大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

5 立直りのための諸改革

■―管理部門の機構改革

昭和50年(1975)以降、経営全般にわたって非常事態に対処するための各種の方策を実施してきたが、さらに激化が予想される企業間競争に打ち勝ち、変化の多い時代に常に即応できる弾力的な体質を目指して、51年5月、大幅な機構改革を行った。

まず各副社長から本部長の職を外して専務または常務にその任を委ね、全副社長は経営首脳として社長を補佐し、常に経営上の重要事項について緊密に協議していくこととした。

そのため経営トップの経営上の判断資料をさらに充実する必要があり、企画室を総合企画室とし、人員も充実した。

土木本部に管理部を、東京本社建築本部に営業管理部と建築管理部を、本店建築本部に営業管理部を置いたが、これは本部長のブレーントラストとしてのスタッフ部門を強化するためであった。

建築に関しては工事の獲得は営業本部と建築本部、施工は建築本部で行っていたが、これを一元化することにより、業務の効率的な遂行と責任体制の徹底、敏速な対応を図ることとした。すなわち、東京本社では営業本部を建築本部に統合、本店では営業関係各部を建築本部に編入した。

また、東京本社、本店の両建築本部にそれぞれ見積部を新設した。従来、東京本社および本店では建築部が複数部あって、各部課の責任者がそれぞれの判断に基づいて見積金額を算出していたが、この業務処理方法を廃し、工事費の見積りに関する専任の部を新設して、当社の合理的工事原価基準を確立するとともに、見積金額をより厳格に算出することによって、工事原価の低減に資することとしたのである。

これらの機構改革に先立ち51年2月、建築本部の設計部門の組織、制度も改正された。その主眼の一つは、設計業務の費用対効果の追求であった。当社の経営が窮地に陥り、常設機関のあらゆる費用の見直しが行われたが、設計部も例外ではなかった。設計部は個別の収支部門として位置づけられ、設計技術の向上はもとより、設計業務の全般にわたって原価意識の浸透を図っていくこととした。そして請負工事に関する設計諸費用を当該工事勘定に負担させる原価配賦制度がスタートした。

これに伴い、全社的な設計部門の組織改正を行い、東京本社、本店の建築本部では設計部と設備部設計課を統合し、新たに設計管理部を新設したほか、設計部を複数化した。また、各支店に設計課を新設もしくは増設するなど、新体制を整えた。職制も39年以来続いた主任技師主査制度を廃止して、他の部門と同様に部課長制とした。

また一方では、深刻な営業不振から脱するための根本的な体質改善の一環として、技術営業を推進すべく、設計部門から営業部門へ全店で30名の配置替えが行われた。

このほかの管理部門の組織では、総務部文書課を廃止し、同課の業務は総合企画室、総務部総務課および庶務課、広報室等に分割し引き継がれた。

なお、52年6月、本店建築本部の本部制を廃止し、建築部門の本部制を東京本社(本部長=副社長石井敬造)に一元化した。

本店での設計打合せ
本店での設計打合せ

■―技術部門の機構改革

従来、当社の技術開発部門は建築本部技術部、同工務部、土木本部技術部、同工務部、プラント部、原子力室、本店原子力室、公害室、海洋開発室、技術研究所に分かれ、それぞれの所属部門において必要な技術開発、実施が行われてきた。

しかし、工事量の減少に伴って激しい受注競争の時代に入り、技術の優劣が以前にも増して問われることとなった。このため、技術関発部門を一元化し、技術の改善、開発に関する業務を全社的に掌握するとともに、新しい技術の開発を強力に推進し、原価の低減と品質の向上を図り、技術面からより効果的な営業活動を推進するため、昭和51年(1976)5月、技術本部(本部長=専務取締役河田明雄)を新設した。

同時にこれまで独立組織としてあった技術研究所も、以上の趣旨から技術本部の機構下に置き、特許課を技術管理部へ移管し、技術研究所大阪支所を廃止して同本部のもとに大阪技術部を設けた。さらに技術研究所は52年7月、近年の技術、研究開発の変化に対応して、研究室を4室増設するとともに、研究室の一部の呼称を変更した。

このように、当社の技術開発部門は、技術のより有機的、効果的運用を図ってその体制が整備されたのであるが、これに関連して52年11月、技術開発委員会が発足した。従来の土木技術開発委員会、建築技術改善委員会、技術研究開発運営委員会を発展的に解消し、新たに設けられたものである。

