大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和58年~昭和61年ころ

橋梁工事に新たな1ページ

本四架橋から横浜ベイブリッジへ

本州と四国の間を陸路で結ぼうという構想は遠く明治中期からあったが、本格的な調査が開始されたのは昭和30年代半ばのことであった。44年(1969)に神戸~鳴門間、児島~坂出間、尾道~今治間の3ルートが閣議決定され、45年の本州四国連絡橋公団の設立とともに48年同時着工に向けて準備が進められた。しかし、石油危機で工事が一時延期され、その後、経済情勢の好転に伴い、50年12月に尾道・今治ルートで大三島橋、51年7月に神戸・鳴門ルートで大鳴門橋など、各地で橋梁工事が着工のはこびとなった。

53年着工の児島・坂出ルート(道路、鉄道併用)の瀬戸大橋の全橋は、63年4月10日、一斉に開通し、本州と四国が初めて陸路で結ばれた。このルートは全長13.1㎞、うち海峡部が9.4㎞、総工費1兆1,300億円、9年6カ月をかけて完成した。当社の主な担当工区は、南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区でピア3基とアンカレイジ1基(JV)、番の州高架橋下部工(その6)(JV)などであった。

わが国の橋梁工事の歴史に新たな1ページを加えた瀬戸大橋のほかに、当社が50年代以降手がけた主な橋梁は、当社として初めてのフレシネー式カンチレバーPC橋である東予道路新中山川大橋(愛媛)、ディビダーク式カンチレバーPC橋である黒川大橋(中筋第一橋)(上部工とも)(高知)や宮ケ瀬大橋上部工(神奈川)、日本最長1,760mの桁橋である東三河臨海道路三河港大橋(下部工)(JV)(愛知)、また世界最大級の斜張橋である横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)、その景観デザインが秀逸と全国から注目された隅田川に架かる歩行者専用橋の桜橋(JV)(上部工とも)があった。このように建設技術・工法はもちろん、景観的にもバラエティに富む日本の代表的な橋梁の建設がこの時期相次いだ。

このほか、福岡県鐘ケ江大橋、島根県松江第三大橋(くにびき大橋)、広島県内海大橋(JV)(上部工とも)、大和工業西汐入川横断橋(栄鋼橋)(上部工とも)(兵庫)、片品川橋(JV)(群馬)、中国電力大崎発電所大崎上島~長島連絡橋、大阪府道路公社鳥飼仁和寺大橋、大阪市菅原城北大橋(JV)、阪神高速湾岸線新淀川第2工区(JV)・同線中島第1工区(JV)の各橋梁工事の下部工も手がけた。

なお、片品川橋(JV)(60年度)、桜橋(JV)(60年度)、南北備讃瀬戸大橋(JV)(63年度)、横浜ベイブリッジ(JV)(平成元年度)には土木学会田中賞(作品部門)が授与された(カッコ内は受賞年度)。

黒川大橋(中筋第一橋)
<高知県>昭和62年8月竣工
発注 建設省
設計 建設省
黒川大橋(中筋第一橋)
<高知県>昭和62年8月竣工
発注 建設省
設計 建設省
宮ケ瀬大橋上部工
<神奈川県>昭和63年10月竣工
発注 建設省
設計 建設省
宮ケ瀬大橋上部工
<神奈川県>昭和63年10月竣工
発注 建設省
設計 建設省
桜橋(隅田公園歩行者専用橋)(JV)
<東京都>昭和60年3月竣工
発注 台東区
設計 構造計画コンサルタント
桜橋(隅田公園歩行者専用橋)(JV)
<東京都>昭和60年3月竣工
発注 台東区
設計 構造計画コンサルタント

南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区(JV)

昭和53年(1978)10月10日、本州四国連絡瀬戸大橋の起工式が香川、岡山両県会場で同時に行われた。瀬戸大橋は五つの島を足場に六つの橋を架けるのであるが、最初に着手したのが四国側の南北備讃瀬戸大橋であり、この下部工には四つのピアと三つのアンカレイジが含まれる。このうち、当社、大成建設、前田建設工業、東亜建設工業の4社JVは、中央支間990mの吊橋である北備讃瀬戸大橋のピア1基(3P)と、中央支間1,100mの吊橋である南備讃瀬戸大橋のピア2基(5P、6P)、そして南北の吊橋の共用のアンカレイジ1基(4A)を施工した。この海峡部は吊橋で渡海し、橋桁の上部は道路4車線、下部は鉄道複々線で設計され、橋桁の下端から海面までは65mもあり、巨大タンカーでも楽に通過できる高さである。

海峡の潮流は5.4ノット、1日2回、瀑布のように音をたてて流れる海中で工事は進んだ。基礎は設置ケーソン工法をとり、最大のケーソンである6Pは長さ38m×幅59m×高さ55mで鋼製二重隔壁の浮体構造であった。

各ケーソンの支持地盤高は海面下10~50mで、とくに4Aは島全体を削って水面下10mまで掘削して島がなくなったほど大規模なものであった。この地域の岩盤は風化花崗岩で4カ所とも大小の海上作業足場(SEP)を使用して穿孔し、その後、装薬・発破を行った。このあと、日本で最大級のグラブ式浚渫船で浚渫を行い、硬い基盤を露出させ、とくに5P、6Pについては浚渫後、海上作業足場に大口径(直径2,500㎜)掘削機を搭載して海底面を平らに仕上げ、岩盤面に直接ケーソンを設置した。ケーソンの設置精度は高く、2~3㎝内におさめることができた。ちなみに、最後の沈設であった6Pケーソンは58年6月設置を完了した。

続いてケーソン内に大粒径粗骨材を投入し、その後、プレパックドコンクリートは毎時240㎥のモルタルをプラント船で4昼夜の連続運転で注入し打設した。異常寒波で注入ホース内の水が凍結したり、6PではSEPの手摺に波しぶきが凍ってつららとなり、甲板は滑って歩けない状態になったり、またSEP船体を水平に保つ傾斜計の水配管が凍結し作用しなくなったりするという厳しい海象条件下での施工であった。「この復旧作業を寒風吹く荒波の上で命綱を使って行っているうちに夜が明けたことを今でも思い出します」と、所長はこの時の様子を後に語っている。

南北の吊橋の共用アンカーである4Aのコンクリート躯体工事を最後に、60年3月、すべての橋脚が完成し、上部工施工へと手渡した。厳しい海象、大水深に挑んだ当工区巨大海中基礎の施工規模は、海底岩盤掘削25万㎥、コンクリート量は51万㎥に達した。請負金は102億2,000万円、所長は守屋研治であった。

瀬戸大橋概略図
瀬戸大橋概略図
南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区(JV)
<香川県>昭和59年7月竣工(中工区) 昭和60年3月竣工(北工区)
発注 本州四国連絡橋公団
設計 本州四国連絡橋公団
工事概要 橋脚3基(3P、5P、6P)/ケーソン形状(長さ23~38m×幅57~59m×高さ13~55m)、橋台1基(4A)/ケーソン形状(長さ57m×幅62m×高さ13m)、鋼重1万7,000t、海底岩掘削量24万5,000㎥、底面仕上げ工1万1,485㎡、粗骨材充塡21万2,700㎥、モルタル注入量10万6,230㎥、気中コンクリート量29万8,720㎥、鉄筋量9,550t
南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区(JV)
<香川県>昭和59年7月竣工(中工区) 昭和60年3月竣工(北工区)
発注 本州四国連絡橋公団
設計 本州四国連絡橋公団
工事概要 橋脚3基(3P、5P、6P)/ケーソン形状(長さ23~38m×幅57~59m×高さ13~55m)、橋台1基(4A)/ケーソン形状(長さ57m×幅62m×高さ13m)、鋼重1万7,000t、海底岩掘削量24万5,000㎥、底面仕上げ工1万1,485㎡、粗骨材充塡21万2,700㎥、モルタル注入量10万6,230㎥、気中コンクリート量29万8,720㎥、鉄筋量9,550t

横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)

平成元年(1989)9月、本牧埠頭から横浜国際航路を横断して大黒埠頭に至る全長860mの横浜ベイブリッジが供用を開始した。本橋は、世界最大級の斜張橋であるとともに、当社、鹿島建設、東亜建設工業の3社JVが担当した下部工においても幾多の新技術を駆使して超大型の多柱基礎を実現し、橋梁建設技術の発展に大きく寄与した。

建設地点は、水深約12m、その下に約50mの厚さで軟弱粘土層が堆積し、長大橋を支える主塔部基礎は、直径10m、長さ75mの基礎柱9本で構成され、厚さ12m、平面寸法54m×56mの大型フーチングを支持するという、従来の技術的通念を超える基礎構造物であった。その建設は、まず、完成後には基礎フーチングの外殻となる中空のPCバージをドックで製作し、浮上・曳航して現場に運び、建設地点の海上に固定し、このPCバージを作業台として基礎柱を施工した後にPCバージの中詰めコンクリートを打設して一体化するという施工方式を採用した。PCバージは総重量1万5,800tに及び、浮体式海洋構造物としても過去に例のない大規模なもので、その設計・施工はわが国のコンクリート技術に新しい1ページを加えるものとして注目された。直径10mの基礎柱の構築は、オープンケーソン工法を用い、ケーソン内部をコンピュータにより遠隔制御する水中掘削機で掘削し、傾斜を修正しつつ最大加圧力3,600tのジャッキでケーソンを圧入する新工法を開発し、施工が可能となった。

横浜ベイブリッジ下部工工事は、各工程が実験工事の繰返しといっても過言ではない新たな施工条件へのチャレンジであったが、昭和56年の着工後約6年を経てほぼ完了し、上部工工事へと引き継がれ、平成元年春、上部工中央径間閉合を迎えた。架橋地点から横浜市内が一望でき、夜間はライトアップされ、横浜港のシンボルにふさわしい新たな景観が創出された。請負金は61億9,570万円、所長は牛島 達である。

横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)
<神奈川県>昭和63年2月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 3径間連続トラス斜張橋、延長860m、層高175m(海面上)、上下2段各6車線道路 下部工/多柱式基礎、主塔基礎:(P2)コンクリートケーソン9本(外径10m、長さ75m)、コンクリート量6万㎥、鉄筋1万1,000t、PC830t、端部基礎:(P1)コンクリートケーソン6本(外径10m、長さ47m)、コンクリート量4万㎥、鉄筋5,200t、PC460t
横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)
<神奈川県>昭和63年2月竣工
発注 首都高速道路公団
設計 首都高速道路公団
工事概要 3径間連続トラス斜張橋、延長860m、層高175m(海面上)、上下2段各6車線道路 下部工/多柱式基礎、主塔基礎:(P2)コンクリートケーソン9本(外径10m、長さ75m)、コンクリート量6万㎥、鉄筋1万1,000t、PC830t、端部基礎:(P1)コンクリートケーソン6本(外径10m、長さ47m)、コンクリート量4万㎥、鉄筋5,200t、PC460t

縦貫道から横断道の時代へ

高速道路の供用延長3,000㎞を突破

昭和50年代初頭における経済計画等の大幅見直しや新たな国土経営の中長期計画策定に対応して、道路整備計画も新たな長期構想のもとに見直しが行われ、53年(1978)から第8次道路整備5カ年計画がスタートした。この計画期間中、高速道路は新たに1,037㎞が完成し、57年3月に総延長が3,000㎞の大台を超えた。1年後の58年3月には中国自動車道が全線開通し、東北・中央・北陸・中国・九州各自動車道のいわゆる縦貫5道がおおむね完成に近い状態になった。これによって青森から東北・東名(または中央)・名神・中国・関門・九州の各自動車道を経て鹿児島あるいは宮崎を結ぶ国土の骨格となるルート約2,100㎞のうち90%が完成をみた。32年10月に名神高速道路の建設に着手して以来、実に4分の1世紀が経過していた。58年には第9次道路整備5カ年計画が策定された。

50年代から60年代にかけては、高速道路の整備の重点が縦貫5道から横断道へ移行した時期であり、縦貫5道以外では関越・常磐・九州横断各自動車道の建設が最盛期を迎え、四国初の高速道路の起工(55年)も行われた。

建設技術の進展もめざましかった。横断道に移行するにしたがってトンネルや橋梁の区間が多くなり、トンネルでは当社も携わった関越トンネルのような長大トンネルが完成、橋梁では高橋脚の片品川橋などの大規模橋梁群も登場した。

九州横断自動車道諫早工区(JV)
<長崎県>昭和56年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
九州横断自動車道諫早工区(JV)
<長崎県>昭和56年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東北自動車道竜ケ森南工区(JV)
<岩手県>昭和56年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東北自動車道竜ケ森南工区(JV)
<岩手県>昭和56年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
中国自動車道筒賀東工区(JV)
<広島県>昭和57年5月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
中国自動車道筒賀東工区(JV)
<広島県>昭和57年5月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
広島自動車道(中国横断自動車道)竹坂トンネル(JV)
<広島県>昭和59年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
広島自動車道(中国横断自動車道)竹坂トンネル(JV)
<広島県>昭和59年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
近畿自動車道多紀連山トンネル(JV)
<兵庫県>昭和60年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
近畿自動車道多紀連山トンネル(JV)
<兵庫県>昭和60年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団

道央自動車道江別太東工区(JV)

当工事は、道央自動車道(函館~稚内643㎞)のうち、石狩低地を27㎞にわたって突っ切る札幌~岩見沢間の江別市東部約1.8㎞(インターチェンジ1カ所も含む)の区間で、当社(幹事会社)と青木建設のJVで施工した。

わが国有数の泥炭地帯として知られる当低地は厚さ約40mに及ぶ沖積層の湿地帯で、地表3~5mはアシ、ヨシ等の湿地植物が堆積してできた腐食土(泥炭)がおおっていた。その泥炭層は含水比800~1,000%(土中の水の重量が土粒子の重量の8~10倍)という超軟弱地盤であり、工区内の約200mにわたった越後沼付近では土層含水比は何と3,500%、実に97%が水という最も軟弱な土であった。そこで、昭和54年(1979)10月着工当初から当社技術部門の全面的支援のもとに、現場には軟弱地盤専門技術者からなる3名編成の動態観測班を配置し、日常の観測結果の検討を施工にフィードバックしながら工事を進めた。

とくに越後沼付近では孟宗竹を1mの格子状に組んでその上にネットを施工し、そこにサンドマットを敷きサンドコンパクションパイル(5万5,500m)を打設する工法を採用した。一方、本線盛土の安定を図るため捨石で沼部に約280mにわたり築堤し軟弱層の強制置換えを行ったが、沼底および前後の土層は、岩石を投げ込んでも投げ込んでも飲み尽くすばかりであった。幅約5m、高さ1.5mの築堤を1m伸ばすのになんと100㎥の岩石を投入し、沼部の盤膨れ隆起は30~45m先まで発生した。築堤が30mほど前進したある日、昼休みを終えて作業員が現場に戻ってきたら、ついさっきまであった築堤が跡形もなく消えていたというウソのようなことも起きた。

こうした悪戦苦闘の地盤改良後の盛土工事では、30㎝の盛土を動態観測しながら1週間に1回施工するというゆっくりした速度で行った。それでも途中2カ所で盛土が不安定状態になり、2週間に30㎝に変更せざるを得なかった。

