大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 第1次石油危機とその影響

■―狂乱物価と総需要抑制

わが国の原油産出量は微々たるもので、必要量の99%以上を輸入に頼らざるを得ないにもかかわらず、今回の石油危機のような緊急事態が起きた時の政策手段や消費規制、投機行為抑制の法律は存在しなかった。先進国のなかで最も痛烈なショックを受け、周章狼狽したのは日本であったといわれるが、わが国には対抗手段がないうえに、すでに物価騰貴は始まっており、基礎的生産財の一部に物不足傾向がみられ、石油製品の需要も増大していた折だけに、ショックは大きかった。

産業界だけでなく一般消費者の生活にも大きな混乱を引き起こし、供給不足と一層の値上がりを見越した買占め、売り惜しみも発生して事態を悪化させた。トイレットペーパーや合成洗剤が、にわかにスーパーの店頭から姿を消したのはこの時のことで、たちまち灯油、食用油、砂糖、醬油、食塩などにまで飛び火していった。一般国民は物不足になることに強い不安感を覚え、生活防衛に右往左往したのである。

政府は総理大臣を長とする緊急石油対策推進本部を昭和48年(1973)11月に発足させるとともに「石油緊急対策要綱」を閣議決定し、強力な行政指導によって石油、電力の使用節減、総需要抑制策および物価対策の強化に乗り出した。さらに石油2法といわれる「石油需給適正化法案」と「国民生活安定緊急措置法案」を国会に上程、両法案は異例のスピード審議で可決され、同年12月22日に公布・施行された。同日、政府は「石油需給適正化法」に基づいて緊急事態宣言を行い、緊急石油対策推進本部に代えて国民生活安定緊急対策本部を設置した。石油消費規制措置は、49年2月以降、行政指導から法的規制に移行した。

石油危機のさなか大蔵大臣に就任した福田蔵相は、政府は財政を、企業は投資支出を、家計は消費支出をそれぞれ抑制することによって総需要を抑制し、原油大幅値上げによるインフレと国際収支の赤字に対処すべきである、と表明した。48年12月22日、公定歩合は一挙に2%引き上げられて9%と戦後最高の水準となった。金融面では、日銀の窓口指導のほか、仮需要やインフレ期待を抑えるための選別融資も行われた。

こうしたうちにも物価の騰貴は著しく、福田蔵相をして「いまや物価は狂乱の様相を呈した」と慨嘆させるほどであった。たとえば48年12月の卸売物価指数は前月比7.1%上昇したが、これは終戦直後の20年9月の8.2%以来の上げ幅であり、47年12月と比べると29%の上昇であった。48年から49年にかけては食料品から公共料金まで何もかも連鎖的に値上げされ、生活の実感は厳しいものがあり、便乗的な一部企業の行為は世の指弾を受けることになった。

48年11月~49年3月の物価上昇の推移をみると右表のとおりで、狂乱と呼ばれるに値する高騰ぶりであった。

■―建設資材の高騰

建設資材の供給不足と値上がりは昭和47年(1972)の秋に始まり、先頭を切って急騰し始めたのは木材、木製品、鋼材、プラスチックなどであった。48年10月の石油危機の突発とともに、さらに加速し増幅された。それまで1t当たり4万7,500円であった鉄骨価格は、同年末から49年1月にかけ、最高10万500円に上昇しただけでなく、売り惜しみによる品不足もあって、中小建設業者はほとんど入手できない状態が続いた。

また、セメントも減産と並行して約20%の値上げが強行されたが、これが生コン価格に転嫁されたため、生コンも2回にわたって値上げされた。さらに石油製品も元売り各社の選別出荷により、軽油、ガソリン等の建設用重機械の燃料が逼迫し、工事は難渋した。

この時期における建設資材価格指数の推移は次表のとおりである。

■―建設投資抑制策の実施

昭和48年(1973)8月末の物価対策閣僚協議会は、物価安定緊急対策の柱の一つとして建設投資の抑制策を打ち出した。これによると、学校、住宅、病院、社会福祉施設以外の主として民間の貸ビル、デパート、娯楽施設、工場建家などの建物で、建築延面積が5,000㎡以上のものを対象に、次のような規制を行うものであった。

