大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

4 一致団結して試練を乗り切る

■―北浜銀行事件

芳五郎と岩下清周氏との関係は、各種の事業を通じてますます深いものとなり、大阪電気軌道の苦境からいわゆる北浜銀行事件へと発展するに及んで、項点に達した観がある。それ以前にも芳五郎は岩下氏関連の事業の苦境に際し、奔走したことがあった。

最初の例は明治43年(1910)5月、岩下氏の援助で設立された日本醬油醸造が倒産したとき、進んでその整理に当たったことである。

次は才賀商会の例である。同商会は日露戦争後の好況に乗じ、積極経営で80余社の関係会社を擁するまでに成長し、関西電気業界の花形といわれた企業で、資本総額3,000万円のほとんどは岩下氏の援助によるものであった。しかし、大正元年8月、金融逼迫によって経営が破綻した。

芳五郎は同商会とは無関係であったが、その破綻が北浜銀行に波及するのを恐れ、救済に奔走し、同商会整理のための日本興業の設立に参加して取締役となった。

以上の2事件は芳五郎自身の問題ではなく、いわば岩下氏のために努力したのであるが、北浜銀行事件は芳五郎自身の問題でもあった。

3年4月、一新聞の報じた大阪電気軌道の増資失敗と、北浜銀行の同社への放漫貸出しの非難記事がきっかけとなって、同銀行は取付けにあった。頭取岩下氏は芳五郎はじめ財界諸氏の奔走にもかかわらず、事態収拾がならず、ついに辞任した。以後、同行は減資等の非常手段により、同年12月にようやく更生開業した。これら一連の騒動が北浜事件と呼ばれる。

北浜銀行の取付けを知った芳五郎は、その急場を救うため白杉に命じて私財の目録をつくり、委任状とともに岩下氏に提供したが、その総額は300万円を超えていた。

このとき芳五郎は羽織袴の正装で自ら岩下宅を訪れ、直談判に及んだ。自分の今日あるのは岩下氏のおかげだから、その苦境に際して私財すべてを提供するのは当然のことと主張したが、岩下氏はこれを受け取らなかった。岩下氏は、自分は芳五郎の人となりにほれ込んで若干融資はしたが、それには利息をいただいている、当然の商行為を行ったまでで、芳五郎はむしろ銀行の大事なお客様だといって譲らず、この場は一応芳五郎が引き下がった。

当社の北浜銀行に対する負債は約300万円で、諸種の株券と200万円に及ぶ大阪電気軌道の手形が担保となっていた。しかし、この手形は流通性を欠き、しかも大阪電気軌道の株価は額面の5分の1程度であった。このため北浜銀行が整理の段階に入ると、大林家所有の土地、建物はもちろん、収集した美術品に至るまで私財いっさいを提供することを余儀なくされたのである。

当社は大阪電気軌道に対しては大口債権者の立場にあり、北浜銀行に対しては債務者であって、また頭取岩下氏とは深い関係があるなど、北浜事件に際しては微妙な立場に立たされた。北浜銀行、大阪電気軌道が苦境にあることは、当社にとっても危機にほかならなかったのである。

この債務が完済したのは、芳五郎の死後、大正7年秋であった。

百三十銀行曽根崎支店 <大阪府>大正2年11月竣工
百三十銀行曽根崎支店 <大阪府>大正2年11月竣工
伊藤忠商店 <大阪府>大正4年12月竣工
伊藤忠商店 <大阪府>大正4年12月竣工

■―芳五郎逝く

北浜銀行の整理を終わって間もない大正4年(1915)2月、岩下氏は背任、商法違反などを問われて起訴された。芳五郎は自社の危急を忘れ、その善後策に奔走するうち、4月6日夕、突然不快感を訴え、やがて肺壊疽と診断された。

合資会社大林組は、それまで定款によって業務執行社員2名を置き、伊藤、白杉がこれに当たっていたが、ここにおいて同月14日社員総会を開き、定款を改正して代表社員を置くこととし、伊藤、白杉が就任した。

芳五郎の病状ははかばかしくなく、一時は回復するかにみえたが、4年12月に入ると危篤状態に陥った。再起不能を知った芳五郎は、病床を訪れた片岡直輝、渡辺千代三郎両氏に、当社と嗣子義雄の将来をねんごろに託し、翌5年1月24日夜9時50分、ついに永遠の眠りについた。享年53であった。