このほか、冬期作業休止期間(11月中旬~4月中旬)や構造物(橋梁、ボックスカルバートなど)のための6カ月のプレロード期間など工程の調整に苦心し、さらには工事最盛期に未曾有の集中豪雨に見舞われるなど、大自然との戦いは約4年間続き、最終盛土量75万2,000㎥をもってようやく盛土は完了し、57年12月竣工した。請負金は27億2,426万円、所長は石塚聖二であった。

道央自動車道江別太東工区(JV)
<北海道>昭和57年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 工事総延長1,828m、道路延長1,694m、橋梁延長134m、インターチェンジ1カ所、切盛土量88万5,700㎥、軟弱地盤処理工(敷砂工15万8,000㎥、サンドドレーン工18万8,000m、サンドコンパクションパイル5万5,500m、竹枠工9,300㎡)
道央自動車道江別太東工区(JV)
<北海道>昭和57年12月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 工事総延長1,828m、道路延長1,694m、橋梁延長134m、インターチェンジ1カ所、切盛土量88万5,700㎥、軟弱地盤処理工(敷砂工15万8,000㎥、サンドドレーン工18万8,000m、サンドコンパクションパイル5万5,500m、竹枠工9,300㎡)

関越自動車道片品川橋(右岸側下部工)(JV)

関越自動車道の渋川から赤城山麓を経て水上に至る区間は、深く侵蝕を受けたV字谷、U字谷、あるいは高低差100mに及ぶ河岸段丘が発達しており、わが国の山岳道路橋としては過去に例のない高橋脚の長大橋梁群が建設された。なかでも片品川橋はその最大規模の橋梁であり、橋長は1㎞を超え、高さ70m級の非常に高い橋脚を多数有しており、当社(幹事会社)、佐田建設のJVはこのうち右岸側下部工の橋脚4基と橋台1基を担当した。

本工事の最大の特徴である高橋脚は、矩形中空断面で、終局耐力の向上と施工性を考慮して土木構築物では例の少ないSRC造の設計であった。施工にあたっては高所作業を極力避け、鉄骨・鉄筋は地上で地組みして揚重するブロック化工法を採用し、また鉄筋の継手は全自動ガス圧接機により省力化を図り、型枠装置は足場の付属した移動式型枠工法を採用するなど、高層構造物用に合理化された一連の工程を実現した。

コンクリート打設については、土木工事用の硬練りコンクリートでは当時垂直高さ70mにも及ぶ高所へのポンプ施工は例がなく、建築中の高層ビルで実験を行い、スランプ10㎝程度のコンクリートでも圧送可能なことを確認して施工した。

このように種々の検討を重ねて、昭和56年(1981)3月の着工以来進めてきた片品川橋下部工工事は58年6月にすべて完了し、上部工工事に引き継がれ、60年3月、まれにみる規模の橋梁としてその姿を上越路に現した。請負金は16億6,966万円、所長は高木正圭であった。なお、この片品川橋をはじめとする関越自動車道高橋脚長大橋梁3橋に対し、60年度土木学会田中賞(作品部門)が授与された。

関越自動車道片品川橋(右岸側下部工)(JV)
<群馬県>昭和58年6月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 基礎工/ニューマチックケーソン3基、面積430~530㎡、深さ17~25m、壁式橋脚/4基、SRC造、高さ55.5~69.4m、箱式橋台/1基、RC造、長さ26.5m×幅21.5m×高さ19.9m
関越自動車道片品川橋(右岸側下部工)(JV)
<群馬県>昭和58年6月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 基礎工/ニューマチックケーソン3基、面積430~530㎡、深さ17~25m、壁式橋脚/4基、SRC造、高さ55.5~69.4m、箱式橋台/1基、RC造、長さ26.5m×幅21.5m×高さ19.9m

関越自動車道関越トンネル(下り線湯沢側工区・上り線水上側工区)(JV)

関越自動車道は東京と新潟を結ぶ延長約300㎞の高速道路で、関越トンネルは、このほぼ中間の谷川岳連峰直下を貫く延長約11㎞の日本最長の自動車道路トンネルである。

この延長、設備ともわが国最大規模の道路トンネル建設工事は、南側(群馬県水上町)と北側(新潟県湯沢町)の2工区に分けられ、昭和52年(1977)3月、南側3社JVと北側3社(当社・熊谷組・佐藤工業)JVが同時に着工した。当社JVが担当する湯沢側工区は、最終的には高速道路の下り線として供用される本坑延長5,642mと、補助坑延長6,180m、さらに本坑と補助坑を結ぶ連絡坑18本、換気立坑(直径10m、高さ194m)などのほか、明かり工事約2㎞もあった。

当トンネルの換気方式は世界でも例をみない「電気集塵機付立坑送排気縦流換気方式」をとっており、換気立坑は2本、うち当社JV工区には万太郎立坑があった。しかし、立坑が国立公園内に位置することから環境への影響を最小にとどめるため、その施工にあたっては、導坑を本坑から垂直に切り上げ、その後今度は上からそれを切り広げていき、次いで巻立ては下からスリップフォーム工法で上げていくというきわめて高度な技術が必要とされた。

トンネル本坑の掘削工法は一部を除きすべて全断面発破掘削工法で、国産初の油圧ドリフターを搭載した8ブームガントリージャンボを、補助坑では、当時最大級の空圧ドリフターを搭載した4ブームガントリージャンボを使用して硬岩に挑んだ。しかし、坑口から4,500m入った所で激しい山ハネ{}に遭遇し、鏡打ちロックボルトと鋼製支保工を併用して、これを克服した。補助坑は56年2月、本坑は57年2月に貫通し、引き続き二次覆工や立坑、地下換気所等の工事が60年9月まで続いた。そして60年10月、東京~新潟間の供用が開始された。

日本海側の発展と内陸沿線地域の開発を誘導するうえで大きな役割を担ったこの関越自動車道であったが、当初月夜野~湯沢間21.8㎞が暫定2車線で供用されていたため、関越トンネルを中心にしばしば渋滞が発生した。そこで、未着工の関越トンネル上り線が61年6月、南側と北側の2工区に分けて発注され、南側3社(当社・清水建設・飛島建設)JVと北側3社JVで、やはり同時に着工した。

当社(幹事会社)JVが担当する水上側工区は、本坑延長5,530m、集塵室2カ所、避難連絡坑8本などであり、トンネル掘削土量は48万3,000㎥であった。

当トンネル工事は、最新鋭の大型機械を導入し、全断面NATMで月進200mを目標として計画、4年半かかった下り線本坑工事に対し、約3年と工期を大幅に短縮した。こうして予定より6カ月早く平成2年8月工事は完成した。この間、労働延時間126万時間の無事故無災害記録を樹立し、平成2年労働大臣優良賞はじめ数々の表彰を受けた。請負金は下り線湯沢側工区が78億1,001万円、上り線水上側工区が42億5,671万円で、所長はいずれも宮本英朗であった。

注 山ハネ:硬い岩盤を掘削すると付近の応力状況の急変によって岩石がはねるように飛び出してくる現象。

関越自動車道関越トンネル ・下り線湯沢側工区(JV)
<新潟県>昭和60年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 トンネル(本坑)延長5,642m、トンネル(補助坑)延長6,180m、換気立坑(直径10m、高さ194m)、集塵室4カ所、地下換気所1カ所、掘削土量70万㎥、明かり工事約2㎞(切盛土量11万2,200㎥、橋梁下部工3基)
・上り線水上側工区(JV)
<群馬県>平成2年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 トンネル(本坑)延長5,530m、集塵室2カ所、連絡坑8本、給排気坑各1カ所、非常駐車帯8カ所、明かり工事750m、掘削土量48万3,000㎥
(左写真が上り線水上側工区坑口、左下写真が下り線湯沢側工区)
関越自動車道関越トンネル ・下り線湯沢側工区(JV)
<新潟県>昭和60年9月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 トンネル(本坑)延長5,642m、トンネル(補助坑)延長6,180m、換気立坑(直径10m、高さ194m)、集塵室4カ所、地下換気所1カ所、掘削土量70万㎥、明かり工事約2㎞(切盛土量11万2,200㎥、橋梁下部工3基)
・上り線水上側工区(JV)
<群馬県>平成2年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 トンネル(本坑)延長5,530m、集塵室2カ所、連絡坑8本、給排気坑各1カ所、非常駐車帯8カ所、明かり工事750m、掘削土量48万3,000㎥
(左写真が上り線水上側工区坑口、左下写真が下り線湯沢側工区)

シールド・TBM技術の普及と発展

都市トンネルの施工法として、いまや欠かせない一般技術となっているシールド工法は、導入以来、わが国でその技術の改善・開発はめざましかった。とくに昭和50年代に開発・導入された泥水式や土圧式など機械式シールドは、50年代も後半に入るとシールド工事の主流を占めるようになった。また、シールド工法の適用範囲も大きく広がり、需要が増大した下水道工事をはじめ、各種用途の都市トンネルで多用された。地下鉄でのシールド技術については別項で述べているが、以下は当社が55年(1980)~61年に施工した下水道での代表的なシールド工事である。

<東京>

本田幹線(その5)ほか、梅田幹線(その2)ほか、柴又幹線ならびに東南幹線その2、江戸川幹線その5ほか、葛飾区青戸5・6丁目枝線、中川汚水幹線(その3)、大島幹線その5(JV)(以上東京都下水道局発注)、建設省南千住共同溝(その4)ほか(JV)

<大阪>

大阪市天王寺~弁天幹線下水管渠(第3工区)、八尾市公共下水道管渠(第1工区)、大阪市平野川水系街路下調節池(JV)、大阪市三軒家~千島第2幹線下水管渠(その2)ほか

<神奈川>

横浜市金沢処理区中原~富岡幹線、相模原市新磯野都市下水路、川崎市多摩下水幹線(その12)、横浜市北部処理区市場~末広町幹線(その3)(JV)

<兵庫>

兵庫県武庫川(下流)流域下水道左岸第2幹線、兵庫県揖保川幹線管渠塩浜工区、神戸市新生田汚水幹線(その1)一次覆工ほか

<その他>

千葉県江戸川左岸流域下水道管渠(304工区)、京都市鳥羽第2導水渠(その11)、阿武隈川下流流域下水道阿武隈川幹線管渠、札幌市創成川処理区下水道(JV)、広島市庚午排水区庚午1号幹線下水道(その1)、静岡県西遠流域下水道西遠処理区(馬込幹線)第4工区、北海道開発局函館空港志海苔川水路その1(JV)、サンフランシスコ市下水道N1・N2工区(JV)、ウルパンダン下水管渠(シンガポール)

こうしたなかで、世界最大径の泥水加圧式シールドとして注目を集めたのが、大阪市平野川水系街路下調節池(JV)であった。

下水道のほかには、このころ急激な都市での電力需要やガス需要に対応して建設されていた高圧管路のうち、河底をくぐるLNG管路の大阪ガス堺~北港連絡管(安治川シールド工事)(54年12月竣工)や東京電力京浜潮田線管路第8工区(57年9月竣工)、同・城東日本橋線管路(第8工区)(JV)(58年6月竣工)も代表的なシールド工事であった。また、中部電力川越火力発電所ガス導管用トンネル(JV)は当時世界最長の海底泥水式シールドで、大阪市平野川水系街路下調節池工事とともにシールド工法技術の発展に大きな貢献をしたといえよう。さらに平成元年9月には大阪ガスで、海面下38m(日本最深級)で延長1.1㎞の浜寺シールド(天然ガスパイプライン)が完成した。

一方、中小水力発電所の導水路工事で注目を浴び始めたTBM(トンネルボーリングマシン)工法は、60年代に入り、わが国特有の複雑な地質に対応できるように改良が進み、下水道工事で多く使用され始めた。当社が最初にTBMを導入した神戸市山田汚水幹線は日本最初の流体輸送式TBMで、掘削とズリ輸送が同時にまた連続的に行えるものであった。山田汚水幹線(掘削径2m、延長3,342m)は59年4月発進し、61年8月完成したが、TBM工法はその後平成4年末までに神戸市有馬汚水幹線、住宅・都市整備公団名塩地区公共下水道塩瀬幹線(JV)、神戸市有野汚水幹線(その4)などを含む27件の実績を積んできた。

大阪ガス堺~北港連絡管(安治川シールド工事)
<大阪府>昭和54年12月竣工
発注 大阪ガス
設計 当社
大阪ガス堺~北港連絡管(安治川シールド工事)
<大阪府>昭和54年12月竣工
発注 大阪ガス
設計 当社
神戸市山田汚水幹線
<兵庫県>昭和61年8月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
(写真は当工事に使用したTBM)
神戸市山田汚水幹線
<兵庫県>昭和61年8月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
(写真は当工事に使用したTBM)
東京都下水道柴又幹線ならびに東南幹線その2
<東京都>昭和58年3月竣工
発注 東京都
設計 東京都
(写真は工事中)
東京都下水道柴又幹線ならびに東南幹線その2
<東京都>昭和58年3月竣工
発注 東京都
設計 東京都
(写真は工事中)

大阪市平野川水系街路下調節池(JV)

当工事は、大雨のときに下水道を通じて河川へ放流される雨水の一部を一時貯留するため、都市計画道路予定地の地下に内径10m、延長1,273m、貯留容量10万㎥の地下トンネル式の洪水調節池と排水ポンプ設備などを建設し、将来延伸され大阪湾への放流路として利用されるものであった。

大阪市の東南部に位置する平野川流域は典型的な都市型水害の多発地帯で、昭和57年(1982)夏の台風とその影響による長雨では一帯は大洪水に見舞われ、陸の孤島と化した。このため緊急的な対策として当洪水調節池の建設がスタートし、施工は当社(幹事会社)と鉄建建設、不動建設の3社JV(発進立坑は当社・幹事会社と佐藤工業の2社JV)が担当し、57年3月から62年3月にかけて工事を行った。

トンネル築造位置は密集する家屋直下の地下20~30m、地下水も豊富で水圧も高いことから、工法は泥水加圧式シールド工法となり、しかもその外径は11.22mと世界最大径のものであった。ちなみに、当社の経験したこれまでの泥水加圧式シールドの最大径は8.0m弱で、切羽の面積は一挙に2倍を超えていた。

発進立坑を完了後、シールドは59年7月に発進、厳しい施工条件を克服して、トンネル全線を通じ地盤変状は皆無という完璧な成果で、予定どおり60年8月、到達立坑に達した。61年7月の大雨時には、計画どおり既設の下水道から貯留トンネルに雨水が流れ込み、付近の浸水被害は免れることができた。その後も数回トンネル内に雨水が貯留されており、洪水調節池としての効果を大いに発揮している。請負金は80億円、所長は田宮芳彦であった。なお、この平野川水系街路下調節池建設事業に対して61年度土木学会技術賞が授与され、同関西支部技術賞も同時に受賞した。

大阪市平野川水系街路下調節池(JV)
<大阪府>昭和62年3月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 延長1,273m、掘削土量14万6,000㎥、シールド工事(泥水加圧式シールド工法、外径1万1,220㎜、仕上り内径1万㎜)、雨水貯留容量10万㎥
(左下写真は当工事に使用したシールド機)
大阪市平野川水系街路下調節池(JV)
<大阪府>昭和62年3月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 延長1,273m、掘削土量14万6,000㎥、シールド工事(泥水加圧式シールド工法、外径1万1,220㎜、仕上り内径1万㎜)、雨水貯留容量10万㎥
(左下写真は当工事に使用したシールド機)

