大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 株式会社への組織変更

■―新組織で新発足

北浜事件に関連し、創業以来の危機に見舞われた当社は、これを克服するや大戦景気の追い風を受けて発展を続け、大正7年(1918)には株式会社となった。
そのころ、企業の近代化の流れに沿って、個人経営から株式会社組織に移行するものが多く、6年末、業界では初めて株式会社大倉土木組が株式会社大倉組から分かれて独立し、翌年6月には鴻池組が関西初の株式会社となった。

当社でも従業員は200名を超え、芳五郎亡きあとの企業組織を近代的に確立するため、株式会社形態をとることとした。7年12月1日、大林義雄、大林賢四郎、大林亀松、伊藤哲郎、白杉亀造、岡 胤信、有馬義敬、松本禹象の8名が発起人となり、株式会社大林組の創立総会を開催した。資本金50万円、額面50円の株式1万株を発行し、1株の払込金は30円で9,600株を発起人が引き受け、ほかに植村克己と富田義敬が各200株を引き受けた。社長には大林義雄、常務取締役に大林賢四郎、伊藤哲郎、白杉亀造、取締役技師長に岡 胤信、監査役に大林亀松が選任された。発起人のうち大林亀松は芳五郎の妹たかの婿養子で、有馬義敬は生駒隧道工事の総主任、松本禹象は本店建築部長であった。また株主となった植村克己、富田義敬は東京支店長、小倉支店長となった。

このとき本店所在地は大阪市東区北浜2丁目27番地ノ乙(翌8年7月1日、東区京橋3丁目75番地の新社屋落成により移転)、東京支店は東京市麴町区内幸町1丁目3番地であった。

株式会社設立は合資会社大林組との合併を前提としたもので、創立総会に次いで同月17日臨時株主総会を開催し、合資会社の解散とともに新会社がその営業権その他いっさいの権利義務を継承することを内容とした合併契約を承認可決した。合併条件は、合資会社の7年11月末現在の財産を90万円と評価し、新会社の資本金を200万円として、額面50円、払込済30円の株式3万株を発行、合資会社の出資社員の出資額に応じ交付することなどである。

なお株式会社の新発足にあたり片岡直輝氏は、無報酬を条件に自ら進んで相談役に就任し、芳五郎の遺嘱に応えた。また8年3月に小倉市米町2丁目32番地に小倉支店を設置した。

設立当時の株式配分方式は一般に閉鎖的であった。この閉鎖性は同族資本の会社に現在でもしばしばみられるところで、普通のことであったが、当社の場合はいささか異なり、大林家の独占とはしなかった。すなわち大林家は1万株を社員に寄贈し、その管理機関として大林組社員援護会を設けたのである。当時の社内発表によると「事業経営ニ就テハ資本ト労務トノ関係ヲ一層親密ニシ其結合ヲ鞏固ナラシメ以テ益々基礎ノ堅実ヲ図ルト同時ニ各位ニ対シ其生活ノ安定ヲ保維スヘキ途ヲ講スルノ緊要ナルヲ惟ヒ」とその趣旨を述べている。

1万株のうち6,485株は、当時勤続10年以上の社員たちにただちに贈与され、残りはこの援護会が配当金とともに管理に当たり、以後勤続10年に達した者に贈られることとなった。昭和16年、社員援護会は解散し、柏葉会がそれに代わったが、この社員持株制度は当時にあってはきわめて進歩的であり、世間ではまれな例であった。

東区京橋3丁目の本店社屋(大正8年7月落成)
東区京橋3丁目の本店社屋(大正8年7月落成)

■―充実する社内体制

株式会社設立当時、本店組織は庶務、会計、営業、現業、設計の5部に分かれ、別に製材部が西区境川に置かれていた。

社内規程類については、合資会社当時から「社員服務規程」その他諸規程がすでに制定されていたが、株式会社設立を機に整備されたものも多い。次に二、三の例を記す。

本・支店の勤務時間は、春季皇霊祭(春分の日)から秋季皇霊祭(秋分の日)までは午前8時~午後5時、秋季皇霊祭から翌春季皇霊祭までは午前9時~午後5時、出張所および工事現場は季節により午前6時半ないし7時半から日没までとなっている。また祝祭日は休日で、このほか、本・支店は日曜日を半数交代とし、出張所および工事現場は毎月1日と15日の2回が休日とされた。さらに年間を通じて14日の特別休日を与える有給休暇制もすでに存在した。

また、綱紀維持に関し「下請人ノ責任ニ属スル事項ニ付仲介干渉等ヲ為ササル様心得方」と題して、次のような通達もあった。

「凡ソ社員ニシテ下請負人ノ責任ニ属スル工事ノ部分施工方ヲ更ニ他人ニ斡旋シ之カ仲介ヲ為シ若クハ故ラニ世話役下方等ノ使傭ヲ慫慂スルカ如キハ啻ニ下請負人ノ行動ヲ制肘スルノ嫌アルノミナラス業務上種々ノ弊害ヲ醸スニ付斯ル所為無之様特ニ注意スヘシ」

下請関係では、常時出入りする業者による連絡親睦機関「大林組林友会」がすでに設けられていたが、これもこのころ規約が定められ、役員を置くなど機構が整備された。会員間の慶弔についてはもとより、会員および配下労務者の作業中の事故に関しても、死者、重傷者、軽傷者の別により、弔慰金、見舞金の額を定めた。これは当時としてはきわめて進歩的な制度であった。

この時期、当社はすでに業界の代表的地位を確立しており、大正8年(1919)、義雄社長は25歳の若さで建築業協会理事、日本土木建築請負業者連合会副会長に推されていた。

