大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

5 敗戦の痛手

■―すべてを戦力に結集

昭和16年(1941)12月8日、わが国は米英両国に宣戦布告し、同月11日、独伊も対米宣戦を布告した。同年6月にドイツ軍がソ連への攻撃を開始しており、14年に始まった第2次世界大戦は、ここに全世界を巻き込むかたちで一挙に拡大した。

わが国はすでに6年の満州事変以来、非常時が叫ばれ、12年の日中戦争からは準戦時体制に入っていたが、太平洋戦争への突入は従来とは格段と違った覚悟と犠牲とを迫るものであった。世界の強国を相手とする戦争には国力のすべてを投ずることが求められ、日常生活から平和の色は消え、急速に戦争一色となっていった。

太平洋戦争開戦に先立ち、日本は15年9月北部仏印(現・ベトナム)への武力進駐を行い、南進政策の具体的行動に入った。これに伴い、前進基地としての台湾の地位が重要さを加え、台北出張所の業務もにわかに繁忙となった。それまでの工事に加え、台湾電力より天冷発電所、円山発電所の建設工事を受注、さらに高雄では旭電化工業工場、台湾肥料工場や、海軍より大々的な軍港工事、海軍病院、陸軍より兵站倉庫などを受注した。

太平洋戦争の開始とともに工事は軍施設に集中され、海軍からは地下式油槽、燃料廠石油精製工場、台南飛行場拡張その他、陸軍からは台中州鹿港飛行場兵舎、台北南部の資材格納用の隧道、台湾軍司令官指揮所用隧道などの緊急工事が殺到した。また陸軍築城班によって、台湾全島の大防衛工事が始まり、当社は南部鳳山丘陵地区と樹林口地区の担当を命ぜられた。これら諸工事のなかには、戦争末期に米軍機の爆撃下で行われたものも数多い。

既述したように陸海軍とも建設業者の協力を得るため、太平洋戦争を目前に控えた16年2月には陸軍の軍建協力会、1年遅れて17年3月、海軍施設協力会を設立させた。これは会員を工業組合(工業組合法により日本土木建築工業組合連合会が16年に設立され、各府県土木建築業組合はその統制下に入った)を所管する商工省(のち軍需省)の統制外に置き、乏しい資材、労力、機器類を独占しようとするもので、それだけ軍工事には緊迫性があった。

軍建協力会の工事は、主として17年以後の南方占領地建設で、当社は蘭印(現・インドネシア)のバタビヤ(現・ジャカルタ)と昭南(現・シンガポール)に出張所を置いた。工事はワナラジヤ硫黄鉱山の精製工場や鉄道のほか飛行場、兵舎、高射砲陣地などの建設であった。また、スマトラでも鉄道および油送管工事に従事した。

フィリピンではネグロス島の飛行場建設を命ぜられ、関喜久男を隊長とする職員13名と下請工員35名が18年末に同地に赴任し、各地に飛行場を建設したが、治安が悪く、数名の軍雇員が殺害された。

翌19年末には米軍上陸が予想されたため、工兵隊の陣地構築にも協力し、20年3月の米軍上陸後は全く軍と行動をともにし、戦車壕やタコツボ掘り、負傷兵の収容、運搬にも従事した。この間、ある者は密林中で栄養失調でたおれ、またある者は米軍と戦って死に、関隊長もピストルで自決した。一行中最後まで生き残ったのは河見章由、蓬田久一の2名のみで、下請工員もほとんど戦没した。次に当社犠牲者の名を掲げる。

建築=関喜久男、北野久門、土木=館林 薫、中村 恵、中村徳一郎、坂本基次、渡辺要一、事務=太田行雄、飯尾 正、森前喜一郎、機械=加唐定一

外地ではこのほか、従来からの満州、中国において、軍工事を中心に活動した。北京支店は軍の作戦に従って奥地深くまで進出していたが、山西省では太原の山西郵政管理局庁舎その他の新築工事、同蒲線の寧武~段家嶺間鉄道工事、あるいは水害復旧工事に従事した。

満州では18年2月、満州および関東州における木工事業の一元化を図り、満州国法人大林木材工業株式会社(大林義雄社長)を奉天に設立した。同社は新京特別市、牡丹江市に支店を置き、製材、造作、建具工事や、家具の製造販売を主たる業務としたが、航空機増産の要請により、19年10月、社名を大林航空機工業と改め、もっぱら飛行機の機体に使用する合板の製作にあたるうちに終戦を迎えた。