これまでの三つの委員会は、それぞれの分野における技術の研究開発、改善、普及化の方向づけに中心的な役割を果たしてきたが、今回設置された技術開発委員会は、全社的な観点から技術の研究開発を一層戦略的に推進し、その成果をより効果的に営業面に反映させることを目的とし、そのための基本方針や施策、重点研究開発項目等を社長に具申するものである。

委員長には谷口副社長が任命され、同委員会の下部組織として、開発計画専門委員会、技術活用専門委員会、技術研究所運営専門委員会が設置された。さらに54年4月、開発計画専門委員会および技術活用専門委員会は、次の四つの専門委員会に改組された。

第一専門委員会…… 土木、建築の両分野に共通な技術の改善、開発および活用を推進する
第二専門委員会…… 土木分野の技術の改善、開発および活用を推進する
第三専門委員会…… 建築分野(建築設備を含む)の技術の改善、開発および活用を推進する
PR専門委員会…… 技術のPR方策を立案し推進する

また、技術開発に関する費用の把握方法についても、コンピュータを利用して会計処理システムとの結合を行うなど、全社的な整備を進めた。

技術本部図
技術本部図

■―特殊工法部の新設

昭和51年(1976)8月、東京本社土木本部および建築本部にそれぞれ特殊工法部を新設した。OWS工法、スリップフォーム工法、リフトアップ工法、ダイナミック・フロアなど、当社が開発しあるいは技術導入した工法は、すでに施工面で実績を示し、次々と新たな発注を呼んでいた。こうした特殊工事の増大に対処して、施工計画の作成、工事費の見積り、施工の指導などを一般技術と切り離し、計画的、集中的に行おうとしたものである。

特殊工法部は常設機関であるとともに、直轄の工事事務所をもち、これら特殊工法を用いた工事の施工にも当たった。同業他社や共同企業体からの受注も少なくなかったのである。とりわけOWS工法を採用した工事は、52年度までの累計で359件、施工壁面積111万8,000㎡に及び、他社の地中連続壁の施工実績を大きく上回った。

OWS工法による地中連続壁の施工面積累計が100万㎡を突破することとなった都ホテル東京新築工事の現場
OWS工法による地中連続壁の施工面積累計が100万㎡を突破することとなった都ホテル東京新築工事の現場

■―開発事業本部の機構改革

昭和48年(1973)4月、開発事業本部設置に際しては、開発事業のプロセスに準じ計画、用地買収、申請、工事実施、販売など、それぞれの専門職能に応じた横断的な業務組織を採用した。

ところが実務上、業務分掌どおり職務を明確に区分して業務を処理することが難しく、やむをえず縦断的な結合による事業ごとのプロジェクト・グループをつくり、運用面で補完してきたため、組織上職務権限があいまいとならざるを得ない状態となった。

また、税法の改正、国土法の施行等に伴い、開発に対する規制が強化され、処理業務が複雑・多様化するとともに、開発事業の妙味も薄れ、むしろ今後は新規用地の取得の中止、用地の売却、共同事業化の拡大など経済的負担の軽減を図るなど業務処理の重点が変わってきた。さらに、重点的に事業化する物件にあっても採算面を厳しくチェックし、効率的に処理しうる体制、すなわちプロジェクトごとの一貫遂行体制を確立し事業責任を明確にする必要が生じた。

こうした観点から組織改正が望まれたが、この場合、縦断的相互間の調整と本部長のブレーントラストとしてのスタッフ部門の新設が必要であった。その結果、51年7月、開発事業本部の組織を次のように改正した。

本店に管理部を新設、計画部を本店、東京本社とも単数とし、用地部を廃止した。大阪事業部を大阪事業第一部~第三部、東京事業部は東京事業第一部、第二部にそれぞれ編成替えした。

また、52年6月、開発事業本部を本店から東京本社に移した。

53年11月には、兵庫県川西芋生物件の事業化を目的として、100%出資の子会社、大林川西開発株式会社を設立した。

■―支店の新設、廃止

当社では厳しい経営環境に対処するため、昭和50年(1975)2月、北陸3県(福井、石川、富山)を統轄する支店として、金沢支店を新設した。これは同地区における営業基盤を整備、強化し、工事獲得により一層の力を入れるためであった。金沢支店の組織は右図のとおりであり、従来本店が管轄していた富山、福井、敦賀の3営業所は同支店の管轄下に移し、従来の金沢営業所は支店の設置とともに廃止した。

