和56年3月竣工(第2次)
発注 大林不動産
設計 大芝土木設計
工事概要 第1次/造成面積39㏊、切盛土量700万㎥、分譲区画1,200、計画人口4,000人
第2次/造成面積72㏊、切盛土量500万㎥、分譲区画2,250、計画人口8,000人
(写真は昭和54年撮影)
大林不動産湘南桂台
<神奈川県>昭和46年3月竣工(第1次)
昭和56年3月竣工(第2次)
発注 大林不動産
設計 大芝土木設計
工事概要 第1次/造成面積39㏊、切盛土量700万㎥、分譲区画1,200、計画人口4,000人
第2次/造成面積72㏊、切盛土量500万㎥、分譲区画2,250、計画人口8,000人
(写真は昭和54年撮影)

阪急日生ニュータウン

阪急日生ニュータウンは、兵庫県川西市から猪名川町にまたがる北摂丘陵地帯に、面積360㏊、計画人口3万人に及ぶ民間としては異例の一大ニュータウンを開発するものである。

事業主は日本生命、販売は新星和不動産であるが、当社はこの計画に初期から参画し、パイロットプランの作成から実施設計や許認可業務まで施主と共同で行った。

第1次地域として、昭和45年(1970)5月から255㏊の造成工事に着手した。この丘陵地は谷部の浸蝕が深く、また独立した山もあり、約1,400万㎥の大量の切盛土を行う必要があった。土工事の最盛期であった40年代後半には、40~70tのモータスクレーパ30台を主力にして、運土量は日量3万㎥に及んだ。

第1次地域には、戸建住宅用地約4,500区画、集合住宅約1,000戸分の宅地と、小学校2校、中学校1校(平成3年現在未開校)、調整池2カ所(計10万t)や歩行者専用道など公的用地とショッピングセンター3カ所を含んでいる。販売は51年4月から開始され、平成3年まで3,500区画を販売、約1万2,000人の居住をみている。この間、当社の施工で能勢電鉄日生線2.7㎞を敷設し、53年12月に日生中央駅がオープンした。民間のニュータウンのために鉄道が敷設されたのは大変珍しい例である。ちなみに、日生線の請負金は約40億円であった。

当住宅地開発事業について、62年6月、兵庫県から良質な宅地として「緑のまちなみ賞」が授与されたが、この開発事業のうち第1次地域の工事は平成6年3月をもって完了する予定である。総請負金は390億円にのぼる見込みで、所長は当初10年が大北五郎、続いて十河信正、竹内忠正と引き継がれている。

阪急日生ニュータウン
<兵庫県>継続工事(平成6年3月1次地域完成予定)
発注 日本生命
設計 日本生命、新星開発、当社
工事概要 1次地域造成面積255㏊、切盛土量1,400万㎥、戸建住宅4,500区画、集合住宅1,000戸
(写真は昭和52年撮影)
阪急日生ニュータウン
<兵庫県>継続工事(平成6年3月1次地域完成予定)
発注 日本生命
設計 日本生命、新星開発、当社
工事概要 1次地域造成面積255㏊、切盛土量1,400万㎥、戸建住宅4,500区画、集合住宅1,000戸
(写真は昭和52年撮影)

成瀬土地区画整理事業

当事業のうち第1弾92.2㏊の開発は昭和45年(1970)4月~49年9月に行った。49年に完了をみた成瀬土地区画整理事業に続いて、その後、同南土地区画整理事業(99.9㏊)、同中央土地区画整理事業(23.2㏊)、同西土地区画整理事業(15.6㏊)と開発地を次々と広げ、ほかに三輪土地区画整理事業(71.4㏊)や高ケ坂土地区画整理事業(6.2㏊)など周辺での大規模な事業も実施された。

この間、当社は、都営成瀬団地造成工事、上谷戸土地区画整理事業の工事など、他の多くの宅地造成工事(官民合わせて66.8㏊)を実施、これと並行してJR横浜線成瀬駅工事や各開発地区を結ぶ都市計画道路、橋梁工事などにも携わり、機能的かつ快適な都市環境整備の一翼を担い、常に良質な宅地開発の造成に努力し続け、東京のベッドタウンとしての町田市の総合的な街づくりに大いに寄与した。また、22年間死亡事故を1件も出さず、54年9月より13年間386万時間以上の無災害記録を樹立したことは特記すべきことである。

平成3年9月には、同7年完成を目標に新たに開発される成瀬東土地区画整理事業13.2㏊の工事に着手した。今回の開発地は、緑の豊富な町とするため開発面積の27.4%の緑地を確保し、東南地区境に幅20m、長さ700mの現況林を保存するなど、緑のネットワークを形成するよう計画された宅地開発となる予定である。なお、成瀬南土地区画整理事業を青木建設と地区別分担施工した以外はほとんど当社単独施工で、請負金は平成3年度現在までで447億円で、今後も相当の工事が予定されている。所長は大塚 穰から江原豊彦へと引き継がれている。

成瀬土地区画整理事業
<東京都>昭和49年9月竣工
発注 成瀬土地区画整理組合
設計 オオバ
工事概要 造成面積92万1,830㎡、切盛土量32万㎥、石積工4万5,000㎡、法面緑化工5万7,000㎡、排水工事一式、街路築造工事、造園植栽工事、防災工事ほか
(写真は昭和49年11月撮影)
成瀬土地区画整理事業
<東京都>昭和49年9月竣工
発注 成瀬土地区画整理組合
設計 オオバ
工事概要 造成面積92万1,830㎡、切盛土量32万㎥、石積工4万5,000㎡、法面緑化工5万7,000㎡、排水工事一式、街路築造工事、造園植栽工事、防災工事ほか
(写真は昭和49年11月撮影)

博覧会始末記

戦後、日本で開催された万国博覧会は、一般博である日本万国博覧会(昭和45年3~9月)、特別博である沖縄国際海洋博覧会(50年7月~51年1月)、科学万博-つくば'85(60年3~9月)、国際花と緑の博覧会(平成2年4~9月)があった。そして、いわゆる地方博も、56年に開催されたポートピア'81を先鞭として、その後、63年から平成元年にかけてアジア太平洋博、横浜博、ならシルクロード博、名古屋デザイン博、さいたま博など花盛りとなった。

エッフェル塔や水晶宮がパリ万博やロンドン万博のとき建設されたように、万国博覧会ではいつも建築技術の多くの夢が試みられてきた。

大阪万博のときもこれは同様であった。

会場は、建築技術のコンクールの様相を呈し、各アーキテクトは万博建築に未来都市の構想をかけ、その技術を競った。その代表がお祭り広場に建設された大屋根のスペース・フレーム構造であり、アメリカ館に採用された空気膜構造であった。当社はお祭り広場を3社JVの幹事会社として、またアメリカ館は単独でその施工に当たったが、前者では世界の建築史上でも例がない大規模な大屋根架構をリフトアップ工法で行い注目を集めた。また、当時世界最大のアメリカ館のエアドームの施工に対しては、日本の建設業者として初めて米国建築学会賞が授与された。大阪万博でのこうした建築技術は、現在の建築に直結し展開をみせているという点で、画期的なものであった。

下写真は、沖縄海洋博、つくば科学博、花博の各々の博覧会での当社の施工物(大阪万博の写真は本文189ページに掲載)であるが、パビリオンの多くは博覧会終了後取り壊される運命にあり、建設業者はつい数カ月前造ったものを今度は解体するという工事に取りかかる。以下は、大阪万博会場施設の撤収工事についての『マンスリー大林』45年11月号の記事の一部である。

◇ ◇ ◇

「……開幕以前の建設ピークには約30職種にわたる作業員が2万人ほど活躍していたが、この撤収作戦には、トビ工、斫り工、ガス工、重機工などで、せいぜい5,000人前後。現在のところ決定している当社担当の解体工事は、アメリカ、ギリシャ、キューバ、ハワイ州、みどり、日立グループ、ガスパビリオン、せんい、松下、タイの計10館。

どのパビリオンをとっても撤収作業にはそれなりの苦労をしているが、今のところは爆破・レーザー光線・凍結法などの“新しい試み”は現われていない。コンクリートの床は砕いて深さ1.5m以上に埋め込み、その上に良質な土を盛ること、爆破工法は危険だから使わないこと、破壊した材料はすべて会場外に運び出すこと……と、協会が示した撤収工事の基準がなかなか厳しいためだ。あるパビリオンではあらかじめ爆薬を入れる穴を40カ所ほどあけておいたのだが、結局爆破作戦はあきらめたという。しかしここは建築工学にとって実験材料の宝庫といえる。たとえばパビリオンに火をつけ、鉄材の強度、新建材からの煙の出方・回り方の研究もできるし、地震を想定しての強度実験もできる。またエアドームがどのくらい実用に耐えうるかを試みるかっこうの場でもある。実際各方面からもこれらの諸実験の申し出は多く、ある程度の制限はあるが実施される見通しだ。

さて、この“史上最大の撤収作戦”ではほとんどのパビリオンが解体組に属するわけだが、(中略)第2の人生(館生?)を踏み出す幸運なパビリオンもある。その移転先を拾い上げてみると、オーストラリア館の四日市市、スカンジナビア館の北海道・石狩町、ケベック州館の北海道・日高市、タカラビューティリオンの奈良市など11館が決まっている。またここを永住の地としたものには万国博ホール、美術館、日本庭園、日本館、日本民芸館、鉄鋼館、お祭り広場(太陽の塔)、エキスポランドがある。

国際博覧会条約と日本万国博一般規則では、原則として会場の展示物は1カ月以内、パビリオンは6カ月以内に参加者の負担で撤去することが定められているから、各館とも展示品の始末は入札、寄付、その他の方法により一応メドがついている。(中略)チェコスロバキア館の入口横にあった“STONE AND FIRE”という石の彫刻を思い出していただきたい。実はこの彫刻、万博終了直後に当社と大阪市との間で入札が行われた結果、330万円で当社のものとなった。やがて新本店ビル完成のあかつきには、そこに飾られるであろうが、それまではとりあえず大阪機械工場で保管されることになっている。……」

◇ ◇ ◇

こうして現在、大阪万博会場跡地は「万博記念公園」として大阪市民の憩いの場となっている。一方、沖縄海洋博、花博の跡地も公園として整備されたが、前者は「沖縄海洋博記念公園」として整備され、水族館、イルカ館、海上都市「アクアポリス」、熱帯植物園(拡充)、沖縄館各施設は平成4年末現在も健在である。また、後者では大温室、いのちの塔、山のエリア、花の谷、大池噴水、国際展示場(半分をスポーツ施設として使用)がそのまま残され「花博記念鶴見緑地公園」として整備された。国際展示場の残り半分(花の展示場)、松下記念館(国際陳列館)、迎賓館(国際技術環境センター)、アミューズメントゾーン(乗馬園)が平成5年には整備が完了してオープンする予定である(カッコ内は新施設名)。

また、つくば科学博の会場跡地は筑波西部工業団地として整備され、当社はここで、保土谷化学工業、東ソーの各研究所建設に携わった。科学博の施設として残されたものは、つくばエキスポセンターと団地の一角に公園(元エキスポパーク)、そして万博協会本部は改修され、ある企業の迎賓館として使用されている。

◇ ◇ ◇

地方博では、ポートピア'81会場跡地のポートアイランド高層集合住宅提案競技で当社グループ案が当選し、共同事業主としてポートピアプラザの建設事業を行った。また、アジア太平洋博が行われたシーサイドももちでは九州初の高層RC集合住宅・ハイアット・レジデンシャルスウィート・福岡を施工するとともに、福岡市主催の福岡リサーチパーク開発計画公募で見事当選した松下電器産業案の設計業務にも参画した。

