大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第3章 事業拡大と技術の研鑽

激しい景気の浮沈

第1次世界大戦末期の大正6年(1917)11月、ロシアにプロレタリア独裁によるソビエト政権が樹立され、世界に大衝撃を与えた。それから1年後の7年11月にはドイツに革命が起こり皇帝は退位し、共和国が成立した。ただちに休戦条約が成立して第1次世界大戦が終わり、新しい世界の秩序づくりが始まった。

わが国は連合国側の一員として参戦し、戦後は戦勝国として五大強国の仲間入りを果たし、国際社会での発言力を強めたが、その対外政策はやがて世界の批判を浴びることとなっていく。

以後、第2次世界大戦に至る期間は、海外でも、またわが国においても政治、経済、社会、思想的に起伏の激しい不安定な時代であった。

わが国では第1次世界大戦のもたらした好況が大きかっただけ、その反動不況も大きかった。戦後一時模様ながめで沈静した景気は、大正8年になると復興需要などで輸出が拡大し、戦時をしのぐブームが起こった。しかし、それもつかの間、9年には激しい戦後恐慌が襲った。3月15日、証券市場は大暴落を演じ、これをきっかけに、さしものブームも幕を下ろした。この暴落は当時ガラと呼ばれたが、その語感のとおり、諸物価は崩落し、企業の多くが手痛い打撃を受け、あるいは倒産した。9年にはわが国最初のメーデーが行われ、このころより労働争議も頻発した。

ガラの収束後、世は一転して慢性不況の時代に入った。12年9月、関東大震災が起こり、一時的な復興景気をみたものの再び景気は沈み込んだ。

政治的にみると、7年米騒動の結果、政権は原 敬の政友会に移り、以後昭和7年の5.15事件による犬養首相の暗殺まで政党政治が続いた。大正14年には「普通選挙法」が公布され民主主義は大きく前進したが、この年、一方では「治安維持法」も公布され、思想取締りに強力な手段となった。

第1次世界大戦後は世界的なデモクラシーの気運が流入し、労働者、農民、学生、市民、婦人による諸運動が盛んとなり、ロシア革命の影響もあって共産主義への傾倒もみられ、思想統制への動きが現れるに至ったのである。

第1次世界大戦期の諸産業興隆につれて、工場労働者の供給源となった農村人口の著しい都市流入がみられ、都市の発展を促した。東京の住宅地は郡部といわれた郊外地へ膨張し、旧市域と郊外を結ぶ電車の開通、沿線住宅地の開発も進められた。これはあたかも第2次世界大戦後の日本の軌跡と同じであった。都市勤労者層も育ち、都市中産階級は不況下にあっても小市民的な平和を享受していた。

昭和に入って非常時が叫ばれるまで、大正時代を中心としたこの時期は、西洋文化吸収に明け暮れた明治とも、後の昭和とも違い、思想、学問、芸術、娯楽、一般生活等も多様化し、複雑な要素をはらみながら推移していったのである。

業界近代化への努力

激しい好不況の波に洗われた大正期であったが、その間の建設業界をみると、明治の基礎づくりの時代を経て、大正期は産業界の興隆が建設需要を喚起し、またさまざまな意味で業界が再編成された期間であった。

大正期に業界では、①片務契約、入札および契約に関する保証金制度の改善、②営業税の改廃、③衆議院議員被選挙権の獲得の3要望達成が三大問題といわれ、業界の発展のため全国的な運動が展開された。

最初は大正8年(1919)2月、大林義雄が副会長に就任していた大阪土木建築業組合が提唱したものであったが、後に東京土木建築業組合とも提携、さらに全国的組織として同年10月に設立された日本土木建築請負業者連合会にその運動は引き継がれたのであった。

三大問題のうち①の片務契約については、12年、「四会(建築学会、日本建築士会、日本建築協会、建築業協会)連合工事請負規程」が制定され、民間建築工事については、この規程により漸次解決されたが、公共工事についてはその解決は戦後までもち越された。保証金の撤廃については10年の会計法改正、11年の同会計規則の施行により、業界の主張が認められた。②の問題については、15年に営業税は廃止され、代わって営業収益税となり、やや前進がみられた。③については、普通選挙が実施された昭和3年まで、9年の歳月を経てようやく実現にこぎつけた。

大正年代には建設業界は豊富な工事量を抱え、これを背景に前近代的な体質から脱却し、合理化を目指してその態勢を整えつつあった。

施工面では土木において種々の新工法も採用され、機械化工法も行われたが、輸入機械に頼る域を出なかった。

大正中期には新たにビル建築時代を迎えたが、このときアメリカのフラー建築会社が日本に進出して、アメリカ式工法の実際を示して日本の業界に大きな刺激を与えた。機械力を利用し、厳密な工程表に基づく工事管理の方式は、従来に数倍する能率をあげた。また、このときの請負契約は実費精算報酬加算方式で、物価変動に悩まされた当時の業者にとって一つの救済策とも考えられた。しかし、この方式は日本の慣行になじまなかったため、その後あまり行われなかったが、これによって見積り内容が詳細になり、原価の的確な把握が行われるなど、建設業の近代化に影響するところは大きかった。

関東大震災は主として建築の面に影響を及ぼした。被害の大部分は建築物で、業界では全力を挙げてその復旧に努力したが、以後、耐火、耐震建築について技術の向上が図られることとなった。

12年初めに完成した丸ビルは、わが国の洋風建築の機械化施工のはじめであり、当社は煉瓦工その他を担当した。設計・施工はアメリカのフラー建築会社であったが、完成直後の関東大震災で相当な損害を受けた。同じくフラー社の設計・施工でも、構造設計を日本の設計事務所で行った日本郵船本社と日本石油本社は、ともに躯体は損傷しなかった。当社施工、大正3年竣工の東京中央停車場、同じく12年6月竣工の日本興業銀行本店の二大建築物はいずれも被害を出すことなく、大いに当社の面目を高めた。

大阪の鉄筋コンクリート造の最初は、当社施工、2年11月竣工の百三十銀行曽根崎支店(3階建)で、キューブミキサー、木製エレベータを使って施工した。また大阪での鉄骨鉄筋コンクリート造建築の最初は、当社施工、4年12月竣工の伊藤忠商店であった。

大正時代には、このように洋風建築の技術も進歩を続けたのである。

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