大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

3 自立再建へ前進

■―安定恐慌の試練

GHQの占領政策は、米ソの対立激化とともに大きく修正され、わが国の速やかな経済自立のために経済9原則の実施が指令された。これはインフレを抑えて経済を安定させ、工業生産力を増強し、輸出の促進を図ろうとするものであった。また民主化政策の推進にしても、2.1ゼネスト禁止やレッドパージなどにみられるように、反共路線が強化されていった。

アメリカは経済9原則実施のため昭和24年(1949)2月、ドッジ公使を日本に送り、ドラスチックな改革を実行させた。これによりインフレは収束したが、増税や融資規制が行われたため金づまり現象が起こり、一般産業界はこのデフレによって大きな打撃をこうむった。

ドッジ政策が建設業界に及ぼした影響は、まず工事量の減少として現れた。全国建築物着工統計によれば、23年に1,147万坪(3,785万㎡)と戦後初めて1,000万坪を突破したが、24年には959万坪(3,165万㎡)に低下した。また政府公共事業費のうち、24年の建設関係財政投融資は1,515億円計上され、名目上は前年度の1,479億円より多くなっているが、物価値上がりを計算に入れると、実質的には約4割の減少であった。

復興金融金庫{}の融資は“復金インフレ”を招いていたが、これが停止され、インフレ抑制には実効をあげた反面、業界にとっては不振の原因となった。ようやく再開された企業の設備投資がこの措置によって困難となり、発注を見合わせるようになったからである。金融引締めにより、たまたま業者が工事を獲得しても資金を得られず、着工が遅延することもしばしばみられた。

24年は建設業界にとっても不振の年であったが、その試練に耐えたことは、次にくる飛躍への貴重な準備となった。進駐軍工事はすでに最盛期を過ぎたものの、荒廃した国土の復興にはまだまだ巨額な建設投資を必要とした。24年度に計上された河川、道路の工事費は各47億円にすぎないが、25年版の『建設白書』によれば、改善を要する全国河川の工事費は3,700億円、道路は現状維持の修理費のみで590億円と見込んでいる。これは業界の前途に明るい見通しをもたせるものであった。さらに25年度予算では、公共工事費1,000億円が計上され、見返り資金からの建設投資や民間工事を加えれば約3,000億円と推定された。

注 昭和21年6月「戦後産業再建のための応急的金融対策」が閣議決定され、10月公布の復興金融金庫法に基づいて、全額政府出資の復興金融金庫が設立された。23年度末に活動を停止するまで、石炭、電力、肥料、鉄鋼などの重点産業の設備投資を中心に集中的な融資を行い、産業再建に貢献した一方、インフレの一要因をもつくったといわれる。

■―朝鮮戦争で局面一転

このように業界がようやく立直りの態勢をみせたとき、全く予期せざる朝鮮戦争が起こった。昭和25年(1950)6月25日未明、突如として北朝鮮軍が北緯38度線を越え、首都ソウルは3日後に占領され、アメリカ軍を主体とする国連軍が韓国支援に出動した。

地理的に朝鮮に最も近く、また占領下にあった日本は、国連軍の軍事基地として大きな価値を生じた。国連軍の物資調達、役務サービス等の“特需”や、諸機関の日本国内での消費、輸出の急増などが相まって、日本経済の急速な立直りを促進した。

特需は戦争発生後1年間で3億4,000万ドルに達し、輸出も前年に比べ数量で84%、金額で61%の増加となり、1,000億円ないし1,500億円といわれた滞貨は一掃された。昭和9~11年を100とする鉱工業生産指数は、戦争勃発時の6月、88.1に回復していたが、年末には114に上昇した。そのなかでとくに顕著な伸びを示したのは、繊維、機械器具、化学、金属工業などであった。

日本経済は朝鮮戦争による特需をテコとして復興から発展への道を進んだのである。

この情勢を反映して建設活動も活発化し、業界は一挙に沈滞から脱却した。建築物着工統計も25年度は住宅、非住宅を合わせて1,097万5,000坪(3,621万7,500㎡)と1,000万坪台を回復し、前年比で28.1%の増加をみた。

■―沖縄米軍基地工事で貴重な体験

朝鮮戦争によって、アメリカは極東における最大の軍事基地沖縄を急速に整備増強する必要に迫られた。そしてそのことは、進駐軍工事と特需景気を反映してよみがえった建設業界に近代化の新しい機会を与えた。それまでアメリカのモリソン・クヌードセンやビンネル、フィリピンのユーキンテンなどの外国業者のみが占めていた沖縄米軍基地工事に、日本業者も参加を許されたのである。

