大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

2 大陸への進出

■―株式会社満州大林組

昭和6年(1931)の満州事変勃発以降、7年3月の満州国建国をはじめとして、わが国は満州地方(現在の中国東北部地域)の経営を着々と進めていった。一つにはソ連に対抗する軍事的見地からであり、一つにはわが国の支配圏拡大と経済的発展を図る見地からであり、これらは融合されて満州への進出は当時の国策となった。国際的孤立化の進むなかで、日満一体の経済強化が図られ、有力企業も続々と満州に進出した。

こうした気運のなかで当社も満州地方の需要に応ずるため、6年に大連に出張所を設けて同地方への進出を足がかりとし、8年には支店に昇格した。

工事量の増大に伴い9年1月、大連支店管下に新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)両出張所を、12年9月、鞍山出張所を開設した。さらに12年1月には中国本土の華北に天津出張所、13年2月、北京支店を設け、大連支店を奉天に移し、大連を出張所とした。14年8月には華中の拠点として上海に出張所を開設した。

そのころ世界情勢は緊迫の度を強め、わが国はますます日満一体化政策を進め、中国をも含めた東亜新秩序建設を目指した。そして満州における日本企業は現地法人として現地に奉仕する政策がとられ、当社も15年3月、株式会社満州大林組を設立した。満州国および関東州内の支店、出張所を廃し、その事業を継承したものである。

資本金は500万円(満州国国幣全額払込)、本店は新京に置いたが、翌4月奉天市大和区加茂町16(旧支店所在地)に移し、新京に支店を設けた。役員には次の者が就任した。

取締役社長=大林義雄(当社社長)、常務取締役=高橋誠一(同取締役前奉天支店長)、取締役=白杉嘉明三(同専務取締役)、鈴木 甫(同常務取締役東京支店長)、近藤博夫(同常務取締役)、中村寅之助(同)、本田登(同取締役東京支店現業部長)、石田信夫(同取締役本店営業部長)、中安治郎(同前東京支店営業部長)、塚本 浩(同前本店庶務部長)、監査役=植村克己(同常務取締役)、皆川成司(同前奉天支店次長)、田邊信(同監査役)

満州大林組は満州国および関東州で、国策のもとに各種工事に従事したが、20年8月の終戦により、すべて烏有に帰した。

満州大林組は設立当初、駐在役員を含め256名が在籍し、終戦時には353名に増加したが、このうち現地召集を受けて軍務につき、戦死した者や抑留された者も多い。また、戦後無事帰還した者も引揚げに際して言語に絶する辛苦に堪えたことはいうまでもない。

満州大林組のあった建物(瀋陽・平成2年撮影)
満州大林組のあった建物(瀋陽・平成2年撮影)

■―代表的建築を施工

大陸に進出した当社は、まず昭和8年(1933)2月、関東軍司令部庁舎の新築工事を受注し、翌9年には満州国国務院庁舎、満州中央銀行の建設に着工したが、これらはいずれも新興満州国の首都新京を代表する建築物であった。なかでも満州中央銀行は竣工までに4年2カ月を要し、地下2階、地上4階、鉄骨鉄筋コンクリート造、延2万6,400㎡の壮麗なもので、当時満州随一の建築といわれた。

このほか新京、奉天の官民のビル、工場建築、各種軍工事、満鉄関係の建築、鉄道工事などを施工していった。

満州大林組設立後も土木関係では満鉄線路、橋梁工事をはじめ工場土木工事など、建築では満州国宮廷宮殿、満鉄の奉天総合事務所や局舎・社宅、民間の各種工場・社宅・事務所など、施工したものは数多い。

関東軍司令部庁舎 <満州>昭和9年8月竣工
関東軍司令部庁舎 <満州>昭和9年8月竣工
満州国国務院民政部庁舎 <満州>昭和13年10月竣工
満州国国務院民政部庁舎 <満州>昭和13年10月竣工
満州中央銀行 <満州>昭和13年9月竣工 設計 西村好時建築事務所
満州中央銀行 <満州>昭和13年9月竣工 設計 西村好時建築事務所
満州鋳鋼所鞍山工場 <満州>昭和10年12月竣工 設計 当社
満州鋳鋼所鞍山工場 <満州>昭和10年12月竣工 設計 当社

■―異国の地での受難

大陸進出に伴い、治安の万全でない地域で勤務する職員の身には危険がつきまとった。なかでも最大の悲劇は昭和12年(1937)7月29日に起きた通州事件で、天津出張所関係者6名が犠牲となった。

通州は北京の東方25㎞、天津の西北100㎞の地点にあり、当時地方政権の冀東防共自治政府が置かれていた。事件は前々日の27日、中国第29軍の日本守備隊攻撃に始まり、わが軍はこれを撃退したが、次いで自治政府の保安隊が反乱を起こし、婦女子を含む日本人三百数十人が殺害された。

このとき当社は同政府との契約により、2階建回廊式の中央市場建設のため、天津出張所から下記7名を赴任させていた。

技術社員=蔵本長久(主任)、山下磐夫、技術員=長島謙一、同夫人ますの、事務雇=大住 勉、定夫=瀬田千代熊、下請負人=明渡高一

彼らは第29軍の来襲に際し、守備隊の防戦に協力したが、撃退後、負傷者の手当てや戦死者の収容に努め、28日夜は旅館や事務所などに分宿した。その翌朝未明、保安隊の襲撃を受けたもので、瀬田は奇跡的に免れたが、他はいずれも遭難した。

出張所主任中原忠衛の報告により、本社から社長代理として常務取締役近藤博夫、役員代表として監査役妹尾一夫が現地に派遣され、8月18日、大連市東本願寺別院において取締役大連支店長高橋誠一を葬儀委員長とする社葬が盛大にいとなまれた。当社が大陸に進出して以来、初めての殉職者であった。

さらに対ソ関係の緊張につれてソ満国境の防備が急がれて、この方面の工事も増大したが、人跡まれな辺境で治安が悪く危険を伴うことが多かった。

その一つに、三江省南叉で満鉄第1077号軍用工事に赴いた伊藤秀利が匪賊に連れ去られた事件がある。14年5月3日のことで、工事事務所と宿舎は焼かれ、下請世話役以下4名は死んで、彼は連行されたまま消息を絶った。以後、満州大林組になってからも捜索に努めたが、ついに手がかりを得られず、満2年後の同日付をもって殉職と認定した。

また、同省勃利県杏樹出張所の助友 猛主任が匪賊に襲われたのも、そのころであった。彼は飛行場建設工事に赴任中、旅館を襲撃され、浴槽にひそんで、かろうじて難をのがれたといわれる。

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