■―開発企画部門の歩み
開発企画型の営業ということがいわれ始めたのは、さほど新しいことではない。昭和30年代から40年代半ばまで続いた高度経済成長の終焉とともに、従来の産業中心の経済政策は見直しを迫られることとなり、社会資本や国民福祉の充実を目指した政策へと転換していった。
とくに44年(1969)5月に閣議決定された「新全国総合開発計画」は、デベロッパーによる大規模宅地開発、ニュータウン建設、ゴルフ場・マリーナ・別荘地・レクリエーション基地の開発、そして都市の再開発など、新たな建設需要を呼び起こしていた。
このような需要を積極的にとらえていくには、自らが事業主体となるほか、発注者の事業の企画段階から当社が深く関与してコンサルティング業務を行い、その事業を成功に導くためのさまざまな業務協力や資金協力を必要とする。
48年に石油危機が起きると建設需要は一気に冷え込み、受注競争はより激化し、発注先の建設投資を促すような開発企画型の営業は一層重要なものとなってきた。また、オフィスビル、店舗の建築においては、テナントの斡旋力が工事受注の有力なポイントとなりだしたのである。
このようなことから、52年10月、建築本部に開発企画部を新設し、建築関係のコンサルティング業務、テナント斡旋業務を担任させ、工事獲得のための営業支援を強力に行うこととした。
関西圏においては54年4月、阪神地区における社外の未活用土地の有効利用を助長促進し、工事獲得の増大を図るため、本店に阪神開発企画センターを設置したが、続いて同年6月には、東京本社の開発企画部と同様な業務を関西圏において行うため、建築開発企画部を設置した。
55年9月には建築本部開発企画部および本店の建築開発企画部は、開発事業部門の計画部を吸収し、自社開発事業を除く土木関連開発計画についてもコンサルティング業務を行うことになり、地域計画、施設計画、立地診断および事業計画など土木、建築を合わせた総合的コンサルティング業務を行う組織へと拡大され、スタッフの充実が図られた。また、東京ではテナント斡旋業務から発展して、開発企画部が独自にビルの転貸事業を開始した。
さらに、このような業務のニーズは各支店にも波及拡大してきたため、57年6月、名古屋、仙台、札幌、広島の各支店営業部に開発課を新設し、福岡支店では既設の開発課を営業部の所管に移した。同時に首都圏での開発企画型営業物件の掘起こし拡大を図って、営業第十四部を新設し、都心から30㎞圏内を担当(東京23区は営業第十二部が担当)させた。