サンフランシスコ市下水道N1・N2工区(JV)

わが国の建設会社による米国での初の公共工事となったサンフランシスコ市下水道工事を当社が受注したのは1979年(昭和54)8月のことであった。工区はN1工区とN2工区で、当社は大林アメリカとのJVで施工に当たった。

N1工区はサンフランシスコ市北端をサンフランシスコ湾に沿って東西に約1,300m掘り抜くトンネル工事で、掘削機にはロードヘッダ搭載の半機械式シールド機(マシン外径3.67m)を日本から輸入して使用した。日本製のシールド機械を使用したことや、一次覆工にリブアンドラッギング工法{}を採用したこと、二次覆工にテレスコピック型の型枠を使用して長スパン打設を行ったことなどが、その施工の特徴であった。リブアンドラッギング工法やテレスコピック型枠は米国では一般的なものながら日本ではその施工例は少なく、当社においても本格的な施工はこの工事が最初であった。

N2工区はN1工区の終点より東へ約1㎞のトンネル工事であり、サンフランシスコ地震で大被害を受けたマリナ地区からフィッシャーマンズワーフの中をシールド(マシン外径3.7m)で掘り進んだ。ルートは海を埋め立てて造られた道路下であり、トンネル延長全域にわたって軟弱地盤であったため、米国初の土圧式シールド工法を採用した。当工事では、地表面沈下の規制、ディープウェルなどによる強制排水の禁止、また道路下には埋立て時にそのまま残された旧桟橋があったり、鉄道とクロスする場所があることなど、悪条件が重なっていた。そのため、使用機械から施工に至るまで綿密に事前の計画を立て、これを施工に反映したことから、地山の崩壊、地下水の流入などのトラブルもなく、旧桟橋の木杭約100本も計画どおり無事切断した。地表面沈下も規制値内におさまり、トンネル掘削の工期を大幅に短縮して米国初の土圧式シールドは無事貫通した。請負金は2,024万4,897ドル(邦貨約45億5,836万円)、所長は殿田 要であった。

この工事を含めたサンフランシスコ市浄水計画で当社はW1工区(開削工法)、ウエストサイドポンプ場(開削工法)、サウスウエストオーシャンアウトフォールと相次いで工事を行い、さらにこの工事を足がかりとして米国での公共土木工事を平成4年10月現在まで25件近く施工している。

注 リブアンドラッギング工法:シールド工法で使用するセグメントの代わりに鋼製支保工(H型鋼)と角材を使用するもので、シールド機内で支保工と角材を組み立て、それに反力をとりシールド機を推進させる。支保工がシールド機から後方に押し出された時点でジャッキで地山に密着するまで拡張し固定させる工法。

サンフランシスコ市下水道N1・N2工区(JV)
<米国・カリフォルニア州>1982年3月竣工
発注 サンフランシスコ市
設計 サンフランシスコ市
工事概要 N1工区/延長1,345m、掘削土量1万3,500㎥、コンクリート量4,200㎥、シールド工事(ロードヘッダ搭載シールド工法、仕上り内径2,740㎜)
N2工区/延長1,040m、掘削土量1万700㎥、コンクリート量4,800㎥、シールド工事(土圧式シールド工法、仕上り内径2,740㎜)
サンフランシスコ市下水道N1・N2工区(JV)
<米国・カリフォルニア州>1982年3月竣工
発注 サンフランシスコ市
設計 サンフランシスコ市
工事概要 N1工区/延長1,345m、掘削土量1万3,500㎥、コンクリート量4,200㎥、シールド工事(ロードヘッダ搭載シールド工法、仕上り内径2,740㎜)
N2工区/延長1,040m、掘削土量1万700㎥、コンクリート量4,800㎥、シールド工事(土圧式シールド工法、仕上り内径2,740㎜)

中部電力川越火力発電所ガス導管用トンネル(JV)

中部電力は、平成元年運転開始に向けて建設を進めていた川越火力発電所(他社施工)に対し、四日市LNG基地から燃料ガスを供給するため、両地点を結ぶトンネルを海底に設置し、ガス導管を敷設する計画に着手、当社はこのトンネルを泥水加圧式シールド工法で施工した。全長3,685m、シールドマシン(外径4.2m)は川越側と四日市側の両立坑から各々昭和60年(1985)5月および61年11月に発進し、海底下12~13mを掘り進み、四日市側から1,235m地点で両機は海底ドッキングした。当シールドは世界最長の海底泥水加圧式シールドであった。

工事にあたっては、自動裏込め注入、シールド姿勢制御などコンピュータを利用したトータル施工管理システムを実施、また海底ドッキングには凍結工法{}を併用し、さらに当社が開発したシールド位置検出技術を初めて工事に適用し、双方のシールドはほとんど誤差を生じずにドッキングに成功した。シールド位置検出技術は、従来から地中ドッキングの際に用いていた地上や海上からのチェックボーリング方法と異なり、一方のシールドから水平ボーリングを行い、接近距離測定用センサーや磁気センサー、レーザー光による偏位測定装置などを駆使して位置関係を検出する方法で、2年の開発期間を経て当工事に実用化したものであった。

立坑着手以来5年、63年4月に完成、施工は当社(幹事会社)、飛島建設、熊谷組、鉄建建設の4社JVが担当し、請負金は立坑工事を含めて23億3,876万円、所長は吉尾一志から卯城哲也に引き継がれた。

注 凍結工法:地盤中に含有している水を凍結させ、湧水を止め地盤強化を図る工法。掘削に先立って地山の中に凍結管を設置し、ブラインと呼ばれる冷凍液を循環させて凍結させる。地下水位の高い軟弱地盤、川や海の下を掘るときに用いられる。

中部電力川越火力発電所ガス導管用トンネル(JV)
<三重県>昭和63年4月竣工
発注 中部電力
設計 中部電力、大林・飛鳥・熊谷・鉄建川越シールド共同設計室
工事概要 延長3,685m、シールド工事(泥水加圧式シールド工法、マシン2機、外径4,200㎜、仕上り内径3,200㎜)、地中接合凍結工事(凍土造成工407㎥、凍結管延長108mほか)
(左写真の点線の通り、海底シールドトンネルが築造された。手前が四日市LNG基地、向こう側が川越火力発電所で、●印が地中接合地点)
中部電力川越火力発電所ガス導管用トンネル(JV)
<三重県>昭和63年4月竣工
発注 中部電力
設計 中部電力、大林・飛鳥・熊谷・鉄建川越シールド共同設計室
工事概要 延長3,685m、シールド工事(泥水加圧式シールド工法、マシン2機、外径4,200㎜、仕上り内径3,200㎜)、地中接合凍結工事(凍土造成工407㎥、凍結管延長108mほか)
(左写真の点線の通り、海底シールドトンネルが築造された。手前が四日市LNG基地、向こう側が川越火力発電所で、●印が地中接合地点)

難条件に挑む地下鉄工事

昭和55年(1980)6月現在、地下鉄は全国6都市25路線355.2㎞が営業しており、1日平均842万人の足となっていた。

このころの地下鉄工事では、難条件のもとでさまざまなシールド技術が駆使されたのが特徴であった。地下鉄工事でシールドが急速に普及したのは40年代に入ってからであるが、この時期には、急カーブを掘進しなくてはならなかったり、近接する2本の円形トンネルを横穴で結んだ駅シールド(別名メガネ型シールド駅)が導入されたり、さらには、このころ普及してきた土圧式や泥水式など最新のシールド技術を使っての工事が相次いだ。

56年に京都、57年に福岡、62年には仙台に初めて地下鉄が登場したが、首都圏では都営12号線が61年着手され、都営10号線(新宿線)は平成元年には千葉県本八幡まで開通、将来埼玉方面へ伸びる営団7号線(南北線)は60年に着手された。この時期の当社施工の代表的な地下鉄工事は以下のとおりである。

こうしたなか、大阪では御堂筋線の乗降客増加に対応して主要な駅で拡張工事が相次いだが、当社が担当したのは、このうち淀屋橋駅、難波駅、梅田駅で、いずれもマンモス駅での難しい改良工事であった。

●55年11月~63年に竣工した当社施工の代表的な地下鉄工事

<東京>

営団8号線(有楽町線)成増駅、営団8号線西池袋第3工区、営団11号線(半蔵門線)神保町第2工区、都営10号線(新宿線)西瑞江第2工区(瑞江駅)(JV)、営団8号線豊洲第3工区(豊洲駅)

<大阪>

2号線(谷町線)阿倍野停留場、1号線(御堂筋線)淀屋橋停留場改造、1号線北花田停留場(第1工区)、1号線難波停留場改造、1号線梅田停留場改造(平成2年竣工)

<札幌>

東西線ひばりが丘駅(JV)、東豊線栄町駅(JV)

<仙台>

南北線愛宕橋工区及び愛宕橋駅舎(JV)

<横浜>

3号線松ケ丘工区(第9工区)(JV)

<名古屋>

3号線(鶴舞線)六句町工区(JV)、6号線(桜通線)泉工区(JV)

<神戸>

三宮停留場及び地下線路(24工区)

<京都>

烏丸線鴨川工区(JV)

<福岡>

2号線東公園工区(JV)

都営地下鉄10号線(新宿線)西瑞江第2工区(瑞江駅)(JV)
<東京都>昭和61年7月竣工
発注 東京都
設計 東京都
都営地下鉄10号線(新宿線)西瑞江第2工区(瑞江駅)(JV)
<東京都>昭和61年7月竣工
発注 東京都
設計 東京都
営団地下鉄8号線(有楽町線)豊洲第3工区(豊洲駅)
<東京都>昭和63年4月竣工
発注 帝都高速度交通営団
設計 帝都高速度交通営団
営団地下鉄8号線(有楽町線)豊洲第3工区(豊洲駅)
<東京都>昭和63年4月竣工
発注 帝都高速度交通営団
設計 帝都高速度交通営団
神戸地下鉄三宮停留場及び地下線路(24工区)
<兵庫県>昭和60年4月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
神戸地下鉄三宮停留場及び地下線路(24工区)
<兵庫県>昭和60年4月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
仙台地下鉄南北線愛宕橋工区及び愛宕橋駅舎(JV)
<宮城県>昭和62年2月竣工
発注 仙台市
設計 仙台市
仙台地下鉄南北線愛宕橋工区及び愛宕橋駅舎(JV)
<宮城県>昭和62年2月竣工
発注 仙台市
設計 仙台市
京都地下鉄烏丸線鴨川工区(JV)
<京都府>昭和61年7月竣工
発注 京都市
設計 京都市
京都地下鉄烏丸線鴨川工区(JV)
<京都府>昭和61年7月竣工
発注 京都市
設計 京都市

大阪地下鉄2号線(谷町線)阿倍野停留場

市東南部に向け天王寺から八尾南までの谷町線10.5㎞の延伸工事のうち、当工区は天王寺ターミナルから580mの工区である。南海電鉄上町線が走っている道路下を外径8.24mのシールドマシン2機で掘進し、続いてこの2本のシールド間を切り広げて160mのプラットホームを築造するというもので、大阪の地下鉄では初めての「メガネ型シールド駅」と呼ばれるものであった。

シールド真上には路面電車が走り、両側には繁華街が立ち並ぶという厳しい施工条件下で、しかも発進直後に半径150mの急曲線があり、到達部では超接近掘進もある難工事であった。このように高精度の掘進が要求されたため、シールドマシンの掘削位置等が自動的に把握できるよう、ジャイロコンパスとコンピュータを組み合わせた姿勢計測装置を考案した。

圧気下での切広げ工事は、シールド掘削工事と同時に進めたため作業が輻輳し、相互の調整には容易ならざる苦労があった。この工事は、シールド通過後、カンザシ桁というH型鋼で両トンネル間の上部をつなぎ、さらに薬液注入で上部を補強したあと両トンネル間を切り広げ掘削し、プラットホームを構築するものであった。地下鉄のコンコースとなる中階は地上からの開削工法で施工し、また、この中階とプラットホームをつなぐ階段部はトレンチ工法で施工した。このように高度な技術を駆使して、未経験な難工事を一つずつ乗り越え、6年半の工事は無事故で完成し、55年労働大臣優良賞を受賞した。

その後、駅仕上げの建築工事が昭和55年(1980)11月まで続いた。請負金は土木工事が79億9,124万円、建築仕上げ工事が10億3,200万円で、所長は土木工事が中店輝邦から安間泰介に引き継がれ、建築工事は大塚 勇であった。

大阪地下鉄2号線(谷町線)阿倍野停留場
<大阪府>昭和55年11月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 メガネ型シールド駅 シールド工事/半機械式オープンタイプシールド工法、マシン2機、外径8,240㎜、トンネル延長582m×2本、掘削土量6万3,000㎥ 切広げ工事およびトレンチ工事/ホーム延長160m、掘削土量4,500㎥、カンザシ桁159本 開削工事/掘削土量1万8,140㎥、鋼杭368本、出入口5カ所ほか
大阪地下鉄2号線(谷町線)阿倍野停留場
<大阪府>昭和55年11月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 メガネ型シールド駅 シールド工事/半機械式オープンタイプシールド工法、マシン2機、外径8,240㎜、トンネル延長582m×2本、掘削土量6万3,000㎥ 切広げ工事およびトレンチ工事/ホーム延長160m、掘削土量4,500㎥、カンザシ桁159本 開削工事/掘削土量1万8,140㎥、鋼杭368本、出入口5カ所ほか

名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)六句町工区(JV)

名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)浄心~伏見間延長工事のうち、当工区は延長約1㎞(上り線966m、下り線915m)で掘削外径は7.45m、当社と西松建設のJVが担当した。当工事では、日本初の地下鉄単線断面の大断面土圧バランス式シールド{注1}を採用したが、「当初は施工資料がなく、理論上のデータを頼りに手探りのような状態でマシンを進めなくてはならず、まるで施工の教科書を1ページ1ページ書いていくようでした」と、所長は当時を振り返って語っている。最初の上り線の施工ではしばしば土砂が詰まってマシンが動かなくなったり、またマシンに不慣れなため面板の周辺部の摩耗を予想以上に激しくしてしまったが、下り線の施工ではこの経験を生かして順調に工事は進み、着工以来3年後に上下線とも貫通した。

一方、シールド部分のほかに駅部として57.5mの開削工法区間があった。この区間の立坑部掘削中に掘削底面でボイリング現象{注2}が発生し、工事は3カ月の遅れとなったが、シールドの二次覆工で2カ所同時にコンクリートを打設するなどの工夫をして昭和56年(1981)6月工事はすべて完成した。請負金は27億9,738万円、所長は田中 望であった。

注1 土圧バランス式シールド:回転カッターで切削した土砂をチャンバおよびスクリューコンベアに充満し、これによって切羽の安定・止水性を保ちながら掘進する工法。

注2 ボイリング現象:掘削中の足元から土砂混じりの水が噴き上げる現象のこと。

名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)六句町工区(JV)
<愛知県>昭和56年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市
工事概要 単線並列型円型隧道 シールド工事/土圧バランス式シールド工法、外径7,450㎜、仕上り内径6,100㎜、延長1,881m(上り線966m、下り線915m)、掘削土量8万2,000㎥
開削工事/延長114m(相対式駅部延長57.5m、単線箱型隧道部延長56.5m)、掘削土量4万3,000㎥
名古屋地下鉄3号線(鶴舞線)六句町工区(JV)
<愛知県>昭和56年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市
工事概要 単線並列型円型隧道 シールド工事/土圧バランス式シールド工法、外径7,450㎜、仕上り内径6,100㎜、延長1,881m(上り線966m、下り線915m)、掘削土量8万2,000㎥
開削工事/延長114m(相対式駅部延長57.5m、単線箱型隧道部延長56.5m)、掘削土量4万3,000㎥

