大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和20年~昭和29年ころ

至上命令の進駐軍工事

進駐軍工事は、かつての軍工事と同様、至上命令として行われた。まず都市の焼け残りビルを宿舎に改装することから始まり、続いて兵舎の建設も始まった。当社が行ったこの種の工事は以下のとおりであるが、このほかに諸名士の邸宅を高級将校用に接収してアメリカ風住宅に改造したり、DH(Dependent House)と呼ばれた家族住宅も各地に建設したのであった。

進駐軍工事は、昭和23年(1948)ごろが最盛期であったが、その後、朝鮮戦争(25年)、対日講和条約、日米安全保障条約の締結(26年)があり、沖縄米軍基地工事、朝霞米軍行政部庁舎、ワシントンハイツ婦人将校宿舎など米軍の工事は続いていった。また、こうした米軍の工事に並行して、米国大使館員アパートA・B、神戸米国総領事館の工事なども行った。

●主な進駐軍工事

<接収ビル改装>

三信ビルディング(通信部隊宿舎)、如水会館(将校クラブ)、三菱本館(婦人部隊宿舎)、東京住友ビル(外国貿易実業団宿舎)、伊藤萬本館・同別館(米軍通信隊、婦人部隊宿舎)、琵琶湖ホテル(将校宿舎)、愛知県蒲郡ホテル(同)

<兵舎建設>

京都岡崎、同祝園、大阪金岡、岡山、倉敷、防府、宮城県神町、北海道真駒内、青森県三沢、神奈川県相模原

<家族住宅建設>

大阪浜寺、宮城県多賀城、山口県岩国、福岡県西戸崎、横浜本牧、同根岸、青森県三沢

<航空基地施設>

兵庫県伊丹、宮城県矢本、東京羽田、青森県三沢、北海道千歳、沖縄

<レジャー施設用改装>

阿蘇観光ホテル、雲仙観光ホテル、三河大島休養施設

浜寺地区進駐軍家族住宅
<大阪府>昭和23年1月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
浜寺地区進駐軍家族住宅
<大阪府>昭和23年1月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府

復旧工事が始まる

進駐軍工事と並行して戦災復旧工事も開始されたが、昭和24年(1949)以前はこうしたものもきわめて微々たるものであった。

20年には、三菱重工業第五製作所、川崎重工業知多工場、日東製粉名古屋工場、日本麦酒西宮工場、神戸製鋼所本社工場、石川島芝浦タービン鶴見工場、日本肥料四日市工場などの復旧工事を受注したのみで、21~22年には三菱電機大阪工場、近鉄百貨店阿倍野店、中部日本新聞社などの復旧工事があったにすぎなかった。また、名古屋引揚援護局建設工事は時局の要請による緊急工事であった。

戦時中から引き続く衣料品不足を解決するためにも、また、来日した米国綿業使節団からマッカーサー宛に日本の繊維工業再建勧告が出されたこともあって、23年になると繊維工場の復旧工事が出始め、主なものとしては、倉敷絹織倉敷・丸岡各工場、東洋レーヨン滋賀・瀬田各工場、新光(三菱)レイヨン大竹・岐阜各工場の復旧工事があった。

公共工事では、20年から26年にかけて東京駅本屋の復旧工事を行い、道路工事では21年10月~22年6月に施工した京浜国道(品川八ッ山橋~神奈川県境六郷橋間)の改修工事が大きな工事であった。東京駅本屋復旧工事では、まず丸太造の仮屋根の応急復旧に取りかかったが、予算や構造耐力の関係で3階建は2階建となり、屋根も木造トラスの八角形屋根に変えざるを得なかった。一応の外装が整った(22年)あと、模様替え工事に取りかかり、この工事は26年まで続いた。

政府は産業復興にとって不可欠な石炭、電力等エネルギー源の開発にも意を注ぎ、これによって石炭産業は急速に伸長したが、当時、当社は多くの炭鉱労働者用住宅(炭住)や病院等を建設し、その最盛期は22~23年であった。

また政府は、本格的な電源の開発に先立ち、22年から23年にかけて電力会社に命じて応急措置を講じさせたが、当社がこのころ受注した電力関係工事には日本発送電佐久発電所放水路他や東北配電宮城県池月発電所護岸他などがあった。

25年以降、GHQの政策転換により、産業復興援助の方針がとられるとともに、工場やビルの復旧工事は活発となり、やがて増築、新築にまで発展したのであった。

東京駅本屋復旧
<東京都>昭和26年6月竣工
発注 運輸省
設計 日本国有鉄道
(写真は本屋待合室)
東京駅本屋復旧
<東京都>昭和26年6月竣工
発注 運輸省
設計 日本国有鉄道
(写真は本屋待合室)

