大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

8 功労者相次いで逝く

■―悲報重なる

昭和50年(1975)から51年にかけて、当社の至宝ともいうべき白杉嘉明三相談役、そして元副社長濱地辰助顧問、副社長赤野 豊が相次いで世を去った。

白杉相談役は明治31年以来、77年にわたって三代の社長を輔け、全生涯を当社に捧げたが、同時にそれはわが国建設業の発展と歩みを共にしたことであり、業界においても象徴的な存在であった。

また、濱地顧問と赤野副社長はともに土木部門を率い、高度成長期に伸展した当社の公共工事部門をより大ならしめるとともに、経営の中枢にあって全社を統轄、指導した功労者であった。

あたかも当社は業績回復に必死の努力を傾けていた時期であり、これら功労者の相次ぐ訃報が全社に衝撃を与えたことはいうまでもない。すなわち、白杉相談役、濱地顧問はすでに現役を離れていたとはいえ、それは職員にとって心の支えを失ったことを意味した。また、赤野副社長は当事者の立場において、現に難局打開に苦闘しつつあった折から、その急逝は直接の打撃をももたらしたからであった。

経営立て直し途上の当社にとって、たび重なる功労者の死は、はかり知れない痛手であったが、それは避けられない宿命であり、全社一丸となって早急に危機を克服し、これら先人の労に報いるほかはなかったのである。

■―白杉嘉明三相談役

昭和50年(1975)8月11日夜、白杉相談役は気管支肺炎のため入院中の香雪記念病院において、満99歳、数え年100歳の天寿を全うした。

本葬は8月25日午後2時、大阪市四天王寺本坊において、大林社長が葬儀委員長、四天王寺管長出口常順師を導師として、大林組社葬の礼をもって執り行われた。

この日正午、葬儀委員長代理荒川副社長が先導し、白杉邸を出発した遺骨を捧持する一行の自動車は、午後1時を期して当社本店ビル前を徐行で通過、路傍に整列した職員は黙禱をもってこれを送り、別れを告げた。

祭壇には遺影の前に従四位の位記、勲二等の勲記と勲章が、背後に「清康院徳質嘉明居士」の戒名が飾られた。葬儀は午後2時に始まり、大林葬儀委員長、大阪商工会議所会頭佐伯 勇氏、大阪建設業協会会長竹中錬一氏、友人代表東洋紡績相談役谷口豊三郎氏、宮津市市長矢野二郎氏がそれぞれ弔辞を捧げた。続いて午後3時から告別式に移ったが、折からの酷暑、炎天下にもかかわらず、約2,300名の会葬者が長蛇の列をなし、ねんごろに故人の冥福を祈った。

白杉相談役は、明治9年8月2日、京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)の旧藩主御用染物師白杉幸輔の長男として生まれた。その経歴は没後に刊行された追悼録『白杉嘉明三翁をしのぶ』(51年5月、当社編)に詳しいが、それは当社の社史そのものというべく、簡単には要約しがたい。

そこで上記書より、結語の部分「白杉翁の真価」を引用して略伝に代える。

「白杉翁を一言で評すれば、明治人の典型であったといえよう。翁が生まれた明治9年(1876)には熊本、秋月、萩で反乱がおこり、翌10年は西南戦争の年であった。それは維新動乱の終末期であるとともに、日本が封建体制を脱皮し、近代国家への第一歩を踏み出そうとしたときである。翁の人間形成が行われた時代、国をあげて新興の意気に燃えていたことは、宮津の人々が対露、対韓貿易を試みた事例からも知られるであろう。

翁が郷関を出た動機は、家業の再興にあったというが、仮りに資金の調達に成功したとしても、おそらく宮津にとどまったとは考えられない。翁には青年らしい“大志”があり、それを満たすには広い世界が必要であった。たまたま大林芳五郎との出会いにより、翁は新しい世界に開眼したのであるが、日本もこのとき日清戦争に勝ち、後進国の域を脱しつつあった。大林組の成長はこの波に乗ったためであり、翁の“大志”を満たすにふさわしい舞台でもあった。翁が大林組に生涯を捧げたのは、芳五郎の知遇にむくいるとともに、燃ゆるがごとき志を遂げるためでもあったろう。

明治は発展の時代であるが、いくたびか挫折し、それを乗り越えたのちの発展であった。政治的、経済的危機に耐え、これを克服しつつ西欧文明を吸収し、追い付き、追い越す努力を重ねなければならなかった。その間、培われたのが明治人の特性とされる忍耐、努力、不屈の精神であり、白杉翁が身に付けたものである。大林組もまた、翁をはじめ明治の先輩が、この精神によってささえ、難局を突破した伝統をもっている。“危機のあとに発展がある”“工事の完成をみるまで死ねない”という翁の哲学は、教訓や金言でなく、実践の所産であった。