さらに、横浜博跡地「みなとみらい21」で当社は、日本一の高さとなる25街区ランドマークタワー(JV)と三菱重工ツインタワー1期棟(JV)その他、土木工事の施工に当たっている。

沖縄海洋博・海洋みどり館(JV)
沖縄海洋博・海洋みどり館(JV)
つくば科学博・集英社館
つくば科学博・集英社館
つくば科学博・つくばみどり館(JV)
つくば科学博・つくばみどり館(JV)
花博・いのちの塔
花博・いのちの塔
花博・メインホール'90(JV)
花博・メインホール'90(JV)
花博・大輪会水のファンタジアム(JV)
花博・大輪会水のファンタジアム(JV)

大規模地下街の時代

新しい都市空間を求めて

現存する日本最古の地下街は昭和7年(1932)に東京の地下鉄銀座線神田駅に開設された須田町ストアといわれている。戦後、30年代の高度経済成長以降、こうした地下街は地下鉄、駅前広場、地下駐車場の整備に伴って各地に広がり、しだいに面的広がりを占めるようになっていった。

40年代に当社の施工した地下街としては、戦前のものを3倍(30年代に第1期)に広げた大阪ウメダ地下センター、また大阪ミナミ地下センター(虹のまち)、東京駅八重洲地下街などがあった。しかし、47年の大阪千日デパート火災、55年の静岡駅前ゴールデン街のガス爆発事故により、巨大化、迷路化した地下街に問題が投げかけられ、その建設は一時途絶えた。

その後、ターミナル駅周辺の交通混雑緩和や地価高騰による都心地下空間の高度利用などが再び要請されるようになり、一部では地下街の新設や拡張が再開されるまでになった。

現在、日本の大都市の商業地を代表する大規模地下街としては、東京駅八重洲地下街(6万9,813㎡)を筆頭に、川崎駅東口地下街アゼリア(他社施工)、横浜駅東口地下街(他社施工)がいずれも6万㎡台の広さをもち最大級のものである。当社施工の地下街の代表的なものは前表のとおりであり、また駅前広場の整備工事の代表的なものとしては、50年代の浜松駅北口広場(JV)、横浜駅東口広場(JV)、仙台駅前広場、そして平成年代に入り、広島駅表口広場などがあげられる。

京都駅前地下街ポルタ(JV)
<京都府>昭和56年3月竣工(土木工事)
昭和55年11月竣工(建築工事)
発注 日本国有鉄道(土木工事)、京都ステーションセンター(建築工事)
設計 日本国有鉄道(土木工事)、鉄道会館(建築工事)
京都駅前地下街ポルタ(JV)
<京都府>昭和56年3月竣工(土木工事)
昭和55年11月竣工(建築工事)
発注 日本国有鉄道(土木工事)、京都ステーションセンター(建築工事)
設計 日本国有鉄道(土木工事)、鉄道会館(建築工事)

天神地下街(JV)

天神地下街は、福岡地下街開発が福岡市の都市計画に基づき建設したもので、福岡一の繁華街である天神1~3丁目に天神公共地下駐車場(地下2階、450台収容)、公共地下道および付属店舗(地下1階、108店舗)など南北約360m、幅43m、深さ21mに及ぶ西日本最大のものであった。床には舗石タイル、煉瓦タイルが敷きつめられ、壁・柱は黒御影石、天井は唐草模様の透かし彫りをあしらったアルキャスト仕上げで、街並は19世紀ヨーロッパの雰囲気に演出され、その豪華さは斯界の注目を集めた。

工事は土木、建築工事とも当社(幹事会社)、鹿島建設、間組の3社JVが担当した。工事区域は福岡市内の昼間人口集中地区で、歩行者や車輌が多いだけでなく路面電車も走っており、沿道には大型ビルや建築後長期間経過したビルが林立し、地下には埋設物が輻輳していた。土質は透水性の大きい粗粒な砂が主であり、地下水は博多湾の海水に連動して塩分を含み、水位は地下5mであった。このため、土留工法にはOWS工法による地下街側壁兼用の地中連続壁工法(壁厚600㎜、深さ25.15m、総面積1万5,965㎡)が用いられた。

構造的特徴は、幹線下水暗渠を工事区域外に移設できないため、上床版コンクリートの一部にこの幹線下水暗渠を新しく抱き込んだかたちであること、側壁が仮設土留壁と兼用であること、中床版と柱がSRC造であること、駐車場がプレキャストのRC床版であることなどがあげられ、施工法では逆巻き工法が採用されるなど、当時としてはかなり斬新なアイデアに満ちたものであった。

昭和48年(1973)5月、工事に着手してすぐに石油危機となり、その資材の調達に苦労したが、掘削土量26万㎥、コンクリート工5万4,400㎥の土木工事のあと建築仕上げ工事を行って、51年8月すべての工事が完成した。請負金は土木工事が45億6,108万円、建築工事が7億3,380万円(設備工事、テナント内装工事は別途)、所長は白神 稔(土木工事)と秋山修蔵(建築工事)であった。

天神地下街(JV)
<福岡県>昭和51年8月竣工
発注 福岡地下街開発
設計 復建エンジニアリング、西日本技術開発、電通(基本構想・基本設計)
工事概要 東西43m、南北360m、SRC造一部RC造およびS造、B3、延3万4,350㎡、掘削土量26万㎥、コンクリート量5万4,400㎥、路面覆工1万8,800㎡
天神地下街(JV)
<福岡県>昭和51年8月竣工
発注 福岡地下街開発
設計 復建エンジニアリング、西日本技術開発、電通(基本構想・基本設計)
工事概要 東西43m、南北360m、SRC造一部RC造およびS造、B3、延3万4,350㎡、掘削土量26万㎥、コンクリート量5万4,400㎥、路面覆工1万8,800㎡

省力化工法が導入されるマンション建築

昭和49年(1974)から50年にかけ不動産業界はかつてない不況に見舞われ、とくにマンション需要での不振は、この直前の48年のマンションブームがうそのような深刻さであった。

しかし、52、53年には都心でのマンション人気によって再びブームとなった。マンション人気の回復は、平均的サラリーマンが都心から通勤に便利な距離に一戸建住宅を取得するのが困難になってきたことと、資材価格が鎮静化してきたため手に入れやすいマンション物件が都心に出回ってきたからであった。

こうしたなかで、マンション建設では徐々にプレハブ化などの省力化の試みがなされてきた。多くのマンションはRC造であるが、そのプレハブ化として30年代後半にPC工法が開発され、続いて40年代に入りHPC工法が開発され普及していった。HPC工法は壁・床にPC板を使用しているが、柱・梁には鉄骨を使用するものである。この工法を導入した当社設計・施工の工事では、京都市住宅供給公社の山科南積立分譲住宅があった。

集合住宅は量産化が可能であり、こうしたプレハブ化は省力化とともに採算性も十分とれる工法と目された。当社はこうした省力化工法としてOVH工法を開発、40年代後半にこれを実際の工事に導入していった。こうしたマンション工事の代表的なものとしては、コープ野村高槻、幕張グリーンハイツ、東レシャルマンコーポ博多、ニチメン今福グランドハイツ、東陽サニーハイツ、コープ野村湘南本郷台、コープ'78大和川などがあった。

また、この時期のマンションは一段と規模が大きくなりグレードが高くなったのが特徴で、49年から54年までに竣工した当社施工の物件のうち、請負金が10億円以上の工事が40件近くにものぼった。この時期の大型集合住宅としては、名古屋・蝶理瑞穂センチュリーマンション、大阪・牧野団地高層住宅(労住まきのハイツ)、同・関目グリーンハイツ、神戸・新長田駅前市街地住宅(新長田駅前ビル)(JV)、大阪市南港住宅第3区(南港中住宅21号棟)、尼崎・立花グリーンハイツ(JV)などがあげられる。

一方、大林不動産の大林フローラシリーズとして、大林フローラ上中里に続いて、大林フローラ薬院、大林フローラ堺、大林フローラ桂台も相次いでこの時期販売されている。当社が初めて手がけたシルバーマンション、宝塚エデンの園(特別養護老人ホーム宝塚栄光園)も54年3月完成した。

大阪牧野団地高層住宅(労住まきのハイツ)
<大阪府>昭和51年3月竣工
発注 大阪労働者住宅生活協同組合
設計 当社
(写真手前4棟が当社施工)
大阪牧野団地高層住宅(労住まきのハイツ)
<大阪府>昭和51年3月竣工
発注 大阪労働者住宅生活協同組合
設計 当社
(写真手前4棟が当社施工)
関目グリーンハイツ
<大阪府>昭和52年3月竣工
発注 東洋不動産
設計 IDE建築事務所
関目グリーンハイツ
<大阪府>昭和52年3月竣工
発注 東洋不動産
設計 IDE建築事務所
新長田駅前市街地住宅(新長田駅前ビル)(JV)
<兵庫県>昭和52年8月竣工
発注 神戸市、日本住宅公団
設計 神戸市、神戸市都市整備公社、日本住宅公団、山下設計
新長田駅前市街地住宅(新長田駅前ビル)(JV)
<兵庫県>昭和52年8月竣工
発注 神戸市、日本住宅公団
設計 神戸市、神戸市都市整備公社、日本住宅公団、山下設計
大阪市南港住宅第3区(南港中住宅21号棟)
<大阪府>昭和54年4月竣工
発注 大阪市
設計 東畑建築事務所
大阪市南港住宅第3区(南港中住宅21号棟)
<大阪府>昭和54年4月竣工
発注 大阪市
設計 東畑建築事務所

コープ野村高槻

コープ野村高槻は5棟、260戸の分譲マンションで、設計と施工にあたっては「生産工程および労務管理が複雑なRC造、SRC造工事を合理化しシステム化する」ため開発されたOVH工法が採用された。OはOBAYASHI(大林)、VはVARTICAL(垂直)、HはHORIZONTAL(水平)を意味し、建物の1階分を柱、壁、梁等の垂直部分と床版等の水平部分に分け、まず垂直部分の型枠、鉄筋コンクリート工事を施工し、次いで水平部分の型枠、鉄筋コンクリート工事に移り、この垂直、水平工事を逐次システマティックに繰り返す工法である。そしてV工程においてはAPS大型型枠{注1}、梁間方向の梁の地上組立て、スパイラルフープ{注2}およびスタラップ、配管ダクト壁のPC板を採用し、H工程ではオムニアスラブ{注3}、格子鉄筋、バルコニー床のPC板を使用した。また、サッシュの先付け工法、コンクリート床の直仕上げ、浴室、流しのユニット化等をこのシステムに組み込んだ。

この2年前、当社の東京・富士見台寮でAPSによるOVH工法を初めて採用したが、昭和48年(1973)5月スタートした当工事では、全体計画とともに精度や能率の面で数段の発展をみせていた。また、オムニア版についてもRC造の床に使用したのはわが国で当工事が初めてであった。その後、当工法はOPB工法(組立て鉄筋工法)やPC工法など他の工法技術などと適宜有機的に組み合わせ、各々の長所を生かし、短所を補うとともに相乗効果を期待する、設計・施工の一貫システムである「ORC-HHHシステム」へ花開いていった。請負金は16億4,450万円、所長は山田清三郎から三枝繁信に引き継がれ、設計は坂田一男である。

注1 APS大型型枠:特殊な鋼製のたて押さえ材を使用した壁の大型型枠で、設置や取外しがきわめて容易。転用がきくため型枠工事の省力化につながり、当工事では7階建4棟で28回の転用をした。

注2 スパイラルフープ:工場で角形のら旋状に加工した線材で、これを柱(梁)の主筋に取り付けて、エンドレスのフープ(スタラップ)としている。これにより鉄筋の加工、組立てが大幅に省力化される。

