■―人絹工場ほかの主要工事
関東大震災に際し政府、日銀の救済措置は通貨の増発となってインフレーションを起こし、一時的な復興景気を招いたが、以後は政府の緊縮政策によって不景気となり、諸産業はふるわなかった。そのなかにあって人絹工業が新興産業の花形として勃興してきた。
大正7年(1918)の帝国人造絹絲(現・帝人)の設立がその先駆となり、13年、旭絹織(現・旭化成工業)がドイツの特許によるビスコースレイヨンの製造を開始したことにより急速に興隆した。15年には東洋レーヨン(現・東レ)、日本レイヨン(現・ユニチカ)、倉敷絹織(現・クラレ)などが設立され、政府は同年、輸入レイヨン糸に対し高率関税を課して保護措置をとった。
当社は14年に旭絹織膳所工場、帝国人造絹絲岩国工場を、翌15年に東洋レーヨン滋賀工場、昭和2年には倉敷絹織倉敷工場を受注している。これらはいずれも大工事で、100万円を超える工事が少なかった当時にあって、旭絹織膳所工場は125万円、帝国人造絹絲岩国工場は229万円、東洋レーヨン滋賀工場は420万円という画期的な請負金額であった。なお、これら諸工場は時流に乗って拡張を重ね、追加工事も相次いで発注された。
大正末期には電気事業も隆盛となった。電力業界は乱立から合併へと進み、関東地方の東京電燈、関西地方の宇治川電気、大同電力、日本電力、中部地方の東邦電力のいわゆる五大電力が形成され、市場拡張競争にしのぎを削っていた。当社が13年5月に完工した信越電力中津川第1発電所は工費380万円、15年着工の神岡水力電気高原川第4水力発電所工事は110万円を超えた。このほか宇治川電気木津川発電所、広島電気江ノ川熊見発電所、その他多くの電源開発工事を施工し、火力発電でも請負金額235万円を超える日本電力尼崎発電所など、多数の大型工事に従事した。
鉄道、橋梁関係でも、愛知電気鉄道、飯山鉄道、新京阪鉄道天神橋新淀川間高架線および天神橋停留場(新京阪ビル)、阪神急行電鉄西宮北口今津間線路、同新淀川及び長柄運河橋梁、大阪電気軌道上本町停留場(大軌ビル、のち近鉄上六ビル)などがある。阪神国道改修に際し架設した西成大橋(完成時に淀川大橋と命名)は、阪神間の産業動脈を貫通する大工事として知られ、請負金額は100万円を超え、1橋梁の工事費としてはまれにみるものであった。
これらのほか大正末期における主要工事には、公共工事で、那須御用邸、明治神宮外苑競技場、兵庫県港務部庁舎、東京帝国大学工学部応用化学教室、横浜生糸検査所、東京府美術館、大阪府立浪速高等学校、日本銀行神戸支店、新宿駅本屋、八重洲橋、堂島大橋など、民間工事では大阪倶楽部、鴻池銀行本店、住友銀行名古屋支店、日本勧業銀行大阪支店、宝塚ホテル、順天堂医院本館、神戸住友倉庫、江商ビルディング、大阪三品取引所、甲子園球場などがある。
大阪三品取引所の工事には、大阪で初めて鉄製ガイデリックが用いられた。大阪倶楽部は大正2年、木造で当社が施工し、当時から有名であったが、11年末、鉄骨鉄筋コンクリート造に改築され、大正末期の代表的建築として現在残された数少ないものの一つとなっている。また、甲子園球場は13年、甲子の年に阪神電気鉄道が全国中等学校(現在の高等学校)野球大会を主目的に開設し、東洋最大と称された。名物の大鉄傘は、昭和18年、戦時下の金属回収令によって解体撤去されたが、戦後復活した。