大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

5 日本万国博覧会と当社

■―初のアジア開催

昭和45年(1970)3月15日~9月13日の183日間にわたって、大阪千里丘陵に繰り広げられた日本万国博覧会(エキスポ'70)は、欧米以外の地では初の国際博覧会条約による第1種一般博覧会であった。大阪府以外にも兵庫、滋賀、千葉などの各県が名乗りをあげていたが、最も熱心であったのは大阪で、地元を挙げて運動を開始した。地盤沈下が憂慮されていた大阪の地位回復と、この機に市街地改造、高速道路、地下鉄などの社会資本充実を進めようと期待したためであった。大阪開催が決まったのは40年9月である。

主テーマは「人類の進歩と調和」に決定し、展示もこれに基づいて行われることになり、その基本計画は41年11月に決定し、パリの博覧会条約理事会の承認を得た。

万博はオリンピックより規模も大きく、開催期間も長く、会場に投下される費用は最低2,000億円、関連事業費1兆5,000億円以上、消費需要の相乗的波及効果は2~3兆円にのぼると予測され、関連する各業界は一斉に受注活動を開始した。なかでも会場建設を担当する建設業界の受注競争は激しかった。大阪に本店を置く当社は、歴史的にも明治時代の第5回内国勧業博覧会が社運隆盛の基礎となった事実もあり、その熱意は他社をしのぐものがあった。

EXPO'70ポスター
EXPO'70ポスター

■―主要施設を受注

昭和40年(1965)12月、まず本店に日本万国博覧会対策委員会(委員長=専務取締役荒川初雄)を設置し、万国博覧会協会と緊密な連絡を保つことにした。そして41年11月、本店に万国博本部を設置し、直属の営業課のほか東京支店にも万博部を置いて、活発な受注活動に入った。43年2月には見積り、入札等に対処する工事部を同本部に設けた。

こうした社内体制確立の一方、国内、国外へのパンフレットによるPRや企業への企画提案、42年カナダ・モントリオール万博への大林社長はじめ役職員多数の見学など、きわめて積極的に行動した。

その結果、当社は土木工事では万国博会場敷地造成B-2工区、第3工区道路改良、お祭り広場整地、日本庭園排水等、建築工事ではお祭り広場(JV)とエキスポタワー(JV)のほか、外国パビリオンでアメリカ、スカンジナビア、ギリシャ、キューバ、中華民国、ハワイ、タイ、アメリカンパーク、サンフランシスコの各館、国内パビリオンでみどり館(アストロラマ)、クボタ館、鉄鋼館(JV)、日本民芸館、ガスパビリオン、日立グループ館、せんい館(JV)、松下館(JV)など主力施設はじめ数多くを受注し、建設した。いずれのパビリオンも、独創性と特色を競い合って出色のできばえであった。そのいくつかを紹介する。

アメリカ館は、1万㎡に及ぶ巨大な空気膜構造のドームで、この方式のエアードームとしては世界最大であった。設計協力そして施工を担当した当社は、外国人設計者らとともに、米国建築家が最大の栄誉とするアメリカ建築学会賞を受賞したのである。また、三和銀行系で結成されるみどり会グループのみどり館は、当社も参画したパビリオンで、大林社長がゼネラルプロデューサーを務めた。建築、展示の両面から想を練り、全天全周映画アストロラマ館の出現となったもので、映像と音響の革命ともいわれ、万国博の呼び物の一つとなった。

日本万国博覧会会場図
日本万国博覧会会場図
万国博会場の敷地造成工事
万国博会場の敷地造成工事
万国博お祭り広場(JV)
万国博お祭り広場(JV)
万国博みどり館
万国博みどり館
万国博アメリカ館
万国博アメリカ館

■―施工の円滑な推進に尽くす

B-2工区を担任した共同企業体の工事事務所長大柳 博(当社)は、関係業者間の連絡、地元住民との融和、交通、騒音等の公害防止、労務者の安全衛生等を図るため、他業者に呼びかけて万博建設協力会を結成した。協力会は、関係業者の増加とともに、昭和43年(1968)3月から会長制をとることとなり、大柳所長が推されて会長となった。同年9月からは組織を改め万博建設促進協力会となり、会長も当社万博総合工事事務所長七海 實に引き継がれた。

改組後の協力会は、業者間の連絡協調から一歩進め、施工に関する自主的実行機関となった。組織も会長の下に総務、工事、安全衛生、労務厚生、交通防犯の5委員会を置き、責任者には各業者から人材を選んで当てた。

協力会の発足当時は道路も未完成で、資材の搬入や土砂搬出にも支障があったが、この協力会の活動によって多くの隘路が打開された。また作業員のために食堂や売店を設け、慰安会を催すなど、作業員の定着と労働意欲の向上に努めた。技能工の引き抜きによる労務費の高騰をみなかったのも協力会の努力に負うところが大きい。協力会会員は、最盛時には建設業者のほかに関係業者を含めて247業者に及び、この多数会員を統率し、巨大な建設を円滑に推進した七海会長の業績は高く評価され、協力会に対しては日本建築学会から日本万国博特別賞が与えられた。

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