大林家と大林組を一体視し、みずからを“大番頭”と律した翁は、三井家の三野村利左衛門、住友家の広瀬宰平にしばしば比較された。これも明治人の心境であり、現代の雇用関係からは理解しがたいであろうが、翁にとってはきわめて自然であった。翁の“大志”は大林組の発展とともに大成することにあり、その志は遂げられたからである。おのれの分を守り、これを逸脱しない精神もまた、明治人の特性であった。また、公私を問わず几帳面で緻密な性格は、大林組の経営をささえたのみならず、世間の信用を博するもととなった。稀有の長寿にめぐまれた翁に、友人知己が多かったのはいうまでもないが、接する人にはいずれも深い感銘を与えずにはおかなかった。仕事に関しての交際にはじまり、終生の友となった人々も数多くあった。

翁に仕えた人々は、翁が仕事について厳しかった反面、思いやりが深かったことを指摘する。また、趣味の項でも触れたように、社内や職業上の宴席で、芸を披露することはしなかった。家庭においてはよき夫、よき父、よき祖父であっても、翁に対する世間の目は、とかく厳格な面にのみ注がれる場合が多かった。これもこの時代人の通有性として、公私二つの顔があったためであろうか。

翁は明治の精神をもって大正、昭和の三代を生き抜き、苦難のたびに自らを鍛え、大林をささえる柱となった。これに対して大林組は、たびたびの表彰をもってむくいたのみならず、終生相談役として最高の礼遇を尽した。さらに社会的には従四位、勲二等、宮津市名誉市民の栄誉を得た。おそらく翁は百歳の天寿を全うするに当たり、これ以上求めるところはなかったであろう。

柩をおおうに際し、翁がこれらの栄誉に飾られたことは、その輝ける業績に対してふさわしいものであった。しかし、翁が波瀾に満ちた生涯を賭けたのは大林組であった。翁につづく人々が、大林組の伝統と白杉精神を体し、心を新たにして奮起前進するとき、翁の真価はさらにその輝きを増すであろう。」

位記
位記
勲章・名誉市民章
勲章・名誉市民章
弔辞を述べる大林社長
弔辞を述べる大林社長
会葬者の列
会葬者の列

■―濱地辰助顧問

かねて慶応病院に入院加療中であった元副社長濱地辰助顧問は、昭和50年(1975)10月1日、72歳をもって永眠した。

葬儀は同月17日午後2時、青山葬儀所において社葬をもって執り行われた。

濱地顧問は、明治36年福岡市に生まれ、大正14年九州帝国大学土木学科を卒業して鉄道省に入った。戦時中、陸軍司政長官としてジャワ島に赴任し、戦後、公職追放令にあった。昭和22年11月、折から経営首脳の強化を迫られていた当社の要請に応えて、土木顧問として入社、24年4月には取締役東京支店長に就任し、同年12月には常務取締役に昇任、経営陣の中枢にあって戦後危機克服の一翼を担った。

33年11月専務取締役、35年11月には副社長にと累進し、東京の最高責任者としてその重責を果たした。45年11月、現役を退き顧問に就任したが、この間23年、同氏は卓越した識見と誠実温厚な人柄によって、各界の幅広い知己を得、東京における営業基盤の強化と拡大に尽力するとともに、よく後進の指導に当たった。そしてまた建設業界の各種団体の役員を務め、業界の発展にも大きな足跡を残した。その喪が発表されるに及び、政府は正四位に昇叙し、勲三等旭日中綬章を贈って功績に報いた。

濱地顧問社葬
濱地顧問社葬

■―赤野 豊副社長

昭和51年(1976)6月7日、赤野 豊副社長は社用外出先で突然倒れ、翌々9日、脳出血のため急逝した。享年60。同月22日、生前の功績に対して正五位に叙せられ、勲三等瑞宝章を授与された。

葬儀は6月24日午後2時、青山葬儀所において社葬として執行された。

赤野副社長は、大正5年岡山県に生まれ、昭和11年徳島高等工業学校卒業と同時に当社に入社した。戦後は若くして抜擢され各地で土木主任を歴任したが、とくに26年、米国第5空軍千歳航空基地においては、米軍貸与の重機械類を駆使して当時まれにみる大工事を短期間に仕上げた。これは戦後の当社における施工技術の革新と機械化促進の契機となった。

37年9月土木本部工事部長となり、工事獲得、施工指導に手腕を発揮し、39年取締役、41年常務取締役、43年専務取締役と累進した。44年4月土木本部長に就任し、当社土木部門の最高責任者となった。そして47年11月副社長に昇任し、石油危機後苦難の時期を迎えた当社にあって、社運の挽回に努める一方、協力会社の育成、工事現場の安全衛生管理と災害防止に尽瘁した。その進取の気性と行動力、人望とに、これからの活躍が期待されていた矢先の急逝であった。

赤野副社長社葬
赤野副社長社葬
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