大阪地下鉄1号線(御堂筋線)梅田停留場改造

梅田停留場は昭和5年(1930)工事に着手したが、地盤が極端に悪く計画を大幅に縮小して幅9mの島式ホーム1面の駅として13年にやっと完成をみたのであった。以来約半世紀を経て、1日の乗降客が50万人を超す国内最大の地下鉄駅となり、朝夕は慢性的な改札制限を余儀なくされ、早急な改善が求められていた。大改造工事は58年3月に着手し、延長461mの地下鉄新線と幅13mの2面のホームを築造することとなった。こうして当初一部築造されながら完成に至らなかった、いわゆる幻のトンネル70mも活用され、50年ぶりに日の目を見ることとなった。

大阪の表玄関・国鉄大阪駅前での当工事は当社にとって看板工事であったが、地下鉄乗降客、一般通行人、鉄道営業線、国道の通行、営業中の百貨店やホテルなど、工事に困難な要因は山ほどあった。一方、工法的には、地下に大構造物を造るため、地下の広場、地下通路や駅中階部などの既設構造物と国鉄東海道線・環状線を支えるアンダーピニング工法、工事に支障になったり不要となる地下構造物の撤去の方法に新しい技術の開発が必要であった。

このうち、アンダーピニングの仮受け杭として開発した「複合摩擦杭工法」(特許登録済)は、超高圧注入により粘土層中に造成した直径約2mのソイルセメント杭に、特殊加工を施したH鋼を挿入して構造物を支持しようとするものである。大阪大学の協力を得て実用化に成功したこの工法は、粘土層中に荷重を分散し支持するため、複雑な地盤の動きに自然に追従するほか、地下水対策、盤膨れ対策上、従来の支持杭にない多くの長所をもっている。複合摩擦杭工法はこの工事の代名詞となり、既設構造物の計測管理とともに学会誌、技術誌に多く紹介され、さらに平成元年度土木学会関西支部技術賞も受賞した。

こうして元年11月5日早朝、南行き軌道の切替えを最後の山場に、当初の予定工期を短縮して7年半の長期にわたった工事は2年12月完了をみた。請負金は土木工事が89億5,764万円、建築仕上げ工事が60億2,886万円、所長は土木工事が木村悌士から岡 修一に引き継がれ、建築工事は大塚 勇であった。

大阪地下鉄1号線(御堂筋線)梅田停留場改造
<大阪府>平成2年12月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 土木工事/駅改造、延長460.5m、掘削土量4万4,200㎥、路面覆工5,800㎡、躯体コンクリート工1万2,000㎥、既設構造物撤去工4,200㎥ 建築工事/プラットホーム新設200m(延7,000㎡)、プラットホーム改造200m(延1万1,000㎡)
大阪地下鉄1号線(御堂筋線)梅田停留場改造
<大阪府>平成2年12月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
工事概要 土木工事/駅改造、延長460.5m、掘削土量4万4,200㎥、路面覆工5,800㎡、躯体コンクリート工1万2,000㎥、既設構造物撤去工4,200㎥ 建築工事/プラットホーム新設200m(延7,000㎡)、プラットホーム改造200m(延1万1,000㎡)

山岳トンネルの新たな施工技術

NATMの登場と発展

昭和30年代以降、従来の木製支保工に代わって鋼製支保工が普及し、大型機械による機械化施工法が実現され、在来の人力作業を主体とした山岳トンネル工法を一変させた。この鋼製支保工と機械化施工を組み合わせた施工法の出現により、大断面・長大トンネル工事の施工性、安全性は著しく向上した。

さらに40年代に入って、「地山自身が保有する支保能力を利用して地山応力に対抗させる」という理論に立脚し、ロックボルトと吹付けコンクリートを主体とした新しい支保工法NATM(New Austrian Tunnelling Method)がヨーロッパから紹介され、研究開発が進められた。その後、岩盤力学の発展とコンピュータおよび各種センサーを駆使した計測・解析など周辺技術の進歩と相まってNATMは本格的な発展をみた。このNATMの実用化に伴い、トンネル工事の品質、安全性および経済性は大きく向上し、従来施工が困難視されていた地質での施工にも効果をもたらし、50年代末以降NATMは山岳トンネルの標準工法として定着するに至った。

当社でのNATM施工実績はすでに60件を超えているが、その端緒は山陽新幹線関門隧道奥田工区で実験的に施工したコンクリート吹付け工法であった。しかしNATMを本格的に導入したのは50年代に入ってからで、以下に述べる工事はNATM実用化段階における当社の代表的な事例である。このほかに初の砂山でのNATMであった成田新幹線取香トンネル(58年3月竣工)、掘削断面329㎡という大断面の日本地下石油備蓄串木野基地(JV)(平成3年5月竣工)など、様々な地盤や条件下での豊富な実績を積んでいる。

東北自動車道折爪トンネル東工区(JV)

当工事は、東北自動車道八戸線(安代~八戸間)の一環をなす全長2.3㎞のトンネル施工を主体とするもので、このうち当社と熊谷組のJVは東工区を上下線分担施工で担当した(当社は下り線のトンネル1,209m)。

昭和55年(1980)10月から坑口部より54mをサイロット工法で施工し、その後を底設導坑先進上部半断面工法によって掘削を進めたが、導坑を掘り進めていくうちに徐々に地山の膨張、押出しが始まり、天板の折損、支保工の変状、盤膨れなどが起こった。さまざまな施策を講じてもなお地山は悪化する一方で、切羽の自立性も悪化し、支保工の沈下も激しくなっていったため、坑口から176m地点で切羽をいったん停止するに至った。

57年1月下旬、3段ベンチ方式のNATMで工事を再開したが、地山はさらに悪化し、土被りの増加に伴いトンネルの変位量、変位速度が大きくなり、そのうえ、地層の影響により著しい偏圧が生じ、吹付けコンクリートの破壊も生じ始めた。1mに余る変形量、さらにはインバートコンクリートの破壊など想像を越える膨張性を示し、57年9月より一部ないし全断面の縫返し{}を93mにわたり6カ月かけて行わなくてはならなかった。

ここに至って折爪トンネルの膨張性は日本において有数のものであると全国のトンネル技術者の注目を浴び、当社の技術力が問われることとなった。

検討の結果、上半部に円形導坑を先進し、導坑によって切羽の自立性の確保、地質の確認、地山応力の軽減を図り、200Hの鋼製支保工と9mのロックボルトを併用するNATMにより変位を抑制し地山を安定に導く方法で工事を再開した。こうして58年12月にはこの450mにわたる超膨張性地山区間を突破し、59年10月、上り線より3カ月先がけて貫通を迎えた。再開からじつに2年に及ぶ苦闘であった。「工事は苦しいものでしたが、その過程を通じて、当社は超膨張性地山における施工方法、出水を伴う中硬岩トンネルでのNATMの施工法の両方について、一つの手法を確立することができたと思います」と所長は後に語っている。請負金は42億5,416万円、所長は諸治克郎であった。

注 縫返し:トンネル掘削後、地山の変状が大きく正規の断面をおかしてしまったとき、元の断面まで再び掘削し直すこと。

東北自動車道折爪トンネル東工区(JV)
<岩手県>昭和60年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 延長1,209m(在来工法176m、NATM1,033m)、掘削土量11万㎥、コンクリート量1万8,344㎥、ロックボルト3万5,700本
東北自動車道折爪トンネル東工区(JV)
<岩手県>昭和60年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 延長1,209m(在来工法176m、NATM1,033m)、掘削土量11万㎥、コンクリート量1万8,344㎥、ロックボルト3万5,700本

東大阪生駒電鉄東大阪線生駒トンネル(中工区他)

東大阪生駒電鉄東大阪線は、奈良県北部から大阪都心部へ向かう輸送力の増強と東大阪市、生駒市など沿線地域の開発に寄与するために計画された、長田~生駒間10.3㎞の路線で、開通後は大阪地下鉄4号線(大阪港~長田間15.5㎞)の乗入れが実現した。

生駒トンネルは、生駒山を東西に貫く延長4.74㎞の複線トンネルである。すでに生駒山には旧生駒トンネルと近鉄奈良線新生駒トンネルが大正3年(1914)および昭和39年にそれぞれ当社によってつくられ、とくに前者はまさしく当時のわが社の社運をかけた難工事であった。新トンネルは3工区に分け、当社が中工区を、大成建設が西工区を、鹿島・大日本・森本JVが東工区をそれぞれ担当した。なお、当社は同線で当トンネルのほかに第3工区(荒本駅)(JV)も担当した。

当社が受けもつ中工区1.6㎞は、現在使用されていない旧生駒トンネルの途中から50m下まで斜坑で下り、その地点から大阪・奈良側双方へNATMで掘り進む方法をとった。当工法はいまでこそトンネル工事の主流となっているが、着工当時の57年では関西で当社初、全社的に見ても経験が少なかった。いろいろな機械・工法を次から次へと導入し、たとえば旧トンネル拡幅には米国製ロードヘッダMRH-S125、穿孔作業に油圧ジャンボHD-50とHD-100、コンクリート吹付けは当社初のSEC工法など、現場員はみな初めて扱うものばかりであった。

切羽の凹凸を最小限にするため、本坑の掘削が150mほど進んだころコンピュータ搭載の全自動式油圧ジャンボも導入した。これは、地山に即した発破パターンをコンピュータに記憶させ最適の掘削ができるという機械であった。こうして当工事はトンネル施工のいろいろな面における大型機械化、機動性向上、コンピュータ制御化の当社での先鞭をつけた。

順調に進んだ工事であったが、当社工区掘削完了まぎわに隣接工区において地表陥没事故が発生したため、当社は急遽大阪方へ480m応援し、当社工区は最終的には2,080mとなった。60年1月、トンネルは貫通し、翌61年10月に営業運転が始められた。請負金は81億96万円、所長は石澤 宏であった。なお、当工事は約100万時間無事故無災害で62年労働大臣優良賞を受けた。

東大阪生駒電鉄東大阪線生駒トンネル(中工区他)
<大阪府>昭和61年3月竣工
発注 東大阪生駒電鉄
設計 東大阪生駒電鉄
工事概要 NATM、幅8.2m×高さ6.85m×長さ2,080m、掘削土量/(本坑)12万7,000㎥、(斜坑)1万3,000㎥
東大阪生駒電鉄東大阪線生駒トンネル(中工区他)
<大阪府>昭和61年3月竣工
発注 東大阪生駒電鉄
設計 東大阪生駒電鉄
工事概要 NATM、幅8.2m×高さ6.85m×長さ2,080m、掘削土量/(本坑)12万7,000㎥、(斜坑)1万3,000㎥

世紀の巨大プロジェクト

青函トンネル

青函トンネルは昭和21年(1946)の調査開始以来約40年、39年の調査斜坑の掘削開始から約20年を経て、60年本坑が貫通し、本州と北海道は陸続きとなった。その建設は、幅23㎞、水深100m以上の津軽海峡の海底下を横断するもので、海底トンネルとしては世界最長、工事はそれまで経験しなかった規模と施工条件への挑戦であった。

ルートは、本州側・津軽半島竜飛崎と北海道側・松前半島吉岡を結び、計画路線における海峡中央部の最大水深は140m、トンネルの深さは海底面からさらに100mの土被りをとった位置で、トンネル全延長は53.85㎞である。

工事は、本トンネルを直接掘るのではなく、水先案内人の役割を果たす小断面の豆トンネルを先行掘進する方法が採用された。まず先進導坑を掘り、地質の調査と施工技術の開発を図り、次いで作業坑を掘進し、地質、湧水の精査、湧水処理、連絡横坑による本坑掘削切羽の増設などを行い、その後本坑を施工する三段構えの方式であった。

斜坑・先進導坑(水平調査坑)などは公団直轄で、本坑(海底部作業坑を含む)は請負工事であり、海底部を2工区、陸上部を7工区に分け、このうち当社工区は北海道側の陸上部6.4㎞の三岳工事(JV)であった。

開通は63年3月13日、総工費(青函トンネル部分のみ)5,384億円、延1,390万人の手による世紀の大事業はここに完了したのである。

青函隧道(三岳)工事(JV)

当社(幹事会社)と清水建設のJVが当工事に着手したのは昭和48年(1973)2月であった。当工区はトンネル起点(本州浜名)より42.5㎞地点から48.9㎞までの6.4㎞の間で、両者の工事分担は、当社が本坑3,290m、斜坑442m、水平坑182m、連絡坑112m、ポンプ室一式で、清水建設は本坑の3,110mと作業坑の89mであった。

最初の2年間は斜坑掘削とその他坑底設備を施工し、続いて側壁導坑先進工法で本坑掘削を開始したが、途中、破砕帯、断層、膨張性地質、メタンガスの湧出等の対策のためトンネル支保工の補強、施工法の変更等を余儀なくされた。

本坑に着手して間もない場所で遭遇した膨張性地盤(約120m)に対しては、根固めコンクリート、木製支保工による補強、縫返し、一次巻コンクリートで突破、2,000m掘り進んだ地点から予想された破砕帯には、先進ポーリングで地質を確認後、約670mをサイロット工法にするなどで対処した。

また、先進ボーリングが約140m進んだ地点で検知されたメタンガスにも万全の対策を講じるなどして工事を再開し、残り1,000mを無事掘り進んだ。

また、当工事では切削と同時に積込みができるオーストリア製の新鋭機アルピネマイナーAM-50(小型岩盤掘削機)などの活躍もあり、安全かつ省力化を大いに図った。貫通は53年10月、本工事竣工は56年1月であった。最終工期は8年、全請負金は75億2,241万円にのぼった。所長は村井喜一から大友 昭、扇 啓祐、野村雅明、松本 司と引き継がれた。

青函トンネル側面略図
青函トンネル側面略図
青函隧道(三岳)工事(JV)
<北海道>昭和56年1月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
工事概要 トンネル本坑3,290m、斜坑442m、水平坑182m、連絡坑112m、ポンプ室一式
青函隧道(三岳)工事(JV)
<北海道>昭和56年1月竣工
発注 日本鉄道建設公団
設計 日本鉄道建設公団
工事概要 トンネル本坑3,290m、斜坑442m、水平坑182m、連絡坑112m、ポンプ室一式

多様化・高度化するニーズに応える宅地開発

高度成長期に発生した地方から三大都市圏への大幅な人口流入は、昭和40年代後半から鈍化し、50年代前半には東京圏ではなお流入超過であったものの大阪圏および名古屋圏では流出超過で推移した。56年(1981)以降は、大阪圏および名古屋圏の人口吸収力が低迷を続けるなかで、東京圏のみ流入超過が徐々に増加している状況にあり、人口の東京圏への一極集中という構造が形成されつつあった。50年代後半から60年代に入ると、さらに情報、金融の各機能が東京圏に集中し、これが人口の東京圏への再集中の一因となった。これに伴い、都心部の地価は急騰し、住宅地の地価も大幅に上昇していった。