特需景気をバネに

繊維工業を中心に工場の増設が相次ぐ

戦後の繊維関係の工事は昭和20年代前半も復旧工事を行ってきたが、24年(1949)6月公布された臨時繊維機械設備制限規則が特需ブームをきっかけに翌年11月廃止されたこともあって、相次いで工場が建設されるようになった。

当社がこの時期に手がけた最大の工場建築であった倉敷レイヨン富山工場に24年着工したのに続き、25年には倉敷レイヨン岡山工場ビニロン製造施設・同西条工場、近江絹絲紡績大垣工場、大日本紡績大高工場、日清紡績富山工場・同名古屋工場、新光(三菱)レイヨン大竹工場・同名古屋工場(26年)、東洋紡績浜松工場、26年には富士紡績小坂井工場、呉羽紡績鈴鹿工場、東洋レーヨン瀬田工場A地区、帝国人造絹絲名古屋工場、日東紡績泊工場などの増築・新築工事に着手した。その後、大東紡織鈴鹿工場第1期、呉羽紡績鈴鹿工場第2期、帝国人造絹絲松山工場などにも着手した。

このほか、20年代後半に建設した工場としては、大洋漁業東京冷蔵庫増築、大阪瓦斯酉島工場第3期・同舎密工場改修、トヨタ自動車工業挙母工場プレス工場・車体工場、山陽パルプ岩国工場増築、東陽倉庫東埠頭倉庫、日本パルプ工業米子工場、明電舎大崎工場大型発電機工場および変圧器工場・同品川工場、朝日麦酒西宮工場製麦工場、旭ダウ鈴鹿工場、東京芝浦電気姫路工場THG・THK工場、川崎製鐵千葉製鉄所護岸、三井金属鉱業神岡鉱業所和佐保隧道、日本鋼管川崎製鉄所平炉工場、大阪市安治川サイロなどがある。

倉敷レイヨン富山工場
<富山県>昭和25年11月竣工
発注 倉敷レイヨン
設計 倉敷レイヨン
倉敷レイヨン富山工場
<富山県>昭和25年11月竣工
発注 倉敷レイヨン
設計 倉敷レイヨン
日清紡績富山工場
<富山県>昭和26年1月竣工
発注 日清紡績
日清紡績富山工場
<富山県>昭和26年1月竣工
発注 日清紡績

経済の立直りとビル建設ブーム

日本の経済が特需ブームを契機に息を吹き返したのと相前後して本格的なビル建築が急増してきたが、これは昭和28年(1953)ころまで続いた。この背景としては、ビルの潜在的な需要が膨大であったこと、特需景気により企業に余裕が出始めたころであったこと、セメント・鋼材など主要建設資材の統制がこのころすべて廃止され、建築制限が大幅に緩和されたことなどがあげられる。25年5月には「建築基準法」および「建築士法」が公布され、臨時建築制限規則その他一連の法令が廃止され、それまでの建築の量的規制は現在の質的規制に移行した。

この時期に建設されたビルでは銀行ビルがとくに目立ち、25年8月に着工した永楽ビルディングは三菱信託銀行の本店として使用され、当社東京支店が戦後に施工した最初の美術建築であった。永楽ビルとほとんど同時に、大阪では、大阪国際見本市会館の第1期工事に着手、続いて阪神電鉄発注の新阪神ビルディングを、26年9月当社の設計・施工で着手した。ほかに千代田(のち三菱)銀行大阪支店増築、日本興業銀行本店増築、三和銀行京都支店、山隂合同銀行本店、大阪(のち住友)銀行備後町ビルディング、帝国銀行阿佐ケ谷支店、神戸銀行大阪支店、紀陽銀行本店、北洋相互銀行本店、三和銀行本店の工事に相次いで着手した。

銀行ビル以外では、新光ビルディング、大和ビルディング、武田薬品工業本社増築、日綿実業本社、富士写真フイルム大阪出張所、埼玉ビルディングがあり、29年には近鉄会館、毎日大阪会館北館(33年南館竣工)、30年には伊藤忠商事東京支社の工事に着手した。

このビル建設ブームのなかで建築施工技術も大いに発展し、基礎工事では、山留め、足場、型枠に従来の木製に代わって鋼製のものが登場し、新しい建材も次々と開発・販売されるようになった。カーテンウォールが急速に普及し始めるきっかけとなったのもこのころからであり、27年にはオフィスビルでは初めて全溶接のラーメン構造が登場した。

