昭和40年代に入り、公的機関、民間による住宅・宅地の供給はともに著しく増加したが、40年代後半になると地価の高騰や大規模団地開発にあたり必要とされる水資源の確保、大量輸送機関の建設等が円滑に進まず、さまざまな宅地供給への制約要因が顕在化してきた。しかし、根強い宅地需要はとくに三大都市圏で著しく、46年(1971)~50年の実績では、全国の宅地供給実績6万7,600㏊のうち、三大都市圏は3万2,400㏊と約48%を占めていた。
ところで、千里(15万人、開発済み)、多摩(41万人)、泉北(18万人)、北摂(13万人)の各ニュータウンは公的機関によるわが国の当時の代表的なニュータウンであるが、供給主体別にみると、46~50年では公的機関約17%、区画整理事業によるもの約25%、民間デベロッパー等が約56%と民間による供給が半数を超えた。また、この時期、三大都市圏の宅地では外延化(ドーナツ化現象)が進み、そのほとんどが20~30㎞圏に集中し、とくに首都圏ではさらに外延部である40~50㎞圏の立地も目立ってきた。
当社の宅地造成工事も、この時期、三大都市圏から広島、九州各県、北海道にまで広がっていった。そのうち、大型宅地造成工事を地域別に一覧すると以下のようになる。
<兵庫>
クラレ不動産宝塚中山台ニュータウン、日生鈴蘭台ニュータウン、阪急日生ニュータウン、神戸市須磨ニュータウン落合団地、兵庫県北摂ニュータウン南地区
<奈良>
西大和開発西大和ニュータウン、伊藤忠生駒イトーピア、東急土地開発あやめ池宅地、近鉄不動産真弓住宅地(JV)
<その他の西日本>
日生不動産岡崎滝団地(愛知県)、デベロッパー三信八幡宅地(滋賀県)、東洋不動産紀の川東洋台宅地(和歌山県)、近鉄不動産三滝台宅地(三重県)、近畿日本鉄道桔梗が丘住宅地(三重県)、広島県廿日市地区住宅団地(JV)、ハイビレッジ観光熊野皇帝ハイツ(広島県)、栄泉興産熊本泉ケ丘住宅地(熊本県)、丸善石油不動産日豊八景山ニュータウン(JV)(福岡県)
<東日本>
大林不動産宇都宮長岡(栃木県)、佐倉市臼井駅南土地区画整理組合事業(千葉県)、高野観光開発岩見沢西ニュータウン(北海道)、大林不動産湘南桂台(神奈川県)、成瀬土地区画整埋事業(東京都)
大林不動産湘南桂台
湘南桂台の宅地造成は大林不動産(旧・浪速土地)が事業主として企画、当社が設計・施工を担当し、大林道路が道路を舗装、一部に大林ハウジングが住宅を建設した、文字どおり“大林グループ”の総力を結集しての事業であった。
東海道線大船駅から東方3.5㎞、京浜東北線(根岸線)本郷台駅から南東1.5㎞の高台に位置し、敷地面積110㏊のニュータウンの造成工事は、第1次工事が昭和46年(1971)3月まで、続いて第2次工事は47年7月から始まり、56年3月に完成した。
当工事は、横浜市においては初の民間デベロッパーによる超大型造成工事であったため、監督官庁で注目の的となり、県下では初の調整池{注}の築造も義務づけられた。切盛土量700万㎥に大型重機械を投入し、盛土では当時日本に数台という自走式コンパクターで入念に転圧を施した。排水は雨水、汚水の分流式となっており、延長9万mの排水管を埋設した。宅地内擁壁は大谷石積みとして敷地全体にあたたかさを感じさせ、その面積は9万2,000㎡、外周の擁壁は5万2,000㎡の間知ブロック積みとして重厚な安定感をもたせている。
第2次工事では設計上も第1次工事の教訓を生かして種々の新機軸を取り入れていた。住宅地内を静かな環境に保つため、道路をループさせて通過交通を極力減らすようにし、中央に自然の地形を利用した1万2,000㎡の公園を設けるとともに、各所に小公園を設け、それを有機的に結ぶ全長1,200mの歩行者専用道路を通って公園、ショッピング等に行けるよう配慮した。
こうしてじつに着工以来13年8カ月という長い年月を経て第1次、第2次の全工事は完成した。労働延人員48万7,500人、労働延時間は390万時間にも達し、全工期無災害という金字塔を打ち立て、53年労働大臣進歩賞の栄誉に輝いた。当住宅地には、イトーヨーカドーを中心としたコミュニティセンター、中学校1校、小学校2校、11カ所の児童公園、少年野球場、花壇を備えた歩行者専用の緑道など、“ゆとりを形にした町”に約1万人の人々が独立家屋2,669戸、4~5階の集合住宅32棟(679戸)で生活を始め、最初の入居が始まってからはや20年がたつ。請負金は第1次、第2次合計で112億2,700万円、所長は小川 要である。なお、60年代にも第4次造成工事(第3次は未着工)を行った。
注 調整池:山林を開発することによって、降雨時に雨水が急激に流れ出し下流の河川が氾濫するのを防ぐため、水を一時湛水させて、徐々に放流していく池。
阪急日生ニュータウン
