大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 拡大する経営規模

■―受注量大幅に増大

昭和30年代には31年(1956)から32年の神武景気、34~36年の岩戸景気と、二つの好況期をはさんで、経済の成長は著しかった。その牽引力となったのは、どちらも民間の設備投資であり、投資が投資を生む活況をみせ、それが建設需要となって建設業界も躍進した。

設備投資は技術革新を伴う近代化、合理化投資が中心であった。初期には鉄鋼、石油化学、合成繊維、石油精製などの素材部門の大企業が先行し、30年代半ばになると機械、プラスチック加工、食品、縫製など広く加工部門の中小企業にまで拡大した。輸入自由化促進への対抗策として自動車をはじめ産業機械、化学などの分野での近代化投資も急がれた。

政府は開発銀行・中小企業金融公庫による資金の斡旋をはじめ、既成工業地帯(京浜、中京、阪神、北九州)の環境整備を行い、また地方公共団体においては、新たに太平洋沿岸の臨海地域を造成して企業誘致を図るなど、まさに国を挙げての工業の高度化と国際競争力の強化が推進されたのである。こうして、わが国の中核となる産業は太平洋ベルト地帯に形成されるに至った。当社は、これらの工場建設、コンビナート建設の多くに従事し繁忙を極めたのであった。

産業の高度成長に伴い、商業、サービス部門の発展もめざましく、この分野における建設投資も大きく伸長した。そしてビル建築の巨大化が30年代半ばころから始まり、38年7月の「建築基準法」の改正によって超高層時代の幕開けとなった。

また、社会資本を充足するための公共投資もこの時期に著しいものがあり、公共工事の主力はダム、道路、橋梁、地下鉄、地下街建設等の土木工事に注がれた。

このような情勢は、当社の業績にも直接反映した。朝鮮戦争休戦直後の不況期にあっても、業績は確実に上昇の道をたどったが、31年度の受注工事高は374億円、完成工事高は234億円、株式配当も、前年の1割5分を下期には2割に復し、この年以降2割配当を維持するようになった。

岩戸景気後の37年度に受注高は一時後退したが再び盛り返し、39年度まで大幅な伸びを続けて、39年度のそれは1,294億円余にまで増大し、さらに40年代の大型景気を迎えるのである。

■―株式公開と相次ぐ増資

こうした躍進とともに建設業は一つの転機を迎えた。それは、従来とは比較のできない多額の資金を要するようになったことである。

まず施工の機械化が急速に進み、建設会社はこれに多額の資本を投下しなければならなくなった。また、昭和33年(1958)以降は工事の多様化、巨大化が顕著となるにつれて工事費は高額になり、発注者が支払いに延払い等の条件をつける傾向も現れた。さらに工事量の増大に伴い、支店・営業所の増設、職員の増員等、経営規模が拡大し、経費も膨張して、より多くの資金を必要とするに至った。

ほとんどの大手建設業者は、この時期に相次いで増資を行い、当社でも27年以降、相次ぐ増資により自己資本を充実した。

当社の場合は、すでに述べたように24年9月、資本金を7,000万円に増資するに際し、初めて株式を社外に出したが、その範囲は取引先会社、金融機関など一部にとどまった。それが27年以後の相次ぐ倍額増資により、こうした社外株主の負担も大きくなるに伴い、将来の資金調達のためにも、株式を公開して一般投資家の参加を求めることが必要と考えられた。この時期はまた経済成長を踏まえて、建設業の拡大と資金需要の増大が見込まれていた。

32年12月、まず第一歩として当社株式を大阪証券市場で店頭売買に付したが、そのときの売出し価格は75円(額面は50円)であった。33年12月6日、大阪証券取引所に上場したときには295円の高値をみた。

続いて34年9月、東京でも店頭売買が開始され、さらに35年11月1日、東京証券取引所に上場したが、このときの株価は630円であった。なお、名古屋でも同年6月8日から、福岡では36年3月1日から、また京都では43年10月15日から、それぞれの証券取引所に上場した。

36年10月、東京証券取引所に第2部が創設されたのを機として、同業20数社が一斉に株式公開に踏み切った。これによって建設業はかつての閉鎖性を脱却し、広く社会の支持を求め、近代産業として成長する意欲を示した。そして世間もまたそれを認め、公開された建設株は折からの建設ブームを反映し花形株として人気が集中したのであった。

資本金については27年の創業60年時に1億5,000万円としたが、29年に3億円、31年に6億円、32年に12億円、34年には24億円と、7年間に4回、いずれも倍額増資を行った。続いて36年に40億円とし、37年7月には62億円とした。

■―東京大林ビルを新築

工事量の増大と業績の向上に伴い、組織の整備拡充が行われた。東京支店は昭和32年(1957)1月、丸の内三菱仲28号館から中央区新富町3丁目に移転していたが、移転当初230名であった人員は、35年には300名を超え手狭となってきた。また、工事現場数も45カ所から2倍強の92カ所となった。このころになると、経済活動が中央に集中する傾向がいよいよ強まり、東京支店の役割は従来に増して重要となってきた。