一方、宅地供給量は40年代から50年代前半にかけて大きく減少し、その後停滞状況で推移し、この傾向は60年代まで続いた。その原因は、供給側からすると、素地の取得が困難、宅地開発事業の採算見通しの悪化、そして宅地開発に慎重な地方公共団体の対応があげられる。

こうしたなか、所得の上昇、ライフスタイルの変化、経済・社会の進展などから多様化、高度化する宅地へのニーズが生まれ、宅地開発に際しては街づくりとしての機能の多様性が求められ、魅力ある個性を備えた街づくりの一環として宅地開発が行われることが望まれた。こうした要求に応え、当社も自社開発物件をはじめ多くの良質の宅地開発を手がけていった。

以下は50年代後半から60年代にかけての当社施工の代表的な宅地造成工事である。

<北海道>

恵庭新都市開発公社恵庭ニュータウン「恵み野」(JV)、高野観光開発SUNビレッジカムイ(旭川市)

<千葉>

佐倉市臼井生谷土地区画整理事業(臼井王子台)、印西町木下土地区画整理事業(オークきおろしヴィレッジ)

<東京>

三輪土地区画整理事業

<神奈川>

野村不動産本郷台住宅地Ⅱ・Ⅲ期、京浜急行電鉄釜利谷土地開発(能見台ニュータウン)、同・富岡京急ニュータウン(JV)

<静岡>

藤枝住宅開発第1工区(平成5年完成予定)

<岐阜>

洋伸不動産・地上社多治見ホワイトタウン(JV)

<京都>

共立殖産・伊藤忠不動産亀岡イトーピア

<奈良>

生駒北大和土地区画整理事業、近鉄不動産真弓住宅地(JV)

<大阪>

南海美加の台(JV)、殖産土地・東洋不動産高槻聖ケ丘団地(JV)

<兵庫>

星和住宅星和八多団地、住友不動産ニュー白川台団地、阪急電鉄西宮山口町宅地(阪急すみれ台)(JV)、大林川西開発鷹尾山けやき坂、星和地所西宮北六甲台第6工区、松下興産西宮北六甲台(JV)、新星和不動産北神星和台、神戸市都市整備公社北別府土地区画整理事業(JV)、住宅・都市整備公団小束山団地(JV)

<広島>

福山西部団地(明王台)(JV)、共立組三滝土地造成、五日市町倉重土地区画整理事業(JV)、近鉄廿日市ニュータウン四季が丘住宅地(JV)、栄泉不動産三原田野浦住宅地(みはら青葉台)

<山口>

林兼商会小京都ニュータウン

<香川>

新星和不動産綾歌ニュータウン(綾歌富士見坂)

<高知>

高知市横浜団地土地区画整理事業(横浜ニュータウン)(JV)

<長崎>

明豊開発・東亜地所三重ハイツ(長崎光風台ニュータウン)(JV)、くみあい不動産赤崎団地、山口組相浦ニュータウン

南海美加の台(JV)
<大阪府>昭和59年12月竣工(第1期) 昭和62年6月竣工(第2期)
発注 南海電気鉄道
設計 南海電気鉄道
南海美加の台(JV)
<大阪府>昭和59年12月竣工(第1期) 昭和62年6月竣工(第2期)
発注 南海電気鉄道
設計 南海電気鉄道
三輪土地区画整理事業
<東京都>昭和63年3月竣工
発注 三輪土地区画整理組合
設計 安井建築設計事務所
三輪土地区画整理事業
<東京都>昭和63年3月竣工
発注 三輪土地区画整理組合
設計 安井建築設計事務所
亀岡イトーピア
<京都府>昭和59年5月竣工
発注 共立殖産、伊藤忠不動産
設計 当社
亀岡イトーピア
<京都府>昭和59年5月竣工
発注 共立殖産、伊藤忠不動産
設計 当社
福山西部団地(明王台)(JV)
<広島県>平成元年5月竣工
発注 福山市西部土地区画整理組合
設計 大林組・日本国土開発・富士建設・福山西部団地共同企業体
福山西部団地(明王台)(JV)
<広島県>平成元年5月竣工
発注 福山市西部土地区画整理組合
設計 大林組・日本国土開発・富士建設・福山西部団地共同企業体
釜利谷土地開発(能見台ニュータウン)
<神奈川県>昭和60年3月竣工
発注 京浜急行電鉄
設計 京浜急行電鉄
釜利谷土地開発(能見台ニュータウン)
<神奈川県>昭和60年3月竣工
発注 京浜急行電鉄
設計 京浜急行電鉄
小京都ニュータウン
<山口県>昭和62年3月竣工
発注 林兼商会
設計 当社
小京都ニュータウン
<山口県>昭和62年3月竣工
発注 林兼商会
設計 当社

鷹尾山けやき坂

住宅地開発事業として当社が100%出資して設立した大林川西開発から発注された鷹尾山けやき坂造成工事は、昭和53年(1978)11月着工した(464ページ参照)。最終的な完成は平成7年12月の予定である。

造成計画では、土砂の搬出入は行わず切盛土量は計画地内でバランスさせ、計画地全体は東南向きに約7%の傾斜をもたせることで住環境の向上が図られていたため、地形上の制約から高盛土工事が生じた。その規模は切盛土量630万㎥、最大盛土高さ60m(平均盛土高さ12.5m)に達するものであった。こうしたなかで最大の問題は、安定した良質堅固な盛土地盤を短期間に施工することであり、当工事では前例をみない高盛土であったため、その施工については各方面から注目を浴びることとなった。そのため大がかりな試験盛土を実施し、現地の土砂に最も適する機械の種類、性能、施工方法等を検討し、アースダムの盛土工法を一部採用した。土の締固めには大型振動転圧機を使用し、施工管理にはラジオアイソトープ、航空測量等を採用し、迅速化と施工精度の向上を図った。また、盛土地盤を安定させるためにもさまざまな施策を施し、その品質向上に努めた。

平成4年3月末までで全体約1,380区画が完了し、約750世帯が新しい街で活動を始めている。4年3月末までの請負金は151億6,050万円、所長は吉竹伸治、井上英次郎、溝口 甫、岡崎 毅、大石保政と引き継がれている。

鷹尾山けやき坂
<兵庫県>継続工事(平成7年12月完成予定)
発注 大林川西開発
設計 当社
工事概要 開発面積131㏊、切盛土量630万㎥、計画戸数2,497戸
鷹尾山けやき坂
<兵庫県>継続工事(平成7年12月完成予定)
発注 大林川西開発
設計 当社
工事概要 開発面積131㏊、切盛土量630万㎥、計画戸数2,497戸

恵庭ニュータウン「恵み野」(JV)

当社も出資した第3セクター、恵庭新都市開発公社による恵庭ニュータウン「恵み野」(464ページ参照)では、昭和54年(1979)8月、第1期宅地造成工事に着手した。

総開発面積246㏊は休耕地として放置されていた水田地帯で、敷地の端から端まで2.5㎞ほどの距離があるフラットで広大な土地であった。

施工は当社(幹事会社)と竹中土木のJVが担当し、第1期造成は実質工期4カ月という厳しい条件のもと、55年6月末に第1工区26.7㏊(410区画)が完了した。この間、55年5月第1期販売が行われ、その後11期にわたる販売で平成2年度までに3,644区画を完売し、人口8,500人の新しい街が出現した。

恵庭ニュータウン「恵み野」は、21世紀のライフスタイルをテーマに、広域的な都市機能の充実と快適な住環境の整備を行うというコンセプトであったが、それを支え実現したのが生活軸としての「ライフベルト」と環境軸としての「パークベルト」であった。

ライフベルトでは、「恵み野」の玄関口JR恵み野駅をはじめ、商業、医療、公共、教育といった日常生活に欠かせない各種施設を機能的、計画的に配置している。また、パークベルトの代表となるのが、恵庭岳をもととする漁川の支流から清流を引いた幅30~150m、延長3.5㎞に及ぶ帯状公園で、この二大軸が街づくりの特徴となり、現在の「恵み野」の発展に大きく寄与している。

55年8月から平成2年10月までの請負金は37億5,908万円、所長は神田馨であった。なお、当事業は62年7月、質の高い街づくりを推進した建設事業関係優良団体として建設大臣賞を、平成2年には経済同友会の第5回美しい街づくり賞審査により経済同友会大賞を受賞、また63年4月には北海道まちづくり100選に選ばれている。

恵庭ニュータウン「恵み野」(JV)
<北海道>平成2年10月竣工
発注 恵庭新都市開発公社
設計 北海道開発コンサルタント
工事概要 開発面積246㏊、計画戸数1万5,000戸、道路面積53万6,500㎡、公園面積19万8,900㎡、切盛土工事一式、上下水道工事一式
恵庭ニュータウン「恵み野」(JV)
<北海道>平成2年10月竣工
発注 恵庭新都市開発公社
設計 北海道開発コンサルタント
工事概要 開発面積246㏊、計画戸数1万5,000戸、道路面積53万6,500㎡、公園面積19万8,900㎡、切盛土工事一式、上下水道工事一式

都市化の進展と水害防止

本格的な河川改修が始められた明治29年(1896)より現在まで、わが国は営々として、かつ精力的に治水事業を進めてきた。昭和35年に「治山治水緊急措置法」が制定され、平成3年までに7次にわたる治水事業5カ年計画が完了している。こうした国土保全施設の計画的な整備は、日本の経済成長の基盤を支えた一つでもあった。

しかし、いまだ水害は頻発し、たとえば戦後21年から54年までの水害被害額は約18兆円(50年価格)にのぼったと発表されている。これは、わが国の国土の約1割にすぎない河川の氾濫のおそれのある地域に人口の約5割、資産の約7割が集中しているからである。50年代以降の水害で特徴的なことの一つは、比較的整備の進む利根川、淀川水域でもまだまだ水害が減少せず、さらに一方、都市化の著しい河川域において水害が頻発していることである。

当社は治水(一部利水も含む)のための河川改修、ダム建設、砂防および地すべり対策工事を多く施工しており、40年代には利根大堰や安治川大水門がその代表的なものであった。50年代に入ると淀川大堰第2期(JV)や遠賀川河口堰(JV)(福岡)、中川水門(改築)(東京)を建設したが、放水路として野洲川放水路(滋賀)、神田川整備水道橋分水路(JV)、塩谷屋川放水路(兵庫)、排水機場として平野川分水路排水機場下部工(第2・第3期)(JV)(大阪)、新芝川排水機場(埼玉)、堺市内川排水機場(第1期)が大きな治水・利水工事であった。

60年代以降では八幡排水機場(京都)、篠井川樋門(改築)(長野)、鷲ノ木水門改築(新潟)、さらに平成に入り神戸市鯉川改修(第12工区)や硴ノ江堰改築(熊本)などが代表的なものである。別項に述べた平野川水系街路下調節池(JV)も大規模な治水工事であったのはいうまでもない。

野洲川放水路
<滋賀県>昭和54年6月竣工
発注 建設省
設計 建設省
野洲川放水路
<滋賀県>昭和54年6月竣工
発注 建設省
設計 建設省
新芝川排水機場
<埼玉県>昭和53年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
新芝川排水機場
<埼玉県>昭和53年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
遠賀川河口堰(JV)
<福岡県>昭和55年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
遠賀川河口堰(JV)
<福岡県>昭和55年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省

淀川大堰第2期(JV)

淀川大堰は、在来の長柄可動堰に代わる河川管理施設として、その上流に建設されたものであった。淀川の河道改修は、計画高水流量1万2,000㎥/秒を安全に流下させるため、低水路を在来の120mから300mに広げるとともに、河床を切り下げることで対処しようとした。その際、淀川の最下流域にあって治水上のネックになっていた長柄可動堰周辺の改修がまず必要であり、この大堰の築造が行われることとなった。

淀川大堰の可動部は低水路計画に合わせ300mとし、主ゲートを中央に4門(各径間長55m、扉高7.8m)配置していたが、これはわが国では最大径間長のゲートを有するものであった。また、付近は感潮区域で大阪湾からの遡上魚類が多く見られることから、遡上効率の良い階段式魚道を設置した。

当社はこのうち第2期工事の左岸3門を熊谷組とのJVで担当し、昭和54年(1979)10月、工事はニューマチックケーソン基礎を3基同時に沈設することから始まった。基礎工事はきわめてスムーズに終了し、次いで堰柱・床版・擁壁工事に着工したが、間もなく大雨による出水で二重締切り部分も冠水するという事態が発生した。このとき下流側締切りに沿った右岸側の高水敷が幅140mにわたり決壊、流失し、本来左岸寄りに流れて長柄可動堰で調節されていた淀川本流が一部制御不能の事態になった。このため、貯水池の水位低下と塩水遡上防止のため緊急締切り工事として昼夜にわたってコンクリートブロック、割石等での締切りを行い、7日間の投入でようやく激流を押さえた。その後工事は順調に進み、左岸固定堰の工事を終え、57年12月すべての工事が完了し、翌58年に通水式が挙行された。請負金は19億4,942万円、所長は増田龍彦であった。なお、当事業には57年度土木学会技術賞が授与された。

淀川大堰第2期(JV)
<大阪府>昭和57年12月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 堰築造工事/延長325m(可動部300m)、ケーソン基礎3基、堰柱3基、床版・護床・擁壁一式 その他/左岸固定堰工事、魚道、管理棟ほか
淀川大堰第2期(JV)
<大阪府>昭和57年12月竣工
発注 建設省
設計 建設省
工事概要 堰築造工事/延長325m(可動部300m)、ケーソン基礎3基、堰柱3基、床版・護床・擁壁一式 その他/左岸固定堰工事、魚道、管理棟ほか

建設の顕彰制度

現場担当者の最大の喜びとするところは、「竣工」の2文字であるといっても過言ではない。さらに、その施工物が発注者からばかりでなく世に高く評価されるとなれば、その喜びも倍加する。

建設にかかわる顕彰制度には実にさまざまなものがある。建築、土木、設備などの分野ごとに多くの賞が設けられているのは当然として、全く異なる分野から「施工物」が表彰されることもあり、担当者自身も知らなかったなどということも起こりうる。こういうことは、多くの賞のなかで“施工者”に与えられる賞が比較的少ないからである。

◇ ◇ ◇

こうしたなかで、施工者が表彰される代表的な賞が建築業協会賞・BCS賞であり、事業主、設計者、施工者の三者が表彰される全国的な規模のものとしては国内唯一のものである(昭和44年までは「建築年鑑賞」もあった)。BCS賞のような全国的建築賞には、このほかに日本建築学会作品賞(24年)、日本都市計画学会賞(35年石川賞として発足、48年に改称)、日本軽金属協会建築賞(37年)、商環境デザイン賞(49年)、日本建築美術工芸協会賞(49年)、吉田五十八賞(51年)、甍賞(56年)、JIA新人賞(57年JAA賞として発足、64年に改称)、公共の色彩賞(60年)、日本図書館協会建築賞(59年)、建築士会連合会賞(61年)、インテリジェント・アワード(62年)、村野藤吾賞(63年)などがあるが、いずれも作品および設計者を顕彰するものであり、当社設計・施工の作品であれば当社も表彰されることとなる(カッコ内は創設年)。

◇ ◇ ◇

数ある全国規模の建築賞のなかで最も芸術的価値の高い賞といわれているのが吉田五十八賞である。以下は、当賞第9回特別賞を受賞した「白鹿記念酒造博物館の綜合修景計画」のうち記念館の設計を担当した上村幸之次長(当時・本店建築設計第一部)のインタビュー記事『マンスリー大林』59年9月号の抜粋である。……(前略)……

