大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

3 人事管理の刷新

■―職能給制度の採用

戦後、年齢や家族構成が主たる要素となっていた生活給的給与は、経済の回復、成長とともに逐次整理され、昭和34年(1959)4月、給与は個人の労働の対価としての本給に一本化された。

その後、本給を基本としつつもより能力を勘案した賃金制度の検討を進めてきたが、40年4月、職務遂行能力に応じた職能等級(職級)を設け、これに給与面で対応する職能給制度を導入することとした。

職級は、高度の経営者的識見と業務処理能力を有し、あるいは専門分野においてとくに優秀な技術、知識、経験をもつ1級職から、定型的な業務処理に当たる9級職までの9段階に分けた。能力のある者に対しては、年功にとらわれず上級職への昇進、処遇の道を大きく開き、適切な人事配置が行われることを期したものである。

これは職員の向上心や勤労意欲を喚起させるものでもあった。

職能給制導入により職員の給与は、本給と職能給とが基本となって構成され、その後部分的な改善が加えられたが、現在の給与体系の基盤となっている。

また、40年10月には人事考課規程を職能給制度に見合ったかたちに改正整備した。

■―若年職員の養成を重視

昭和37年(1962)9月教育課を設置し、各階層別教育、職能別専門教育を行い、また、海外留学の制度化、社外講習会への職員派遣、自己啓発に対する援助等を行ってきたが、42年5月には、若年職員について入社後一定期間に計画的配置転換を行う制度(ジョブローテーション制度)を設けた。これは各自の適性を把握しながら、幅広い知識と技能を習得させることを意図したもので、若年職員の養成を重視するものであった。

43年4月制定された人事調査制度は、自己申告制度とも呼ばれ、入社後一定期間内にある一定年齢層の職員が、毎年4月、自己の1年間の職務の遂行状況や、今後希望する業務等を申告するものである。この制度は、職員各自に自己啓発の機会を与えるとともに、所属長に効果的な指導を行わせ、能力の向上を図るのが目的であるが、配置転換等の場合にも参考とされる。当時産業界では経営合理化が進行し、その一環として人事管理面の改正が試みられたが、当社のこうした諸制度は、その内容も斬新かつ充実したものであると高く評価された。

■―定年制・理事任用制

昭和44年(1969)8月、定年制を改正し、これまで全職員の定年が満55歳であったものを、1~4級職は満58歳、5~9級職は満55歳と改めた。同時に、定年に達した職員のうち、引き続き業務に従事させる必要のある者を特別職員として採用する道を開いた。

なお、このとき、1級職にある職員のうち30名以内を、理事に任用する制度を設けた。これは会社経営について高度の識見、手腕を有し、もしくは専門的分野において優秀な技術を有する職員に対し、役員に次ぐ処遇を与えるものである。

■―福利厚生施設

福利厚生施設についても、従業員の健康管理と住宅を中心に著しい改善をみた。

健康保険は全国土木建築国民健康保険組合に加入しているが、昭和23年(1948)本店に独自に開設した医務室は、34年4月、大林組診療所に拡充され、36年末に東京支店、39年10月大阪機械工場、43年9月名古屋支店、44年6月東京機械工場にも診療所を開設した。その他の支店でもそれぞれ医師を委嘱して従業員の健康管理を進めた。検診の対象も結核から成人病に移り、38年から人間ドック制度、高血圧の定期検診、さらにX線による消化器検診へと範囲を広げた。

住宅関係では、単身者寮、家族社宅の新・増設を進め、単身者寮では34年6月大阪本店に花壇寮、35年4月東京支店に花輪寮を、また家族住宅では大阪に豊津寮、東京に三軒茶屋寮、名古屋に宮の腰寮を、それぞれ耐火構造として新築して以来、全国の施設についても不燃化を進めた。30年代半ばからは、家族住宅について社宅増設よりは持ち家を推進する方針をとり、36年5月、住宅資金貸付規程を制定し、43年4月には貸付金額の限度額、貸付資格を大幅に拡張した。

保養施設も、それまで熱海市に熱海寮があったが、43年5月には長野県木曽高原に木曽駒高原山の家を設置した。

木曽駒高原山の家
木曽駒高原山の家
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