一方、国内においては戦況が不利になるとともに窮迫の度を加え、一般産業関係の建設工事は法令等により禁止される前に、事実上不可能となっていた。

当社もすでに17年3月、横浜、京都、神戸の3営業所を廃止し、9月には、軍施設と軍需産業の集中した広島営業所を、規模を拡大して支店に昇格した。

当時受注した軍需工場は、日立航空機千葉工場、三菱重工業名古屋航空機製作所、川崎航空機工業明石工場などの航空機工業や、神戸製鋼所H工場、同長府工場、日本製鐵八幡製鉄所戸畑工場などの鉄鋼関係、また日本発送電寺沢発電所、同岩本発電所などと超重点的産業ばかりであった。三菱重工業が岡山県水島町に建設した航空機工場は、職員49名が配属された大工事であるが、他もこれに準ずる規模のものが多かった。

軍工事では、陸軍航空本部命令による暗号名マネ工事が代表的なものとしてあげられる。正式名称は岩国市に建設された陸軍麻里布第1燃料廠で、16年3月着工、完成までに工期4年余を要した大工事であった。しかし竣工直後の20年5月、米空軍200余機の爆撃を受け、3日3晩燃え続けて灰となった。このほかユコ工事、ギフコ第1号工事、チタ工事、カミク工事など暗号名で呼ばれる多くの軍工事があったが、これらは完成後、設計図をはじめ仕様書など書類全部の返納を命ぜられた。

この種工事のほか、特記すべきものに皇居内御文庫の建設がある。16年4月着工、翌17年7月竣工し、20年5月、米軍機の東京大空襲で皇居炎上後は天皇の御座所に用いられた。地下防空壕を備え、ポツダム宣言受諾に関する御前会議はここで開かれた。

天皇に拝謁する業者代表

建設業の基幹産業としての重要性が真に認識されたのはこの時代であった。東条首相は昭和17年12月、重要産業経済代表を招き、時局に関する官民懇談会を開催するにあたり、列席者369名中に初めて建設業者を加えた。竹中藤右衛門(竹中工務店)、清水康雄(清水組)、鹿島精一(鹿島組)、原 孝次(大倉土木)、林 米七(西松組)、小谷 清(間組)の諸氏と大林義雄の7名である。会議の後、一同は宮中西溜の間において天皇に拝謁を許されたが、業者がこうした待遇を受けたのは空前のことであった。

18~19年に受注したものには、ほかに住友金属工業和歌山製鉄所、三菱重工業茨城機器製作所、神戸製鋼所中津工場、石川島芝浦タービン松本工場、日産液体燃料若松工場その他、全国各地の超重点的軍需産業の工場があり、外地では北支那製鉄石景山製鉄所があった。

これら工場の多くは米空軍の爆撃目標とされたが、19年12月7日、翌20年1月13日の2回、東海地方に大地震が起こり、施工中の工場も大被害を受けた。名古屋支店管内の三菱重工業名古屋航空機製作所の損害も大きかったが、時局がらその復元は1日の遅延も許されず、支店は総力を挙げて復旧にあたった。

20年に入って米機の空襲は日ましに激しくなり、大阪も3月、5月、6月の連続空襲によって、全市の大部分が灰となり、大正区千島町の当社機械部も、3月14日に事務所、工場、倉庫を焼失した。当社本店は5月5日猛火に包まれ危機に瀕したが、風向きが変わって幸いに難を免れた。一方、東京でも相次ぐ空襲によりあちこちに被害は広まっていたが、幸いにも東京支店はことなきを得、また東京工作所はすでに前年、江東区南砂町から群馬県下に疎開していたため被害はなかった。

国の内外にわたった以上のような工事のほか、19年4月、千葉市今井町埋立地に建築工員養成所を設立、大工の養成を行った。また、和歌山市西汀町長覚寺に近畿土木建築統制組合が設立した建築工養成所の運営にも主力としてあたるなど、急務である建設事業の技能工養成に努めた。