注3 オムニアスラブ:工場で製作された特殊PC板であるオムニア版の上に現場打ちコンクリートを打設して構造的に一体化したスラブ。型枠兼構造体であるため、型枠工事、鉄筋工事の省力化になる。

コープ野村高槻
<大阪府>昭和49年10月竣工
発注 野村不動産
設計 当社
工事概要 RC造、7F(1棟4F)、PH付(2棟)、全5棟、総延2万1,609㎡
コープ野村高槻
<大阪府>昭和49年10月竣工
発注 野村不動産
設計 当社
工事概要 RC造、7F(1棟4F)、PH付(2棟)、全5棟、総延2万1,609㎡

京都市山科南積立分譲住宅

京都市住宅供給公社が計画した山科南積立分譲住宅のうち、当社はE、F、Gの3棟の工事を設計・施工で受注し、昭和48年(1973)11月着工した。住宅の戸数は465戸である。当工事は柱以外は梁、壁、床とも工場生産のPC板を用いる完全プレハブ工法であるHPC工法で施工したが、この工法による当社設計・施工の第1号であった。このため本店設計部、設備部、集合住宅部、PC工場と綿密なネットワークを形成して作業を進めた。

PC板は、当社の京都PC工場が製造し、設計・現場施工と当社の一貫作業であったため、毎月各部門の担当者が打合せ会を開催、品質と精度の向上に努めた。また、鉄骨製作では、溶接歪みを考慮して溶接の完了後、各仕口部分の穴あけを行ったため、現場では、リーマー(穴あけ錐)なしで全数本締めボルトをスムーズに施工することができた。

省力化については当時最新鋭の7t吊り走行式タワークレーンが大いに威力を発揮し、当初計画の1階分(16戸)9日のペースを6日に短縮して進めることができた。請負金は32億19万円、所長は河谷繁樹、設計は下河内 勇である。

京都市山科南積立分譲住宅
<京都府>昭和50年7月竣工
発注 京都市住宅供給公社
設計 京都市住宅供給公社、当社
工事概要:HPC造一部SRC造、8~11F、PH2F、3棟(E、F、G棟)、総延4万3,500㎡
(写真手前3棟がE、F、G棟)
京都市山科南積立分譲住宅
<京都府>昭和50年7月竣工
発注 京都市住宅供給公社
設計 京都市住宅供給公社、当社
工事概要:HPC造一部SRC造、8~11F、PH2F、3棟(E、F、G棟)、総延4万3,500㎡
(写真手前3棟がE、F、G棟)

超高煙突の技術を確立

スウェトー工法とリフトアップ工法

スウェトー工法についてはすでに257ページに述べたが、この時期、当社はこの工法の実績を下記のように多く積んでいった。また、超高煙突のフルー(内筒)施工に威力を発揮したリフトアップ工法も、この時期、多く実績を積んでいる。

●スウェトー工法(昭和40年代後半~50年代前半)

<煙突>

日本板硝子四日市工場(三重)、大阪セメント高知工場(高知)、クラレ西条工場(愛媛)、三井アルミニウム工業三池事業所(福岡)、宇部興産伊佐セメント工場(山口)、日本鋼管京浜製鉄所扇島地区(2本)(神奈川)、中国電力下関発電所(山口)、三井石油化学工業千葉工場(千葉)、東京都下水道局砂町処理場(東京)、横浜市環境事業局新保土ケ谷工場(神奈川)、丸住製紙大江工場(愛媛)、電源開発石川石炭火力発電所(沖縄)(61年竣工)、東ソー南陽工場(山口)(平成元年竣工)

<電波塔>

日本電信電話公社(現・NTT)新首里統制無線中継所(沖縄)(56年竣工)

<展望塔>

国際花と緑の博覧会いのちの塔(大阪)(平成元年竣工)(※スリップフォーム工法)

<冷却塔>

三井鉱山コークス工業自然通風式冷却塔(福岡)

<高架水槽>

防衛医科大学所沢給水塔(埼玉)、住友金属工業鹿島製鉄所高架水槽(茨城)、北千葉浄水場高架水槽(千葉)、京浜急行釜利谷高架水槽(神奈川)(58年竣工)、箕面市小野原配水池高架水槽(大阪)(61年竣工)

●煙突内筒(フルー)でのリフトアップ工法(40年代後半~50年代前半)

クラレ西条工場、三井アルミニウム工業三池事業所、中国電力下関発電所、三井石油化学工業千葉工場、東京都下水道局砂町処理場、丸住製紙大江工場、電源開発石川石炭火力発電所(61年竣工)

三井鉱山コークス工業自然通風式冷却塔
<福岡県>昭和51年5月竣工
発注 三井鉱山コークス工業
設計 当社
(写真は工事中)
三井鉱山コークス工業自然通風式冷却塔
<福岡県>昭和51年5月竣工
発注 三井鉱山コークス工業
設計 当社
(写真は工事中)
北千葉浄水場高架水槽
<千葉県>昭和53年9月竣工(高架水槽)
昭和54年8月竣工(浄水場全体)
発注 北千葉広域水道企業団
設計 北千葉広域水道企業団、野村肇一建築設計事務所、パシフィックコンサルタント(高架水槽)
北千葉浄水場高架水槽
<千葉県>昭和53年9月竣工(高架水槽)
昭和54年8月竣工(浄水場全体)
発注 北千葉広域水道企業団
設計 北千葉広域水道企業団、野村肇一建築設計事務所、パシフィックコンサルタント(高架水槽)

中国電力下関発電所(第2期)超高煙突

中国電力下関発電所は当社が第1期工事としてその本館を昭和40年(1965)1月に着手し42年3月に完成させているが、第2期拡張工事では、環境保全への配慮から、RC造では国内最高の200mの煙突を建設することとなった。

当時、超高煙突は鋼製煙突が主流であったが、鉄筋コンクリートの外筒に支持された鋼製内筒を設け、構造体と排煙設備を明確に分離するという新しいタイプの煙突が、性能、経済性および施工性で評価されつつあった。

この工事では、当社独自の、そして得意な工法を一貫して採用した。基礎杭工事ではOWS工法によるウォール ファウンデーション工法、外筒鉄筋コンクリート筒体の施工には、スウェトーシステムによるスリップフォーム工法、さらに内筒の建方にはリフトクライマーによるリフトアップ工法を使用した。これら工法は、この工事を契機にさらに適用範囲を広げていくこととなる。第2期工事は当社(幹事会社)と清水建設のJVであったが、煙突工事はJVから発注され、当社単独で52年3月竣工、請負金は6億4,549万円、煙突を除く第2期工事の請負金は8億4,710万円で、鉄筋、コンクリートは支給であった。JV所長は川村 渉、煙突を担当した特殊工法工事事務所長は脇村典夫である。

中国電力下関発電所(第2期)超高煙突
<山口県>昭和52年3月竣工
発注 中国電力
設計 中国電力
工事概要 外筒/RC造、高さ200m、下部直径25m、上部直径10m、壁厚250~600㎜
内筒/鋼製2本(直径4.75mおよび3.05m)
中国電力下関発電所(第2期)超高煙突
<山口県>昭和52年3月竣工
発注 中国電力
設計 中国電力
工事概要 外筒/RC造、高さ200m、下部直径25m、上部直径10m、壁厚250~600㎜
内筒/鋼製2本(直径4.75mおよび3.05m)

京都御所・迎賓館および米・ソ大使館

京都御所の復原工事は第1次(昭和45年)、第2次(49年)と6年間にわたって行われ、戦争中、空襲による延焼防止対策として主要殿舎間をつなぐ廊下や塀などを撤去していたものを、安政年間造営の規模と様式によって復原し、一部改築した(207ページ参照)。

43年(1968)12月からは迎賓館(赤坂離宮)の改修工事が行われた。当建物は明治42年に完成したバロック様式の建物でベルサイユ宮殿を模したものといわれている。これを国の迎賓館として用いるための大改装工事であった。施工は当社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の5社JVで、改装設計は村野・森建築事務所であった。改装では迎賓館として一流ホテル並みの設備を施すとともに、文化財的価値を保つ格調高いものとすることが要請されたが、改装を要する276室のうち、とくに重要な花鳥の間、朝日の間、彩鸞の間、綾の間、羽衣の間、球戯室の6室については極力原型の保存に努め、ほかは復元よりも居住性に重点をおき近代化が図られた。改装延面積は1万5,355㎡、このほかに和風別館と日本庭園が新たに設けられ、すべての工事の完成は49年3月であった。

この時期、アメリカ大使館とソビエト大使館も建て直された。米ソが激しく対立していたころでもあり、偶然ではあったが、当社が同時に両大使館を施工したのは世間の注目を浴びた。

迎賓館(JV)
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省、村野・森建築事務所
迎賓館(JV)
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省、村野・森建築事務所

アメリカ大使館事務棟

昭和4年(1929)着工、6年に竣工した旧大使館は白亜のスパニッシュスタイルで、当社の代表的な作品であった。このほかにも神戸・名古屋・横浜の各米国領事館、万国博アメリカ館、大使館付属のアパート群など、日本における米国の重要なプロジェクトは、ほとんど当社が手がけてきた。そして新大使館は規模のうえでも、また建物のもつ用途の重要性からみても、米国国務省が日本国内において発注した最大のプロジェクトであり、米国が海外に所有する公館のなかで最大級のものであった。

プロジェクトは2期に分けられ、第1期工事は新大使館が完成するまで臨時に使用される仮大使館の新築で48年8月着工、第2期工事は移転跡地の建物解体、新事務棟の建築および外構工事で、49年7月の着工であった。

旧大使館は米国の建築家H.V.B.モゴニグル氏の基本設計、同じくA.レーモンド氏の実施設計になるもので、45年の歳月に耐えてなお名建築の誉れ高く、東京都民に親しまれてきたものであった。これに対して、新大使館の設計は米国ロサンゼルスのグルーエン設計事務所のC.ペリー氏で、機能性と実用性を主眼とした簡潔なデザインをもって貫かれ、その明快な表現の近代性と機能美は旧建物と全く対照的であった。

工事の特色をあげれば、①設計はすべて米国の標準的な仕様によっており、とくに日本では例外的な硬練り高強度コンクリートを使用したRC造であったこと、②使用材料、設備機器等はコンクリート材料、鉄鋼製品、ガラス等を除きすべて米国産材料、製品を原則とし、注文する際の仕様の検討、施工図の作成等に費やした労力が大きかったこと、③高層部は当初RC造で設計されていたが、耐震強度に問題があったため地下SRC造、地上S造に全面的に変更するよう当社が提案したことなどである。とくに③については、こうした構造上の大きな設計変更が施工者の側からの提案によって行われた点は特筆に値し、この設計変更は東京本社設計部が担当、設計着手より3カ月という短期間に日本建築センターの評定を得て着工することができた。

施工面でも随所に日米の違いが見られた。たとえばコンクリート工事では、乾燥収縮を嫌って低スランプコンクリートを打設したためポンプは使用できずにバケット打ちであったことや、柱・梁の分離打設もその例であった。また設備工事での防排煙方式もその一つで、階段室とエレベータシャフトが加圧防排煙方式という当時日本では認められていない方式となっていた。

工事の主眼は品質管理におかれ、その向上には最大の努力が払われた。こうした努力に対し、とくにC.ペリー氏は「設計者のイメージを上回る作品にしてくれた」と51年8月の竣工に際し最大の賛辞を述べた。請負金は1,382万4,768USドル(邦貨約36億円)、所長は岸人正夫である。

アメリカ大使館事務棟
<東京都>昭和51年8月竣工
発注 米国国務省
設計 意匠設計/グルーエン設計事務所(米国)、構造設計/(低層部)グルーエン設計事務所、(高層部)当社
工事概要 S造およびRC造一部SRC造、B2、11F、延2万3,347㎡
アメリカ大使館事務棟
<東京都>昭和51年8月竣工
発注 米国国務省
設計 意匠設計/グルーエン設計事務所(米国)、構造設計/(低層部)グルーエン設計事務所、(高層部)当社
工事概要 S造およびRC造一部SRC造、B2、11F、延2万3,347㎡

