大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 混乱からの出発

■―復員者・引揚者対策に苦慮

戦後、建設業はいち早く復旧のために立ち上がり、また進駐軍工事という特殊な需要があったとはいうものの、工事量は著しく減少し、一般企業と同様に厳しい再建の道を歩まねばならなかった。

爆発的な激しいインフレーション、食糧をはじめすべての物資、資材の不足、生活難を背景とする労働組合の攻勢、その他もろもろの悪条件が経営を揺さぶった。なかでも大きな問題は人員の過剰であった。施工中の工事は終戦によってほとんどが打ち切られ、工事量の激減の一方で人員だけは増加した。その最大の原因は復員者・引揚者の受け入れであった。

終戦とともに軍隊からの復員が始まり、昭和21年(1946)に入ると、当社は満州大林組をはじめ中国、朝鮮からの引揚げが相次ぎ、これらを合わせて従業員数は日ごとに増加した。終戦当時の約2,000名(応召等の休職者を除く)が同年中には3,000名を超えるまでになった。それより前、終戦の年20年末には前途の見通しもはっきりせず、また、混乱のなかで個々人の考え方、生き方にもさまざまなものがあるので、21年2月を期限として一応全員の退職届を受理した。そのうえで本人の希望により会社が再雇用することとし、このとき約400名が退職したが、その後も復員者・引揚者が後を絶たず、再び人員は増加に転じたのである。

このころの本店では部署をもたない者は自宅で待機し、また出勤しても食糧や衣料などの入手に走り回るのが毎日の生活であった。箕面の大林家所有地にイモをつくる者もあり、兵庫県三木市の山林を開墾し、農場を開いた者もいた。長野県松本の石川島芝浦タービン疎開工場建設の現場では、終戦で作業が中止されると、山林を伐採して製材所をつくり、建具の製作や畳、瓦の製造をして自活の道を講じた。下関では製材所や塩田を経営し、岡山では、本店の命により味野に塩田を設け、従業員に配給するための製塩事業を行うなど、それぞれ生きていくのに懸命であった。

■―終戦に伴う経済措置

戦時中、国民は勝つためにと耐乏生活を強いられていたが、戦後は一挙に消費意欲が爆発し、食料をはじめ生活物資の購買に集中した。戦時中の潜在購買力は預貯金の引き出しとなり、加えて、政府の軍需会社への支払いや復員手当など莫大な臨時軍事費の支出が一時的に発生したほか、銀行貸出しの増加、進駐軍のための終戦処理費の支出等、流通通貨量は著しく膨張した。終戦時の日銀券発行残高303億円は、昭和21年(1946)2月には605億円とほぼ2倍に増加していた。カネが増えてモノがなければ当然インフレーションとなり、いわゆるヤミ物価はとどまることなく上昇した。

この経済の混乱に際し、政府は21年2月金融緊急措置令によって預貯金を封鎖し、新円を発行して標準世帯1カ月500円の使用だけを認めることとしたが、この措置も一時押さえの効果しかなかった。生産復興のための復興金融金庫の融資、日銀引受けによる公債発行などが、新たに新円インフレを招き、物価高騰は収まらなかった。インフレの収束には、24年のドッジラインによる超均衡予算の実施を待たなければならなかったのである。

占領軍の経済民主化政策は、まず財閥解体に始まり、政府が国庫より支払う予定の戦時補償の打切り、さらに独占禁止と集中排除を狙ったいわゆる「独占禁止法」(22年4月)、「過度経済力集中排除法」(22年12月)の制定へとやつぎばやに改革を進めていった。そうした経済措置のなかで、戦後いち早く再建を図ろうとした企業を悩ませたのは、戦時補償特別税の課税措置であった。

戦時中、戦争遂行のために調達・納入した物資、諸機材、労務提供等の対価、あるいは建設工事の工事代金など、企業の軍・政府に対する債権は多くが未回収のままとなっていた。しかも、21年10月の「戦時補償特別措置法」の施行は、20年8月15日以降のこれらの請求に係る支払いに対して、戦時補償特別税として100%を賦課するというもので、実質上の債権切捨てを意味した。これでは企業も金融機関も再建はおろか倒産しかねない。そこで、その救済策として21年8月に「会社経理応急措置法」と「金融機関経理応急措置法」が、また同年10月には「企業再建整備法」と「金融機関再建整備法」が施行され、企業の再建出発が可能となる措置が講じられたのである。すなわち、戦時補償請求権や在外資産を有する資本金20万円以上の会社は、特別経理会社に指定され、21年8月10日現在でその経理を新旧勘定に分離・整理し、事業の継続に必要なものを新勘定に、戦時補償請求権打切りに伴う損失等その他を旧勘定として、企業再建整備計画を立て、主務大臣の認可を受けて再出発をすることとされたのである。

建設業者のほとんどは、戦時中その総力を軍関係工事に注いできたが、それらの工事は陸軍は軍建協力会の、海軍は海軍施設協力会の名において行われるのが原則であり、個々の業者はそれを下請けしたものであった。施工のため支出した金額も多額にのぼっていたが、「戦時補償特別措置法」の施行によりそれらは無に帰することとなった。しかし、請負の形態からして、戦時補償特別税の納税義務者は軍建協力会と海軍施設協力会であるとの主張が、ようやく認められることとなり、当社は従事した工事が両協力会の下請負であったことを立証する関係書類の収集に当たったのである。

しかし、これらの書類の多くは、終戦時に軍命令によってほとんど焼却されていたため、その収集と立証には困難を極めた。そして最終的に決定した当社の課税額は約2,800万円となった。

