■―高まる東京の重要性
当社は昭和45年(1970)12月1日、創業以来の伝統の地・大阪における本店のほかに東京本社を設置した。これは新しい時代の潮流に応じて、一層の発展を願ったからにほかならない。
東京本社設置の気運は、政治、経済、情報などの東京集中に対応して、社内の主要業務を東京執務とするうちに、しだいに醸成されてきた。そして43年には、45年に大阪で開催される日本万国博覧会の終了を待って実施するとの意思決定が行われた。
首都東京は政治、経済の中心地であるのみならず、学術、芸術、文化などの一大中心地でもある。当社は早く明治37年6月、東京事務所を開設し、同39年4月これを支店に昇格し、関東地方に営業地盤をひらいてきた。
その端緒となったのは東京中央停車場(現・東京駅丸の内本屋)工事であったが、大正12年の関東大震災後の復興に際しても多くの主要建築を手がけ、“大阪の大林組”を“日本の大林組”に飛躍させたのであった。戦時統制下においては、あらゆる工事の配分、資材の割当などは陸海軍、軍需省が所管したため、その折衝はすべて東京支店があたった。さらに戦後も、建設省の設置、「建設業法」の施行等に伴い、支店本来の業務範囲を超える任務もしだいに増加した。したがって東京支店は制度上では他の支店と同等であったが、実質的には本店に準ずる地位に置かれ、歴代支店長も最高幹部が就任するのが通常であった。
昭和30年代の半ば以降、経済の高度成長期に入ると、政治、経済の中央集権化が一層進み、国内外の情報も迅速かつ大量に東京に集中し、それがさらに集権化を招くという循環を生じた。こうした情勢下にあって、東京支店がすべてに対応することはしだいに困難になった。すなわち、中央官庁、政・財界との接触はますます重要となり、産業界でも地方に本拠をもつ有力企業が相次いで東京に本社を移し、公共、民間ともに主要工事は東京で受注折衝を行うことが多くなった。さらにマーケットの拡大によって首都圏での受注も増加の一途をたどった。こうして東京での業務は膨張し、社長をはじめ本店の役職員は頻繁に上京することを余儀なくされるようになったのである。
36年9月、東京・神田司町に東京大林ビルを新築したのは、もとより東京支店の業績向上を反映したものであるが、同時に東京における本店業務の増大を予想したからでもあった。