駐日ソビエト大使館(第2期)

期せずしてアメリカ大使館と同時期にソビエト大使館の第2期工事を開始した。8社指名入札で勝ち得た工事で、事務棟1棟(高層部)と代表部棟(低層部)からなる総延1万㎡の建物であった。

昭和50年(1975)2月に着工し、20カ月の契約工期でスタートしたが、当社にとっては馴染みの薄いお国柄とあって、当初は相手の考え方やシステムがよくわからず現場員はとまどいを感じながらの日々であった。しかし、設計が日本の松田平田坂本設計事務所であり、使用材もほとんど日本産のもので、そして何よりも日本人の勤勉さと繊細な神経、優秀な技術が、工程の進捗にしたがって文字どおり“友好的”な環境を作り出し、工事は順調に進んだ。

代表部棟にはボヘミアングラスのシャンデリアが輝き、壁にはユーゴ産の白い大理石、メイン階段のステンドグラスやレセプションルームのモスクワ市街を描いた金属製壁画などはまさに芸術品であったが、一方、事務棟は簡素で合理的に仕上げられ、機能に応じた設計が特徴となっていた。

事務室の天井仕上げがモルタル直塗りコテ押さえのペンキ塗りであったこと、設備が露出配管であったことなど、日本のオフィスビルではあまり見られない点に多少とまどいながらも、工事は工期どおり51年9月末に完成した。「“大林組は一つだけ悪い点がある。それは工事が早すぎることです”とトロヤノフスキー大使が語ったことがうれしく心に残っています」と、所長はこの工事を振り返って語っている。請負金23億5,500万円、所長は五代儀千代美である。

駐日ソビエト大使館(第2期)
<東京都>昭和51年9月竣工
発注 駐日ソ連大使館
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 RC造およびSRC造、B2、2F(代表部棟)および12F(事務棟)、PH付(代表部棟)、延1万㎡
駐日ソビエト大使館(第2期)
<東京都>昭和51年9月竣工
発注 駐日ソ連大使館
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 RC造およびSRC造、B2、2F(代表部棟)および12F(事務棟)、PH付(代表部棟)、延1万㎡

新設ラッシュの医歯系大学・病院

大学の新増設も相次ぐ

日本の医師の数は、昭和46年(1971)には人口10万人当たり128人と報告されている。これを米、ソ、西独並みの150人に引き上げようと、この時期、既設医学部の増員や医歯系大学の新設が急速に進められた。

当社が手がけたこの時期の代表的な医歯系大学および付属病院には、三重大学医学部附属病院(48年4月竣工)、獨協医科大学および付属病院、大阪大学医学部附属病院(第4期)、近畿大学医学部、城西歯科大学付属病院(増築)、日本大学医学部総合建設第2期工事、千葉大学医学部附属病院、浜松医科大学附属病院、防衛医科大学附属病院(JV)、産業医科大学病院(JV)(54年3月竣工)などがあげられる。

このうち、北九州市に建設された産業医科大学は、産業医学水準の向上と産業医学の分野で活躍する医師の確保を目的とした、わが国唯一の、世界でも類のない医科大学であった。また浜松医科大学は、医科単科大学としては戦後、旭川医科大学に次いで全国2番目の国立医科大学で、その付属病院は静岡県下初の国立大学付属病院でもあった。

新設・増設の医歯系大学に加えて、急速な進歩をみせる医療設備の導入や増大する医療需要に応えて医療施設も大型化し、上記の大学付属病院のほか、浴風会病院、結核予防会大阪病院、日本赤十字社医療センター(JV)、宇部興産中央病院(増改築)、福山市市民病院本館、国立循環器病センター、国立職業リハビリテーションセンター、市立伊勢総合病院、国立佐倉病院(国立腎臓移植センター)、公立学校共済組合東海中央病院、東京電力病院(建替え)、香川県立中央病院南病棟、山口赤十字病院、聖隷三方原病院脳卒中センター、神戸市立中央市民病院(JV)などが、50年前半(一部55年竣工)に相次いで建設されていった。なかでも、死亡率の上位2位を占める循環器系の専門センターである国立循環器病センターや高福祉社会を目指す一環として労働省が建設した国立職業リハビリテーションセンター、また、その後大きな問題となってきた老人医療の専門病院・浴風会病院は、大きな期待をもってその完成が注目された工事であった。

一方、わが国の大学進学率は48年に30%台を超え、大学在学者数は10年間でほぼ倍増し、50年には208万8,000人と初めて200万人を超えた。こうした高学歴化に対して、医歯系大学のほかにも大学の新設が続いた。当社が施工した広島修道大学、創価大学(この時期増設工事を行っている)もそうした大学であった。また、大都市での教室増設抑制策に伴い都心部から郊外へ大学の移転も進み、その代表的な施工例として筑波大学人文社会学系棟・人間学系棟および中央図書館、中央大学多摩校地(A工区)(JV)、武蔵野音楽大学教室棟・講堂(バッハザール)などがあげられる。

なお、浴風会病院(52年)、産業医科大学(JV)(55年)、神戸市立中央市民病院(JV)(57年)、中央大学多摩校地(A工区)(JV)(54年)、筑波大学中央図書館(55年)、武蔵野音楽学園バッハザール(56年)はBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

中央大学多摩校地(A工区)(JV)
<東京都>昭和52年5月竣工
発注 中央大学
設計 久米建築設計事務所
中央大学多摩校地(A工区)(JV)
<東京都>昭和52年5月竣工
発注 中央大学
設計 久米建築設計事務所
武蔵野音楽学園バッハザール
<埼玉県>昭和54年9月竣工
発注 武蔵野音楽学園
設計 武蔵野建築事務所
武蔵野音楽学園バッハザール
<埼玉県>昭和54年9月竣工
発注 武蔵野音楽学園
設計 武蔵野建築事務所
筑波大学中央図書館
<茨城県>昭和54年5月竣工
発注 筑波大学
設計 筑波大学、岡田新一設計事務所
筑波大学中央図書館
<茨城県>昭和54年5月竣工
発注 筑波大学
設計 筑波大学、岡田新一設計事務所
三重大学医学部附属病院
<三重県>昭和48年4月竣工
発注 三重県
設計 教育施設研究所
三重大学医学部附属病院
<三重県>昭和48年4月竣工
発注 三重県
設計 教育施設研究所
産業医科大学病院(JV)
<福岡県>昭和54年3月竣工
発注 産業医科大学
設計 伊藤喜三郎建築研究所
産業医科大学病院(JV)
<福岡県>昭和54年3月竣工
発注 産業医科大学
設計 伊藤喜三郎建築研究所
市立伊勢総合病院
<三重県>昭和54年1月竣工
発注 伊勢市 設計 田口設計事務所
市立伊勢総合病院
<三重県>昭和54年1月竣工
発注 伊勢市 設計 田口設計事務所
近畿大学医学部
<大阪府>昭和50年3月竣工
発注 近畿大学
設計 富家建築事務所、安井建築設計事務所
近畿大学医学部
<大阪府>昭和50年3月竣工
発注 近畿大学
設計 富家建築事務所、安井建築設計事務所
浴風会病院
<東京都>昭和50年8月竣工
発注 浴風会
設計 信設計事務所
浴風会病院
<東京都>昭和50年8月竣工
発注 浴風会
設計 信設計事務所
東京電力病院(建替え)
<東京都>昭和54年11月竣工
発注 東京電力
設計 東電設計
東京電力病院(建替え)
<東京都>昭和54年11月竣工
発注 東京電力
設計 東電設計
千葉大学医学部附属病院
<千葉県>昭和53年3月竣工
発注 文部省、千葉大学
設計 文部省、千葉大学、日建設計
千葉大学医学部附属病院
<千葉県>昭和53年3月竣工
発注 文部省、千葉大学
設計 文部省、千葉大学、日建設計
福山市市民病院本館
<広島県>昭和52年4月竣工
発注 福山市
設計 伊藤喜三郎建築研究所
福山市市民病院本館
<広島県>昭和52年4月竣工
発注 福山市
設計 伊藤喜三郎建築研究所

獨協医科大学および付属病院

獨協医科大学は栃木県壬生町の約50万㎡の土地に、将来、歯科大学、薬科大学、老人ホームなどの増設を考慮して、そのうちの13.7万㎡の敷地に建設された。

建物は病院棟、校舎棟(研究棟、実習棟、臨床講堂、本部棟)、看護婦宿舎、看護学校、看護学校学生寮、動物RI棟、体育館、図書館などから成っており、当社はこれら施設の企画がスタートした昭和45年(1970)ころから参画し、諸行政手続きから実施設計までを行い、46年10月から50年2月にかけその主な施設の工事を行った。なお、医科大学は48年4月開校、付属病院は49年7月に開院した。

大学施設の建設では極端な短工期が要求された。46年10月から土地造成、仮設道路築造とともに建築工事に着手したが、翌47年4月には開校の予定ということで、まさに死にものぐるいの超突貫工事を行い、47年1月半ばには教養医学棟(RC造、3階、延7,050㎡)の躯体工事が完了、仕上げ工事も並行して行った。

この間、当地特有の氷点下10度にもなる厳寒と地表20㎝近く結霜、凍上する悪条件も加わったが、工事は2月26日文部省施設審査を無事通過した。

一方、病院施設は46年11月に着手、地下工事では通称鹿沼土と称する扱いにくい地質と高い地下水位に慎重に対応しつつ工事を進めた。また外壁工事では最大7.5tにも及ぶ巨大なプレキャストコンクリートの取付けに苦労した。

当病院の冷熱源システムは、井戸水利用の還元井ヒートポンプ方式を採用したが、これは、地下の井戸水を汲み上げて直接利用した後、また地下に戻して地盤沈下を防止する方法である。空調系統は高度の病院機能に対応し、また院内感染を防止し、かつ省エネルギーなどを図るため、可能なかぎり分割し、全27系統とした。手術室はバイオクリーンルームとし、病室もファンコイルユニットを置かない全空気方式とするなど、温湿度、清浄度、騒音レベル等、各室の用途に応じて十分配慮した設備としている。

請負金は50年2月まで完成をみたもので128億円にのぼり、所長は渋木昭一、設計は由利忠雄であった。51年1月から52年6月にかけては臨床研究棟、RI棟(高エネルギー治療施設を含む)の新築工事を行い、この請負金は80億円、さらに各棟の増築工事が50年代後半まで相次いだ。

獨協医科大学および付属病院
<栃木県>昭和49年7月竣工
発注 獨協学園
設計 佐藤 鑑(基本設計)、当社(実施設計)
工事概要 病院棟/SRC造一部RC造、B1、8F、延5万3,100㎡、ベッド数880床
校舎棟/RC造、4F一部6F、延2万3,200㎡
その他/看護婦宿舎、看護学校、看護学校学生寮、動物RI棟、体育館、図書館ほか
総延約9万3,000㎡
獨協医科大学および付属病院
<栃木県>昭和49年7月竣工
発注 獨協学園
設計 佐藤 鑑(基本設計)、当社(実施設計)
工事概要 病院棟/SRC造一部RC造、B1、8F、延5万3,100㎡、ベッド数880床
校舎棟/RC造、4F一部6F、延2万3,200㎡
その他/看護婦宿舎、看護学校、看護学校学生寮、動物RI棟、体育館、図書館ほか
総延約9万3,000㎡

日本赤十字社医療センター(JV)