一方、18年7月には関係会社の内外木材工芸を内外木材工業株式会社と改称し、プロペラなど木製の飛行機部品製作にあたった。しかし大阪の本社・工場、さらに東京工場も空襲で被災した。20年7月、三菱飛行機木材工業株式会社として再発足したが、終戦後、三菱側役員は退陣し、21年2月再び内外木材工業(大林芳郎社長)として出直した。

台湾電力円山発電所(工事中)
台湾電力円山発電所(工事中)
川崎航空機工業明石工場地鎮祭(昭和14年1月)
川崎航空機工業明石工場地鎮祭(昭和14年1月)
天皇に拝謁の後の義雄社長(後列中央)
天皇に拝謁の後の義雄社長(後列中央)

■―義雄社長の死去

昭和18年(1943)10月5日、かねて兵庫県御影の自邸で療養中の社長大林義雄が心筋梗塞のため死去した。享年49、役員以下従業員に与えた打撃は深刻であった。時あたかも戦局が日に日に悪化していたころである。

義雄は社業に尽くしたのみならず、日本土木建築請負業者連合会会長として、労働者災害扶助法制定などに奔走し、また大阪土木建築業組合長、土木業協会理事、建築業協会常務理事として業界に貢献した。これらの功によって昭和3年10月、紺綬褒章を受章したが、民間人を遇することの薄かった当時としてはまれにみることであった。このほか大阪府失業防止委員会委員、大阪市職業紹介委員会委員を委嘱され、また大正13年、昭和8年、12年の3回、大阪商工会議所議員に選ばれた。その死が業界のみならず各方面から惜しまれたのは、こうした幅広い公的活動によるものであった。

社葬は10月8日午後2時、四天王寺本坊において時節がら質素に行われ、専務取締役中村寅之助が当社と関係会社を代表して以下の弔辞を捧げた。

吾等ノ敬慕措カザリシ社長大林義雄殿曩ニ病ヲ得、只管療養ニ努メラレ一時ノ如キハ病勢著シク衰ヘ御快癒ノ日近キヲ思ハシメタルニ去ル7月以来病勢次第ニ昂進シ5日病遽ニ革リ遂ニ午後2時35分卒然トシテ長逝セラル

今其ノ葬儀ニ列ルモ慈愛溢ルル温容眼前ニ彷彿シ幽明境ヲ異ニスルノ感ナキニ再ビ声咳ニ接スルヲ得ズ、嗚呼悲シイ哉

社長ハ明治27年9月先代社長大林芳五郎殿ノ長男トシテ大阪ニ生ル、長ズルニ及ンデ暁星中学校ヲ経テ早稲田大学ニ学ブ、大正5年1月先代社長歿セラルルヤ其ノ業ヲ継ギ、同7年12月大林組社長ニ就任セラル、爾来二十有六年常ニ溢ルルガ如キ温容ヲ以テ吾等ニ接シ天成ノ統率力ヲ以テ吾等ヲ率ヰ大綱ヲ把ツテ嚮フトコロヲ示シ楽ンデ業務ニ精進セシメラレ社内一家ノ実自ラ挙ガル、是レ大林組ノ今日在ル所以ナリ

而シテ其ノ間内外木材工業株式会社、株式会社大林農場、三宝鉱業株式会社{注1}、株式会社大林精器工業所{注2}、株式会社満州大林組、大林木材工業株式会社ヲ創設シテ之ヲ統裁シ、日ヲ逐ウテ社礎固ク業績挙ガル、是レ亦社長ニ負フトコロナリ

斯クノ如ク社長ノ統裁セラレタル事業ハ戦力増強ニ関スル施設工事ノ完遂、主要食糧ノ増産、地下資源ノ開発、精密機器ノ製作等是レ悉ク刻下喫緊ノモノタリ、従ッテ之ガ振否ハ実ニ聖戦必勝ニ至大ノ関係ヲ有シ瞬時モ忽セニスルヲ許サズ愈万難ヲ排シテ之ガ振興ニ努ムベキ秋ニ当リ社長ノ急逝ニ遭フ、痛惜哀悼何ゾ堪ヘン、然レドモ社長ノ遺風ハ炳トシテ泯ビズ

其ノ遺業ハ戦局ノ進展ニ伴ヒテ愈其ノ重要性ヲ加フ、吾等ハ茲ニ深ク思ヲ致シ悲痛ノ中ヨリ決然トシテ起チ、協心戮力、各其ノ職域ニ挺身シ以テ戦力増強ニ資シ延イテ社長ノ遺訓ニ応ヘ奉ランコトヲ誓フ

