■―東京中央停車場工事
東京中央停車場は、明治36年(1903)に基礎工事が始まり、日露戦争のため一時中断されたが、41年3月に再開され、基礎と鉄骨組立てだけは完成していた。設計は明治建築界の元老辰野金吾博士で、日本銀行本店とともに辰野博士の代表的作品である。
そのころの丸の内界隈は、馬場先門付近には三菱の赤煉瓦の建物が立ち並んでいたが、東寄りの駅敷地付近から大手町の方向にかけては草ぼうぼうの原っぱで、“三菱が原”と呼ばれていた。ここに中央停車場を建てるのは、皇居を正面に見る帝都の表玄関とするためであり、それまで新橋にあった東海道線の起点をここに移す計画であった。国運隆昌の折から計画は壮大なもので、その予測どおり、この界隈にはビルが立ち並び、わが国を代表するビジネスセンターに育った。
建物の構造は鉄骨に石材と煉瓦を併用して地下1階、地上3階、総延面積7,241坪(2万3,940㎡)、鉄骨を使用した建築としては当時日本で最大であった。
44年2月、この工事の入札に、東京の清水組、安藤組という一流業者と並んで関西からただ1社、当社の計3社が指名された。これは先の第5回内国勧業博覧会における当社の実績が評価された結果であった。石材、煉瓦その他の主要材料は大部分支給で、工事手間ばかりのような仕事であったが、芳五郎はこの工事獲得に強い意欲を燃やした。
第1回入札は壁、床その他の工事で、当社と清水組が偶然同額となり、再入札の結果、38万6,000円で落札した。続いて45年2月、屋根および1階内部、6月内部大理石、9月内部床、10月2階および3階の各工事について、11社の指名入札が行われ、これらも全部当社が獲得した。
工事総主任に植村克己を当て、3年2カ月かけて大正3年3月に完成{注}した。これは現在の東京駅丸の内本屋であり、昭和29年に竣工した八重洲本屋も当社の施工である。
東京のシンボルともいうべきこの大工事完成によって、それまで関西業者とみられていた当社は、一躍全国的業者としての地位を確立することになり、東京でも続々と工事を獲得した。なお、植村は以後も東京を中心に活躍し、大きな業績を残した。
注 東京駅の開業式は大正3年12月18日で、これに伴い新橋駅を汐留駅、烏森駅を新橋駅と改称した。また開業式当日、東京駅には、第1次世界大戦で中国・青島のドイツ軍基地を攻略した日本軍司令官神尾中将が凱旋し、両祝賀が重なったため、見物人で大混雑した。