旧建物は、明治24年(1891)にドイツのハイデルベルグ大学院を模して建てられたもので、当時としては東洋一の設備を備えていた。その後、幾度か増築されたが、長い年月を経てこれらも著しく老朽化し、新しい時代の要請に応えられなくなっていたため新病院の建設が計画された。そこで広大な敷地の東半分約2万坪が住友不動産ほか三者のグループに売却され、建設資金に当てられた(その敷地にはのち広尾ガーデンヒルズが建設された。662ページ参照)。施工は、当社(幹事会社)、熊谷組、戸田建設、佐藤工業の4社JVが担当した。

敷地面積約7万3,300㎡、新病院のベッド数は約1,000床、外来患者約2,000人収容の総合病院であり、病棟、診療棟、放射線診療棟から成り、さらに中央女子短期大学棟、幹部看護婦研修・同助産婦学校等の教育施設、学生宿舎棟、看護婦宿舎棟も建設された。この病院の特徴は乳幼児から老人まで、治療のみならず社会復帰まで総合的なケアを行うという点で、そのため各棟はこの目的に沿って機能的に配置されている。

旧建物は明治の代表的病院建築として明治村に移し、工事はまず仮設病棟をつくって既存設備をそこに移転することから始まった。この工事では、明治39年につくられた総檜造り平家建の手術室がまだ残されたままであったため、手術に差し支える振動を起こさぬよう配慮するのが難問であった。

本工事がスタートしたのは昭和48年8月のことであったが、着工早々資材が高騰し始め、設備業者各社の首脳が協議するため現場に押しかけ対応を迫る事態も起こった。こうした緊迫した空気のなかで1年有余にわたる発注者とのスライド値上げ交渉を行った。一方、工事は工期の短い教育施設を先に進め、次に管理部門と高層である病棟工事を進め、診療棟については工事を一時中断して交渉に当たった。また、鋼材、塩ビ材、アルミ材、木材等は先行買付けをするなどあらゆる手段をとってこの難局に当たった。

診療棟に引き続き放射線診療棟を施工、延長1,300m(幅6m)の舗装道路、駐車場(350台)等外構工事を施し、3年の歳月をかけ日赤病院は日赤医療センターとして面目を一新した。請負金は47億9,025万円、所長は清水光一であった。さらに敷地の一隅に51年8月末に乳児院(JV)が、53年3月に中央血液センター(JV)が完成した。

日本赤十字社医療センター(JV)
<東京都>昭和51年7月竣工
発注 日本赤十字社
設計 伊藤喜三郎建築研究所
工事概要 診療棟/SRC造およびRC造、B1、3F~8F、延3万290㎡
病棟/SRC造一部RC造、B2、11F、PH2F、延2万5,400㎡、ベッド数1,000床
その他/放射線治療棟、看護婦宿舎、中央女子短期大学ほか
日本赤十字社医療センター(JV)
<東京都>昭和51年7月竣工
発注 日本赤十字社
設計 伊藤喜三郎建築研究所
工事概要 診療棟/SRC造およびRC造、B1、3F~8F、延3万290㎡
病棟/SRC造一部RC造、B2、11F、PH2F、延2万5,400㎡、ベッド数1,000床
その他/放射線治療棟、看護婦宿舎、中央女子短期大学ほか

国立循環器病センター

循環器病疾患に対する高度に専門化した診断治療および専門的研究を目的とした国立循環器病センターは、千里ニュータウンの北端に位置し、敷地面積6万6,000㎡、昭和49年(1974)4月に着工した。第1段階として、640床のベッド数をもつ病院本館と看護婦宿舎および公務員宿舎等の完成をみて、52年7月、開設記念式が行われた。その後引き続き研究所、図書館、研修医宿舎などを建設し、すべてが完了した56年10月には敷地外の公務員宿舎を合わせて総延7万3,600㎡の施設となった。

当敷地は緑に囲まれた静かな住宅地に面しており、近隣対策は大きな課題であった。とくに約1,000本のPC杭を打設する工事では、途中オーガーによる泥水工法に変更し、外構工事では近隣住民の要望を入れてグリーンベルトが設けられた。このグリーンベルトでは、センター前面に幅50m、長さ260mにわたる土手を築き、その内側に駐車場を取り込むとともに2,600本の植樹を施した。

工事はちょうど石油危機による総需要抑制により、4期に分割して発注された。そのため工期が厳しく、躯体工事の合理化、とくに鉄筋工事の省力化に取り組むこととなった。その一例として、当時市場に出始めていた丸鋼のスパイラルフープおよび異型筋の格子鉄筋を積極的に採用し、スパイラルフープを鉄骨梁や鉄骨柱にあらかじめ通しておく工法を初めて採用した。請負金は4期合わせて92億円、所長は前田隆一である。

国立循環器病センター
<大阪府>昭和52年5月竣工
発注 厚生省
設計 厚生省、伊藤喜三郎建築研究所
工事概要 病院本館/RC造およびSRC造、B1、10F(低層部3~4F)、PH付、延4万1,890㎡、ベッド数640床
その他/看護婦宿舎、公務員宿舎5棟、延8,820㎡
国立循環器病センター
<大阪府>昭和52年5月竣工
発注 厚生省
設計 厚生省、伊藤喜三郎建築研究所
工事概要 病院本館/RC造およびSRC造、B1、10F(低層部3~4F)、PH付、延4万1,890㎡、ベッド数640床
その他/看護婦宿舎、公務員宿舎5棟、延8,820㎡

大阪も超高層時代に

霞が関ビルが完成したのは昭和43年(1968)、続いて44年に神戸商工貿易センタービル(26階、神戸市)、世界貿易センタービル(40階、東京・浜松町)、そして46年に京王プラザホテル(47階、東京・新宿)と続き(いずれも他社施工)、わが国の超高層建築が本格化していったのは40年代後半のことであった。

この動きは関西地区にも波及し、高さ100m級の超高層ビルの構想が次々発表され、その第1号として45年秋に着工した大阪大林ビルが48年1月に完成したのに続いて、当社は、大阪データ通信局舎(JV)を49年10月に、中之島センタービル(JV)を50年4月に完成させた。

このほか、大阪での大型オフィスビルとしては、堂島関電ビル、野村證券ビル、日本長期信用銀行大阪支店、大阪アイ・ビー・エムビル、日商岩井大阪本社ビル(JV)、伊藤忠商事中央ビル、国際電信電話谷町局舎、大阪スタジアム難波別館、御堂筋東洋ビル、日本生命梅田ビル、肥後橋センタービル、久保田鉄工第2本社ビル(JV)、日本生命東館(増築)、道頓堀リンデンビル、三菱銀行大阪新事務センター(JV)、日本銀行大阪支店営業所(新館)(JV)、東洋紡ビルディング(JV)、資生堂大阪ビルなどを40年代後半から50年代前半(一部55年竣工)にかけて施工した。

なお、東京では前章に続いて50年代前半に東京サントリービル、東京住友信託ビル、不二家本社ビル、ポーラ渋谷ビル、日本赤十字社本社(JV)、ヤンマー東京ビル(JV)、電通恒産第3ビル、五反田日興ビル(JV)、秀和紀尾井町パークビル、日本アイ・ビー・エム飯倉ビル、青山大林ビルディング(モリハナエビル)、サンシャインシティ(池袋副都心再開発事業A工区)(JV)、芝三信ビル、新呉服橋ビル(JV)、東洋信託銀行本店などを施工、オフィスビルの高層化、大型化が進んでいった。

このうち、野村證券ビル(49年)、日商岩井大阪本社ビル(JV)(51年)、日本赤十字社本社(JV)(53年)、サンシャインシティ(JV)(56年)、さらに東海銀行日本橋東海ビル(JV)(51年)もBCS賞に輝いた作品である(カッコ内は受賞年)。

野村證券ビル(大阪)
<大阪府>昭和48年5月竣工
発注 野村證券
設計 安井建築設計事務所
野村證券ビル(大阪)
<大阪府>昭和48年5月竣工
発注 野村證券
設計 安井建築設計事務所
日商岩井大阪本社ビル(JV)
<大阪府>昭和50年2月竣工
発注 日商岩井、日商岩井土地
設計 東畑建築事務所
日商岩井大阪本社ビル(JV)
<大阪府>昭和50年2月竣工
発注 日商岩井、日商岩井土地
設計 東畑建築事務所
東京住友信託ビル
<東京都>昭和50年7月竣工
発注 住友信託銀行
設計 日建設計
東京住友信託ビル
<東京都>昭和50年7月竣工
発注 住友信託銀行
設計 日建設計
伊藤忠商事中央ビル
<大阪府>昭和50年3月竣工
発注 伊藤忠商事
設計 大建設計
伊藤忠商事中央ビル
<大阪府>昭和50年3月竣工
発注 伊藤忠商事
設計 大建設計
芝三信ビル
<東京都>昭和54年9月竣工
発注 三信
設計 当社
芝三信ビル
<東京都>昭和54年9月竣工
発注 三信
設計 当社
日本赤十字社本社(JV)
<東京都>昭和52年4月竣工
発注 日本赤十字社
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
日本赤十字社本社(JV)
<東京都>昭和52年4月竣工
発注 日本赤十字社
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
秀和紀尾井町パークビル
<東京都>昭和52年11月竣工
発注 秀和
設計 秀和
秀和紀尾井町パークビル
<東京都>昭和52年11月竣工
発注 秀和
設計 秀和
東洋信託銀行本店
<東京都>昭和54年10月竣工
発注 東洋信託銀行
設計 安井建築設計事務所
東洋信託銀行本店
<東京都>昭和54年10月竣工
発注 東洋信託銀行
設計 安井建築設計事務所
サンシャインシティ(池袋副都心再開発事業A工区)(JV)
<東京都>昭和53年10月竣工
発注 新都市開発センター
発注 三菱地所
サンシャインシティ(池袋副都心再開発事業A工区)(JV)
<東京都>昭和53年10月竣工
発注 新都市開発センター
発注 三菱地所

中之島センタービル(JV)

近畿電気通信局跡地計画として企画された中之島センタービルは、ポスト万博の目玉として、また大阪市再開発計画の一環として、関西財界によって設立された大阪地区開発が企図した第1号事業であった。当初、複合超高層ビルの建設が目指され、昭和46年(1971)6月に当社(幹事会社)と竹中工務店のJVが工事に着手したが、着手して半年後基本的な企画に大変更を余儀なくされ、それから約半年間工事は中断した。ようやく47年6月基礎工事の一部を再開したが、そのときはまだ実施設計ができておらず工事が先行するという状況であった。加えて47年の秋から48年度にかけて資材の高騰、労賃の上昇等に見舞われた。

地下工事では、大阪でも最も軟弱な地盤に立つ超高層ビルということで、さまざまな検討がなされたが、JOF工法(地中壁と後打ち本体を接合する特許工法)によるウォール ファウンデーション工法(深さ34m)の採用となり、これは工事費を最小限に抑えることに大きく寄与した。ちなみに、ウォール ファウンデーション工法を日本建築センターの評定を受けて施工したのはこれが初めてであった。

当ビルは、中之島の西端に位置し、最高高さ130m、大部分をオフイス用(4~30階)としているが、ほかに大小会議室、宴会場(2階、3階)、結婚式場、ビジネスホテル(別棟1~8階)などがある。蓄熱方式、ヒートポンプ方式により建物に発生する排熱を有効に回収利用しているのも設備上の特徴であった。請負金は57億3,181万円、所長は七海 實である。