1月27日、西宮・夙川邸で密葬を行い、社員を代表して白杉が次の弔辞を捧げた。

弔辞

維時大正5年1月27日、大林組支配人白杉亀造店員一同ヲ代表シ、謹ンデ我ガ店主ノ霊ニ告グ、店主ノ土木建築ヲ創剏セラレシハ実ニ去ル明治25年ニシテ、爾来二十有余歳、幾多ノ荊棘ガ前途ヲ遮ルモノアリシト雖モ、剛俠不羇ノ天資ハ克ク其ノ難局ヲ踏破シ、遂ニ斯界ニ巨然タル地歩ヲ占ムルニ至レリ、殊ニ近年、畏クモ桃山両御陵造営ノ大命ヲ拝シ、至誠以テ任ヲ果シタルノ時、草莽微臣ノ名、忝クモ、天闕ニ達シタリト拝聞ス、嗚呼何等ノ光栄ゾヤ、店主ハ其ノ業ニ熱心ナルト共ニ、店員ヲ愛撫セラルルノ情実ニ慈父モ只ナラザルモノアリ、時ニ或ハ厳令トナリ、或ハ叱咤トナルコトアリト雖モ、衷心ノ恩愛ハ汲メドモ尽キズ、店員咸ク其ノ徳ニ服シ、相倚リ相扶ケ、業務ニ精励スルコト一家ノ如シ、是レ全ク店主ノ薫化ニ外ナラザルナリ、今ヤ業務ノ基礎漸ク固キモノアリト雖モ、斯界ノ前途尚遼遠ニシテ扶掖指導ヲ仰グコト愈切ナルノ秋ニ於テ、不幸溘焉トシテ長逝セラレ、空シク柩前ニ哭スル悲歎ニ沈マントハ、嗚呼哀イ哉、我等ハ再ビ得ル能ハザルノ慈父ヲ永劫ニ喪ヘリ、萬斛ノ涙ヲ灑グモ奈何ゾ其ノ温容ニ接スルコトヲ得ン、唯我等ノ往ク道ハ一アルノミ、今後倍々意ヲ励マシ、協心戮力、慈父ノ遺業ヲ振興シ、業務ノ盛隆向上ヲ遂ゲ、以テ尊霊ヲ慰メ奉ラントス、惟フニ英霊長ヘニ我等ヲ愛撫加護セラルベキヲ信ズ、綿々タル哀情奚ゾ一篇ノ文辞ニ尽クスヲ得ン、茲ニ恭ク敬慕哀悼ノ意ヲ表シ奉ルノミ、冀クハ英霊瞑リ安ラカナレ、噫

大正5年1月27日

白杉亀造

翌28日、大林家は喪を発し、各新聞に嗣子義雄、女婿賢四郎{}の名で、死亡広告を掲載した。親戚総代には大林亀松、大門益太郎、砂崎庄次郎、浜崎永三郎の4氏、友人総代として今西林三郎、片岡直輝、高倉藤平、郷誠之助(男爵)、志方勢七、七里清介の6氏が名を連ねた。また合資会社大林組も、代表社員伊藤哲郎、白杉亀造の名によって、死亡広告を掲載した。

本葬は2月2日午後2時、大阪市四天王寺本坊で執行され盛大を極めた。

注 大林賢四郎:明治18年藤泉 栄の三男として福島県三春町に生まれ、同44年7月、東京帝国大学建築科を卒業、合資会社大林組に入社した。大正3年芳五郎の長女ふさと結婚して大林姓を名乗り、同7年、株式会社改組とともに常務取締役、同13年には副社長となったが、昭和10年3月病没した。
ふさとの間に長男一郎(大正3年4月9日生)長女文子(大正6年4月20日生)、二男芳郎(大正7年4月17日生)、二女敏子(大正10年6月30日生)の2男2女がある。二男芳郎は叔父に当たる二代目社長義雄の養子となって本家を継ぎ、その後三代目社長となり、現在会長職にある。

■―後援者の尽力と大戦景気

芳五郎の死去によって大林家の家督は嗣子義雄が継ぎ、合資会社大林組への出資額も引き継いだ。このとき義雄はいまだ22歳の若さで、早稲田大学商科在学の身であった。しかも大林家は北浜銀行に対する債務弁済のため財産整理中であったから、世間に大林組危うしとの声が流れたのも不思議ではなかった。

伊藤、白杉は大林家を守ると同時に、芳五郎亡きあとの当社の社業を維持経営しなければならなかった。

当社の存亡を問われたこの事態に対し、芳五郎から後事を託された片岡、渡辺両氏は今西氏ほか故人と親交のあった著名財界人の協力を求め、当社の支持に努めた。そして大正5年(1916)4月には、今西林三郎、片岡直輝、高倉藤平、谷口房蔵、天野利三郎、志方勢七の各氏連名で、自分らも後援監督するので大林組への一層の庇護を願う旨の依頼状を各方面に送った。これは一種の信用保証で、企業に個人色の強かった時代とはいえ、異例のことであった。