―「白鹿記念酒造博物館」は、「酒蔵」等明治時代の建造物の保存再利用部と、新築の「記念館」で構成されていますね。

はい。話がもち上がり、54年の暮れに西宮市鞍掛町の現地を最初に訪れたときの印象は今も鮮明です。明治中期の、技術力もまだまだの時代にこんな職人がいたのかと、深い感銘を受けました。「酒蔵」の内部の木造架構の組み方など、当時の工法とは思えませんし、レンガの美しさにも圧倒されてしまって……。だから「記念館」の設計にはかなりのプレッシャーがかかりましたねえ。

貴重な歴史的まちなみとのバランスを保つため、建物のボリューム、プロポーション等を、時間の許す限り検討しました。細部についても例えば外装タイルの黒味を帯びた茶褐色は、レンガの色にマッチするようにと私の故郷の霧島山のように朝夕微妙に変化する、表情のある色をイメージしたり。

―その苦労が報われて、「文化的、芸術的香り高い見事な地域空間の創出に成功している」と、高く評価されたのですね。尊敬する村野藤吾先生にも「君はウマイね」とおほめの言葉を頂いたとか。

もう足が震えてしまいましたよ。「記念館」は建築空間と、展示空間の一体化にも特に留意して、連続する空間を通して入る自然光が三次元で構成された壁面に落とす光と影の演出を試みたんですが、その辺りも認めて頂いて。こんな工事はもう二度とないでしょうが、もしまた保存の話があれば是非やりたいですね。……(後略)……

また、一見、建築とさほど関係ないと思われる分野で表彰されたのが、名古屋東急ホテル(JV)の63年第22回SDA賞であった。SDA賞とは、日本サイン・デザイン協会が主催するもので、周辺環境や自然を配慮に入れ、その目的、機能、造形にすぐれ、社会的に貢献度の高いサイン(看板、標識等)に贈られるものである。当社設計・施工の名古屋東急ホテルはこの賞のシステム部門での受賞(佳作)で、施設の個々のサインの評価に加えて、それらがトータルで形成する“サイン・システム”が優秀と認められたものであった。

さらに当社設計・施工の海晏寺本堂客殿(東京)(56年竣工)は、第2回甍賞特別賞日本経済新聞社賞を受賞している。

◇ ◇ ◇

土木分野の最大の顕彰制度は土木学会賞である。これは功績賞、技術賞、論文賞、吉田賞、田中賞で構成されており、田中賞作品部門のみが施工物(橋梁)に対し与えられる。しかし、これも事業主に与えられるもので、同様に、公共工事の多い土木施工物では施工者が表彰されることはほとんどない。施工物よりもその設計・施工技術での開発等を重要視する傾向からかもしれない。

設備分野の最大の顕彰制度は空気調和・衛生工学会賞であるが、論文と企画・施工実績に対して贈られるものに分かれており、後者で当社は、堂島関電ビル空調(49年)、大阪大林ビル空調(50年、同年建築学会賞も受賞)、当社技術研究所本館(59年)、日本テレビ放送網北本館の中水道システム(60年)が表彰された(カッコ内は受賞年)。なお、技術研究所本館はアメリカ暖房・冷凍・空調学会(ASHRAE)「エネルギー賞自然エネルギー利用部門'84年最優秀賞」も受賞している。ASHRAEはこの分野では世界で最も権威のある学会で100年近い歴史をもっている。

このほかさまざまな学会賞もあり、また対象作品を地方に限定した各顕彰制度で施工者、設計者として当社は多くの賞を授与されてきた。50近くある地方の建築賞のうち最も古いのが神奈川県主催の神奈川建築コンクール(昭和31年創設)であり、中部建築賞協議会主催の中部建築賞や岡山市主催の岡山市優秀建築物表彰、神戸市の神戸市建築文化賞などはいずれも40年代に創設された歴史ある地方建築賞である。さらには論文、業績、功労、そしてそれぞれその個人表彰まで含めると、技術者は実に多くの賞に恵まれているといえる。

白鹿記念酒造博物館(左側に見えるのが当社設計・施工で新たに建設した建物)
白鹿記念酒造博物館(左側に見えるのが当社設計・施工で新たに建設した建物)
名古屋東急ホテルのサイン
名古屋東急ホテルのサイン

第3次ホテルブーム

全国に巨大高層ホテル

ホテル産業全体で見れば、昭和30年代半ばから現在に至るまで、その軒数はほぼ直線的に増加している。しかし、県庁所在地規模の都市に立地する多機能型ホテルや、地域を代表するような大型ホテルの建設は、3次にわたりブームといえるはっきりした波動を示している。

第1次ホテルブームは、39年(1964)に開催された東京オリンピックを目指して30年代半ばから始まり、第2次ホテルブームは、45年の万博を契機とした40年代前半から石油危機までの一時期を指す。第2次ホテルブームの特徴としては、ホテル需要の広がりとホテルの大型化があげられ、この時期、当社が施工したホテルのうち代表的なものは、京都ロイヤルホテル、名古屋観光ホテル(JV)(49年BCS賞受賞)のほかに東京・大井開発ビル(ホテル阪急)(JV)、岡山国際ホテル(JV)、沖縄ハーバービューホテル(JV)、沖縄不二ホテルなどであった。このうち、沖縄のホテルは、50年7月開催の沖縄海洋博に向けてのものであった。

第3次ホテルブームは、第1次石油危機後の52年ころから現在に至っており、その特徴はそれまでとは拡大の規模が比較にならないほど大きいことである。ホテルの軒数がかなりの水準に達したにもかかわらず、その増勢は衰えず、58年249軒、59年255軒、60年412軒、61年398軒の増加となった(厚生省資料による)。また、このブームは、オリンピックや万博などの国家的イベントをきっかけとした供給主導のものではなく、日常的なホテル需要の拡大に支えられた需要主導の安定したブームであることが指摘できる。さらには経営主体の多様化、チェーン化の進展、中級ホテルの増加、地方立地の拡大等々をあげることができる。

54年以降に当社が施工したホテル・旅館の代表的なもの(一部60年竣工を含む)は、都ホテル東京(JV)、ホテルアルファ・サッポロ、第二富士ホテル(名古屋)、ホテルリッチ横浜、ニュースカイホテル(新宴会棟・東館)(熊本)、京都新阪急ホテル、和倉温泉加賀屋能登渚亭、彦根プリンスホテル、横須賀ワシントンホテル(JV)、京王プラザホテル札幌(JV)、雄山閣(増改築)(石川)、ニュー山王ホテル(JV)(東京)、大阪全日空ホテル・シェラトン(JV)、高知新阪急ホテル(JV)、境港マリーナホテル、都ホテル大阪(JV)などであった。また国鉄系のホテルとしては、50年代に三宮ターミナルホテル(JV)、大阪ターミナルホテル(JV)、静岡ターミナルホテル(JV)を、60年代にはホテルメトロポリタン(JV)(東京)、広島ターミナルホテル(JV)、ホテルメトロポリタン仙台(JV)を相次いで施工した。

名古屋観光ホテル(JV)
<愛知県>昭和47年12月竣工
発注 名古屋観光ホテル
設計 日本設計事務所
名古屋観光ホテル(JV)
<愛知県>昭和47年12月竣工
発注 名古屋観光ホテル
設計 日本設計事務所
ニュースカイホテル東館
<熊本県>昭和58年4月竣工
発注 ニュースカイホテル
設計 当社
ニュースカイホテル東館
<熊本県>昭和58年4月竣工
発注 ニュースカイホテル
設計 当社
高知新阪急ホテル(JV)
<高知県>昭和60年6月竣工
発注 日本生命、新阪急ホテル
設計 当社
高知新阪急ホテル(JV)
<高知県>昭和60年6月竣工
発注 日本生命、新阪急ホテル
設計 当社

都ホテル東京(JV)

京都の都ホテルと並んで東京にも都ホテルを、という近畿日本鉄道の数年来の念願が込められた当ホテルの建設がスタートしたのは、昭和52年(1977)4月であった。敷地は東京都港区芝白金の一角、元外相藤山愛一郎氏邸の跡地2万2,400㎡で、設計は米国の建築家ミノル・ヤマサキ氏がじつに4年間の年月を費やした力作であった。また、インテリア設計は村野藤吾氏で、施工は当社(幹事会社)と大日本土木のJVであった。

谷間になった地形で地盤があまり良好でなく、しかも不整形な敷地いっぱいに地下階が計画されたためコーナーが19カ所もあり、山留めに大変苦心した。また、搬出土量も10万㎥に及び、多いときには1日1,200㎥を搬出せねばならず、都心一等地でのこの土砂搬出に現場は大いに苦慮した。地下工事の能率を上げるために、ケリー掘削機を4台投入したり、場内に100台分のトラック桟橋を設け、通路も6m幅をとって渋滞を防ぐなどの工夫をした。躯体工事では、当社の省力化工法であるOVH工法を初めてホテル特有の仕切壁の多い高層宿泊棟に適用するなど、精度の向上とともに合理化を果たした。こうして54年7月、500室をもつホテルがオープンした。請負金は91億8,197万円、所長は清水光一であった。

都ホテル東京(JV)
<東京都>昭和54年6月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 ミノル・ヤマサキ(基本設計)、当社、村野藤吾(インテリアおよび造園設計)
工事概要 SRC造一部RC造、B3、12F、PH2F、延4万3,000㎡、客室500室
(左下写真はリセスト・ラウンジ)
都ホテル東京(JV)
<東京都>昭和54年6月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 ミノル・ヤマサキ(基本設計)、当社、村野藤吾(インテリアおよび造園設計)
工事概要 SRC造一部RC造、B3、12F、PH2F、延4万3,000㎡、客室500室
(左下写真はリセスト・ラウンジ)

京王プラザホテル札幌(JV)

昭和55年(1980)4月着工した当ホテルは当社の設計・施工であり、土地利用計画に携わって以来、市場調査・企画への参加から始まり実施設計を終えるまで7年余の歳月をかけた。札幌駅にほど近い市の中心部に位置し、ほぼ100m角の敷地の中央に高層棟、南面に低層棟、北面に駐車場棟をもち、客室数525、大中小宴会場8で、設計コンセプトは「従来の宿泊者中心の都市ホテルを超えて都市機能の一部を果たす複合ホテルを目指す」というものであった。

地下工事では、函館本線が近接する北側の土留めに止水壁を兼ねてOWS壁を用い、約7万2,000㎥を掘削した。また、鉄骨架構には柱と偏心K型ブレースを組み合わせる耐震構造を採用して、この規模の建物としては非常に少ない3,826tの鉄骨量を実現した設計であった。

鉄筋コンクリート工事では、宴会場、プール、インドアプラザなどの大空間部分にPC梁を使用、床版では型枠に北海道で初めてのFデッキを採用し、また寒中コンクリートを余儀なくされたため、採暖、温度管理にも十分配慮した。56年12月末に工事はほぼ完成し、明けて57年5月竣工・オープンを迎えた。施工は当社(幹事会社)、伊藤組土建、地崎工業の3社JVが当たり、請負金は134億7,060万円、所長は武田鏡光で、設計は米山 隆であった。

京王プラザホテル札幌(JV)
<北海道>昭和57年5月竣工
発注 京王帝都電鉄
設計 当社
工事概要 高層棟(S造一部SRC造、B2、23F、PH2F)、低層棟(RC造、B1、3F)、駐車場棟(S造一部RC造、B2、5F)、延6万700㎡、客室525室
(左下写真はメインロビー)
京王プラザホテル札幌(JV)
<北海道>昭和57年5月竣工
発注 京王帝都電鉄
設計 当社
工事概要 高層棟(S造一部SRC造、B2、23F、PH2F)、低層棟(RC造、B1、3F)、駐車場棟(S造一部RC造、B2、5F)、延6万700㎡、客室525室
(左下写真はメインロビー)

大阪全日空ホテル・シェラトン(JV)

「大阪ホテル戦争」とマスコミが報道し始めた昭和57年(1982)7月、当社(幹事会社)、大成建設、鴻池組の3社JVによって当工事はスタートした。当ビルは大阪建物が堂島大阪ビルヂングとして建設し、全館全日空ホテル・シェラトンが入居したものである。

大阪一の繁華街・キタの新地に堂島川をはさんで中之島に向き合う現場は、隣接して3,000軒とも5,000軒ともいわれる高級クラブや料亭がひしめく所で、資材搬入などの計画は分刻みの緻密性が要求された。

地下はOWS工法とONS工法を併用、一部杭にOJP工法、さらに高層部では外装にタイル打ち込みPC板(ショックベトン)を採用し、最高軒高80mの高層ホテル工事は、ホテル戦争に勝ちぬくために1日も早い完成を目指して進められた。

内装・インテリアデザインの大部分は外国のホテルを数多く手がけた米国人H.トンプソン氏の手になり、その造形や色彩は斬新で、ロビーやアトリウム、宴会場などはもちろんのこと、さまざまなタイプの客室(500室)も華やかなデザインとなっている。請負金は62億2,868万円、所長は小栗武男であった。

大阪全日空ホテル(JV)
<大阪府>昭和59年9月竣工
発注 大阪建物
設計 日建設計、ハロルド・トンプソン&アソシエイツ(インテリアデザイン)
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B3、23F一部6F、PH2F、延4万4,770㎡、客室500室
(右写真はロビー)
大阪全日空ホテル(JV)
<大阪府>昭和59年9月竣工
発注 大阪建物
設計 日建設計、ハロルド・トンプソン&アソシエイツ(インテリアデザイン)
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B3、23F一部6F、PH2F、延4万4,770㎡、客室500室
(右写真はロビー)

ホテルメトロポリタン(JV)

東京・池袋駅西口開発の先陣を切った当ホテルは、国鉄(50%)をはじめ東武鉄道等有力企業の出資による第3セクター方式の池袋ターミナルホテル会社(昭和56年11月設立)により計画された。49年(1974)以来各地に建設されてきた国鉄系ターミナルホテルの13番目のもので、818室の客室数、700㎡の大宴会場などの規模はこのうちの最大のものであった。当建物は総合設計制度の適用を受け、地域冷暖房プラントを地階に設置しているのも特徴であった。

施工にあたっては、池袋駅西口繁華街の一角であり、300軒近い近隣との取決めで4面道路のうち1面しか使用できず、さらに約80m四方の敷地いっぱいに建物が計画され、そのうえ、高層部と低層部の工事が同時進行となったため、輻輳する資機材の搬出入計画および各工区間の工程調整に現場は大いに苦慮した。

ホテルは竣工後2カ月くらいの開業準備期間をおくのが通例であるが、当ホテルは1カ月弱しかなく、工程の遅れが致命的となる。そこでインテリアを含む仕上げ工事では早め早めに手を打つよう努力し、60年4月工期どおり無事完成した。施工は当社(幹事会社)、清水建設、熊谷組の3社JVで、請負金は60億911万円、所長は清水光一である。

ホテルメトロポリタン(JV)
<東京都>昭和60年4月竣工
発注 池袋ターミナルホテル
設計 観光企画設計社、鉄道会館、日本国有鉄道
工事概要 SRC造およびS造、B3、25F一部4F、PH2F、延5万9,350㎡、客室818室
(左下写真はメインロビー
ホテルメトロポリタン(JV)
<東京都>昭和60年4月竣工
発注 池袋ターミナルホテル
設計 観光企画設計社、鉄道会館、日本国有鉄道
工事概要 SRC造およびS造、B3、25F一部4F、PH2F、延5万9,350㎡、客室818室
(左下写真はメインロビー)