中之島センタービル(JV)
<大阪府>昭和50年4月竣工
発注 大阪地区開発
設計 日本電信電話公社(基本設計)、日本総合建築事務所(実施設計)、日建設計(設備設計)
工事概要 高層棟/S造およびSRC造一部RC造、B3、32F、PH付 宿泊棟/SRC造、8F、PH付、客室174室
総延7万4,236㎡
中之島センタービル(JV)
<大阪府>昭和50年4月竣工
発注 大阪地区開発
設計 日本電信電話公社(基本設計)、日本総合建築事務所(実施設計)、日建設計(設備設計)
工事概要 高層棟/S造およびSRC造一部RC造、B3、32F、PH付 宿泊棟/SRC造、8F、PH付、客室174室
総延7万4,236㎡

堂島関電ビル

当ビルの地下階には、大阪市内都心部の急増する電力需要に対応するため、90万kVAの大容量市街地地下変電所が設けられている。当社施工の関西電力美浜発電所(福井)の電力は、架空送電線により奈良県生駒山上まで送電し、大阪市内を地下ケーブル線によって当変電所に送電、変電して大阪市内都心部へ供給されている。

このように変電所の上にオフィスビルを建設するという試みは当時まだ珍しかったが、当社の設計・施工によるものであった。

工事着工に先立ち、当社は幹線地中管路御堂筋線への接続管路(直径6m、延長50m)を道路面下にシールド工法で施工中であった。しかし工期の関係上、この完成を待たず昭和45年(1970)9月から並行施工することとなった。

地下掘削は深さ17.2mで、前面に堂島川があり湧水量が毎分17tと予想されたためOWS壁を止水・土留壁とし、そのうえで鉄骨4段切梁によるオープン掘削を行った。礎盤では1昼夜で3,600㎥に及ぶ記録的なコンクリートを連続打設し、またOWS工事で発生した泥土の圧縮固形化工法も実用化した。

なお、当建物の熱回収システム、蓄熱システム、空調用冷温水流量低減のための大温度差の利用システムなど設備工事の設計・施工に対し、空気調和・衛生工学会から49年空気調和・衛生工学会賞技術賞が授与された。請負金は24億7,212万円(電気設備は別途)、所長は苅郷 實、設計は栄木一成である。

堂島関電ビル
<大阪府>昭和47年6月竣工
発注 関電産業(地上階)、関西電力(地下階)
設計 当社
工事概要 SRC造、B2、12F、延2万5,770㎡
堂島関電ビル
<大阪府>昭和47年6月竣工
発注 関電産業(地上階)、関西電力(地下階)
設計 当社
工事概要 SRC造、B2、12F、延2万5,770㎡

東洋紡ビルディング(JV)

東洋紡の本社ビルとして建設された当ビルは、設計は当社で、施工は当社(幹事会社)と東海興業とのJVが担当した。

設計コンセプトは、本社ビルとしての風格を備えることはもちろん、「明るく力強く誠実でたくましく」といった東洋紡の企業イメージを表現することが望まれ、また市街地環境整備改善を旨とする「総合設計制度{}」を取り入れている。さらに時代の要請である省エネルギーにも意を尽くし、蓄熱槽による熱回収ヒートポンプシステム、排熱回収システムおよびマイクロコンピュータを使用した外気冷房システム等を積極的に導入している。

施工では、土留止水にOWS工法およびONS工法を、支持杭はOJP工法(拡底杭工法)を用いた。外壁タイルはアルミ型枠によるタイル先付け工法を採用し、品質および施工精度の向上に努めた。

昭和53年(1978)5月から約2年にわたる工事の結果、戦前・戦後にわたって堂島川畔の赤煉瓦として親しまれてきた旧本社ビルは、現代的センスあふれるデザインの新ビルとして生まれ変わった。当建物は57年、第2回大阪市都市景観賞(大阪まちなみ賞)大阪市長賞を受賞している。請負金は31億2,274万円、所長は内田昭雄であった。

注 総合設計制度:市街地の適切な規模の敷地で、土地の有効利用を推進し、あわせて敷地内に日常一般に開放される空地(公開空地)を確保するなど、市街地環境の整備改善に資する良好な建築計画をしたものに対し、一定の許可基準に従って容積割増し、斜線制限の緩和を認める制度。

東洋紡ビルディング(JV)
<大阪府>昭和55年5月竣工
発注 東洋紡不動産
設計 当社
工事概要 SRC造一部RC造、B1、12F、PH3F、延3万5,940㎡
東洋紡ビルディング(JV)
<大阪府>昭和55年5月竣工
発注 東洋紡不動産
設計 当社
工事概要 SRC造一部RC造、B1、12F、PH3F、延3万5,940㎡

日本銀行大阪支店営業所(新館)(JV)

日本銀行大阪支店は、明治から中之島にあって大阪経済の中心として任を果たしてきた。しかし経年による老朽化、地盤沈下による建物の損傷、耐震力の減少などとともに、人員の増加による狭隘化、さらに大阪支店を西日本の母店とする構想によって、営業所の全面的な改築となった。改築工事は、西側より第1期として金庫棟、第2期として事務棟を建設し、第3期として現本館の保存工事(将来コンピュータ設置棟)が行われた。本工事に先立ち昭和50年(1975)2月から既存の本館、分館、付属家等の改修および取壊し工事が準備工事というかたちで始まった。

第1期、第2期工事とも、地下は逆打ち工法を採用したが、掘削深さが19.8mと深く、多量の湧水が予想されたため山留止水にはOWS壁を、水替えにはディープウェルを設置してこれに当たった。当工事は、当社(幹事会社)と鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の5社JVで施工したが、この地下工事では当社のOWS工法はじめ各社ともそれぞれ自社の最新技術をもって当たった。

第1期工事で施工した地下金庫は、外壁が厚さ40~70㎝もあり、その内側には回廊が設けられ、さらにその内側にエキスパンドメタルが10㎝ピッチに入った金庫壁が設けられ、堅牢な構造となっていた。また、外壁はすべてポルトガル産の花崗石を湿式工法で施工した。

52年7月にスタートした第2期工事は付属家等の解体工事から着手したが、この中には当社が昭和2年に施工した金庫館も含まれ、これがまさに要塞といえるほどの造りであったため、解体に10カ月を要した。この第2期工事で最も困難だったのは、第1期工事の礎盤と剛接合するため、そのときのOWS壁を解体しながら掘削を進めることであった。第1期工事の礎盤の下には被圧水があり、その水が工事部分へ流れ込むことが予想されたため、ディープウェルで水位を下げ、取合い部をグラウトしてOWS壁を解体し、ようやく礎盤を打ち継ぐことができた。第1期、第2期の合計請負金は24億5,617万円(設備工事は別途)、所長は高屋 猛である。続いて第3期工事は55年5月スタートした。

日本銀行大阪支店営業所(新館)(JV)
<大阪府>昭和55年3月竣工
発注 日本銀行
設計 日建設計
工事概要 RC造およびSRC造、B3、5F、PH付、延4万1,790㎡
(写真右が新館)
日本銀行大阪支店営業所(新館)(JV)
<大阪府>昭和55年3月竣工
発注 日本銀行
設計 日建設計
工事概要 RC造およびSRC造、B3、5F、PH付、延4万1,790㎡
(写真右が新館)

巨大化・複合化するデパート・ショッピングセンター

「都市再開発法」(昭和44年)や「大店法」(49年)の成立とからんで、40年代後半に大都市郊外や地方有力都市で店舗拡張競争を繰り広げたデパート、スーパーは、石油危機以来、売上げの伸悩みを打開しようと、この時期、さまざまな工夫を重ねていた。その一つが、デパートとスーパーを組み合わせ、さらに専門店が組み合わさって、お互いの集客力を利用して売上高を伸ばそうとする巨大ショッピングセンターであった。国内で最大級という「シーモールしものせき」がその代表的なものである。入居したのはデパートの大丸と大手スーパーのダイエー、それに専門店約230店舗で、総売場面積が約5万㎡にも及んだ。同じ形の大ショッピングセンターとして横浜駅西口の新相鉄ビル(相鉄ジョイナス)があり、ここはすでに48年(1973)11月に横浜髙島屋と専門店が入居してオープンしていたが、新たに53年5月増築し、一段と拡大したのであった。こうした例は福山駅前ビルや、前章に述べた岡崎市本町康生西市街地再開発事業でも見られた。

また、隣接する全く別のビルにそれぞれ競争店が入居し、それらが競合することによって地域ぐるみで集客力が増した例もあった。こうしたものには、船橋東武ビルと船橋駅前ビル(西武)の例や、先の横浜駅西口も同様で、新相鉄ビルの横浜髙島屋の眼前で同時に三越横浜支店(岩崎学園ビル)(JV)が開店したときは人々を驚かせたものであった。東京・吉祥寺の丸井(清水商事ビル)とパルコ吉祥寺店(JV)もその一例である。

この時期に出現したこれら店舗は、店舗というよりむしろ一大ショッピング街を形成するかのような巨大なものが多く、投資も格段に大型化していた。

また、東京ではボウリング場から使用目的が変わった東洋ショッピングセンターにダイエーが、福岡のメッセビルにもダイエーが、横浜の露木コミュニティランドには忠実屋が、池袋西口共同ビル(JV)や津田沼14番街ビルには丸井がそれぞれ出店した。そして岐阜県柳ケ瀬市には柳ケ瀬防災建築街区造成組合が行った市街地再開発事業の平和ビルに岐阜髙島屋が進出し、伊勢再開発ビル・ジョイシティ(JV)(54年2月竣工)には地元の三交百貨店が出店した。

東洋ショッピングセンター
<東京都>昭和50年3月竣工
発注 横井産業
設計 堀田英二建築設計事務所
東洋ショッピングセンター
<東京都>昭和50年3月竣工
発注 横井産業
設計 堀田英二建築設計事務所
福山駅前ビル
<広島県>昭和51年6月竣工
発注 いづみ、鞆鉄 設計 河内義就設計事務所
福山駅前ビル
<広島県>昭和51年6月竣工
発注 いづみ、鞆鉄 設計 河内義就設計事務所
メッセビル(ダイエー原店)
<福岡県>昭和51年10月竣工
発注 メッセ 設計 バル
メッセビル(ダイエー原店)
<福岡県>昭和51年10月竣工
発注 メッセ 設計 バル

船橋東武ビル・船橋駅北口市街地再開発ビル

当社は船橋駅南口での再開発を昭和40年代前半に手がけたが、当ビルは、この船橋駅の北口再開発の核として船橋市および東武鉄道の手によって進められたものである。ビルは船橋東武ビルと再開発ビルが一つの建物に一体化しており、東武百貨店「ぶらんで~と東武」と80店舗の専門店街「ViV」が入居しているほか、市の出張所、集会場なども設けられている。

工事は再開発ビルが8カ月先行して50年(1975)5月に着工し、地下工事にあたっては地下水位が高いため両ビルとも山留めにOWS壁を採用した。また、船橋東武ビルは南北30m、東西180mと長い現場だったため全体を4工区に分割して工事管理を行い、掘削工事では東側から掘削を先行させるため東西中間部分に止水のためのスペシャルグラウト(SG)壁を設け、南北のOWS壁と結んで止水壁をクローズさせ、グラウト壁側に法を切って片側からの先行掘削を行った。

当ビル2階には東武野田線の高架ターミナル駅が同ビルとともに完成しており、駅部に続く高架線路完成(55年12月)後、ただちにオープンできるようになっていた。請負金は合計106億2,029万円(再開発ビルのみ設備工事は別途)、所長は中藪久一(再開発ビル)および工藤立治(船橋東武ビル)である。