当社もこれに加わり、昭和26年(1951)9月から30年9月に至る4年間、次の工事に従事した。

A工事―嘉手納弾薬庫建設その他(26年9月~28年5月)
B工事―那覇空軍基地小祿将校宿舎建設その他(26年11月~29年3月)
C工事―牧港QM(兵站)倉庫建設(27年11月~29年6月)
D工事―桑江軍病院基礎工事(29年10月~30年9月)

沖縄工事は代金がドルで支払われ、外貨獲得に役立ったが、業者にとって最大の収穫はアメリカ式の機械化工法や合理的な事務処理などの実体に接し、それを身につけたことである。すでに進駐軍工事で、米軍貸与の重機械類を内地で使用したが、沖縄ではすべてが完全にアメリカ式で、規模も比較にならなかった。ブルドーザー、モーターグレーダー、モータースクレーパー、キャリオールスクレーパー、クローラークレーン、ダンプトラック、ディッティングマシン、シープスフートローラーなどの重機・車両類の大部分は米軍から貸与されたが、運転するオペレーターがおらず、経験ある現地労務者を使用した。

これら重機類は、当社がA工事、B工事で借用したもののみで120台に達し、さらに不足してブルドーザーD50、日野カーゴトラック、日立パワーショベルなどを内地から送った。米軍はこのB工事を最後として全面的に機械貸与を中止したため、C工事以後はさらに大量購入をしなければならなくなった。これが直接の動機となって、当社は大量の重機類を保有するようになった。

B工事が大林、大成、竹中、鹿島4社のジョイントベンチャー(JV)で行われたことも、業界最初の試みであり、画期的なできごとであった。設備工事の面でも学んだことが多く、日本の業者が本格的な近代設備を知ったのはこのときであった。空気調和設備についても、冷風と温風の二重ダクト方式、ゾーニング、全館空気コントロール方式、大型ターボ冷凍機および大型冷却塔の採用などは、当時考えられる最高のものであった。また電気設備についても、幹線にバスダクトを採用したり、瞬間起動の自家発電機を設置するなど、いずれも有益な教訓となった。

コンクリート用骨材の不足から、自ら砕石プラントを設置したのも、新しい経験の一つであった。

わが国の建設業界が近代的脱皮を遂げるにあたって、沖縄工事の果たした役割はきわめて大きく、当社が得た収穫も少なくなかった。当社では、当初からこの工事のもつ内容を重要視し、本店に沖縄工事部、東京支店に東京沖縄工事部を特設し、現地に取締役畠山隆三郎を常駐させて万全の対策をとった。そのため、ここに進出した期間は比較的短かったが、吸収すべきものは十分に吸収することができた。

沖縄米軍基地工事で使用されたディッティングマシン
沖縄米軍基地工事で使用されたディッティングマシン
ブルドーザーCAT D-7型エンジン
ブルドーザーCAT D-7型エンジン

■―営業網・社内組織の整備

前記したように戦後わが国の経済は、ただただ食わんがための時代から徐々に復興の歯車が回りだし、朝鮮戦争で再建のきっかけをつかみ、成長の軌道に乗るという変動を経験してきた。当社もこの波動のなかで苦難と闘いつつ戦後の時代への事業対応を進め、企業体制の確立を図り、本支店の拡充や機構の整理を次のように行った。

昭和21年(1946)、ダメージの大きかった広島支店を広島出張所とし、横浜支店を再開した。京都出張所も再開して支店となり(24年出張所に変更)、仙台、札幌両出張所も支店に昇格した。

続いて22年に広島支店を再開し、23年には岡山支店を新設した。このほか高松、岐阜、金沢、下関、小倉、静岡、三重、松江、松山(以上22年)、徳島(23年)の各出張所、富山、旭川、室蘭、和歌山(以上22年)、帯広(23年)、山形(24年)、青森(26年)、松本(28年)の各連絡事務所を開設し、全国的展開を図っていった。

また22年、本店から分離して大阪支店を開設した。これは、従来本店が行っていた業務の一部を切り離し、大阪支店に移管したもので、本店をして統轄、指導、監督に専念させるための体制づくりであった。

東京支店内にも、本店業務の一部を処理する機構を設けた。この改革は、本店が全店的な視野をもち、総合的に業務を処理しうる利点を期待したものであったが、所期の効果をあげるに至らず、26年3月、大阪支店は廃されて旧制に復した。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top