都ホテル大阪(JV)

このホテルは、近鉄グループの総力を結集した「上本町ターミナル整備事業」の一環で、全体計画が策定された昭和42年(1967)から18年ぶりに完成をみたものであった。

当事業は上本町駅の敷地を多目的に利用しようというもので、既存の駐車場やボウリング場の躯体の一部をホテル施設に転換し、一方、高層ホテルを新たに建設、さらに駐車場の増設やホテル後方部門および郵便局、駅関連施設等を建設するという複雑な工事であった。

現場は営業中の駅を抱えてのターミナル再開発工事で、とくに鉄道線をまたぐホテル工事での線路直上の床版工事は、終電後の午前1時から4時までの深夜作業の連続となった。

客室数608、大宴会場1、中宴会場1、小宴会場16のほか茶室と結婚式場をもつ当ホテルの設計は村野・森建築事務所で、工事途中の59年11月に村野藤吾氏が亡くなるという不幸にも遭遇したが、60年9月無事竣工した。施工は当社(幹事会社)と大日本土木のJVが担当し、請負金は172億6,033万円、所長は前田年久であった。

都ホテル大阪(JV)
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造およびS造、B2、20F一部4F、PH3F、延6万6,200㎡、客室608室
(左下写真はヘルスクラブ)
都ホテル大阪(JV)
<大阪府>昭和60年9月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造およびS造、B2、20F一部4F、PH3F、延6万6,200㎡、客室608室
(左下写真はヘルスクラブ)

宗教建築が相次ぐ

戦後の混乱期を抜けて世情が安定するにつれ、宗教建築も多く建設されるようになった。あるものは伝統美を重視し、またあるものは斬新さを求めるなどそれぞれ特徴をもった建物となっている。昭和30年代に当社が施工した代表的宗教建築としては、川崎大師平間寺本堂再建に始まり、四天王寺伽藍復興がその最大のものであった。40年代には、成田山新勝寺大本堂があり、大石寺正本堂(JV)があった。

そして50年代後半から60年代、さらに平成にかけて建設されたものは規模も大きく、華やかななかにも荘厳さをもったものとなっている。この時期当社が施工した代表的なものとしては、成田山新勝寺光輪閣(客殿)(JV)および大塔、創価学会関西戸田記念講堂、靖国神社斎館・社務所、川崎大師平間寺新客殿(金剛閣)・八角五重塔、崇教真光世界総本山(JV)、立正佼成会横浜普門館、世界心道教親様祖霊殿、創価学会東京上野池田講堂、天聖眞美会神明聖殿、創価学会広島池田平和記念会館、日本神霊学研究会会館及び武道館、神慈秀明会黄島神殿、在家日蓮宗浄風会浄風会館などがある。

成田山新勝寺光輪閣(客殿)(JV) <千葉県>昭和50年3月竣工
発注 大本山成田山新勝寺
設計 石本建築事務所
成田山新勝寺光輪閣(客殿)(JV) <千葉県>昭和50年3月竣工
発注 大本山成田山新勝寺
設計 石本建築事務所
創価学会広島池田平和記念会館
<広島県>昭和63年9月竣工
発注 創価学会、三菱商事
設計 創造社、三菱商事
創価学会広島池田平和記念会館
<広島県>昭和63年9月竣工
発注 創価学会、三菱商事
設計 創造社、三菱商事
神慈秀明会黄島神殿
<岡山県>平成元年9月竣工
発注 神慈秀明会
設計 真設計共同体、栗生総合計画事務所
神慈秀明会黄島神殿
<岡山県>平成元年9月竣工
発注 神慈秀明会
設計 真設計共同体、栗生総合計画事務所
立正佼成会横浜普門館
<神奈川県>昭和60年3月竣工
発注 立正佼成会
設計 当社
立正佼成会横浜普門館
<神奈川県>昭和60年3月竣工
発注 立正佼成会
設計 当社
在家日蓮宗浄風会浄風会館
<東京都>平成3年11月竣工
発注 在家日蓮宗浄風会
設計 佐藤総合計画
在家日蓮宗浄風会浄風会館
<東京都>平成3年11月竣工
発注 在家日蓮宗浄風会
設計 佐藤総合計画

川崎大師平間寺新客殿(金剛閣)・八角五重塔

川崎大師は、成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに関東三山としてその名を知られ、庶民の信仰を集めている。

終戦後、戦禍にあった堂塔伽藍の復興が精力的に進められ、当社は、昭和27年(1952)の本堂再建を皮切りに、不動堂、牛水舎、中書院、三宝殿、自動車祈禱殿、信徒会館の建設に携わり、さらには開創850年記念事業の一環として計画された大山門の建立にも従事してきた。

大山門の建立をもって昭和の大復興工事は一段落を迎えたのであったが、その後毎年増大する参詣者に対応するため、新客殿(金剛閣)の建設が55年7月開始された。また、続いて56年3月には、弘法大師1150年御遠忌と10年目ごとに奉修される大開帳の記念事業として、八角五重塔の建立が発願された。当社はいずれも特命により施工した。

金剛閣はRC造一部SRC造、延3,940㎡、五重塔はSRC造、高さ31.5m(相輪を含む)、延276㎡で、設計はいずれも大岡實建築研究所である。施工にあたっては、日夜の法要のさまたげにならないよう、工事の騒音、振動に注意を払う一方、参詣者の安全に万全を期した。SRC造の五重塔はわが国初の試みであったが、当社の技術を結集し設計意図どおりの美しい八角五重塔に仕上がった。金剛閣は57年11月竣工、請負金15億1,580万円、八角五重塔は58年10月竣工、請負金9億1,900万円で、所長はいずれも早川孝夫であった。

川崎大師平間寺新客殿(金剛閣)・八角五重塔
<神奈川県>昭和57年11月竣工(金剛閣)
昭和58年10月竣工(八角五重塔)
発注 平間寺
設計 大岡實建築研究所
工事概要 金剛閣/RC造一部SRC造、B1、3F、PH付、延3,940㎡
八角五重塔/SRC造、B2、5層、高さ31.5m(相輪を含む)、延276㎡
(左写真が八角五重塔、左下写真が金剛閣)
川崎大師平間寺新客殿(金剛閣)・八角五重塔
<神奈川県>昭和57年11月竣工(金剛閣)
昭和58年10月竣工(八角五重塔)
発注 平間寺
設計 大岡實建築研究所
工事概要 金剛閣/RC造一部SRC造、B1、3F、PH付、延3,940㎡
八角五重塔/SRC造、B2、5層、高さ31.5m(相輪を含む)、延276㎡
(左写真が八角五重塔、左下写真が金剛閣)

成田山新勝寺大塔

当本山の前の二大工事に続いて、当社は昭和56年(1981)2月、大塔建立工事に携わることとなった。大塔建立は、59年が宗祖弘法大師御入定1150年に当たるため、その記念事業として発願されたものであった。

SRC造、内部5階建、相輪を含む高さ58.1m、延2,865㎡の多宝塔型式の大塔は、形姿、規模ともに日本一のものをとの願いが込められていた。設計は建築研究協会大森健二氏(意匠設計)と金多 潔京都大学教授(構造設計)である。

施工にあたっては、SRC造で平安初期の華麗な様式を忠実に再現させるということから、とくに斗栱のコンクリート打放し精度には神経を遣い、厳密な型枠製作と入念なコンクリート打設を行い、みごとに期待に応えた。18mの金色の相輪と緑の瓦を冠した外観とともに、曼荼羅を描いた天井・壁画・柱絵等、内部の壮麗さは出色といえる。工事は58年12月無事竣工し、翌59年4月落慶法要が行われた。請負金49億1,439万円、所長は渡辺郁男であった。なお、その後平成元年に太子堂も施工した。

成田山新勝寺大塔
<千葉県>昭和58年12月竣工
発注 大本山成田山新勝寺
設計 建築研究協会(意匠設計)、金多 潔京都大学教授(構造設計)
工事概要 SRC造、内部5F、高さ58.1m(相輪を含む)、延2,865㎡、2重基壇多宝塔型式 (左下写真は最上階内部)
成田山新勝寺大塔
<千葉県>昭和58年12月竣工
発注 大本山成田山新勝寺
設計 建築研究協会(意匠設計)、金多 潔京都大学教授(構造設計)
工事概要 SRC造、内部5F、高さ58.1m(相輪を含む)、延2,865㎡、2重基壇多宝塔型式 (左下写真は最上階内部)

崇教真光世界総本山(JV)

JR高山駅からほど近い小高い丘陵地に、当本山はその金色の大屋根を燦然と輝かせている。昭和55年(1980)5月、大拝殿、国際会議場、第1・第2練成場を擁する本殿と別棟、管理棟および待機所からなるSRC造、総延3万9,705㎡の壮大な建物を、当社(幹事会社)と地元の金子工業とのJVが特命で受注した。設計は素木三郎東洋大学教授で、建物と付属施設が一体となって総本山としての機能を発揮するよう、また内外空間に古代・中世・近代の三つの理念的様相を組み込むよう配慮したといわれる。

2次、3次曲線をもつ象徴的なS造の大屋根は、10分の1と2分の1の模型および原寸図をもとに幾多の検討を重ねて施工し、その仕上げ面には、新規開発の特殊加工丹銅板(アート・バードと呼称)を使用して、7,000㎡を金色に葺き上げた。構造技術的には、わが国初の試みとして、SRC造の長大スパン梁の振動性能向上を目的に、PS工法を導入した。

一方、造園工事の高木類は900本を超え、北海道から四国までの広範囲にわたる山野を跋渉し、選別・調達した。また、大拝殿には大林徳吾郎氏(大林現会長の長男)設計のわが国最大級のパイプオルガンが設置された。

飛騨高山の冬期における厳しい気象条件のもと、正味48カ月の工期であったが、工事は59年10月無事完成した。請負金は206億2,123万円、所長は服部利男であった。なお、この工事が高く評価され、続いて本部棟工事も当社に特命発注された。

崇教真光世界総本山(JV)
<岐阜県>昭和59年10月竣工
発注 崇教真光
設計 素木三郎東洋大学教授
工事概要 本殿/SRC造(大屋根S造)、B1、3F、PH付別棟/SRC造、B2、4F、PH付
管理棟/RC造一部S造、B2 待機所/SRC造、2F、PH付 総延3万9,705㎡
(左下写真は大拝殿)
崇教真光世界総本山(JV)
<岐阜県>昭和59年10月竣工
発注 崇教真光
設計 素木三郎東洋大学教授
工事概要 本殿/SRC造(大屋根S造)、B1、3F、PH付別棟/SRC造、B2、4F、PH付
管理棟/RC造一部S造、B2 待機所/SRC造、2F、PH付 総延3万9,705㎡
(左下写真は大拝殿)

多局化・技術革新の波を受ける放送界

昭和60年(1985)10月現在のわが国の放送社数はNHKおよび民放133社であるが、民放ラジオは26年に発足、その2年後に民放テレビが放送を開始した。50年以降、テレビは第3次の多局化サイクルに入り、ラジオではFM局の多局化が急速に進んだ。一方、58年はニューメディア元年といわれ、60年の電気通信事業の自由化とともに、ケーブルテレビや衛星放送が本格化のきざしを見せ、民放テレビ・ラジオはこうした新しいメディアとの激しい競争にさらされることになる。

そして各社は、社屋やスタジオの新・改築、中継局や新局の開局、音声多重やニュース・コマーシャル製作の新システム、VTRの新鋭機器の配備など、多局化や技術革新に伴う投資を増加させていった。

当社が施工した放送局の最も代表的なものは321、322ページで紹介したNHK放送センター本館・ホール(JV)であるが、日本テレビ放送網では50年代から60年代にかけ、南本館、北本館、生田スタジオ(すべてJV)を手がけ、TBSでは緑山スタジオを、そして現在、赤坂で大規模な放送センター(JV)の建設を手がけている。このほか、琉球放送会館、RSKメディアコム(JV)、愛媛放送本社増改築、中京テレビ放送新館、NHK菖蒲久喜ラジオ放送所を50年代に、NHK放送センター北館(JV)、ncc長崎文化放送、中京テレビ放送センター、毎日放送本社ビル(JV)を60年代から平成にかけて施工した。

さらに通信分野では、国際電信電話(KDD)の小山新中央局通信局舎(JV)や第二電電の松前外3をはじめ多くのリレーステーションの建設工事がある。他のマスコミ関連では、熊本日日新聞社新聞製作センター、河北新報社本社新館(JV)、そして毎日新聞社では厚木センター、同・摂津工場、同・中四国印刷センターに続き、現在、大阪本社新社屋(JV)を施工中である。

国際電信電話小山新中央局通信局舎(JV)
<栃木県>昭和59年6月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所、丸ノ内建築事務所
国際電信電話小山新中央局通信局舎(JV)
<栃木県>昭和59年6月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所、丸ノ内建築事務所
熊本日日新聞社新聞製作センター
<熊本県>昭和56年10月竣工
発注 熊本日日新聞社
設計 当社
熊本日日新聞社新聞製作センター
<熊本県>昭和56年10月竣工
発注 熊本日日新聞社
設計 当社

日本テレビ放送網南本館・北本館(JV)

昭和28年(1953)、わが国初の民間テレビ会社として開設された日本テレビ放送網は、開局25周年を記念した一連の施設整備計画を51年からスタートさせ、その第1期工事として南本館を、第2期工事として北本館を建設、57年10月、この整備計画をすべて完了した。

南本館建設は既設建物の解体から着手したが、隣接の建物で常時番組制作が行われていたため、騒音、振動、電波障害に細心の注意が必要であった。南本館は地下3階ながら地下20mあり、西側を通る地下鉄とほぼ同じレベルになることなども考慮して、土留壁にはOWS工法を採用し、構造体の一部としても使用した。当館には本社機能部門、電波送出部門、ニュース専用スタジオがあり、送出部門とスタジオについては遮音と吸音構造について当社技術研究所が数々の調査・実験・解析を行いながら工事を進めた。

続く北本館工事では、4階分吹抜けなど最新式のスタジオを含む延2万4,296㎡の建物を建設し、さらに省エネのためのソーラーシステムおよび再生中水・再生真水設備も設けた。とくに既存日本庭園を利用した再生中水・再生真水設備は当社の設計・施工で、水資源の有効利用として再生水を雑用水に使用するだけでなく、その一部を再生真水として非常時の飲料水にしようとする他に例をみない計画であった。

南本館は当社(幹事会社)と清水建設のJVで請負金は32億5,044万円、北本館も同2社JVで請負金は20億4,071万円であり、所長はいずれも藪内吉一であった。

なお、同社の生田スタジオもその後大規模に改築し、当社は大成建設とのJVで、1期工事は59年9月~61年4月、2期工事は61年7月~平成元年5月と計4年5カ月をかけ、延2万2,098㎡を施工した。請負金は計29億4,000万円、所長は花谷俊昭であった。

