昭和50年(1975)8月11日夜、白杉相談役は気管支肺炎のため入院中の香雪記念病院において、満99歳、数え年100歳の天寿を全うした。
本葬は8月25日午後2時、大阪市四天王寺本坊において、大林社長が葬儀委員長、四天王寺管長出口常順師を導師として、大林組社葬の礼をもって執り行われた。
この日正午、葬儀委員長代理荒川副社長が先導し、白杉邸を出発した遺骨を捧持する一行の自動車は、午後1時を期して当社本店ビル前を徐行で通過、路傍に整列した職員は黙禱をもってこれを送り、別れを告げた。
祭壇には遺影の前に従四位の位記、勲二等の勲記と勲章が、背後に「清康院徳質嘉明居士」の戒名が飾られた。葬儀は午後2時に始まり、大林葬儀委員長、大阪商工会議所会頭佐伯 勇氏、大阪建設業協会会長竹中錬一氏、友人代表東洋紡績相談役谷口豊三郎氏、宮津市市長矢野二郎氏がそれぞれ弔辞を捧げた。続いて午後3時から告別式に移ったが、折からの酷暑、炎天下にもかかわらず、約2,300名の会葬者が長蛇の列をなし、ねんごろに故人の冥福を祈った。
白杉相談役は、明治9年8月2日、京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)の旧藩主御用染物師白杉幸輔の長男として生まれた。その経歴は没後に刊行された追悼録『白杉嘉明三翁をしのぶ』(51年5月、当社編)に詳しいが、それは当社の社史そのものというべく、簡単には要約しがたい。
そこで上記書より、結語の部分「白杉翁の真価」を引用して略伝に代える。
「白杉翁を一言で評すれば、明治人の典型であったといえよう。翁が生まれた明治9年(1876)には熊本、秋月、萩で反乱がおこり、翌10年は西南戦争の年であった。それは維新動乱の終末期であるとともに、日本が封建体制を脱皮し、近代国家への第一歩を踏み出そうとしたときである。翁の人間形成が行われた時代、国をあげて新興の意気に燃えていたことは、宮津の人々が対露、対韓貿易を試みた事例からも知られるであろう。
翁が郷関を出た動機は、家業の再興にあったというが、仮りに資金の調達に成功したとしても、おそらく宮津にとどまったとは考えられない。翁には青年らしい“大志”があり、それを満たすには広い世界が必要であった。たまたま大林芳五郎との出会いにより、翁は新しい世界に開眼したのであるが、日本もこのとき日清戦争に勝ち、後進国の域を脱しつつあった。大林組の成長はこの波に乗ったためであり、翁の“大志”を満たすにふさわしい舞台でもあった。翁が大林組に生涯を捧げたのは、芳五郎の知遇にむくいるとともに、燃ゆるがごとき志を遂げるためでもあったろう。
明治は発展の時代であるが、いくたびか挫折し、それを乗り越えたのちの発展であった。政治的、経済的危機に耐え、これを克服しつつ西欧文明を吸収し、追い付き、追い越す努力を重ねなければならなかった。その間、培われたのが明治人の特性とされる忍耐、努力、不屈の精神であり、白杉翁が身に付けたものである。大林組もまた、翁をはじめ明治の先輩が、この精神によってささえ、難局を突破した伝統をもっている。“危機のあとに発展がある”“工事の完成をみるまで死ねない”という翁の哲学は、教訓や金言でなく、実践の所産であった。
大林家と大林組を一体視し、みずからを“大番頭”と律した翁は、三井家の三野村利左衛門、住友家の広瀬宰平にしばしば比較された。これも明治人の心境であり、現代の雇用関係からは理解しがたいであろうが、翁にとってはきわめて自然であった。翁の“大志”は大林組の発展とともに大成することにあり、その志は遂げられたからである。おのれの分を守り、これを逸脱しない精神もまた、明治人の特性であった。また、公私を問わず几帳面で緻密な性格は、大林組の経営をささえたのみならず、世間の信用を博するもととなった。稀有の長寿にめぐまれた翁に、友人知己が多かったのはいうまでもないが、接する人にはいずれも深い感銘を与えずにはおかなかった。仕事に関しての交際にはじまり、終生の友となった人々も数多くあった。
翁に仕えた人々は、翁が仕事について厳しかった反面、思いやりが深かったことを指摘する。また、趣味の項でも触れたように、社内や職業上の宴席で、芸を披露することはしなかった。家庭においてはよき夫、よき父、よき祖父であっても、翁に対する世間の目は、とかく厳格な面にのみ注がれる場合が多かった。これもこの時代人の通有性として、公私二つの顔があったためであろうか。
翁は明治の精神をもって大正、昭和の三代を生き抜き、苦難のたびに自らを鍛え、大林をささえる柱となった。これに対して大林組は、たびたびの表彰をもってむくいたのみならず、終生相談役として最高の礼遇を尽した。さらに社会的には従四位、勲二等、宮津市名誉市民の栄誉を得た。おそらく翁は百歳の天寿を全うするに当たり、これ以上求めるところはなかったであろう。
柩をおおうに際し、翁がこれらの栄誉に飾られたことは、その輝ける業績に対してふさわしいものであった。しかし、翁が波瀾に満ちた生涯を賭けたのは大林組であった。翁につづく人々が、大林組の伝統と白杉精神を体し、心を新たにして奮起前進するとき、翁の真価はさらにその輝きを増すであろう。」