冀クハ在天ノ英霊吾等ノ決意ヲ照覧セラレ永ヘニ吾等ニ加護アランコトヲ、茲ニ謹ミテ敬慕哀悼ノ誠ヲ捧グ

昭和18年10月8日

株式会社大林組
株式会社満州大林組
内外木材工業株式会社
大林木材工業株式会社
株式会社大林農場
三宝鉱業株式会社
株式会社大林精器工業所
  右代表 中村寅之助

注1 三宝鉱業:大正時代大林家が経営した兵庫県養父郡糸井鉱山、愛媛県西宇和郡大森鉱山などをもとに、朝鮮京畿道の三宝鉱山を開発、その後、同忠清南道の立宝鉱山、黄海道の読亭鉱山、平安南道の价川砂金鉱を合わせ、株式会社として発足した。三宝鉱山は金山で、昭和14年5月には自家製煉所を設け、従業員600名を擁したが、終戦とともに消滅した。

注2 大林精器工業所:大正2年2月、大阪市港区南境川町の大林組製材工場に、ブランチャード・ランプ製作所として発足した。石油を白熱ガス化して高度の光力を発するランプを製作していたが、大正6年、第1次世界大戦中の好況に乗じ業務を拡張、ブランチャード製作所と改称して、機械器具、メーターなどの製造に従事した。昭和14年4月、大林精器工業所として独立、終戦後は大林組の資本系列を離れたが、なお大林計器製造株式会社と称し、圧力計などの機器製作を行っている。

義雄社長 (大阪土木建築業組合長時代)
義雄社長 (大阪土木建築業組合長時代)

■―大林芳郎社長の就任

義雄の死去に伴い、養嗣子芳郎が大林家を相続し、昭和18年(1943)11月、当社社長に就任した。芳郎は賢四郎の次男で、賢四郎夫人ふさは芳五郎の長女であり、芳郎は芳五郎の外孫に当たる。芳郎は16年3月、東京帝国大学工学部建築科を卒業、翌4月、当社に入社して本店設計部に配属された。17年9月からは海軍の呉臨営第201号工事現場に勤務中であったが、同年12月、臨時召集により中部第24部隊(和歌山歩兵連隊)に入営した。社長就任はこの応召中のことであった。

社長不在のため当社では取締役会長制を設け、白杉嘉明三が相談役から復帰してこれにあたり、専務取締役中村寅之助が副社長となった。芳郎は社長就任に際し、次の挨拶文を社内に発表した。

予今先考ノ後ヲ承ケテ大林組社長ニ就任ス、然リト雖モ目下軍務奉公中ニシテ親シク社務ヲ見ルコトヲ得ズ、就テハ重役一同ハ申スニ及バズ全員一致団結、当組伝統ノ精神ヲ発揮シテ職域奉公ニ邁進シ、以テ決戦下当組ノ負荷スル建設ノ重任ヲ完ウセラレンコトヲ望ム

予他日幸ニシテ軍務ヲ了ヘ帰還セバ諸君ト共ニ社業ニ邁進シ之ニ一段ノ光輝ヲ添ヘンコトヲ期ス、其ノ間予ハ只管軍務ニ精励スベキヲ以テ諸君ハ呉々モ和衷協同各其ノ職務ニ挺身セラレンコトヲ望ム

■ 終戦

昭和20年(1945)8月の広島、長崎への原爆投下、ソ連参戦により、わが国は完全に戦争継続不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて8月15日に戦争は終わった。

この大戦により、わが国は国富の4分の1強を失い、軍人・軍属、一般国民を含め、人的被害は268万人にのぼるといわれる。

戦時中の国民生活が窮迫の度を加えるなかで、産業界は挙げて戦争遂行に協力したが、物資、人員とも不足し、総力戦といわれる近代戦についに敗北を喫した。

建設業も国家の危急に際して、統制、企業整備、資材・人員不足などの悪条件下に国内、外地を問わず、職域を通じて尽力した。しかし危険な戦地において、また国内でも多くの犠牲者を出し、戦争末期には激しい空襲によって国土は焦土と化すなかで終戦の日を迎えたのである。

