大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

4 重要工事を次々に完成

■―人絹工場ほかの主要工事

関東大震災に際し政府、日銀の救済措置は通貨の増発となってインフレーションを起こし、一時的な復興景気を招いたが、以後は政府の緊縮政策によって不景気となり、諸産業はふるわなかった。そのなかにあって人絹工業が新興産業の花形として勃興してきた。

大正7年(1918)の帝国人造絹絲(現・帝人)の設立がその先駆となり、13年、旭絹織(現・旭化成工業)がドイツの特許によるビスコースレイヨンの製造を開始したことにより急速に興隆した。15年には東洋レーヨン(現・東レ)、日本レイヨン(現・ユニチカ)、倉敷絹織(現・クラレ)などが設立され、政府は同年、輸入レイヨン糸に対し高率関税を課して保護措置をとった。

当社は14年に旭絹織膳所工場、帝国人造絹絲岩国工場を、翌15年に東洋レーヨン滋賀工場、昭和2年には倉敷絹織倉敷工場を受注している。これらはいずれも大工事で、100万円を超える工事が少なかった当時にあって、旭絹織膳所工場は125万円、帝国人造絹絲岩国工場は229万円、東洋レーヨン滋賀工場は420万円という画期的な請負金額であった。なお、これら諸工場は時流に乗って拡張を重ね、追加工事も相次いで発注された。

大正末期には電気事業も隆盛となった。電力業界は乱立から合併へと進み、関東地方の東京電燈、関西地方の宇治川電気、大同電力、日本電力、中部地方の東邦電力のいわゆる五大電力が形成され、市場拡張競争にしのぎを削っていた。当社が13年5月に完工した信越電力中津川第1発電所は工費380万円、15年着工の神岡水力電気高原川第4水力発電所工事は110万円を超えた。このほか宇治川電気木津川発電所、広島電気江ノ川熊見発電所、その他多くの電源開発工事を施工し、火力発電でも請負金額235万円を超える日本電力尼崎発電所など、多数の大型工事に従事した。

鉄道、橋梁関係でも、愛知電気鉄道、飯山鉄道、新京阪鉄道天神橋新淀川間高架線および天神橋停留場(新京阪ビル)、阪神急行電鉄西宮北口今津間線路、同新淀川及び長柄運河橋梁、大阪電気軌道上本町停留場(大軌ビル、のち近鉄上六ビル)などがある。阪神国道改修に際し架設した西成大橋(完成時に淀川大橋と命名)は、阪神間の産業動脈を貫通する大工事として知られ、請負金額は100万円を超え、1橋梁の工事費としてはまれにみるものであった。

これらのほか大正末期における主要工事には、公共工事で、那須御用邸、明治神宮外苑競技場、兵庫県港務部庁舎、東京帝国大学工学部応用化学教室、横浜生糸検査所、東京府美術館、大阪府立浪速高等学校、日本銀行神戸支店、新宿駅本屋、八重洲橋、堂島大橋など、民間工事では大阪倶楽部、鴻池銀行本店、住友銀行名古屋支店、日本勧業銀行大阪支店、宝塚ホテル、順天堂医院本館、神戸住友倉庫、江商ビルディング、大阪三品取引所、甲子園球場などがある。

大阪三品取引所の工事には、大阪で初めて鉄製ガイデリックが用いられた。大阪倶楽部は大正2年、木造で当社が施工し、当時から有名であったが、11年末、鉄骨鉄筋コンクリート造に改築され、大正末期の代表的建築として現在残された数少ないものの一つとなっている。また、甲子園球場は13年、甲子の年に阪神電気鉄道が全国中等学校(現在の高等学校)野球大会を主目的に開設し、東洋最大と称された。名物の大鉄傘は、昭和18年、戦時下の金属回収令によって解体撤去されたが、戦後復活した。

帝国人造絹絲岩国工場 <山口県>大正15年8月竣工
帝国人造絹絲岩国工場 <山口県>大正15年8月竣工
東洋レーヨン滋賀工場 <滋賀県>昭和2年6月竣工
東洋レーヨン滋賀工場 <滋賀県>昭和2年6月竣工
信越電力中津川第1発電所 <新潟県>大正13年5月竣工
信越電力中津川第1発電所 <新潟県>大正13年5月竣工
阪神国道淀川大橋 <大阪府>大正15年3月竣工
阪神国道淀川大橋 <大阪府>大正15年3月竣工
明治神宮外苑競技場 <東京都>大正13年2月竣工 設計 佐野利器、小林弥一
明治神宮外苑競技場 <東京都>大正13年2月竣工 設計 佐野利器、小林弥一
大阪倶楽部(建替) <大阪府>大正13年5月竣工 設計 安井武雄建築事務所
大阪倶楽部(建替) <大阪府>大正13年5月竣工 設計 安井武雄建築事務所
鴻池銀行本店 <大阪府>大正13年4月竣工 設計 長野宇平治
鴻池銀行本店 <大阪府>大正13年4月竣工 設計 長野宇平治
甲子園球場 <兵庫県>大正13年7月竣工 設計 当社
甲子園球場 <兵庫県>大正13年7月竣工 設計 当社

■―多摩御陵工事と即位御大典工事

大正15年(1926)12月25日崩御された大正天皇御斂葬のため、東京府下浅川に多摩御陵が造営されることになり、同月27日、当社に対し御陵と東浅川仮駅建設工事が下命された。明治天皇の伏見桃山御陵、昭憲皇太后の伏見桃山東陵に次ぐ、3回目の御陵工事特命である。当社はただちに事務所を東京府南多摩郡横山村下長房に設け、昼夜兼行で工事に奉仕した。

御大喪(葬)は昭和2年2月7日、新宿御苑においておごそかに行われ、梓宮(霊柩)列車は千駄谷仮駅から東浅川駅に向かった。翌8日未明、多摩御陵で御斂葬が行われるにあたり、社長大林義雄はとくに玄宮奉仕を許された。

引き続き、御陵造営の本工事も特命により奉仕し、この年12月大任を果たした。

翌3年3月、その秋京都で行われる天皇即位御大典の諸工事を、大礼使から特命された。

特命を受けたのは京都御所内御苑の饗宴場、第1朝集所、第2朝集所などであるが、大饗宴場工事はとくに重視された。諸工事には万全を期して順調に進み、御大典は11月10日に即位式、14日に大嘗祭、16日を第1日とする大饗宴が盛大に挙行された。

多摩御陵 <東京都>昭和2年12月竣工
多摩御陵 <東京都>昭和2年12月竣工
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