■―ニューメディアの波及
ニューメディアという言葉の定義はいろいろとなされているが、「電子技術の進歩や通信手段の開発で可能になった、新しい情報伝達手段の総称」といえよう。
昭和50年代の後半に入って、コンピュータとデジタル通信技術の発達により、新しいコミュニケーション手段としてさまざまなニューメディアが登場してきた。
時の中曽根内閣による「60年代経済・社会の展望と指針」の中に高度情報社会という用語が多用され、この言葉も市民権を得た観があるが、こうした情勢を背景に、官民を問わず、ニューメディアと高度情報化という二つをキーワードにした新しいコミュニティ構想が打ち出されてきた。
たとえば、日本電信電話公社によるINS(高度情報通信システム)構想の提唱と、これに続くINSのモデル実験計画の発表(59年11月より三鷹市と武蔵野市で実験が実施された)、58年(1983)に相次いで出された郵政省の「テレトピア構想」と通産省の「ニューメディア・コミュニティー構想」、61年から推進された農林水産省の「グリーントピア構想」、建設省の「インテリジェント・シティ構想」などである。
60年4月には「電気通信事業法」が施行され、電気通信事業の自由化と日本電信電話公社の民営化が実現し、競争原理の導入によって情報通信システムの発展が加速されることになった。
このような社会の動きに対し、当社では59年7月、東京本社にニューメディア対策委員会およびニューメディア調査計画室を設置した。同室では、ニューメディアあるいは高度情報化をテーマに設けられた官民の各種委員会・研究会・協議会等に当社の窓口として参加し、ニューメディアそのものの調査研究やこれに関連する建設需要、新規事業等の動きについての情報入手と対応に当たるとともに、当社におけるニューメディアに関する総合施策の立案、社内導入・活用の検討を行った。