終戦当時の当社従業員総数は役員以下3,288名であるが、その半数に近い休職者1,523名はほとんど応召、応徴のための休職であった。満州大林組の場合も総員353名中、休職者は73名であった。両社を通じて戦死、戦病死者は309名、未帰還で死亡と推定された者は41名、また内地の戦災による死亡者は9名であった。

20年11月、取締役会長白杉嘉明三は任期満了とともに再び相談役に退き、社長大林芳郎は翌12月復員してその任につき、当社の新しい出発の指揮をとることになった。

原爆投下、その日の広島支店

昭和20年8月6日朝、広島に投下された原子爆弾は一瞬にして全市を焦土と化した。失われた人命は20余万人といわれる。当社広島支店もこのとき被爆し、支店従業員のうち吉田 正、大辻嘉直、牧野研吉の3名が即死し、建築部長猪瀬幸太郎も9月7日死亡した。

当時の広島支店長河合貞一郎の手記は、その状況を次のように伝えている。

「当時、広島支店は市内平田屋町(現在の本通)にあった。三和銀行の支店跡を譲り受けたもので、鉄筋コンクリート造一部2階付、木造平屋の付属家を含め約80坪の建物であった。木造部分は強制疎開で壊され、本館だけになっていたが、それまでの支店(研屋町所在、木造2階建)が海軍水交社(将校集会所)に徴発されたため、移転して間もないときであった。

支店は筆者のほか総務部長藤井信三、建築部長猪瀬幸太郎、土木部長藤井秀文らが幹部だったが、相次ぐ現場転属と応召で人員が減少し、当時は臨時採用の女子職員を含めて十数名にすぎなかった。

戦局はいよいよ切迫し、広島支店管内でも軍施設工事のみで、岩国市外装束の燃料廠、大竹の海兵団、潜水学校、光市の海軍工廠、山口県曾根の人間魚雷発進基地などであった。また唯一の民間工事として長府の神戸製鋼所があったが、これらの一部はすでに爆撃を受けて壊滅し、または資材、労力の関係で工事続行不能となり、もっぱら地下待避工場などの横穴掘りに没頭していた。

学童疎開の後、市民は都市防備要員として転出を許されず、物資は底をついて、ことに陸軍の物資調達を任務とする暁部隊が駐屯して以来、近郊から大根1本もちこんでさえ見張りの衛兵に没収された。人々は日夜の空襲警報におびえつつ、竹槍訓練に追われる暗い毎日であった。

8月6日朝、自転車で自宅を出た筆者は、8時少し前に支店に着いたが、支店員はまだ出勤していなかったので、宿直者から前夜の報告を受け、当面の要件だけ伝言してそのまま外出した。広島西郊の廿日市へ行くためであった。支店事務所をそこに疎開し、あわせて支店員家族の食糧自給のため、イモ畑を開くことになっていたからである。廿日市では谷間にある寺の土地を借り、木造平屋建事務所を建築する予定で、この日、地鎮祭を行うことになっていた。

市内電車で己斐へ行くべく支店を出て、紙屋町停留所で満員電車にとび乗った。うしろ向きに車掌台に立っていたが、筆者のうしろには二重三重の人垣があった。いまにして思えば爆心地、商工会議所のドーム下を爆撃10分ほど前に通過したことになる。

そこから1.5㎞ほど離れた天満町にさしかかったとき、突然目もくらむ閃光を感じ、バッという轟音がした。背中をつきとばすような圧力と、後頭部に熱砂をうちかけられたような痛みを感じた。電車は急停車し乗客は将棋だおしに倒れた。天地はまっ暗になり、なまぐさい嘔吐をもよおすような異様な臭気がした。

何かわからなかったが夢中で電車を降り、走った。後頭部がうずくので手をやってみると、戦闘帽とワイシャツの間の露出した毛髪が焼け、耳のうしろは一面の火傷である。紺の上着は、肩からかけた雑嚢の紐の跡だけ残して、背中は焼け抜けていたが、白ワイシャツにさえぎられて肌は無事だった。腕時計の針は8時15分で止まっていた。」

続いて8月9日、長崎にも原爆が投下された。ここでも、三菱重工業の建設工事に従事していた桜木 弘、小倉義秋、武知秀信の3従業員が即死し、被爆した工事主任武藤寅也は9月3日に死亡した。

瓦礫と化した当社広島支店(左)
瓦礫と化した当社広島支店(左)
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