永楽ビルディング
<東京都>昭和27年1月竣工
発注 三菱地所
設計 三菱地所
永楽ビルディング
<東京都>昭和27年1月竣工
発注 三菱地所
設計 三菱地所
日本興業銀行本店増築
<東京都>昭和27年9月竣工
発注 日本興業銀行
設計 山下寿郎設計事務所
(写真左手前は旧館、増築部はその奧)
日本興業銀行本店増築
<東京都>昭和27年9月竣工
発注 日本興業銀行
設計 山下寿郎設計事務所
(写真左手前は旧館、増築部はその奧)
大阪国際見本市会館
<大阪府>昭和26年11月竣工(第1期) 昭和33年3月竣工(増築)
発注 大阪府
設計 大阪府
(写真は第1期完成後)
大阪国際見本市会館
<大阪府>昭和26年11月竣工(第1期) 昭和33年3月竣工(増築)
発注 大阪府
設計 大阪府
(写真は第1期完成後)
三和銀行本店
<大阪府>昭和30年10月竣工
発注 三和銀行
設計 山下寿郎設計事務所
三和銀行本店
<大阪府>昭和30年10月竣工
発注 三和銀行
設計 山下寿郎設計事務所
新阪神ビルディング
<大阪府>昭和28年3月竣工
発注 阪神電気鉄道
設計 当社
新阪神ビルディング
<大阪府>昭和28年3月竣工
発注 阪神電気鉄道
設計 当社

消費の回復と文化・娯楽の復活

昭和20年代も後半に入ると、国民生活に若干の余裕が生じ、消費が増大するに伴ってデパートの復興が始まった。25年(1950)7月に着工した広島駅前平和デパートを皮切りに、27年および29年に増築が完成した髙島屋東京店、29年竣工した東京駅八重洲本屋・鉄道会館の大丸東京店があり、30年代前半の相模鉄道横浜駅・西口名品街、大丸神戸店増築、近鉄百貨店阿倍野店増築、東京丸物百貨店・国鉄池袋駅東口本屋、相鉄会館(横浜髙島屋)に続いていった。

専売公社のたばこ工場は戦災で大きな被害を受けたが、その復旧工事が20年代前半にほぼ終わり、タバコの消費の増加に伴って、28年には専売公社仙台たばこ工場(30年には増築)、翌29年は西金沢葉たばこ再乾燥工場および金沢地方局たばこ倉庫の新築工事を受注した。また、文化・体育・娯楽に目を向ける余裕も生まれてきた。28年にテレビ放送が開始されるとNHK東京放送会館新館、ラジオ東京テレビ放送局局舎などテレビ関係の工事を手がけ、文化・体育・娯楽施設としてはキョートアイスパレス、蔵前国技館改装、愛知県文化会館美術館、松山体育館などの工事を施工した。また、広島平和記念館は資料館、記念館、慰霊碑などの工事を行ったが、爆心地付近での3年という長い工事は施工担当者にとって心痛む工事であった。

東京日本生命館(髙島屋東京店)増築
<東京都>昭和27年9月竣工
発注 日本生命
設計 村野・森建築事務所
東京日本生命館(髙島屋東京店)増築
<東京都>昭和27年9月竣工
発注 日本生命
設計 村野・森建築事務所
東京駅八重洲本屋・鉄道会館
<東京都>昭和29年10月竣工
発注 日本国有鉄道、鉄道会館
設計 日本国有鉄道、鉄道会館
東京駅八重洲本屋・鉄道会館
<東京都>昭和29年10月竣工
発注 日本国有鉄道、鉄道会館
設計 日本国有鉄道、鉄道会館
松山体育館
<愛媛県>昭和28年10月竣工
発注 愛媛県
設計 丹下健三計画研究室
松山体育館
<愛媛県>昭和28年10月竣工
発注 愛媛県
設計 丹下健三計画研究室
広島平和記念資料館・記念館
<広島県>昭和30年8月竣工
発注 広島市
設計 丹下健三計画研究室
(写真左に見えるのが資料館、右が記念館)
広島平和記念資料館・記念館
<広島県>昭和30年8月竣工
発注 広島市
設計 丹下健三計画研究室
(写真左に見えるのが資料館、右が記念館)

公共工事や病院工事も徐々に増加

敗戦で打ちのめされた日本の国土に追いうちをかけるかのように、次々と自然の猛威が襲った。昭和20年(1945)9月枕崎台風、22年キャスリーン台風、23年福井地震、25年ジェーン台風、28年西日本水害、29年洞爺丸台風など息つく間もない来襲であった。

元来、わが国は台風、地震、火山爆発などの天災に常に脅かされる宿命にあるとはいえ、敗戦後のこの時期にとくに集中的に発生したのは不運であった。こうしたなかで土木事業に強く期待されたのは、食糧増産のための農業土木事業とともに、戦災復旧と災害復旧であった。20年代にこうした土木工事として、当社は、23年群馬県片品川護岸、25年渡良瀬川砂防足尾堰堤、26年尼崎港高潮対策工事、尼崎港防潮堤、29年筑後川大石堰などに着手した。

