大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

3 関東大震災の救援と復興工事

■―社長を陣頭に汽船で急行

大正12年(1923)9月1日正午近く、東京、横浜を中心とする大地震が関東を襲い、火災が各所に発生し、津波も来襲して未曾有の大災害となった。死者9万余、全壊、焼失した戸数は46万5,000に及び、流言蜚語が飛び交って甚だしく人心は動揺し、治安維持のため、東京、神奈川、埼玉、千葉の4府県には戒厳令がしかれた。

当社では東京支店がこの年7月、麴町区内幸町から日本橋区北新堀町に移転したばかりで、地震による被害はなかったが、火災のため焼失した。支店管内の工事現場もほとんど全滅に近い被害を受けたが、従業員とその家族に死傷者はなかった。そこで折から工事中の歌舞伎座現場内に支店仮事務所を設置した。

交通、通信はすべて途絶し、外国船舶の無電によって災害を知った大阪府は、即日大阪商船シカゴ丸に救援物資を積み込み、翌2日出航させることになった。これを知った当社本店では、連絡のため米田竹松、伊藤義弘の2社員に、白米数俵を持たせて便乗させた。これが大阪からの救援第1船で、当社としても第1便であった。

一方、同2日には白杉常務が救援のため本田 登、宇高有耳、白田喜八郎ら社員十数名、大工・人夫ら十数名と、阪大医学部勝部育郎医師以下8名の救護班をつれて、列車で東京に向かった。しかし名古屋で鉄道の不通を聞いて引き返し、翌3日の午後、神戸の鈴木商店所有第2米丸で神戸を出帆し、5日横浜に入港、さらに汽艇で東京芝浦に上陸した。このとき食糧、医薬品、ロウソクその他の日用品に加えて、本店所有の自動車2台を携行したが、これは支店の1台とともに、交通機関全滅の現地で大いに機動力を発揮した。

白杉一行は半焼の歌舞伎座現場仮事務所と、植村支店長自宅を根拠地とし、ただちに工事の善後策、支店管内の体制整備などに当たったほか、上野公園その他に勝部医師らの救護医療所を設け、一般市民に開放した。

続いて6日、義雄社長自身が汽船玄海丸をチャーターし、社員、下請の多数を従え、食料、建築材料など必需品を積み東上した。そして本・支店一体となり、ただちに復旧工事に当たって、この緊急事態に対処したのである。

チャーター船で大輸送

関東大震災後の模様を、白杉は次のように回想している。

「9月7、8日ごろから各方面から家屋やビルの修理依頼を受けはじめたが、特に印象の深いのは丸ビルの復旧工事と、近畿2府と滋賀、奈良など6県の連合で発注された東京、横浜の罹災者収容用のバラックと横浜仮病院の工事です。バラックは1棟60坪のものを、東京に300棟、横浜に200棟寄付されたのです。また横浜仮病院は木造の応急仮病院ながら患者1,000人収容の施設で、13棟からなる建物です。

一大突貫工事ですから、木材は全部大阪で加工し、現地では組立てだけをやることに計画しました。大阪鶴町の大阪市所有の地所2万坪を借り入れ、2,000人以上の職方を動員して、昼夜兼行で作業を進め、食べ物屋の夜店まで出るというさわぎでした。

一方、輸送のため輸送班を特設し、早くも13日には加工済みの材料を積みこんだ第1船をチャーターして、大阪港から出航させました。この船には現場作業に従事する社員と、大工その他の職方300人を乗りこませた。バラックも仮病院も、契約のとおり1カ月で完成しました。大阪で木材の加工にかかり、それを海上輸送し、現地で組立てるのにわずか1カ月かかっただけというのですから、超非常のときでなければできた仕事ではないと思いますね。こうしている間にも、東京、横浜でドンドン工事を受注するものですから、そのための大量の要員や用材を大阪から送りこむため、あとからあとから汽船をチャーターする、また買い入れるというわけで、輸送業務がたいへんでした。いま思いおこしても、よくやったものと思っています。」(白杉嘉明三『回顧70年―大林組とともに―』から)

震災後、仮事務所として使用した東京歌舞伎座
震災後、仮事務所として使用した東京歌舞伎座

■―復旧工事に従事

関東大震災による東京、横浜の復興工事については、地元業者の多くが被災したため、大阪を本店とする当社は多くを受託し、貢献することができた。しかし、これは当社の本店が大阪にあるということだけでなく、東京における工事実績、とくに当社施工の著名ビルがこの大地震にいささかの損害もなかったという事実に基づく信用によるものであった。