これらの建物を建てる場合、建築投資調整協議会(関係7省庁で構成)が査定し、緊急と認められないと判断したとき、建築物の属する各業種ごとの所管官庁を通じて建築主に対し、工事施工の延期または建築規模の縮小を勧告し、その回答を求めるものである。

この場合、国は各都道府県知事にも延面積が3,000㎡以上5,000㎡未満の建築物でも娯楽施設と認められるものには抑制措置をとるよう協力を要請する、ともされた。

この抑制措置は9月から実施に移され、48年中だけでも150件を超える勧告が出された。

民間建設投資はこうした行政指導に加えて、企業自らも減量経営と設備投資の手控えを行ったため大幅に減少した。また公共投資についても、総需要抑制策の一つとして、本四架橋の着工延期など建設投資予算の削減や繰延べが一時的に実施されたため、建設需要は一気に冷え込んだのであった。

この当時数年の建設投資額を表示すると次のとおりである。

上表にみるとおり49年度は総需要抑制策によって、建設投資額は実質で前年度より約4兆8,000億円という大幅な落込みをみせ、実質で48年度の水準を超えるのは53年度に至ってからである。この間、名目額は上昇を続けているにもかかわらず実質額が落ち込んだままであることに、資材・人件費の高騰をはじめコストの著しい上昇により建設業が苦境に陥ったことがうかがえる。

■―資材部門の対応

資材調達業務は、最も希望する品質、規格の建設資材を適正な価格で購入して安定供給することにあるが、昭和46年(1971)から数年間は、かつて経験したことのない激しい経済変動のなかで、この業務は大変な苦労を強いられた。

当社の主要資材調達業務は、各店の土木、建築部門の施工担当部の資材課あるいは土木部工事課、建築部建築課などで行われてきたのであるが、全社的視野に立って資材を調達する視点を失いがちであったことは否めない。

石油危機によって非常事態が到来し、建設現場の前線に大きな混乱をもたらした。供給不足の資材をめぐって現場間の争奪が繰り広げられる現象もみられ、資材納入の遅れが工期を圧迫し、加えて建設コストの急上昇が現場責任者を悩ませることになった。そこで発注、購買を一元化して、価格の低減と供給の安定を図り、市況の動向を把握するため、早急に全社的体制を整備する必要があった。

石油危機発生後の49年1月、とくに首都圏および京阪神地区における資材の安定的調達と機材の効率的運用を図ることが緊要となり、資材部門を土木、建築両本部から分離独立させ、東京本社と本店に資材部を設置した。

その取り扱う対象は次のとおりであった。

鉄筋、鋼材一般
セメント、生コン、コンクリート2次製品
硝子工事、ALC工事、ブロック工事、スレート工事、天井・軽鉄工事仮設機材一般

これによって資材調達の一元化が果たされ、需要予測に基づく早期発注、大量発注によるスケールメリットの確保、主要メーカーとの関係強化、購買取引を通じての営業部門への支援が行われるようになった。

資材部には資材課、仮設機材課の2課が置かれた。

仮設機材の保有量は受注高、施工高と密接な関係があり、高度成長期には高い伸び率を示したが、石油危機以降は不況を反映して微増にとどまった。しかし、保有量の増大は工事原価にも影響を及ぼすところから、その効率的運用を図るため、資材部発足前の47年11月、仮設機材の保管、整備に当たる資材倉庫を機材センターに改称するとともに、人員、施設等を整備・拡充し、場内整備、修理作業の機械化、省力化を推進した。

さらに、在庫管理、入発着状況の情報提供等、迅速な業務処理能力向上のため、コンピュータの利用を一層強化すべく、48年12月、従来のものに代えてMKP200在庫管理機を導入、東京、大阪の両機材センターに端末機を設置した。次いで50年1月、仙台、名古屋両支店にも同機を導入した。そして横浜支店は東京機材センターの、札幌支店は仙台支店の、その他の支店は東京本社のコンピュータを利用することとした。コンピュータの活用により、仮設機材の管理は大きな効果をあげるようになった。

施工中の東京都美術館の工事現場
施工中の東京都美術館の工事現場
当時の東京機材センター
当時の東京機材センター
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