・船橋駅北口市街地再開発ビル
<千葉県>昭和52年5月竣工
発注 船橋市
設計 野生司建築設計事務所
工事概要 SRC造およびRC造、B2、7F、PH2F、延2万5,537㎡
・船橋東武ビル
<千葉県>昭和52年9月竣工
発注 東武鉄道
設計 鉄道会館、横山建築構造設計事務所(構造)
工事概要 SRC造およびRC造、B2、8F、PH付、延4万5,427㎡
・船橋駅北口市街地再開発ビル
<千葉県>昭和52年5月竣工
発注 船橋市
設計 野生司建築設計事務所
工事概要 SRC造およびRC造、B2、7F、PH2F、延2万5,537㎡
・船橋東武ビル
<千葉県>昭和52年9月竣工
発注 東武鉄道
設計 鉄道会館、横山建築構造設計事務所(構造)
工事概要 SRC造およびRC造、B2、8F、PH付、延4万5,427㎡

シーモールしものせき

当事業は、かつて陸海の交通、商業の要衝として発展した下関に再び繁栄を取り戻そうと、下関商工会議所を母体とする下関商業開発が都市開発の中核としての大規模ショッピングセンターの建設を企画したものである。当社はその初期より営業活動に努力を重ね、企画・調査、設計、施工までのトータルエンジニアリングの大型プロジェクト第1号として全社を挙げて取り組んだ。

敷地は下関駅前の東側に位置する2万8,920㎡で、敷地中央を南北に二分して国鉄引込線が横切っている。そのためショッピングセンターはこれをまたぎ、2階部分で全面的につながるという特殊な立地条件となっていた。建物は、230店舗の専門店街をはさんで両側に百貨店・下関大丸とスーパー・ダイエーがあり、750台収容の駐車場の別棟を含め、延11万9,959㎡の面積をもつ広大なものであった。

工事は、昭和51年(1976)2月~52年10月の21カ月と工期的にかなり厳しいスタートであったのに加えて、敷地はかつての関門連絡船の埠頭であったため旧護岸と転石が山留シートパイルや支持杭(2,800本)打込みの支障になり基礎工事の完了が遅れ、その後の工事に影響していった。そのため能率向上と省力化を推進する方策として、工事機械設備を可能なかぎり導入し、夜間作業のためタワークレーン8台にはそれぞれに投光器を多数取り付け、さながらその夜景は造船所かナイター球場をしのばせるものであった。

最盛期の1日当たりの最高就労者数は、全職種で1,700人余を記録し、当工事に携わった職員も163名にのぼったため、それらの宿泊設備の確保や給食にも苦心した。最終請負金153億1,077万円、所長は眞尾 篤、設計は栄木一成である。

シーモールしものせき
<山口県>昭和52年10月竣工
発注 下関商業開発、下関大丸
企画 SSCプロジェクトチーム(総括・足立孝大阪大学助教授、当社、西脇設計)
設計 当社
工事概要 専門店/RC造一部SRC造、B1、4F一部5F、延4万6,431㎡
下関大丸/SRC造一部S造、B1、7F、延3万8,961㎡
ダイエー/RC造、B1、4F一部5F、延2万227㎡
駐車場/S造、7F、延1万4,340㎡
シーモールしものせき
<山口県>昭和52年10月竣工
発注 下関商業開発、下関大丸
企画 SSCプロジェクトチーム(総括・足立孝大阪大学助教授、当社、西脇設計)
設計 当社
工事概要 専門店/RC造一部SRC造、B1、4F一部5F、延4万6,431㎡
下関大丸/SRC造一部S造、B1、7F、延3万8,961㎡
ダイエー/RC造、B1、4F一部5F、延2万227㎡
駐車場/S造、7F、延1万4,340㎡

相鉄ジョイナス(新相鉄ビル第2期)

当社が横浜駅西口の工事を最初に手がけたのは昭和30年(1955)であるが、同地区再開発の核となった新相鉄ビルは、第1期工事を44年4月~48年11月に施工し、続いて第2期工事を51年4月に着手した。第1期工事では同ビルの地下3階から地上5階までを施工し、加えて地下街増築工事や劇場ビル工事などの周辺での工事も同時に行った。第2期工事は、同ビルの6階から上階に、4階建の駐車場部分(RC造、延2万535㎡)と、3階建の横浜髙島屋増築部分(SRC造、延2万2,677㎡)の計4万3,212㎡を施工し、これらの完成をもって単一ビルとしてはわが国最大級の総延20万1,453㎡の複合建築が完成したのであった。

建物周囲は、鉄道、店舗、駐車場などに囲まれ、さらには下階(5階)では既存店舗が営業中と、天空以外はすべて第三者の営業区域工事であったため、安全の問題、資機材の搬出入、営業中の店舗の配慮など多大の苦労を抱えての工事であった。そこで、資機材の搬出入は、隣接河川上に構台を設置するとともに、道路側からも夜間午前0~6時の時間帯に行った。鉄骨建方では既存建物屋上(6階床)に走行ジブクレーン1基、運搬台車2台を設置し、夜間に荷取りした部材を建方場所まで水平運搬しながら行った。コンクリート打設は、河川構台よりポンプ圧送で行ったが、圧送距離が最長約625mと長く、軽量コンクリートの品質低下および閉塞を避けるため、中間380m地点にアジテータ(ミキサー)と2次ポンプを設置した。

こうして53年5月工事は無事完了した。第2期工事の請負金は40億935万円(設備工事は別途)、所長は山下良弘である。

相鉄ジョイナス(新相鉄ビル第2期)
<神奈川県>昭和53年5月竣工
発注 相模鉄道
設計 松田平田坂本設計事務所、交通建築設計事務所
工事概要 駐車場増築部/RC造、4層、延2万535㎡
横浜髙島屋増築部/SRC造、3層、延2万2,677㎡
相鉄ジョイナス(新相鉄ビル第2期)
<神奈川県>昭和53年5月竣工
発注 相模鉄道
設計 松田平田坂本設計事務所、交通建築設計事務所
工事概要 駐車場増築部/RC造、4層、延2万535㎡
横浜髙島屋増築部/SRC造、3層、延2万2,677㎡

「美浜」から「玄海」「大飯」へ

わが国の商業用原子力発電所の営業運転は、昭和41年(1966)の日本原子力発電東海1号機(他社施工)が最初であった。45年には当社が施工した関西電力美浜発電所1号機が営業運転を開始している。当社は続いて美浜2号機本館や九州電力玄海原子力発電所1、2号機本館を手がけていった。47年に美浜2号機が営業運転を開始し、関西電力大飯発電所1、2号機本館にも着工した。玄海1号機の営業運転は50年であったが、この年、わが国の原子力発電所は全部で10基にのぼり、これは米国、英国に次いで世界第3位であった。53年になると16基、発電能力956万㎾となり、英国を抜いて世界第2位となった。

ちなみに、玄海2号機本館の完成は54年12月、大飯1、2号機本館の完成は53年3月である。その後、大飯原子力発電所では、廃棄物処理建屋や使用済燃料輸送容器保管施設など発電関係建屋以外の大規模な施設も50年代後半にかけて施工している。

九州電力玄海原子力発電所1、2号機本館

九州では初の原子力発電所であった同発電所は、わが国で初めて設計から施工まで建設技術の全般にわたる国産化を目指した原子力発電所である。1号機ではプラント施設の90%近くの国産化に成功し、軽水炉型原子力発電所の日本定着に大きな役割を果たした。玄界灘に面した佐賀県東松浦半島の先端に位置し、原子炉型式は加圧水型軽水炉(PWR)で、1号機、2号機とも出力は55.9万㎾である。当社は主要建築工事および関連土木工事を単独で施工した。

1号機本館の建設は昭和46年(1971)3月にスタートし、基礎掘削の後、原子炉建屋(RC造、地上43m、地下26m、延3,718㎡、設計:三菱重工業-当社)、原子炉補助建屋(RC造、地上21m、地下24m、延1万2,187㎡、設計:三菱重工業-当社)、タービン建屋(S造、地上28m、地下19m、延9,188㎡、設計:九州電力)などの建設を行い、膨大なコンクリート打設量への挑戦を続けた。当工事における「本館建屋コンクリート施工管理」に対しては、50年、火力発電技術協会九州支部から苅田記念賞が授与された。この賞は火力、原子力発電技術の発達・改善に顕著な貢献をした個人に与えられるもので、44年に同賞が制定されて以来初の建設業者の受賞であった。1号機は50年10月、営業運転を開始した。

2号機本館の規模は1号機とほぼ同様で、51年6月に着手した。2号機では、プラント施設のほぼ99%近い国産化が進み、わが国の自主技術に基づく第二世代の原子力発電所建設の幕開けを迎えた。本工事では、玄海1号機での経験はもとより、関西電力美浜1、2号機、大飯1、2号機における当社の実績を大いに活用し、品質の向上、現場作業の省力化、安全の確保に一段と尽力したが、とりわけ格納容器内構造物の鉄骨構造化、デッキプレート床型枠の採用、大揚量クレーンの使用などの画期的な新工法を採用することによって、工期を従来の実績に比して一挙に6カ月短縮し、急激な経済成長に伴う電力供給力の確保に大きく貢献をした。2号機の原子炉建屋、原子炉補助建屋、タービン建屋、延2万7,366㎡は54年12月完成し、営業運転の開始は56年3月であった。請負金は1号機本館が33億円、2号機本館が83億円で、セメント、鉄筋、鉄骨は支給であった。所長は1号機が山崎 担、2号機が森本正一であり、1、2号機(原子炉建屋、原子炉補助建屋)の当社設計担当者は下川恵右である。

九州電力玄海原子力発電所1、2号機本館
<佐賀県>昭和49年11月竣工(1号機本館)
昭和54年12月竣工(2号機本館)
発注 九州電力
設計 九州電力、三菱重工業、三菱原子力工業、当社
工事概要 55万9,000㎾×2基、軽水減速軽水冷却加圧水型原子炉(PWR)
原子炉建屋/RC造一部S造、全高70m、容積7万9,000㎥×2 補助建屋/RC造一部S造、B5、2F、延2万7,000㎡
タービン建屋/S造一部RC造、B1、2F、延1万8,100㎡
付属施設/事務棟、展示館ほか
九州電力玄海原子力発電所1、2号機本館
<佐賀県>昭和49年11月竣工(1号機本館)
昭和54年12月竣工(2号機本館)
発注 九州電力
設計 九州電力、三菱重工業、三菱原子力工業、当社
工事概要 55万9,000㎾×2基、軽水減速軽水冷却加圧水型原子炉(PWR)
原子炉建屋/RC造一部S造、全高70m、容積7万9,000㎥×2 補助建屋/RC造一部S造、B5、2F、延2万7,000㎡
タービン建屋/S造一部RC造、B1、2F、延1万8,100㎡
付属施設/事務棟、展示館ほか

関西電力大飯発電所1・2号機本館

昭和40年代中ごろ、わが国の経済の急速な発展に伴い近畿圏の電力は年々増加の一途をたどっていた。関西電力ではその需要を満たすため、47年(1972)8月に美浜、高浜に続く第3番目の拠点として大飯発電所を建設する運びとなった。

この大飯1、2号機は、わが国最大の120万㎾級の出力を有するアイスコンデンサータイプの加圧水型発電所で、米国ウェスティングハウス社の設計であった。当社は美浜1、2号機本館に続き、この工事を特命で受注した。

大飯発電所は発電容量が大型になったこともあり、構造、物量とも従来のものとは大きく変わっており、このときの建設工法がその後の原子力発電所建設の合理化を進めるうえでの大きな方向づけとなった。

その第1は、アイスコンデンサー装置の隔壁を兼ねて設置されたポーラークレーン支持用の構造壁施工に、2,000tmクラスの超大型クレーンを採用し、大型鉄骨の組立て、鉄筋のプレハブ化、大型機器の先入れをしたことである。この工事がきっかけとなって、原子力発電所では超大型定置クレーンの使用が工程確保のために欠かせないものとなっていった。