■―企業革新の理念を掲げて

戦時補償特別税の負担は、軍関係工事が多かった業者ほど大きく、当時施工高において首位を占めていた当社では、まさに死活問題であった。昭和22年(1947)1月、大林芳郎社長は新年始業式での訓辞の中で、前年度における取下げの遅延と金融難、経費の膨張による経営難、施工にあたっての食糧、資材、輸送難等の状況を説明した後、このことについてとくに言及した。

「尚、昨年中の事柄として、最後に是非一言いたして置かねばならぬことがあります。それは、年末に近づきましてから、終戦以来、種々論議されて居りました、所謂戦時補償打切りといふ経済上の一大事件が愈々実行されるに至つたことであります。この為に、当組も莫大な戦時補償特別税を徴収されることになり、今や当組は経営上の一大難関に直面してゐるのであります。(略)」

さらに産業界の現状からみて早急には復興工事が期待できないこと、進駐軍工事もやがて一段落するであろうこと、同業者間の競争が激化してくるとの見通しを示した。そして、これらのさし迫った諸問題を克服し、当社の新たなる出発を期するため以下のように所信を述べ、従業員の奮起を促したのである。

「元来わが土建業界は可成り古い歴史を持つて居り、わが国運と消長を共にして、国家に相当の貢献をして参りました。このことは、万人の認めるところでありますが、同時に又現在業界の底流をなしてゐるところの根本精神、具体的には業者の経営方針若しくは施工方法に果してどれ程の積極的な又科学的進歩改革の跡が認められるでせうか。そこに一種特有の封建的精神ともいふべきものが業界を一貫して支配して来たことは蔽ふことの出来ない事実であると考へられるのであります。所謂『偏狭なる親分子分の仁義道』、『投機的企業観念に基く商業的経営』、『数段階にも分たれる不合理なる下請制度』、或は『手工的技能の域を脱しない現場施工主義』等が、一面業界の運営上にある種の効果をつくりつゝも、全般的には業界の堅実なる発達を阻害して参つたことは否定し難い事実であると存じます。(中略)

今こそ過去の因習を一切抛擲し、国家再建、復興建設の深き自覚と高潔なる気風を以て来るべき時代に處する態勢を打ち樹てねばなりません。

第一に、企業理念の革新であります。即ち、これには利潤第一主義より生産第一主義への転換、偏狭なる所謂仁義道より民主的な社会協同精神への発展或は抽象的精神主義より科学的合理主義への転向等

第二には、経営の合理化であります。即ち、経営の科学的組織化、外部に対する利潤の獲得より内部に対する工事費の逓減、企画竝びに研究機関の確立、基礎的統計調査の整備等

第三には、施工の科学化であります。即ち、現場作業の機械化、現場施工主義より工場製作過程への可及的な移行、施工技術教育の強化、労務者の科学的知識の向上、作業機械の発明と改良等

第四には、労務体制の整備強化であります。即ち、下請制度の根本的再検討及び改革、労務者直傭制の強化拡充、労働組合の健全なる育成等」(『社報』22年1月4日、第1号から)

全役職員は、ここに示された指針を経営の根本原則とし、危機突破に立ち向かっていったのである。

社報(昭和22年1月4日)
社報(昭和22年1月4日)

■―再建整備計画の実施

会社経理応急措置法により、当社も特別経理会社に指定されたため、昭和21年(1946)8月10日現在で決算を行い、新旧勘定に分離した。旧勘定としては未収金、貸金、封鎖預金などで6,627万円余を棚上げし、1億1,360万円余を新勘定とした。

これに基づき、「企業再建整備法」による整備計画を作成したが、大蔵省の承認を得るため、財務担当者は並々ならぬ苦労を重ねた。最終的な計画認可申請書を提出したのは23年10月で、翌11月15日付で認可された。その骨子は、①旧勘定整理による損失は従来の積立金などで処理可能であるから減資や債務切捨ては行わない、②計画認可後1年以内に資本金を5,500万円増加し7,000万円とする、③旧債務は新旧勘定合併後1年以内に返済する、などであった。

この場合、固定資産と日常の運転資金は、自己資本でまかなう建前であった。したがって、戦時補償特別税を納付したうえ、インフレ下にあってさらに事業を継続するためには、ある程度の融資を見込んだとしても5,500万円の増資は絶対的に必要と考えられ、24年4月、臨時株主総会を招集し、増資を決議した。その方法は、額面50円の株式110万株を発行し、これを計画認可日現在の株主に、所有株1株につき3.66株の割合で割り当てるというものであった。

しかし当時の情勢からみて、社内のみで消化することは困難であったため、取締役会で株主資格の拡大を決議し、社外の引受けを願うこととした。これによって、役員および従業員のほか三和銀行、三井銀行などの金融機関、日本生命、近畿日本鉄道、倉敷レイヨンなどの得意先会社、その他協力関係にある主な取引会社が新たに株主となった。当社の株式が外部に出たのはこのときが最初で、完全な株式公開とはいえないが、同族会社から脱皮する第一歩として業界の先がけをなした。

24年8月末の決算で旧勘定の損益計算を終了し、9月には増資を完了して新旧勘定を合併し、当社は特別経理会社を脱したのであった。なお、株式配当は特別経理会社指定中は法律で禁じられていたこともあって、21年3月、年5分の配当を行って以来、26年3月まで無配が続いた。当社にとっては財務に関する戦後処理の苦難に満ちた期間であった。

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