大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第3章 大型景気のなかの躍進

成長続ける日本経済

昭和39年(1964)の東京オリンピックの華々しさの裏には、不況の影がしのび寄りつつあったが、オリンピックが終わると一層明確となり、40年には不況色が濃くなった。いわゆる40年不況の到来であった。その主因は、伸び続けてきた民間設備投資の調整作用にあったといわれている。

当時、戦後最大といわれたこの不況を脱出する原動力は、戦後初の赤字国債発行と輸出であった。約1年間続いた40年不況を脱した後の日本経済は45年7月まで、記録的な長期好況を謳歌し、俗に“いざなぎ景気”と呼ばれた。経済成長率は41~45年度は連続して実質で10%を超え、年平均11.6%、名目では17.3%という高率に達した。

アメリカ経済も長期好況下にあり、主要西欧諸国も好況下にあったことや、わが国のこれまでの設備近代化投資の成果として、工業品、とくに重化学工業品の国際競争力を強化し、輸出が著しく伸びたこと、カラーテレビ、カー、クーラー(3C)などに代表される耐久消費財ブームが起きたこと、これらを反映して設備投資が再び活況となり拡大したことなどが、この好況を支えた。

43年にはGNPはついに西ドイツを抜いて、自由諸国のなかではアメリカに次いで第2位となった。この年は明治100年にも当たり、明治以降の産業近代化政策1世紀の成果であった。

一面、43年以降は国際収支の黒字基調も定着し、国際経済摩擦を呼ぶことにもなった。

45年の生産実績を産業別にみると、世界1位となったのが造船、テレビ、トランジスタラジオ、トラックなどで、合成繊維、合成樹脂、合成ゴムなどの化学製品、新聞用紙などが第2位、鉄鋼、乗用車、化学肥料、硫酸、セメント、毛糸などが第3位であった。

これらをみても、この時期重化学工業製品といわれるものの比重が大いに高まってきている。またスケールメリットを求める拡大化も著しく、鉄鋼、自動車、産業機械、家電、重電機、繊維、化学、セメント、板ガラスなどの業界には、その規模において世界的なビッグ・ビジネスも出現してきた。

こうした経済的繁栄は人手不足を招き、賃金は上昇し、一般的に国民の生活に豊かさをもたらし、耐久消費財の普及、レジャーの一般化など、“昭和元禄”の世を現出した。

しかし、人口の都市集中は過密・過疎をはじめ、もろもろの都市問題を生じ、産業公害が世の指弾を受けるようにもなった。42年に公害対策基本法が制定され、45年には内閣に中央公害対策本部が設けられるなど、高度成長の“ひずみ”といわれた部分にも対応が迫られるようになった。

拡大する建設業

昭和40年不況を脱出した後の日本経済はめざましい拡大成長を続けたが、その主因の一つとなったのが民間設備投資であり、経済成長がさらに設備投資を招いた。この時期の設備投資は、世界的な設備の巨大化に対応して大型化を進め、資本自由化に対抗するための設備近代化を促進する意味が強かった。大企業にとどまらず、人手不足に悩む中小企業の省力化、オートメ化のための投資も活発に行われ、急成長する流通、レジャーなど第3次産業にまで広がった。また、都心部における中枢管理機能の集中はビル需要を喚起し、土地の高密度利用を促すこととなったが、38年(1963)7月の建築基準法の改正によって、都心部での超高層ビル建設への道が開かれ、40年代に入って次々と超高層ビルが出現したのである。

一方、好況を背景に、立ち遅れた社会資本充実のための公共投資も盛んとなった。40年以降45年までに、近畿圏、中部圏の開発整備計画も策定され、名神に続き東名高速道路も全面開通した。新東京国際空港公団、本州四国連絡橋公団も発足し、「全国新幹線鉄道整備法」も施行され、世紀の大プロジェクト実行への体制も進んだ。

42年、政府は旧全総に代わる新全国総合開発計画の策定にかかり、44年に閣議決定し、60年を目標とする戦後初めての長期かつ本格的な国土計画が誕生した。ここには過密・過疎、地域格差を解消するための全国的な交通通信網や、大規模な地方工業基地建設などが構想されていた。

45年には日本万国博覧会が広大な大阪千里丘陵に展開されて、高度成長時代の最後を飾り、会場建設には技術上画期的ともいうべき多くの新しい試みも行われた。

公共、民間それぞれのこうした建設意欲は建設投資の拡大となって現れ、この期間に建設業もめざましい拡大を遂げた。

建設投資額(名目)は40年度に政府2兆2,899億円、民間3兆6,795億円であったが、45年度はそれぞれ4兆9,415億円、9兆6,926億円となり、政府で2.1倍強、民間で2.6倍強となっている。

業界団体としては42年11月1日、日本建設業団体連合会(日建連、同年12月社団法人となる)が設立されたことが特記されるべきであろう。

戦後、建設需要の増大につれて業者は著しくその数を増したが、その99%は中小零細業者であった。40年ころになると工事の大型化、高度化に伴う近代化の必要性、熟練者をはじめとする極度な人手不足、競争激化など業界は種々の問題を抱えていた。しかし、当時の業界団体としては全国建設業協会(全建)以外は業種別団体であった。

ここにおいて、全国的規模の建設業団体を包含する連合組織を確立し、建設業における統一的産業団体として、業界の秩序とルールを確保し、もって建設業の発展向上に資する新団体設立の機運がもち上がり、日建連の発足となったのである。

大林社長は同会の設立準備委員会の委員として力を尽くし、発足と同時に理事に就任(44年以降常任理事)、続いて基本政策懇談会のメンバーとなった。現在もその要職にあるが、設立以来、体質改善委員会、長期構想委員会、資本自由化委員会等の委員長を歴任し、長きにわたって業界の発展に貢献してきた。

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