その第2は、遮蔽のため原子炉建屋上に設置されたコンクリート偏平ドーム(直径41m)の施工に、全荷重約2,000tの重量を仮設鉄骨を設けて吊り下げる工法を用いたことである。下部の原子炉格納容器内に設置されている機器に配慮しながらの作業は、まさに緊張の連続であった。

その第3は、原子炉建屋を中心に極太径鉄筋D-51を採用したことであった。当時、この鉄筋の構造物への大量使用は例が少なく、鉄筋継手に強還元炎圧接工法を神戸製鋼所の協力で開発し、好成績を収めた。

また、ハイブリッドのベースマットは単に構造物を支持する機能のほかに原子炉容器の一部になるため、工事の進捗の過程で官庁の厳しい検査を受け、さらに完成前には従来は機器メーカーだけで行っていた耐圧性能試験に当社も関係することになった。この経験が後のPCCVを有する原子炉格納容器のSIT(Structual Integrity Test-構造性能確認試験)を当社が行うステップともなった。

大飯1、2号機は建設用地が若狭湾に突き出た陸の孤島と呼ばれていた大島半島の先端にあり、資材搬入の建設道路ができあがっていない時期の着工であったため、約1年半は人貨とも海上輸送に頼らざるを得なかった。その間の若狭の冬の海上輸送は、後日語り草になるほど厳しいものであったが、美浜1、2号機の経験をもとに、新たな問題を一つ一つ解決し実施するとともに、原子力発電所特有の膨大な工事量の消化を連日着実に行った。その結果、1、2号機で延50万人の作業員が北陸の雨と雪に時として阻まれながら、コンクリート量32万㎥、鉄筋3万t、型枠36万㎡、鉄骨1万2,000tの大部分をわずか2年間で施工し、53年3月本館工事は無事完成した。請負金は103億3,000万円、コンクリート、鉄筋および鉄骨は支給であった。所長は安盛寿一から鈴木四郎に引き継がれた。

関西電力大飯発電所1・2号機本館
<福井県>昭和53年3月竣工
発注 関西電力
設計(一次系)ウェスティングハウス社
(二次系)関西電力
工事概要 117万5,000㎾×2基、軽水減速軽水冷却加圧水型原子炉(PWR)
(アイスコンデンサー付ハイブリッド型格納容器)
原子炉建屋/RC造一部SRC造、全高64.8m、容積8万6,000㎥×2
補助建屋/RC造、B5、2F、延2万9,000㎡
タービン建屋/S造およびRC造、B1、4F、延2万3,500㎡
付属施設/事務棟ほか
関西電力大飯発電所1・2号機本館
<福井県>昭和53年3月竣工
発注 関西電力
設計(一次系)ウェスティングハウス社
(二次系)関西電力
工事概要 117万5,000㎾×2基、軽水減速軽水冷却加圧水型原子炉(PWR)
(アイスコンデンサー付ハイブリッド型格納容器)
原子炉建屋/RC造一部SRC造、全高64.8m、容積8万6,000㎥×2
補助建屋/RC造、B5、2F、延2万9,000㎡
タービン建屋/S造およびRC造、B1、4F、延2万3,500㎡
付属施設/事務棟ほか

急成長した相互銀行

相互銀行は昭和26年(1951)に制定された「相互銀行法」に基づいて発足した中小企業専門の金融機関であった。その発展はめざましく、とくに32年から38年にかけては、日本経済の高度成長に支えられたこともあり、業容の拡大は驚異的であった。

資金量を例にとると、43年3月末の残高は4兆4,569億円で、発足当時に比較してじつに29倍の成長をみせていた。49年3月末にはそれが11兆9,932億円となり、43年のさらに倍以上に増加した。このような豊富な資金量を背景に融資の大口化が進み、一方では営業区域制限の廃止が図られ、また48年には外国為替業務も取り扱えるようになり、普通銀行と相互銀行との業務上の差はしだいになくなっていった。平成に入って次々と相互銀行が普通銀行に転換していくが、この萌芽はすでに40年代後半に始まっていたのである。

こうした相互銀行の業容拡大のなかで、有力相互銀行はそれにふさわしい新社屋を相次いで建設していった。当社も、46年に福岡相互銀行(現・福岡シティ銀行)本店、49年に静岡相互銀行(現・静岡中央銀行)本店、50年に福徳相互銀行(現・福徳銀行)京都フクトクビル、山陽相互銀行(現・トマト銀行)本店(JV)、51年に北洋相互銀行(現・北洋銀行)本店・北洋ビルを施工し、61年には全国相互銀行協会の相互銀行会館(東京)を建設した。

相互銀行以外でも地方都市でこのころ銀行社屋の建設が相次ぎ、山形銀行本店(JV)を46年、興銀ビル(札幌)を48年、北海道拓殖銀行札幌事務センター(第1期・第2期)を50年、十六銀行本店を52年に当社は施工している。

十六銀行本店
<岐阜県>昭和52年3月竣工
発注 十六銀行
設計 日建設計
十六銀行本店
<岐阜県>昭和52年3月竣工
発注 十六銀行
設計 日建設計

福岡相互銀行本店

福岡相互銀行本店は、磯崎 新氏の設計で、氏の名を一段と高めた著名な建物である。JR博多駅前に高さ50m、全面赤褐色のインド産砂岩割り肌の壁面と耐候性鋼を素材のまま大胆に用いた斬新なフォルムを見せ、当地の名物的存在となっている。

着工は昭和45年(1970)4月、地下工事では、福岡市で初めて切梁なしのアースアンカー工法を採用した。一方、外壁の100段近い石貼り工事は、石工60名を動員し、二段施工を行って工期を短縮した。

内装は、応接室、打合せ室などの小部屋を磯崎氏が選んだデザイナーに任せたほかは、空調吹出し口から家具一つ一つに至るまで氏独特のデザインが凝らされ、官庁、設計事務所、大学の見学者が工事中から多数押し寄せた。請負金は20億5,176万円、所長は千 利三郎である。

福岡相互銀行本店
<福岡県>昭和46年11月竣工
発注 福岡相互銀行
設計 磯崎新アトリエ
工事概要 SRC造、B2、11F、PH2F、延2万2,534㎡
福岡相互銀行本店
<福岡県>昭和46年11月竣工
発注 福岡相互銀行
設計 磯崎新アトリエ
工事概要 SRC造、B2、11F、PH2F、延2万2,534㎡

北洋ビル(北洋相互銀行本店)

北洋相互銀行の旧本店ビルも昭和29年(1954)当社が施工したが、その後業容が拡大し、北海道で最大の規模を誇る相互銀行の本店としては狭隘となっていた。地下鉄東西線工事計画を契機に、にわかに新本店計画が具体化し、隣接する土地を合わせて地下鉄大通駅に直結した新本店ビルを建設することになった。

49年1月に着工し、地下工事ではOWS土留壁を採用するとともに、地下鉄東西線工事が先行していたことからアースアンカー工法を採用したが、これは札幌支店としては最初の試みであった。

外装はガラスのカーテンウォール、1階の南北両面には大理石柱で囲んだピロティを設けて公共の広場とし、ビル内部にも南北に通り抜けられる幅広い公共通路があるのが特徴である。また、地下2階には地下鉄南北線、地下3階には同東西線へ連絡する公共階段があり、駅コンコースに直結したターミナルバンクとなっている。請負金は48億176万円、所長は武田鏡光である。

北洋ビル(北洋相互銀行本店)
<北海道>昭和51年1月竣工
発注 北洋相互銀行
設計 三菱地所
工事概要 SRC造一部RC造、B3、10F、PH3F、延2万1,034㎡
北洋ビル(北洋相互銀行本店)
<北海道>昭和51年1月竣工
発注 北洋相互銀行
設計 三菱地所
工事概要 SRC造一部RC造、B3、10F、PH3F、延2万1,034㎡

中東や東アジアへも進出

他産業に比べ海外への出足が遅かった建設業であったが、海外工事がこのころ順調に増え続けたのは、工事の実績が各国で高く評価されたことや現地化への努力が実ってきたことなどによるものであった。こうしてわが国の海外工事は、1979年度(昭和54年度)には過去最高の1976年度を大幅に上回る5,365億円の受注高となった。

当社の海外工事も、この時期、東南アジアを中心に中東や東アジア、米国と広域にわたった。とくにシンガポールで大型工事の完成や受注が相次ぎ、代表的工事としてシンガポール開発銀行(DBS)本社ビルと東部海岸埋立工事(第3期、第5期)、ヒューレットパッカード・シンガポール電子計算機製造工場のほか、増大する在留邦人の子弟のためにシンガポール日本人学校新校舎を建設し、この後も次々と増築した。また54年に入りシンガポール通信局本部ビル(コムセンター)やトムソンプラザ・ショッピングセンターがあった。

インドネシアでは、スカイラインビル、ホテル・サリーパシフィック(ジャカルタ東急ホテル)、帝人タンゲラン工場、セメンヌサンタラ・チラチャップセメント工場(以上ジャヤ大林施工)やスンポールダム(JV)が、マレーシアではコタキナバルでのタンジョンリパト埋立工事(JV)が大きいものであった。

イラクではバグダッドのノースゲート橋(JV)とノース橋(JV)(54年8月竣工)の2橋が、バングラデシュではシタラキヤ橋(JV)が戦禍や独立戦争など政情不安のなかで完成した。また、パラグアイでは国道6号線(エンカルナシオン~ピラポ間)(JV)が完成した。

一方、米国ではワシントン州での大規模な住宅地開発であるミルクリーク地区開発(ゴルフ場および宅地造成)を行った。

ノースゲート橋(JV)
<イラク・バグダッド市>1978年1月竣工
発注 イラク政府住宅工業省
設計 Rendel Palmer & Tritton(英国)
ノースゲート橋(JV)
<イラク・バグダッド市>1978年1月竣工
発注 イラク政府住宅工業省
設計 Rendel Palmer & Tritton(英国)
シンガポール通信局本部ビル(コムセンター)
<シンガポール>1979年3月
発注 シンガポール政府通信局
設計 BEP設計事務所
シンガポール通信局本部ビル(コムセンター)
<シンガポール>1979年3月
発注 シンガポール政府通信局
設計 BEP設計事務所

シンガポール開発銀行(DBS)本社ビル

1971年(昭和46)、当ビルに着手するころのシンガポールはビルラッシュで、現場の周囲でも30~45階建のビルが同時に5棟建設中であった。地下2階、地上50階建のうち、地下躯体工事は別途発注で先行しており、当社は地上工事(地下仕上げ工事も含む)を国際入札で獲得し、同年4月着工した。

地震国日本ではこのような超高層ビルは当然S造となるが、シンガポールでは地震も台風もないため、経済的なRC造となっていた。したがって工期や安全の面で配慮すべき点も多く、高層用人荷エレベータの使用や西独製の高性能コンクリートポンプの使用などにより施工能率の向上を図った。また、砂、砂利、煉瓦などわずかの基礎資材以外ほとんどの建設資材、設備機器類を輸入したため、それらの到着遅延による工事停滞が起こらぬよう最大の注意を払った。

そのおかげで全世界をおおった石油危機の影響もほとんど受けることなく、1975年1月末に当初の予定どおり工事は完成した。請負金は3,625万シンガポールドル(邦貨約43億円)、所長は岸 隆司である。

なお、平成4年現在、低層部の一角に、(仮称)DBS第2タワーを建設中である。

シンガポール開発銀行(DBS)本社ビル
<シンガポール>1975年1月竣工
発注 シンガポール開発銀行
設計 ARCHTECTS TEAM3
工事概要 RC造、B2、低層部7F、高層部50F、延7万9,500㎡
シンガポール開発銀行(DBS)本社ビル
<シンガポール>1975年1月竣工
発注 シンガポール開発銀行
設計 ARCHTECTS TEAM3
工事概要 RC造、B2、低層部7F、高層部50F、延7万9,500㎡
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