阪急日生ニュータウンは、兵庫県川西市から猪名川町にまたがる北摂丘陵地帯に、面積360㏊、計画人口3万人に及ぶ民間としては異例の一大ニュータウンを開発するものである。
事業主は日本生命、販売は新星和不動産であるが、当社はこの計画に初期から参画し、パイロットプランの作成から実施設計や許認可業務まで施主と共同で行った。
第1次地域として、昭和45年(1970)5月から255㏊の造成工事に着手した。この丘陵地は谷部の浸蝕が深く、また独立した山もあり、約1,400万㎥の大量の切盛土を行う必要があった。土工事の最盛期であった40年代後半には、40~70tのモータスクレーパ30台を主力にして、運土量は日量3万㎥に及んだ。
第1次地域には、戸建住宅用地約4,500区画、集合住宅約1,000戸分の宅地と、小学校2校、中学校1校(平成3年現在未開校)、調整池2カ所(計10万t)や歩行者専用道など公的用地とショッピングセンター3カ所を含んでいる。販売は51年4月から開始され、平成3年まで3,500区画を販売、約1万2,000人の居住をみている。この間、当社の施工で能勢電鉄日生線2.7㎞を敷設し、53年12月に日生中央駅がオープンした。民間のニュータウンのために鉄道が敷設されたのは大変珍しい例である。ちなみに、日生線の請負金は約40億円であった。
当住宅地開発事業について、62年6月、兵庫県から良質な宅地として「緑のまちなみ賞」が授与されたが、この開発事業のうち第1次地域の工事は平成6年3月をもって完了する予定である。総請負金は390億円にのぼる見込みで、所長は当初10年が大北五郎、続いて十河信正、竹内忠正と引き継がれている。
成瀬土地区画整理事業
当事業のうち第1弾92.2㏊の開発は昭和45年(1970)4月~49年9月に行った。49年に完了をみた成瀬土地区画整理事業に続いて、その後、同南土地区画整理事業(99.9㏊)、同中央土地区画整理事業(23.2㏊)、同西土地区画整理事業(15.6㏊)と開発地を次々と広げ、ほかに三輪土地区画整理事業(71.4㏊)や高ケ坂土地区画整理事業(6.2㏊)など周辺での大規模な事業も実施された。
この間、当社は、都営成瀬団地造成工事、上谷戸土地区画整理事業の工事など、他の多くの宅地造成工事(官民合わせて66.8㏊)を実施、これと並行してJR横浜線成瀬駅工事や各開発地区を結ぶ都市計画道路、橋梁工事などにも携わり、機能的かつ快適な都市環境整備の一翼を担い、常に良質な宅地開発の造成に努力し続け、東京のベッドタウンとしての町田市の総合的な街づくりに大いに寄与した。また、22年間死亡事故を1件も出さず、54年9月より13年間386万時間以上の無災害記録を樹立したことは特記すべきことである。
平成3年9月には、同7年完成を目標に新たに開発される成瀬東土地区画整理事業13.2㏊の工事に着手した。今回の開発地は、緑の豊富な町とするため開発面積の27.4%の緑地を確保し、東南地区境に幅20m、長さ700mの現況林を保存するなど、緑のネットワークを形成するよう計画された宅地開発となる予定である。なお、成瀬南土地区画整理事業を青木建設と地区別分担施工した以外はほとんど当社単独施工で、請負金は平成3年度現在までで447億円で、今後も相当の工事が予定されている。所長は大塚 穰から江原豊彦へと引き継がれている。
博覧会始末記
戦後、日本で開催された万国博覧会は、一般博である日本万国博覧会(昭和45年3~9月)、特別博である沖縄国際海洋博覧会(50年7月~51年1月)、科学万博-つくば'85(60年3~9月)、国際花と緑の博覧会(平成2年4~9月)があった。そして、いわゆる地方博も、56年に開催されたポートピア'81を先鞭として、その後、63年から平成元年にかけてアジア太平洋博、横浜博、ならシルクロード博、名古屋デザイン博、さいたま博など花盛りとなった。
エッフェル塔や水晶宮がパリ万博やロンドン万博のとき建設されたように、万国博覧会ではいつも建築技術の多くの夢が試みられてきた。
大阪万博のときもこれは同様であった。
会場は、建築技術のコンクールの様相を呈し、各アーキテクトは万博建築に未来都市の構想をかけ、その技術を競った。その代表がお祭り広場に建設された大屋根のスペース・フレーム構造であり、アメリカ館に採用された空気膜構造であった。当社はお祭り広場を3社JVの幹事会社として、またアメリカ館は単独でその施工に当たったが、前者では世界の建築史上でも例がない大規模な大屋根架構をリフトアップ工法で行い注目を集めた。また、当時世界最大のアメリカ館のエアドームの施工に対しては、日本の建設業者として初めて米国建築学会賞が授与された。大阪万博でのこうした建築技術は、現在の建築に直結し展開をみせているという点で、画期的なものであった。