当社はこの依頼状に添えて、次の挨拶状を送った。

謹啓 時下春暖之候愈御清暢被為渉奉敬賀候 扨弊組土木建築請負業之儀ハ去ル明治25年来故大林芳五郎一個人ニテ経営致候処業務次第ニ盛大ニ赴キ候間更ニ其基礎ヲ永遠ニ確立セシメンガ為同42年之ヲ合資会社ノ組織ニ改メ下名等ニ於テ業務一切ヲ継承シ芳五郎ハ相談役トシテ注意奨励ニ力メ居候処幸ニ事業ハ年ト共ニ隆盛ニ向ヒ候段全ク御高庇ノ賜ト難有感佩仕候 然ルニ過般不幸ニシテ芳五郎長逝シ熱心ナル相談役ヲ失ヒ候ヘ共創業以来既ニ25年組織変更後八星霜ヲ閲シ候事トテ其経歴ト共ニ営業ノ基礎鞏固ヲ加ヘ如何ナル重要工事ノ御高嘱ニモ応シ得候事ト竊ニ自信仕居候折柄更ニ有力者ノ後援ヲ得候ニ付今後一層奮励業務ニ尽瘁シ以テ従来ノ御眷顧ニ奉酬度何卒鄙衷御諒察ノ上倍旧ノ御用被仰付度奉悃願候 敬具

大正5年4月

合資会社大林組
代表社員 伊藤哲郎
同 白杉亀造
技師長
工学博士 岡胤信

当時、当社の業域はすでに全国に及んでおり、多額の資金が必要であったが、もはや大林家に頼ることはできなくなった。この急場を救ったのは天野利三郎氏で、市場的には無価値に近い大軌の手形、株券などを担保に、100万円の融資を快諾してくれた。当社がこのときの危機を克服して立ち直ることができたのは、以上の諸氏の配慮によるものであり、同時に芳五郎の力が死後にまで及んだともいうことができる。ここに名を連ねた人々や、岩下清周氏、渡辺千代三郎氏らは当社の恩人として、現に毎年行われる物故者慰霊祭にあたり、後援者の霊として祀られている。

当社が危機を脱出できたのは、こうした芳五郎の知己である財界有力者たちの後援に加え、残された者たちの必死の努力によることはいうまでもないが、さらに加えるなら、折から訪れた第1次世界大戦による戦争景気もその要因の一つとしてあげることができる。

大戦の影響によって建設資材、労務費の高騰、受注競争の激化などの悪条件も噴出したが、諸産業、とくに造船、製鉄、紡績などの工業が大いに興り、建設業界もそれとともにうるおったからである。当社も危機のなかにありながらも、5年には前年比2倍の約300万円、翌6年はさらにそれを60%上回る480万円以上の受注を確保した。工事件数も6年は前年比50%増、7年はさらに上昇した。

この間の受注工事も、時勢を反映して山下汽船神戸支店、日本郵船大阪支店、浅野造船所、大阪鉄工所、原田造船所、三井物産宇野造船所、日本汽船笠戸造船所などの船舶関係や、三菱大阪製錬所、大阪電気分銅製錬所、浅野合資製鉄部厚板工場、東洋製鉄戸畑工場、住友鋳鋼所、同伸銅所工場などの金属関係が多かった。また輸出の増大に伴い、一時に規模を拡大した鐘淵紡績兵庫支店工場および洲本支店工場、日本紡織大和田工場、東京紡績西新井工場、東洋毛絲紡績今津工場その他繊維関係が目立つのも特徴的であった。

後援者のプロフィール

今西林三郎氏は大阪商船(現・大阪商船三井船舶)の支配人から、阪神電鉄社長をはじめ多くの会社の社長、重役を歴任し、大阪商工会議所会頭、大阪三品取引所理事長を務めた。明治38年、当社支配人として迎えた池田源十郎は岩下氏系列の人で、今西氏の推挙によるといわれる。

片岡直輝氏は官界出身で、日本銀行大阪支店長として大阪に在勤し、関西財界に地盤を築き、大阪瓦斯社長等、実業界に活躍した。商工相、蔵相を務めた片岡直温氏はその実弟である。

渡辺千代三郎氏は北浜銀行出身、大阪瓦斯取締役から同社社長となり、南海鉄道社長も兼ねた。

高倉藤平氏は堂島米穀取引所理事長、北浜銀行頭取のほか有隣生命保険、花屋敷土地会社の創立者であり、北浜銀行事件には深い関係があった。

郷誠之助氏は農商務省官吏を経て実業界に入り、東京株式取引所理事長、貴族院議員となり、財界人グループ番町会の指導者として大会社の合併整理などに活躍、太平洋戦争中は重要産業統制団体協議会会長を務めた。

志方勢七氏は林家と同じく靱の肥物商として聞こえた富商の出身。日本棉花、摂津醬油の各社長のほか、大阪瓦斯、日本火災など各社取締役を兼任した。

天野利三郎氏は合資会社天野商店で知られた樫材および金物商であった。

大林組への後援依頼状
大林組への後援依頼状
今西林三郎氏
今西林三郎氏
片岡直輝氏
片岡直輝氏
渡辺千代三郎氏
渡辺千代三郎氏
山下汽船神戸支店 <兵庫県>大正6年6月竣工
山下汽船神戸支店 <兵庫県>大正6年6月竣工
鐘淵紡績洲本支店工場 <兵庫県>大正6年7月竣工
鐘淵紡績洲本支店工場 <兵庫県>大正6年7月竣工
東洋毛絲紡績今津工場 <兵庫県>大正7年7月竣工
東洋毛絲紡績今津工場 <兵庫県>大正7年7月竣工
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