大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第1章 戦後の復興と新時代

荒廃から新生国家へ

昭和20年(1945)8月15日の終戦を境に、わが国は新しい国に生まれ変わった。一言でいえば、旧来の大日本帝国から民主主義を基調とする平和主義の日本国への転換であった。しかし、敗戦国が経済自立のできる独立国へ進む道はけっして容易なものではなかった。戦争のあとに残されたものは、大部分が廃墟となった都市と男手をとられて疲弊した農村、空きっ腹を抱えた国民であった。戦争で死ぬことはなくなったが、新しく生きることとの闘いが始まった。

戦争による人的被害は一般国民を含め268万人、資産的一般国富の被害は、生産財、消費財、交通財、建築物を含めて全体の25%にのぼり、終戦時の価格で653億円といわれる。戦災で失った住居家屋は220万戸、強制疎開を含めると戦前約1,400万戸の住居家屋は1,135万戸に減少していた。明治以後拡大した領土は失われ、ここに海外からの復員者・引揚者約600万人を受け入れての再建であった。

アメリカを主体とする連合国の占領統治は、当初、徹底した非軍事化と民主化を柱としていた。それは占領軍という権威のもとにドラスチックに進められ、民主国家日本の基盤をつくったが、東西冷戦という戦後世界の二極構造のなかで微妙に変化し始めた。日本を極東の一貧乏国にしておいてアメリカのお荷物とするよりも、自由主義陣営の有力なパートナーに育てる方が、世界戦略上有利と考えられたからである。

戦後の激しいインフレと食糧難は当時の国民を最も悩ましたが、インフレに終止符を打ったのは、日本経済安定のための経済9原則の実施であった。このため来日したドッジ公使は、日本経済はアメリカの援助と政府補助金という2本の竹馬を切って、足を地につけるべきだと説いた。戦後の混乱からようやく復興が軌道に乗り始めた24年度予算は、これを実現するための超均衡予算となり、一挙にインフレ抑制を果たしたが、一転してデフレ現象を起こし、産業界を苦しめた。

これを救ったのが、25年に突如起こった朝鮮戦争による膨大な特需の発生であった。広義の特需は30年までに約36億ドルにのぼり、アメリカの対日援助約30億ドルを上回る規模であり、この特需と輸出によって日本経済は完全に立ち直り、経済大国への道の入口に立った。鉱工業生産指数は25年10月に戦前水準(9~11年平均)を突破し、実質国民総生産も26年度には戦前水準に達した。

一方、22年5月、国民主権・平和主義・基本的人権尊重を柱とする新憲法が施行され、27年4月には講和条約、日米安保条約が発効し、新しい国の基本と国際的地位は明確となり、以後の日本の進路を決定的なものとしたのである。

再生する建設業

戦後、荒廃した国土の復旧、産業の復興は国家的要請であり、建設業の活躍の場は無限のようにも思えたが、それがただちに建設業の有効需要に結びついたわけではない。国力、民力ともに疲弊し、その日暮らしのなかでは本格的な工事は望めなかった。しかし、混乱のなかで他産業に先がけて生産活動を開始したのはやはり建設業であった。

虚脱の時期を過ぎると各企業ともとりあえず生きていくために、手持ちの材料でナベ、カマなどの日用品をつくったり、できることは何でもやって再開の日を待っていた。こうしたなかにあって、建設業各社は工事の激減に加え、復員者・引揚者の受け入れや余剰人員問題、労働攻勢に悩みながらも復興に立ち上がった。建設なくして戦後の復興はありえないからであった。

終戦直後の建設業にとって特記すべきは“進駐軍工事”の施工である。戦後、米軍を主体に多数の占領軍が全国に駐留して占領統治を行ったが、そのための飛行場の新設・整備、兵舎や家族用住宅の建築、高級将校用の接収住宅の改築などが、至上命令として要求された。これらの工事は軍の厳しい監督下にあり、工期も厳守されたが、一面では詳細な仕様書、機械化工法、近代的管理、進んだ設備、安全衛生など多くのことを学ぶ機会となり、後述する沖縄米軍基地工事とともに、建設業近代化の手本となった。

進駐軍工事と並んで戦後の建設業を支えたものは、即効的な生産効果や失業者救済の意味をも含んだ公共施設の復興工事であった。さらに世の中が落ち着くにつれて企業も生産拠点の復旧、整備に着手し、建設需要が起こった。こうして建設業は自らの再建に苦しみながらも、戦後復興の担い手としての役割を果たしていった。

建設行政の面でも大きな変革があった。戦時体制のもと、建設業は国の重要産業に列して商工省の主管するところとなっていたが、終戦後、昭和20年(1945)11月、政府は戦災復興事業に当たるため戦災復興院を発足させ、23年1月には内務省の解体を機に同省国土局と合併して建設院とし、さらに同年7月建設省に昇格させた。

建設省は発足と同時に建設業法の制定に着手したが、建設業者の登録制度をめぐって論議が集中して作業は難航した。結局、24年5月に成立、8月から施行され、大臣登録と知事登録の制度が実現した(当社は、24年10月に大臣登録を完了した)。その後、同法は数次にわたって改正され、登録要件は強化されていった。

業法制定の一方、業界の長年の念願であった請負契約の双務性実現のため、建設工事標準請負契約約款案が建設省から中央建設業審議会に諮問され、慎重審議の末、25年2月に正式制定をみた。また、27年6月には公共工事の工事前払金保証制度も発足した。

こうした法制面の整備とともに業界の近代化、企業規模の拡大、社会的要請への対応などによって、建設業は経済発展の基盤を担う基幹産業の一つとしての地位を確立し、朝鮮動乱を契機に著しい発展への道を歩き始めるのである。

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