下写真は、沖縄海洋博、つくば科学博、花博の各々の博覧会での当社の施工物(大阪万博の写真は本文189ページに掲載)であるが、パビリオンの多くは博覧会終了後取り壊される運命にあり、建設業者はつい数カ月前造ったものを今度は解体するという工事に取りかかる。以下は、大阪万博会場施設の撤収工事についての『マンスリー大林』45年11月号の記事の一部である。
◇ ◇ ◇
「……開幕以前の建設ピークには約30職種にわたる作業員が2万人ほど活躍していたが、この撤収作戦には、トビ工、斫り工、ガス工、重機工などで、せいぜい5,000人前後。現在のところ決定している当社担当の解体工事は、アメリカ、ギリシャ、キューバ、ハワイ州、みどり、日立グループ、ガスパビリオン、せんい、松下、タイの計10館。
どのパビリオンをとっても撤収作業にはそれなりの苦労をしているが、今のところは爆破・レーザー光線・凍結法などの“新しい試み”は現われていない。コンクリートの床は砕いて深さ1.5m以上に埋め込み、その上に良質な土を盛ること、爆破工法は危険だから使わないこと、破壊した材料はすべて会場外に運び出すこと……と、協会が示した撤収工事の基準がなかなか厳しいためだ。あるパビリオンではあらかじめ爆薬を入れる穴を40カ所ほどあけておいたのだが、結局爆破作戦はあきらめたという。しかしここは建築工学にとって実験材料の宝庫といえる。たとえばパビリオンに火をつけ、鉄材の強度、新建材からの煙の出方・回り方の研究もできるし、地震を想定しての強度実験もできる。またエアドームがどのくらい実用に耐えうるかを試みるかっこうの場でもある。実際各方面からもこれらの諸実験の申し出は多く、ある程度の制限はあるが実施される見通しだ。
さて、この“史上最大の撤収作戦”ではほとんどのパビリオンが解体組に属するわけだが、(中略)第2の人生(館生?)を踏み出す幸運なパビリオンもある。その移転先を拾い上げてみると、オーストラリア館の四日市市、スカンジナビア館の北海道・石狩町、ケベック州館の北海道・日高市、タカラビューティリオンの奈良市など11館が決まっている。またここを永住の地としたものには万国博ホール、美術館、日本庭園、日本館、日本民芸館、鉄鋼館、お祭り広場(太陽の塔)、エキスポランドがある。
国際博覧会条約と日本万国博一般規則では、原則として会場の展示物は1カ月以内、パビリオンは6カ月以内に参加者の負担で撤去することが定められているから、各館とも展示品の始末は入札、寄付、その他の方法により一応メドがついている。(中略)チェコスロバキア館の入口横にあった“STONE AND FIRE”という石の彫刻を思い出していただきたい。実はこの彫刻、万博終了直後に当社と大阪市との間で入札が行われた結果、330万円で当社のものとなった。やがて新本店ビル完成のあかつきには、そこに飾られるであろうが、それまではとりあえず大阪機械工場で保管されることになっている。……」
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こうして現在、大阪万博会場跡地は「万博記念公園」として大阪市民の憩いの場となっている。一方、沖縄海洋博、花博の跡地も公園として整備されたが、前者は「沖縄海洋博記念公園」として整備され、水族館、イルカ館、海上都市「アクアポリス」、熱帯植物園(拡充)、沖縄館各施設は平成4年末現在も健在である。また、後者では大温室、いのちの塔、山のエリア、花の谷、大池噴水、国際展示場(半分をスポーツ施設として使用)がそのまま残され「花博記念鶴見緑地公園」として整備された。国際展示場の残り半分(花の展示場)、松下記念館(国際陳列館)、迎賓館(国際技術環境センター)、アミューズメントゾーン(乗馬園)が平成5年には整備が完了してオープンする予定である(カッコ内は新施設名)。
また、つくば科学博の会場跡地は筑波西部工業団地として整備され、当社はここで、保土谷化学工業、東ソーの各研究所建設に携わった。科学博の施設として残されたものは、つくばエキスポセンターと団地の一角に公園(元エキスポパーク)、そして万博協会本部は改修され、ある企業の迎賓館として使用されている。
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地方博では、ポートピア'81会場跡地のポートアイランド高層集合住宅提案競技で当社グループ案が当選し、共同事業主としてポートピアプラザの建設事業を行った。また、アジア太平洋博が行われたシーサイドももちでは九州初の高層RC集合住宅・ハイアット・レジデンシャルスウィート・福岡を施工するとともに、福岡市主催の福岡リサーチパーク開発計画公募で見事当選した松下電器産業案の設計業務にも参画した。
さらに、横浜博跡地「みなとみらい21」で当社は、日本一の高さとなる25街区ランドマークタワー(JV)と三菱重工ツインタワー1期棟(JV)その他、土木工事の施工に当たっている。