■―復員者・引揚者対策に苦慮
戦後、建設業はいち早く復旧のために立ち上がり、また進駐軍工事という特殊な需要があったとはいうものの、工事量は著しく減少し、一般企業と同様に厳しい再建の道を歩まねばならなかった。
爆発的な激しいインフレーション、食糧をはじめすべての物資、資材の不足、生活難を背景とする労働組合の攻勢、その他もろもろの悪条件が経営を揺さぶった。なかでも大きな問題は人員の過剰であった。施工中の工事は終戦によってほとんどが打ち切られ、工事量の激減の一方で人員だけは増加した。その最大の原因は復員者・引揚者の受け入れであった。
終戦とともに軍隊からの復員が始まり、昭和21年(1946)に入ると、当社は満州大林組をはじめ中国、朝鮮からの引揚げが相次ぎ、これらを合わせて従業員数は日ごとに増加した。終戦当時の約2,000名(応召等の休職者を除く)が同年中には3,000名を超えるまでになった。それより前、終戦の年20年末には前途の見通しもはっきりせず、また、混乱のなかで個々人の考え方、生き方にもさまざまなものがあるので、21年2月を期限として一応全員の退職届を受理した。そのうえで本人の希望により会社が再雇用することとし、このとき約400名が退職したが、その後も復員者・引揚者が後を絶たず、再び人員は増加に転じたのである。
このころの本店では部署をもたない者は自宅で待機し、また出勤しても食糧や衣料などの入手に走り回るのが毎日の生活であった。箕面の大林家所有地にイモをつくる者もあり、兵庫県三木市の山林を開墾し、農場を開いた者もいた。長野県松本の石川島芝浦タービン疎開工場建設の現場では、終戦で作業が中止されると、山林を伐採して製材所をつくり、建具の製作や畳、瓦の製造をして自活の道を講じた。下関では製材所や塩田を経営し、岡山では、本店の命により味野に塩田を設け、従業員に配給するための製塩事業を行うなど、それぞれ生きていくのに懸命であった。