営業成績は、大戦景気の影響もあって、株式会社成立後も好調であった。8年の請負金総額は1,000万円に近づき、翌9年には1,300万円を超える空前の営業成績をあげたが、工事件数はかえって減少していた。これは後述のようにビル建築時代の幕開けを迎え、工事が大型化したためである。

わが国は、9年の春ころから戦後不況が始まり、12年の関東大震災によって大きな打撃を受けたが、明治期の二大戦争を経て、確かな資本主義社会を形成しつつあった産業界の近代化の意欲は依然旺盛であった。当社は、こうした潮流のなかで社内体制の充実を図りながら、着々と業容を拡大していった。

13年4月には資本金を300万円増額して500万円とし、新株1株の払込金20円、総額120万円の払込みが翌5月に完了、払込済資本金は320万円となった。

13年12月には新たに副社長制を設け、大林賢四郎がこれに就任し、常務取締役には白杉のほかに松本禹象、植村克己を加え3名とした。また14年5月に横浜出張所(同市太田町2丁目40番地、十五ビル内)を、同年7月に名古屋出張所(同市中区新柳町6丁目3番地、住友ビル内)をそれぞれ支店に昇格させ、従来の東京、小倉と合わせ4支店とした。東京支店は15年2月、震災後の仮事務所から三菱仲28号館(麴町区永楽町2丁目1番地)に移った。

東京支店が移転した三菱仲28号館
東京支店が移転した三菱仲28号館

■―人材重用

芳五郎が当社に遺していった経営の指針の一つは人材重用、技術者尊重の社風であり、大林賢四郎、白杉亀造はこの指針を受けて人材重用に努め、経営の近代化を強力に推進した。

折からわが国ではビル建築時代の幕開けを迎えており、当社では土木、建築の技術者を中心に事務系統にも人材を揃え、繁忙に処していった。この時期、賢四郎、白杉を軸とし、その周囲にあった人々は以下のように数多い。

技術者では岡技師長のもとに、土木では安井 豊、高橋誠一、海老政一、久保彌太郎、建築には富田義敬、鈴木 甫、加藤芳太郎、伊藤順太郎、小原孝平、石田信夫、指田孝太郎、吉井長七、伊藤牧太郎、本田 登、萩真太郎、谷口廉児、渡部圭吾、中根亀一、機械関係には大西源次郎、材料方面では三宅勘太郎、また事務系統では支配人小倉保治のもとに宮村市郎平、中島茂義、芳賀静也、妹尾一夫、米田竹松、角谷甚太郎らがいた。

社員は大正10年(1921)10月現在、役員を含め353名であったが、13年1月には540名、14年1月には681名に達した。また株式会社設立当時から、大学・専門学校および実業学校の推薦により、卒業生の定時採用を行ってきたが、これも10年の30名に対し、13年は56名、14年は74名、15年には86名と毎年急増した。

なお、15年には長く技師長を務めた岡 胤信取締役が辞任して顧問となり、代わって大阪市都市計画部長、復興局長官を務めた工学博士直木倫太郎を年俸1万円で取締役技師長に招いた。この年俸は当時国務大臣と同等であり、当社の技術者重視の方針を物語るものである。また、大正10年代から昭和15年ころまで当社では毎年2月初旬に社外の優秀な技術者数百名を招いて技術者招待会を催したが、その顔ぶれから高い権威をもつものと評価された。

■―工事用機器の充実による近代化

一方、株式会社として新発足当時、すでに工事用機器も輸入品のダンプカー10台をはじめスチームハンマーやコンクリートミキサー、エレベータ、鋼矢板、潜水器具など最新式のものを揃え、当社は業界の最先端にあった。また、材料運搬用に曳船用小汽船を製材部で常傭し、当時ぜいたく品の部類に入る自動車も、自家用として本店に2台備えていた。

大正10年(1921)6月、西区千島町6番地(現・大正区)に製材工場を新設し、旧工場から移転、11年10月には工作所と改称し、工事用機器の利用増に備えて機能の強化を図った。

さらに機器増強のため、13年2月、大西源次郎、伊藤義弘をアメリカに派遣した。そしてコーリング、ランサム、スミスなど諸会社製のコンクリートミキサー、インスレー式エレベータ、インガソール、サリバン、ペンシルバニアなどの各種空気圧縮機、マキナンテリー製7B、9B、11Bなど各種スチームハンマーその他の新鋭機器を導入し、施工の近代化を推し進めた。これらの機器はその高性能が各方面の注目をひき、国産機械改善に際しての見本とされた。

■―さらに本店社屋を新築

本店社屋は、大正8年(1919)7月、大阪市東区京橋3丁目75番地に新築(煉瓦造、地下1階、地上3階)したばかりであったが、業容の急速な拡大に伴い狭隘となってきた。このため、隣地(大日本人造肥料会社所有)を買収し、旧建物を撤去して13年5月、新社屋建設に着手した。創業時から数えて四代目の本店社屋であった。新社屋は、12年の関東大震災の教訓から鉄筋コンクリート造とし、地下1階、地上6階のスパニッシュ様式建築、意匠は社内コンペによるもので、平松英彦設計部員(当時)の応募案を採用した。

なお、社屋建替えの間、本店は西区江戸堀上通1丁目25番地の日本海上ビルに移転し、15年6月25日、新社屋落成とともに復帰した。この社屋は、昭和48年1月大阪大林ビルの完成まで約47年間、本店事務所として使用されてきたが、現在も当時の姿を残し、貸ビルとして利用されており、歴史を語る貴重な建物の一つとなっている。

大正15年6月に落成した本店新社屋
大正15年6月に落成した本店新社屋
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