たとえば丸ビルは大損傷を受けたが、その復旧について三菱地所はわざわざ人を大阪に派遣して、直接当社に依頼された。これは当社施工による東京駅、台湾銀行、日本興業銀行、国勢院などが、何らの損傷を受けていなかったことによるものであった。丸ビル修復は被災建築復旧工事のうち最大であったが、テナント在室のままの施工など、多大の苦心を要した。

東京支店としては大正12年(1923)9月に鉄道省の新橋運輸事務所仮庁舎を受注したのをはじめ、同月中に日本赤十字社、服部時計店、三越本店、住友銀行の東京・横浜両支店などの仮営業所、東神倉庫会社の芝浦・横浜倉庫などを相次いで受注した。その後の工事では、官公庁関係に逓信省、鉄道省、横浜税関などの仮庁舎、専売局仮工場など、民間では住友合資会社の東京・横浜仮営業所、同越前堀仮事務所と倉庫、三井合名、三井物産の仮本店、時事新報社などのほか、被災学校の応急復旧、道路、橋梁など土木関係に至るまで列記しきれないほど多く、請負金の総額は1,000万円を突破した。しかもその間、全国にわたる諸工事に支障を与えずに行わなければならなかったのである。

東京支店はこの年11月、麴町区永楽町1丁目1番地(現・新丸ビル所在地)にバラック建の仮事務所と宿舎を建て、歌舞伎座現場内から移転した。歌舞伎座工事そのものはようやく翌13年4月に着手して年内に竣工、14年1月、華々しく開場した。

これら諸工事が一時に殺到し、当社はかつてない繁忙に見舞われたが、その間賢四郎、白杉両常務取締役のうち主として本店を守ったのは賢四郎であった。白杉は本店業務のほか、震災復興工事を担当、絶えず東西を往復したため過労で発病し、後に半年の静養を余儀なくされたほどである。

東京中央停車場工事によって本格的に東京に進出した当社は、10年の間に実績を積み重ね、東京業者と肩を並べるに至っていたが、関東大震災を契機として、さらに一段の飛躍を成し遂げたのであった。

改修工事中の丸ビル
改修工事中の丸ビル

■―耐震耐火建築へ

関東大震災は経済を主としてさまざまな影響を各方面に及ぼしたほか、多くの教訓も残した。たとえば「地震のときはすぐ火を消せ」というのは、このときの大災害から得た教訓である。

建設業界をみると復興景気が一時的とはいえ業界に好影響を及ぼしたほか、以後の建築物に耐震耐火のものが多くなり、この面の技術に向上をもたらした。

復興建築はまず仮設と応急復旧に始まり、次いで本格的な修築、新築に移行した。新しく建てられる建物は大震災の教訓によって、またすでに開幕した近代建築時代の要請によって、耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造が主流となった。そして復興に現れたこの風潮は、たちまち全国に波及して、各地に起工されるものも、いわゆる“本建築”が多くなった。

大正13年(1924)5月、政府は財団法人同潤会を設立し、東京の渋谷代官山、青山、江戸川橋、横浜の山下町に鉄筋コンクリート造アパートを建設した。震災後の住宅不足対策であったが、今日の公団住宅の先がけをなすものである。当社はこのうち横浜の山下町アパートを受注し、15年7月に着工、昭和2年4月に竣工した。また、これに先立ち東京お茶の水(文京区元町1丁目)の文化普及会文化アパートを施工しているが、これはヴォーリズ建築事務所設計によるもので、13年8月着工、翌14年6月竣工、地下2階、地上4階、42戸103室の日本における最初の本格的アパートであった。

文化普及会文化アパート <東京都>大正14年6月竣工 設計 ヴォーリズ建築事務所
文化普及会文化アパート <東京都>大正14年6月竣工 設計 ヴォーリズ建築事務所
東京府美術館 <東京都>大正15年3月竣工 設計 岡田信一郎
東京府美術館 <東京都>大正15年3月竣工 設計 岡田信一郎
宝塚ホテル <兵庫県>大正15年5月竣工 設計 古塚正治建築事務所
宝塚ホテル <兵庫県>大正15年5月竣工 設計 古塚正治建築事務所
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