■―大林賢四郎と新技術
第1次世界大戦のもたらした好況に乗じ、わが国の経済的発展は著しく、都市建築の面でも欧米先進国へ近づこうとしており、大正8年(1919)4月には、「道路法」、「都市計画法」、「市街地建築物法」の関連3法も公布された。
こうした時期に海外技術の吸収も重要な課題であった。海外技術については、賢四郎と親交のあるニューヨークの松井保生建築事務所を通じて新知識の吸収に努めていたが、8年11月高橋誠一、本田 登をアメリカに派遣した。彼らは1年半余にわたり、フラー建築会社の現場について研修を積み、これが当社における技術者の海外留学のはじめとなった。
9年4月には義雄社長が建築部長松本禹象とともに渡米、さらに欧州各地を視察し、翌10年8月には賢四郎が4カ月にわたりアメリカ各地を巡遊した。先の技術者の海外留学とともに、いずれもこのころ急速に起こったビル建築の要請に応えるための準備であった。こうした最高幹部や技術者の海外視察、留学による新知識を求めてやまない研鑽と努力が、後に業界第1位の座を占める飛躍的発展の要因をなしたのであるが、その推進者は賢四郎であった。