そこで、当社の東方拠点として東京大林ビルを新築することが決定された。場所は、千代田区神田司町2丁目3番地、国電、地下鉄の神田駅から徒歩5分、地下鉄淡路町駅から徒歩3分で、丸の内オフィス街にも近く、35年3月1日に着工し、翌36年9月15日に竣工した。敷地は1,497㎡、建築面積1,196㎡で、延面積は1万1,187㎡、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階、地上9階、塔屋4階である。

外装柱型は1階がステンレス、2~9階はスパンドレル、マリオン、サッシュもすべてアルミを用い、窓ガラスは防音、断熱のグレーペン二重ガラスが使われている。設計は、オフィスビルとしての機能に重点をおき、天井高は各階とも2.58m、柱間隔は両方向各6.66mに統一し、階高も一定とした。これにより、外壁カーテンウォール、内壁可動間仕切り、建具等は完全に規格統一され、これら2次構造材や仕上げ材のプレハブ化が可能となった。照明、空調その他に建設業者の自社ビルとして誇るに足る諸設備が整えられたことはいうまでもない。

東京大林ビルは、当社施工の大阪興銀ビルディングおよび北陸銀行本店(富山)とともに、38年第4回BCS賞を受賞した。

一方、本店の社屋も、大正15年以来の建物で、人員増加のため狭隘となった。そこで38年8月、本店ビルの西隣に新館(西館)の建設に着手、翌39年4月に竣工した。構造は鉄骨造、地下1階、地上9階、塔屋1階で、総面績は1,921㎡、外装は南北がアルミカーテンウォール、東西はシポレックスカーテンウォールである。

この本店新館は旧建築基準法による制限高31mのビルとして設計されたが、構造はあえて純鉄骨造という超高層建築の基本型をとり、工事の各段階で超高層建築の建設に必要な各種のテストを行った。建設省建築研究所の中川恭次博士に依頼し、大振幅の振動実験を行ってカーテンウォールの「層たわみ」などをテストしたが、実物大のカーテンウォールを用いてこのような動的実験を行ったのは世界で最初といわれた。

このほか30年代には各地の営業拠点も開設が相次ぎ、営業網の拡大、整備が大いに進んだ。

まず支店では33年の高松支店があり、出張所開設は長崎・新潟(30年)、熊本(31年)、高知(33年)、千葉(35年)、大分(36年)、水戸(38年)である。また連絡事務所も釧路・函館・福井(31年)、秋田(33年)、姫路(36年)、福山(37年)、福島(38年)、敦賀(39年)に開設し、39年にはバンコック駐在員事務所も開設した。

工事中の東京大林ビル
工事中の東京大林ビル
東京大林ビル(昭和36年9月竣工)
東京大林ビル(昭和36年9月竣工)

■―関係会社の設立

昭和30年(1955)1月、不動産会社として浪速土地株式会社を設立した。これは、工事量の増大が一方で激しい受注競争を引き起こしたため、至上命題である工事獲得のための手段であった。当時、地価の上昇は著しく、住宅難を増大させたばかりでなく、ビルや工場の建設をも阻害した。これらを新築しようとする発注者に対し敷地を斡旋提供することは、工事の獲得につながることでもあった。これまでも発注者のためにこの種の便宜を図ってきたが、これを強化し推進する目的でつくられたのが浪速土地株式会社である。

同社の資本金は1,000万円、社長に大林芳郎、常務取締役に多田栄吉が就任した。事業内容は、不動産の所有、売買、貸借、仲介のほか、東京海上火災、住友海上火災など有力14社の保険代理店業務である。本店は当社本店内に置き、東京には当社東京支店内に駐在員を常駐させて発足した。なお45年10月、名称を大林不動産株式会社と改め、54年10月には本店を東京に移した。

ビル、工場の建設ラッシュに伴い、建物の保全、清掃を専業とする企業が出現してきた。当社も主として自社施工建物のアフターサービスを目的として、38年10月、東洋ビルサービス株式会社を創立した。資本金は300万円、代表取締役に永田重一が就任した。

39年3月取締役河田明雄が渡欧し、オランダのショックベトン社との技術提携が成立した。ショックベトン(プレキャストコンクリートの一種)は、在来の強制振動方式のバイブレーションによるものとは異なり、ショックを与えられたコンクリートが、自重によって自由振動を起こし、締め固まるものである。したがって均質、高密度で強度が高く、精度がすぐれ、デザインが自由であること、長さ12m、幅3.5mにも及ぶ大きな部材をつくれるなど、さまざまなすぐれた特性をもっている。

この工法によるPCコンクリートの製造、販売ならびに取付工事を行うため、40年1月、当社の全額出資による資本金1億円の株式会社ショックベトン・ジヤパンが設立された。社長は当社の大林社長であるが、専務取締役宮原 渉が代表取締役に就任、本社と工場を埼玉県川越市南台1丁目に、東京事務所を東京大林ビルに、大阪事務所を大阪市東区石町2丁目に置いた。この製品が最初に用いられたのは、同年7月、当社技術研究所に取り付けた外壁であったが、その後カーテンウォール工法にPCコンクリートの採用が進むにつれ、ショックベトンに対する評価は急速に高まり、他業者の間にも採用され、各方面に利用範囲を広めていった。

大林不動産が行った宅地造成分譲事業「湘南桂台」のパンフレット
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ショックベトン・ジヤパン本社・工場
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ショックベトンを使用した初期の工事―住友商事美土代ビル
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