一方、52年10月1日、経営効率化を進めるため、岡山支店および米子営業所を廃止し、岡山には岡山営業所を開設し、広島支店の管轄とした。

さらに54年1月、高松支店を四国支店に、金沢支店を北陸支店に改称し、62年4月、福岡支店を九州支店に、仙台支店を東北支店に改称した。

なお、52年10月1日現在の東京本社、本店の機構は右のとおりであった。

業務機構図 ●昭和52年10月1日現在 ■東京本社
業務機構図 ●昭和52年10月1日現在 ■東京本社
業務機構図 ●昭和52年10月1日現在 ■本店
業務機構図 ●昭和52年10月1日現在 ■本店
金沢支店組織図
金沢支店組織図

■―教育訓練計画の策定

企業においてその命運を決定するのは、まさに人であり、とくに当社のように人間の生み出す技術とそれに基づく信用を基盤として事業を営む企業においては、人材の育成は重要な課題である。

当社ではすでに組織的、計画的な従業員教育を行ってきたが、今後予想される変革の激しい時代に対応するためには、さらに長期的なビジョンのもとに教育訓練を体系的に実施する必要が生じた。

このニーズに応えるため、昭和48年(1973)9月、教育に関する社長の諮問機関として、東京本社に教育委員会が設置された。

折しも日本経済は石油危機の影響を受けて安定成長への転換を余儀なくされた時代であり、当社にとっても試練の時期を迎えることになったが、同委員会ではこれからはより豊かな創造力とシステマティックな思考力をもち、さらにすぐれた国際感覚を備えた従業員の育成が必要であるとの考えに立って、具体的な方策の検討を行った。そして、50年4月、教育訓練計画を策定し、教育に関する基本方針、方策、体系、実施要領等を新たに定めたのである。

策定された教育訓練体系を階層別にみると、新入職員導入教育、若年職員教育、中堅職員教育、管理者教育、経営教育に分類される。これらの社内教育は、日常業務を通じての職場内教育(OJT)と職場を離れての集合教育(OFF-JT)とに分かれ、後者は一般教育や職種ごとの専門教育として体系化された。

職場外教育としては、集合教育のほかに、海外の大学院等への留学、社外セミナー等への派遣や通信教育をこの機会に拡充した。

これらの教育は実施要領の定めるところに従い実施に移され、以後、情勢の推移に伴い適宜改正を加えつつ、大きな成果をあげていった。

教育訓練体系図 ●昭和53年9月現在
教育訓練体系図 ●昭和53年9月現在
男子新入職員現場実習風景
男子新入職員現場実習風景
女子新入職員教育風景
女子新入職員教育風景

■―請負工事予算規程の全部改正

請負工事の予算制度が定められたのは、昭和7年(1932)の「工事費予算統制規程」にさかのぼる。建設業者では当社がいち早く導入した制度で、同業各社の注目を集めた。その後、戦後の復興期を経て、高度経済成長期の工事の大型化、多様化に対処して、39年11月新たに「請負工事予算規程」が制定された。

しかし、これに基づく予実算管理においても、財務会計との結びつきがなされていなかったため、経営の予測を行ううえでは、迅速な工事損益の把握や厳正な原価の把握に欠けるきらいがあった。このため、コンピュータの利用が拡大してきた45年4月、コンピュータを利用して予実算情報と会計情報との連結を図り、より正確に工事原価を把握する予実算管理方式を実施することになった。

また、従来、土木部門と建築部門は予実算管理業務を別々の方式と様式で行っていたが、コンピュータを利用するためには、同一の方法によることが効率上望まれ、土木部門と建築部門での統一が図られた。

さらに、48年4月には、目標管理の考え方から、実施予算書の作成は施工担当部ではなく現場の工事事務所長が行うこととし、50年4月には、工事金利も加味した利益管理を導入して、工事請負契約における支払条件や工事代金の回収により一層の関心をもって対処するよう、徹底を図っていった。

これらの改正は、「請負工事予算規程」そのものを改正することなく、「予実算対照業務実務要領」を変更することによって実施してきたため、同規程と実体とがかけ離れてきた。そこで、予実算管理業務の実体に即して、51年1月「請負工事予算規程」を全面的に改正したのである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top