このほか、20年代後半に入ると、土木工事とともに官公庁建築や公立病院などの工事も徐々に増加していった。以下は20年代後半のそうした工事である。

●主な官公庁建築・病院工事

<地方公共団体>

山口市庁舎、佐賀県庁舎、下関市庁舎、延岡市庁舎、倉吉市庁舎、香川県庁舎

<中央官公庁>

三宮電話分局、福岡簡易保険支局、松山専売局局舎、東北少年院、大阪第2船場電話局、福井地方裁判所、大阪合同庁舎第1期・2期、防衛庁庁舎、札幌郵政局局舎

<病院>

青森県立病院、神奈川県立結核療養所、関東逓信病院、市立札幌病院、日本大学医学部大学院・医学部付属板橋病院、東京大学医学部附属病院中央診療・病棟

また、23年に建設省が設立され、建設行政を担う中心機関として活動を開始したが、翌24年には日本国有鉄道が新しく公社組織として誕生し、官民の組織の長所を兼ね備えるものとして期待を担い戦後の鉄道再建に乗り出したのであった。

当社は、国鉄信濃川発電所余水路他(24年)に続いて、28年末に相前後して国鉄士幌線第2工区、同岩日線第2工区、同赤穂線第6工区の各鉄道建設工事に着手したが、これに先立ち、同年3月には東京駅八重洲本屋・鉄道会館の大規模な工事(地下2階、地上6階、延3万6,504㎡、のち42年に増築して12階となる)に着手した。この工事はほとんど不可能とまでいわれたほどの短工期であったが、当社はあえてそれに挑戦した。コンクリートポンプ使用やメタルフォームの大量使用、鉄製パイプサポートの活用などは初めての試みであり、土砂搬出に100台を超えるダンプトラックを動員したことも人々を驚かせた。

福井地方裁判所
<福井県>昭和28年11月竣工
発注 最高裁判所
設計 最高裁判所
福井地方裁判所
<福井県>昭和28年11月竣工
発注 最高裁判所
設計 最高裁判所
防衛庁庁舎
<東京都>昭和31年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
防衛庁庁舎
<東京都>昭和31年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
関東逓信病院
<東京都>昭和31年3月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
関東逓信病院
<東京都>昭和31年3月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社

刻下の急務

電力復興

終戦当時の壊滅的電力状況のもと、当社は、東北振興電力新田川大谷発電所水路、日本発送電佐久発電所放水路・放水路前庭他、同・箱島発電所5工区の工事を手がけた。既述のように昭和25年(1950)になると朝鮮戦争による特需も重なって、全国的に電力が甚だしく不足し、電力復興が叫ばれるなか「電気事業再編成令」が公布され、26年に9電力会社が発足した。27年には電源開発株式会社も設立され、電源開発は一層活況を呈するようになった。

この時期に当社が施工した代表的な発電所は、九州電力築上発電所第3期(火力)、北陸電力伊折発電所、北海道電力然別第二発電所第2工区、東京電力幸知発電所、中国電力三蟠発電所増築(火力)、北陸電力桑島水力発電所第5工区があり、これらのうち水力発電所はいずれも水路式であった。同時期、山口県佐波川発電所、電源開発芽登発電所も建設したが、これらは貯水式による水力発電所であった。

20年代後半から30年代にかけて多く登場してきたこの貯水式水力発電のためのダムが各地に建設され始め、いわゆるダム建設ブームが到来した。このダムブームの幕開けともいうべき一つのピークが天竜川佐久間ダム(他社施工)であったが、当社も20年代後半に佐波川ダム、糠平ダム、美和ダム、芽登発電所元小屋ダムなどを受注した。

わが国のダムは戦前は電力専用ダムが主流であったが、戦後になると洪水調節、農業水利、上・工業用水道、水力発電などを同時に受けもつ、いわゆる多目的ダムが建設され始めた。佐波川ダムもそうした一つであり、美和ダムは建設省が発注した多目的ダムの最初のものであった。

一方、火力発電所の建設については、当社は関西電力姫路火力発電所第1期、九州電力苅田火力発電所第1期などをこの時期に着工した。

糠平ダム
<北海道>昭和31年6月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発
糠平ダム
<北海道>昭和31年6月竣工
発注 電源開発
設計 電源開発
美和ダム
<長野県>昭和33年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
美和ダム
<長野県>昭和33年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
関西電力姫路火力発電所(第1・2・3・4期)
<兵庫県>昭和30年8月竣工(第1期)~昭和37年10月竣工(第4期)
発注 関西電力
設計 当社
(写真は昭和37年10月撮影)
関西電力姫路火力発電所(第1・2・3・4期)
<兵庫県>昭和30年8月竣工(第1期)~昭和37年10月竣工(第4期)
発注 関西電力
設計 当社
(写真は昭和37年10月撮影)
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