■―大阪市築港工事と危機突破
明治22年(1889)2月、大日本帝国憲法の発布と同時に会計法も公布された。そのなかで、国が当事者の一方として行う工事、物件の売買賃借等の私法上の契約は、原則として一般競争入札によるべきものとされ、これが請負業界に与えた影響は大きかった。
すなわち従来、特命見積り方式によって特権的に受注し、保護されていた業者と並んで、当社のような無名、新参の業者にも平等に受注の機会が与えられたからである。しかし、入札制度に対応するためには、企業自らが合理化を図り、技術的にも確かなものをもつ必要があり、この努力を怠ったところは消え去るしかなかった。由五郎が人材を結集し、誠実施工に徹し、積極的に入札に応じたのは、この新しい波に乗るためであり、これによってまた事業を拡大していったのである。
当社が入札によって獲得し施工した最初の大工事は、大阪市築港工事であった。
江戸時代に天下の台所を支えた大阪港も、維新後、土砂の流入によって機能が低下し、繁栄は新興の神戸に奪われていった。その地位を奪回するには築港の大工事が必要であり、31年から8カ年計画、予算2,167万円で執行することが決定された。大阪市の年間予算が1,000万円に満たない時代である。
由五郎も進んで入札に参加、まず手始めに受託したのは天保山旧砲台敷地の築港事務所建築で、同年8月完成した。その工事中、木津川尻の海面2万5,000坪(8万2,500㎡)を埋め立て、ブロックヤード(防波堤に使用するコンクリートブロックの製造用地)を築造する工事を11万6,000円で落札した。
埋立地点は周囲に「シガラ」を組み、これを土留めとして、大和川尻から小船で運んだ荒目砂を投げ入れた。荒天のときはこれが流出するのを防がねばならず、大変な難工事であったが、契約どおり同年末に竣工した。
ブロックヤードができると、コンクリートブロックをつくる装置を備えて盛んにブロックをつくった。沖にブロックを置くまでの沈床工事として石材を海中に投棄したが泥が深く、数年がかりでようやく上部にブロックを置くことになる大工事であった。
築港のうち埠頭大桟橋は、36年8月から使用され、38年7月には南北両防波堤も竣工した。この間由五郎は、倉庫、桟橋などの建設や、木材、捨石、間知石、栗石、砂利などの材料調達、人夫の供給など総額200万円を超える仕事を受託している。築港工事はその後も数次にわたり継続されたが、当社が最も大きく参画したのは、この時代であった。
大阪市築港工事と並行して、31年住友銀行広島支店、32年日本銀行大阪支店本館基礎、日本繊糸麻工場、大阪市中大江尋常小学校、滋賀県尋常師範学校、京都蚕業講習所、住友本店倉庫、大阪府第二師範学校、33年大阪工業学校冶金窯業工場、北酉島樋管新設、大阪府師範学校、大阪府第七尋常中学校、東京倉庫大阪支店倉庫などの諸工事を請け負った。
これらの工事のうち、大阪府師範学校工事が図らずも重大な危機を招いた。それは工事の監督、用材の検査が常識を超える厳格なもので、不合格とされた木材は山をなしたという。そのため、この工事によって莫大な損害をこうむったが、それは折悪しく大阪に始まった金融恐慌の最中であった。大阪市築港工事と同時に多数の工事を施工中であった由五郎も、この恐慌によって金融難に陥り、万策つきて築港工事返上を申し出た。これを聞いた築港事務所の西村捨三所長は当社なくしては工事不可能と考え、岡 胤信工務部長、内山鷹二庶務部長その他幹部らとはかって救済策を講じ、その結果、金融の道が開けて、危機を突破することができた。
由五郎が工事の返上を口にしたのは、その生涯でこのとき以外にはない。それを救ったのは西村所長以下の好意であるが、そこには仕事を超えた心の結びつきがあった。この相互信頼は後に内山、岡を大林の人として迎えるもととなるのである。
由五郎は業界に入って最初の危機をこうして乗り越え、創業期の基礎を固めたのであった。