大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

6 業界活動に尽力

■―大林社長「全建」会長に就任

昭和23年(1948)春、全国建設業協会および大阪土木建築業協会(現・大阪建設業協会)の設立にあたり、大林芳郎社長は両協会の理事となり、30歳の若さで業界の公的活動に入ったが、33年2月には大阪建設業協会会長に選任され(37年2月まで在任)、同年4月からは全国建設業協会の副会長を兼ねた。さらに35年4月には清水康雄氏の後任として全国建設業協会の第3代会長となり、中央建設業審議会委員に就任した。

当時の建設業界は表面の繁栄の反面、内部には多くの難問題を抱えていた。業者数の増加と受注競争の激化、賃金・物価の高騰による入札不調や赤字落札などの現象が現れていた。

建設労働力の不足もすでに慢性化し、賃金も公共工事の積算に用いる一般職種別賃金を上回っていた。

大林社長は、全建会長に就任すると同時にこれらの問題の解決に当たった。まず技能労働者の不足対策として、養成施設の設置を計画するとともに、職業訓練法に基づき、機械工、仕上工、板金工、建築大工、機械製図の5職種について第1回の技能検定試験を実施した。

36年になると、公共工事の適正単価による発注を要求する声は業界にみなぎった。大林会長は、協会幹部、地方建設業協会代表らとともに、関係大臣への陳情をはじめ精力的に活動したが事態は好転しなかった。ここにおいて、公共工事適正単価確保全国建設業者大会が同年9月6日に開かれ、12日には大林会長は池田首相と会見し、業界、ことに中小企業の窮状を訴えて善処を求めた。このような業界挙げての陳情活動は、この年の国会で単価値上げの補正予算12億円の成立となって成果をあげた。

一方、労務者不足は依然として解決しないため、全建では失対事業予算を公共事業に切り替え、失業者中の適格者を吸収し、あるいは技能訓練を行って労働力の充足を図るよう、建設、労働両省に働きかけ、また37年4月千葉と愛知に建設機械工の養成所を開所した。

当時の大林社長
当時の大林社長

■―多くの難問解決にあたる

建設業法の制定以来、入札合理化対策の一環である業者の「施工能力審査要綱」は、これまでに9回の改正を重ねてきたが、昭和37年2月末日を期限とする審査申請を前にして、10回目の改正が行われることとなった。建設省の改正案は、完成工事高、経営規模、経営比率の三つを柱とし、その要素の選択については、経営規模に機械器具類の額を加え、経営比率については自己資本負債比率を除くこととする、というのが改正の要点であった。また、審査のためには、同業者を公平に評価するための審査表による客観的要素と、発注者の立場から業者の工事実績を評価する主観的要素の二つを総合して格付けを行う方法があげられていた。

点数制による格付けの是非は、要綱制定の最初から問題となっていた。全建では、大林会長が委員長を兼ねた法令制度調査委員会が中心となり、地方協会にも意見を求め、この改正案の検討に当たり、その結果、改正案に暫定的に賛成するという結論に達した。この件は、公共工事に依存する中小業者にとって死活に関する問題でありながら、理想的な解決を期しがたく、その後も業法改正に関連して絶えず論議の対象となった。

37年4月、大林社長は会長に再選され、業界に山積する問題の解決を期待された。

その第1は労務問題で、大林会長は、当面の対策としては工事現場の一斉休日実施を推進し、根本施策としては退職金制度の制定に着手し、任期中には達成されなかったものの、退任後の39年10月、建設業退職金共済組合が発足した。また労働災害防止については、同年8月、建設業労働災害防止協会が設立され、ともに建設労働福祉に大きな役割を果たしている。

このころ、東京オリンピックを目前にして、その工事獲得をめぐる競争が激化したが、これは中小企業問題にもつながっていた。

そこで大林会長は、協会内に中小建設業振興特別委員会を設置し、過当競争の防止と工事の適正配分を図ることに努力した。

大林会長は39年4月、任期満了とともに退任したが、その後も全国建設業協会相談役、大阪建設業協会理事などを歴任して、業界の発展に尽力している。

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