■―日米建設摩擦
日本経済の世界的地位の向上と貿易の拡大とともに、建設産業もより国際的競争力を強め、海外の各地に拠点を広げていった。当社の海外営業網は、すでに述べてきたように昭和60年代初頭にはほぼ世界の主要地域を網羅し、従来主力としていた東南アジアに加えて、米国、欧州、オーストラリアでの実績を上げていた。そして、国内の建設ブームのなかで大幅な受注拡大を遂げた当社を含む大手各社は、世界のトップコントラクターに名を連ねるようになった。
こうして、他の輸出産業と同様に建設産業も、国内ばかりか海外の注目をも集める産業となり、わが国の建設市場そのものが外国企業のターゲットとなってきた。とりわけ米国との市場参入問題をめぐる摩擦は政治問題にも発展した。
そもそもの発端は、昭和61年(1986)2月、米国側が関西国際空港プロジェクトへ米国企業の参入を求めてきたことからであった。それは、国際化といえば海外進出であり海外工事の拡大であると思い描いてきたわが国の建設業界にとって、まさに“黒船襲来”的動揺を与えた。ことは政府間交渉となり、たび重なる協議の結果、日本国内に実績のない外国企業でも、同プロジェクトに参加しうる措置を特例として設けることにより、いったんは決着した。
しかし、その後も米国は、わが国の建設市場への参入障壁として、建設業界のいわゆる「談合」体質の存在、公共工事の指名入札制度を取り上げ、これらが反競争的制約になっていると主張した。米国の大手建設業者の日本進出の本意は、日本のナショナルプロジェクトに対する、CM(コンストラクション・マネージメント)やデザイン分野、さらに施工をも対象とした建設市場への参入にあり、再び政府間の日米建設交渉が開かれた。そして63年3月日米合意が得られ、5月調印、日本の公共事業の入札制度に外国企業が習熟するための十分な機会を提供することを目的として、東京国際空港(羽田)沖合展開第3期工事、明石海峡大橋、横浜みなとみらい21など、七つの特定大型公共事業プロジェクトが開放対象プロジェクトとされた。また、公共工事に関連した民間・第3セクター事業では、東京テレポート、テクノポート大阪、六甲アイランドなど七つの事業について、日本政府が事業体に対し外国企業の参入を「勧奨」することとされた。
建設業界の日米建設摩擦に対する当初の一般的見解として、市場への参入を図る外国企業側が日本での慣行や制度に従うべきである、との考えが支配的であった。しかし、貿易摩擦が激化するなかで、法制度や産業システムの違いがあるとはいえ、国際的に容認される開放された建設市場構築の必要性が認識されだし、また、横須賀米軍基地工事、さらに関西国際空港護岸工事の土砂供給工事をめぐる独占禁止法違反事件が起こるに及んで、建設業界は業界7団体で構成する建設業刷新検討委員会を設置し、これらの問題解決に積極的に取り組むこととなった。
折しも、日米貿易摩擦の解消を図って進められた日米構造協議は平成2年6月一応の決着をみたが、そこに独禁法の運用強化が盛り込まれたことなどを受けて、日建連は独禁法の遵守を申し合わせたほか、業界内部の中央親睦組織をすべて解散し、疑惑を招くおそれのある企業活動の排除を図った。また、翌7月に建設業刷新検討委員会は、公共工事の入札契約制度のあり方についての提案を示し、行政側の検討を要望した。外国企業の国内建設市場への参画を契機として、建設業国際化の進展は、企業内の意識改革を促すこととなったのである。
これまでに、わが国の建設業の許可を取得した外国系企業は70社(平成3年12月末現在)に及び、63年の日米建設交渉の合意以降では30社が新たに許可を取得している。横浜みなとみらい21の国際会議場ホテル、東京湾横断道路等の日米共同の企業体による受注のほか、民間事業においては韓国企業との提携工事も現れた。また、設計の分野では、東京都庁跡地の「東京国際フォーラム」の設計コンペで米国のラファエル・ヴィニオリ氏の案が、関西国際空港プロジェクトの「ターミナルビル」の設計コンペではイタリアのレンゾ・ピアノ氏の案がそれぞれ最優秀作品に選ばれたほか、民間のオフィスビル等の設計にノーマン・フォスター氏、マリオ・ベリーニ氏など著名な外国人設計家が登場し始めた。