大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 大林芳五郎の立志

■―芳五郎の生い立ち

当社創業の祖を大林芳五郎という。現当社会長大林芳郎の祖父に当たる。いまから100年前、明治25年(1892)、芳五郎は初めて自らの力で大阪の阿部製紙所の工場建設を請け負った。そして、この年1月25日をもって創業の日と定めた。

すなわち当社の歴史はこのときから始まったのであるが、それを語るに先立ち、まず芳五郎その人について触れておかなければならない。それは、その人となりや事業における信条が、当社の社風や伝統をつくる基礎となったからであり、1世紀の風雪に耐えて当社の今日を形づくる基となったと考えられるからである。

芳五郎は元治元年(1864)9月14日、大阪靱永代浜の大林徳七の三男として生まれ、初め由五郎といった(芳五郎は明治35年2月以後の称である)。徳七は「大和屋」林家から分かれ、大和屋の大を冠して大林を名乗り、大林家の始祖となった。「大徳」と称して靱の地に塩と北海産乾物の問屋を営んでいたが、林家はもと河内国志紀郡の名族、林臣海主の出で、元禄時代より淀川過書船の元締となった大町人であり、後に海運業、肥物(肥料用干鰯)商も兼ねていた。徳七の兄徳助の代に塩、肥物専業問屋となり、徳七は分家して同様の商いをしていた。幕末動乱の商人受難期にもかかわらず、間口15間(27m)の店舗をはるに至ったというから、徳七の器量も推察される。

徳七は明治6年10月64歳で没し、あとには夫人美喜と由五郎を含む2男3女が残された。このとき由五郎は9歳であった。翌7年、由五郎は西区問屋橋北詰、呉服商麴屋又兵衛氏の店に丁稚見習となった。そのころ「大徳」は営業中であり、由五郎は当時の商家の風習に従って他店での修業に入ったものであった。

9年に兄が僧籍に入ったため、由五郎は家督を継いだが、麴屋での奉公を続け、父譲りの周到綿密さと母譲りの果断機敏によって主人に認められ、13年16歳で三番番頭に抜擢されて徳助の名を与えられた。

主人夫妻に男子がなく、娘婿にと望まれたほどであったが、13年に生家大徳は人手に渡っており、家名再興を期す由五郎は15年18歳になると、この申し出を断って麴屋を去った。このときの同僚福松こと福本源太郎は、後に大林組四天王の一人となる。

その後、由五郎は独立して呉服の小売業を始めたが、不景気のあおりで半年もたたないうちに資金的に行き詰まり、これは失敗に終わった。人生最初の独立と挫折、由五郎はここからいろいろ学ぶところがあったに相違ない。

創業者 大林芳五郎
創業者 大林芳五郎

■―立志と修業時代

呉服小売りに失敗した由五郎は一転して請負師を志した。「小売商売は自分の性格に適さない。かねてから有望視していた請負業こそ自分の性格からしても魂を打ち込んでやれる仕事だ」と思い定めたとは、後に彼の述懐するところであった。

しかし当時、堅気の家庭では請負業を蔑視する傾向があったため、ひとまず大阪を避け、いまや文化の中心地として栄えつつある東京で修業することにした。そして伝手を求めて、宮内省出入りの請負業者、砂崎庄次郎氏のもとに身を寄せることになった。明治16年(1883)7月、由五郎19歳のときである。

このころ世は不景気であったが、文明開化の波は高まりをみせ、15年には浅草~上野間、日本橋~上野間、浅草~日本橋間に馬車鉄道が走り、16年には鹿鳴館も開かれた。

砂崎家は古くから皇居出入りの作事方を務めていたが、庄次郎氏もそれにふさわしい人格者であった。年若い由五郎はその人格に強く影響されるとともに専門的な技術、知識を習得した。請負業界入りの最初に砂崎氏に出会ったのは幸運というべきであった。

由五郎はもちろん何らの建設技術をもたないので、出面、帳付け、そろばんなどの人事管理、庶務、会計などを担当したが、これは後に経営者としての管理に役立ち、荒くれ男たちとの付合い法も会得した。持ち前の融和性と俠気、堂々とした態度は彼らを心服させたのである。

最初は、皇居工事現場の出面係を務め、17年2月からは品川~赤羽間の鉄道工事に従い、土木工事の基礎知識を習得した。その工事中の精励ぶりを見た砂崎氏の知人から名古屋師団の豊橋分営の兵舎工事の応援を依頼された。由五郎は、建築については知識や経験がないのでかたく辞退したが、先方の重ねての懇望と砂崎氏の将来のためにとの勧めで承諾した。そこで材料係となり、材料の品質、特性、用途、価格などの必要知識を身につけ、現場に出てはその使われ方を見守った。こうして煉瓦工事、石工事、大工工事、左官工事など当時行われていた建築工事全般を把握した。また、このとき初めて施主、監督と折衝する立場に置かれ、大きな収穫を得た。

18年5月に帰京した由五郎は砂崎氏のもとで、本格化した皇居造営工事に従った。すでに土木、建築の基礎知識をもった由五郎は、砂崎氏の不在中、女官部屋の敷地盛土と地ならし工事の見積りを命じられ、積算して見積書を提出するまでに成長していた。

皇居は22年1月に完成し、歴史的な憲法発布式典がここで行われた。規模においても、材料、施工の面でも、木造建築では当時空前のものといわれ、この模範的大工事の体験が由五郎に与えた影響は大きかった。当社の伝統とする材料の精選と入念な施工は、ここに発しているといわれる。

このころ大阪鉄道会社の初期工事を請け負っていた水沢新太郎氏は、由五郎の力量を耳にし、友人砂崎氏に由五郎の借用方を頼み、砂崎氏もこれを承諾したため、由五郎は20年、4年ぶりに郷里大阪に帰ってきた。このときから由五郎の大阪を地盤とした活動が始まるのである。

この鉄道工事は大阪と奈良を結ぶ難工事であったが、工事もさることながら、多くの部屋の寄合い世帯である土工たちの紛争の調停、統制には大いに悩まされた。由五郎は偶然この地で再会した麴屋時代の旧友、野口栄次郎(「木屋市」として知られた顔役)の有形・無形の援助を受けて、この仕事をやり遂げた。

もちろん、由五郎自身の人物、力量によるところが大きかったのはいうまでもないが、土木請負が労働力の供給を主体としていたこの当時、こういった顔役の発言力は強く、彼らとつながりをもつことは力強い後楯をもつことでもあった。

21年夏、水沢氏の命で呉軍港の築造に従事し、約3カ月の後、部下の労務者と技師長との衝突事件を機に帰京し、これを契機に砂崎氏の許も去り、大阪に帰った。やがて請負業者として独立するに至るが、砂崎家との交情は終生変わることはなかった。

砂崎庄次郎氏
砂崎庄次郎氏
OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top