日本テレビ放送網南本館・北本館(JV)
<東京都>昭和53年8月竣工(南本館)
昭和57年10月竣工(北本館)
発注 日本テレビ放送網
設計 三菱地所
工事概要 南本館/SRC造一部RC造、B3、10F、PH3F、延1万7,130㎡ 北本館/SRC造一部RC造、B3、8F、延2万4,296㎡ (左写真が南本館、左下写真が北本館)
日本テレビ放送網南本館・北本館(JV)
<東京都>昭和53年8月竣工(南本館)
昭和57年10月竣工(北本館)
発注 日本テレビ放送網
設計 三菱地所
工事概要 南本館/SRC造一部RC造、B3、10F、PH3F、延1万7,130㎡ 北本館/SRC造一部RC造、B3、8F、延2万4,296㎡ (左写真が南本館、左下写真が北本館)

TBS緑山スタジオ

TBS緑山スタジオは東京放送開局30周年を機に主としてドラマ番組に使用するため建設されたもので、面積28万4,300㎡の広大な敷地に最新設備を取り入れた4スタジオをもつスタジオ棟に加えて美術センター、エネルギーセンター、受電所の4棟から成っており、本格的な郊外脱出型スタジオとして話題を呼んだ。建築工事に先立ち、当社の設計・施工により造成工事を行ったが、地形の高低差が35mあり、切盛土量は74万8,000㎥に及んだ。盛土部は数々の地盤改良を実施し、また南側谷部に設けられた遊水池は、年に1~2回ほどしか滞水しない高段部分を駐車場として兼用するなどユニークな設計となっていた。

昭和54年(1979)4月に建築工事を開始したが、基礎工事でOWS工法を、スタジオ屋根の鉄骨大梁(最大130t)の揚重にはリフトアップ工法を採用するなど当社の技術を遺憾なく発揮した。建物を特徴づけているスタジオ棟前面外装(150m×20m)のカーテンウォールは、熱線ガラス2枚で乾燥空気を封じ込んだ米国製の特殊製品で、断熱性能が高く省エネ効果をもつものであった。また、建物後方の30度の斜面を利用してソーラーシステムのコレクター400枚を設置し、ここで集められた太陽熱エネルギーは給湯に利用するようになっている。請負金は土木工事が24億4,574万円、建築工事が109億8,250万円で、所長は大塚 穣(土木工事)と江幡三郎(建築工事)であった。

TBS緑山スタジオ
<神奈川県>昭和56年3月竣工
発注 東京放送
設計 日本設計事務所
工事概要 スタジオ棟/RC造およびSRC造一部S造、5F一部3F、PH付 美術センター/S造一部RC造、5F、PH付 エネルギーセンター/RC造、B1、3F 受電所/RC造、平家 総延4万4,700㎡
TBS緑山スタジオ
<神奈川県>昭和56年3月竣工
発注 東京放送
設計 日本設計事務所
工事概要 スタジオ棟/RC造およびSRC造一部S造、5F一部3F、PH付 美術センター/S造一部RC造、5F、PH付 エネルギーセンター/RC造、B1、3F 受電所/RC造、平家 総延4万4,700㎡

毎日放送本社ビル(JV)

毎日放送はわが国初の民間放送として昭和26年(1951)開局、その後、拠点を千里丘放送センター(当社施工)に移していたが、21世紀に向けた新社屋の建設が計画され、63年4月、大阪梅田近くの茶屋町で工事がスタートした。開局40周年の平成2年9月にはこの新社屋から放送を開始することとなっていたため、工程は厳しく、逆打ち工法、設備配管のプレハブ化、仮設吊り床設置による上下並行作業などの工夫を行って工期短縮に努めた。

この建物の特徴は、スタジオとオフィス機能を分離する従来の多くの放送局と異なり、S造の高層ビル中間階に大空間のスタジオ、アナウンスブースを配してオフィスと一体化している点である。そのため、スタジオの床・壁・天井を防振ゴムを使用して建家本体と縁を切った箱型の完全浮き構造とし、あたかもS造ビルの中にRC造スタジオビルがあるようになっている。これにより、建家の固体振動の伝達防止および遮音を図り、スタジオの性能を高めている。床・壁・天井など多層になっているため、建築、設備工事とも同じ規模のビルに比べ作業量は一段と多く、仕上げボリュームが一般ビルの2倍の感じであったという。

その外観を特徴づけている外壁カーテンウォールは、SAG工法{}で取り付け、サッシ竪枠がゴンドラレールを兼ねるため厳しい施工精度が要求された。ガラスは反射被膜が施され、1枚のガラスを2色に塗り分け帯状のアクセントをつけているが、この約4,000枚のガラスの映像調整に1カ月を要した。

階高も高く、吹抜け部も多く、上下並行作業も多かったにもかかわらず、150万時間無事故無災害を達成し、平成3年労働大臣進歩賞を受賞した。さらに公開空地の4階分吹抜けのアトリウムには千里丘から竹を移植したり、けやき並木を配するなどして、大阪都市景観建築賞「大阪まちなみ賞」市長賞を平成3年受賞した。施工は当社(幹事会社)と竹中工務店が当たり、請負金は122億2,211万円、所長は小栗武男であった。

注 SAG工法:Structual Adhesive Gasketの略で、ガラスの取付けが、水平方向は無目はめ込みのシール固定で、垂直方向は接着剤で取り付ける工法。

毎日放送本社ビル(JV)
<大阪府>平成2年5月竣工
発注 毎日放送
設計 日建設計
工事概要 SRC造、B3、15F、PH付、延3万959㎡
毎日放送本社ビル(JV)
<大阪府>平成2年5月竣工
発注 毎日放送
設計 日建設計
工事概要 SRC造、B3、15F、PH付、延3万959㎡

第5次マンションブーム

快適さと居住性の向上を求めて

マンション建設は昭和50年代前半までに4次にわたるブームがあった。第1次は昭和38年(1963)~39年ころ、第2次は42~45年ころ、第3次は47~48年ころ、第4次は53~54年ころであった。そして第5次マンションブームは59年ころからであり、平成2年ころまで比較的長く続いた。

第5次ブームの要因は、勤労世帯の所得の上昇や住宅ローンの金利の低下、公的融資の拡大などによる資金調達力のアップ、それらを背景とした買替え需要の増大、さらに地価急騰に伴うマンション価格の先高観による買急ぎがあげられる。また、ブームの特徴の一つに、金余りや低金利を背景とした投資型需要の増大があった。この傾向は最初首都圏で起こり始め、近畿、中京そして地方都市にまで及んでいった。

こうしたなか、需要者は、マンションの居住性、利便性、耐久性の向上を求め、供給側にもこれに応えようとする気運が一段と高まった。55年から建設省が研究、普及を図ってきた「センチュリー・ハウジング・システム」(略してCHS、100年住めるマンションの意)の第1号が59年出現した。当社もこうした動きに呼応して、すでに躯体工事において実用化した工業化工法「ORC-3Hシステム」に加え、内装・設備工事も工業化し、計画からメンテナンスまでのトータルシステムとして開発した「EXCELLENT LIFE 21」を、阪急日生ニュータウンのサウンズヒル(JV)で実用化した。このほか、住みよい集合住宅を目指し、東京本社、本店の集合住宅部では、設計・施工の集合住宅で数々の提案を打ち出しては、それを実現していったのである。

54年から55年にかけて広くなった住戸面積は59年からさらに拡大へと向かったが、需要者もより良い居住性など求め、第5次ブームでは面積ばかりでなく、間取りや設備、施設の面にもその目は一段と厳しくなっていった。

また、“億ション”や“スーパー億ション”が登場し、土地の有効利用を図る大規模な階段状の斜面集合住宅や、コーポラティブハウスの登場、さらにリフォーム市場の拡大も起こってきた。

58~61年(一部62年竣工)に竣工した当社施工の代表的な集合住宅は、京橋グリーンハイツ(1期・2期)(JV)(大阪)、広尾ガーデンヒルズ(JV)のほか、コープ野村北千里、ホーマットオリエント(東京)、秀和大倉山レジデンス(神奈川)、須磨名谷ハウス、星和プラネタウン千里南第1・第2・第3街区(JV)、コート狭山台(埼玉)、コープ野村大谷地(北海道)、コープ野村大島(東京)、猪名川レインボーハイツ(兵庫)、グリーンテラス本郷台(神奈川)、六甲グランドヒルズ(1~4号棟)などである。57年4月に着工し、一時中断後、平成元年にすべての工事が完成したポートピアプラザ(515ページ参照)の第1期工事も59年8月に完成している。

星和プラネタウン千里南第1・第2・第3街区(JV)
<大阪府>昭和60年3月竣工(第2街区)、昭和61年3月竣工(第3街区)、昭和62年3月竣工(第1街区)
発注 星和地所、星和住宅
設計 安井建築設計事務所 (写真は第1街区)
星和プラネタウン千里南第1・第2・第3街区(JV)
<大阪府>昭和60年3月竣工(第2街区)、昭和61年3月竣工(第3街区)、昭和62年3月竣工(第1街区)
発注 星和地所、星和住宅
設計 安井建築設計事務所 (写真は第1街区)
グリーンテラス本郷台
<神奈川県>昭和61年7月竣工(建築工事)
昭和61年9月竣工(土木工事)
発注 ニチモ
設計 共立設計(土木工事)、山田水城建築設計事務所(建築工事)
グリーンテラス本郷台
<神奈川県>昭和61年7月竣工(建築工事)
昭和61年9月竣工(土木工事)
発注 ニチモ
設計 共立設計(土木工事)、山田水城建築設計事務所(建築工事)
六甲グランドヒルズ(1~4号棟)
<兵庫県>昭和60年2月竣工(2・3号棟)、昭和60年8月竣工(1号棟)、昭和61年8月竣工(4号棟)
発注 住友不動産
設計 当社
六甲グランドヒルズ(1~4号棟)
<兵庫県>昭和60年2月竣工(2・3号棟)、昭和60年8月竣工(1号棟)、昭和61年8月竣工(4号棟)
発注 住友不動産
設計 当社

広尾ガーデンヒルズ(JV)

当敷地は、日本赤十字社医療センターの建替えに際し、同センターから昭和47年(1972)、約6.6haを住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命の4事業主に売却されたものであった。超高層から低層まで種々の集合住宅計画が立案されたが、56年に中高層住宅案のマスタープランが採用され、約1,200戸、15棟を8期に分けて施工することとなった。

場所は東京でも超一等地・広尾ということもあり各戸ともかなりの高額物件で、それに見合った広さや間取りが個性的に計画された。敷地は五つのゾーンに分けられ、それぞれゾーンごとに特徴をもたせ、また860台強収容の駐車場はほとんど地下あるいは半地下で、その上に植栽、中庭、ショッピングプラザを配し、各棟の外装タイルと相まって超高級なイメージを醸し出している。

施工は当社、清水建設、大成建設、鹿島建設、三井建設、三菱建設の6社JVが担当し、56年6月から解体工事を行い、57年3月から本体工事を開始し、5年(8期)の長丁場を乗り切ったが、途中、完成部分から順次入居が始まり、新築工事と入居者への対応が錯綜した。また、当マンションは50以上の仕様を選べるオプション形式を採用しており、オプション工事は入居前の半年で完成しなければならず、多大な努力が要求された。一方では、G・H棟の外壁で特製大型磁器質タイルを工場で打ち込むPCF工法{}を採用するなど、工期短縮のための技術にも努力が払われた。最終請負金は113億7,606万円、所長は神吉則夫から牛嶋正勝に引き継がれた。なお、当工事は63年BCS賞を受賞した。

注 PCF工法:薄肉のプレキャスト材を使用する工法。

広尾ガーデンヒルズ(JV)
<東京都>昭和62年2月竣工
発注 住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命
設計 三菱地所、圓堂建築設計事務所
工事概要 RC造およびSRC造、B1~B2、5~14F、PH1~2F、全15棟、総延18万2,375㎡、1,181戸
広尾ガーデンヒルズ(JV)
<東京都>昭和62年2月竣工
発注 住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命
設計 三菱地所、圓堂建築設計事務所
工事概要 RC造およびSRC造、B1~B2、5~14F、PH1~2F、全15棟、総延18万2,375㎡、1,181戸

第3次・第4次オンライン化

事務センターの改造・新設が急増

昭和40年代前半から銀行業務のオンライン処理が開始され、その発展段階は第1~第4次に分類されている。

オンラインシステムの更新はおよそ10年のサイクルとなっており、まず第1次は預金・為替などの科目別オンラインで、同一の銀行であれば、どの支店でも預金の出入れが可能となった。第2次は40年代後半から50年代にかけて開発され、貸出・外国為替業務を含めた全科目総合オンラインで、貸出金の返済を預金口座から自動的に引き落としたり、為替の振込金を預金口座に自動的に入金したりできるようになった。

第3次は50年代の終わりから60年代にかけてで、そのシステムの特徴は金融新時代に対応すべく、勘定系・情報系・国際系・証券系・対外ネットワーク・営業店システムなどが相互に連動する仕組みになっている。第3次オンラインシステムは、都市銀行上位行を皮切りに動き始めたが、約2,000人の省力効果があったといわれている。次いで第4次が開始され、グローバルトレーディングのための24時間体制やグローバルリスク管理などの構築、AIなどの新技術を使った新システムなどが導入され、CDオンライン提携も都銀、地銀、信託銀行その他で順次進められている。

こうしたオンライン化の進展に伴って事務センターの新増設需要も高まり、当社は58年(1983)ころからそれらの受注を大きく伸ばしていった(右表参照)。そのうち代表的なものは北洋相互銀行円山センター(JV)、鹿児島銀行事務センター増築、安田信託銀行東京情報センター(JV)、三井銀行事務センター大和(JV)、阪神銀行西神ビル(電算センター)(JV)(平成3年12月竣工)であり、急速なコンピュータ容量増加によって芝三信ビル、三井銀行東京事務センター、三和銀行本店別館(元年4月竣工)、日本興業銀行麴町別館(2年12月竣工)など改造工事も相次いだ。

銀行のほかにも、TIS東京センタービル(JV)・同増築(JV)(2年12月竣工)、興亜火災海上日吉センター(JV)、大阪ガスICCビル、IBM大阪南港電算センター(JV)(2年2月竣工)、野村総合研究所横浜センター(2年5月竣工)、太陽生命浦和ビル(JV)(3年6月竣工)、住友生命情報通信センター(JV)(3年9月竣工)、関西電力新北別館(JV)(3年12月竣工)などのコンピュータセンターの建設も行った。

三井銀行事務センター大和(JV)

三井銀行では、急速なオンライン化の進展に対応するとともに地震等の災害時にも十分機能する安全堅牢な東洋一の新電算センターを神奈川県大和市に計画、昭和61年(1986)12月から当社(幹事会社)、フジタ工業、三井建設、鹿島建設、竹中工務店の5社JVが工事を開始した。

関東大震災の1.5倍の地震にも耐えられるという当ビルは、構造の強度を誇るのみならず、電算室の床に当社開発の免震床「ダイナミック・フロア」を全面的に採用しており、一つのビルで延1万2,900㎡の施工は、このシステムの実績のうち最大のものであった。また、電算棟の外装に使用された三丁掛大型特殊タイルの圧着にも、当社開発のモルタル・タイル剝落防止工法であるベースネット工法(約7,000㎡)を使用し、好結果を得た。

工事着工時には、電算室は当分全体の半分で間に合い、15年くらいは当センターで十分まかなえるという予想であったが、銀行のオンライン化の進展はめざましく、完成時には全館すべて電算室として使用することとなった。請負金は44億2,125万円で設備工事は別途である。所長は大和田 勁であった。

三井銀行事務センター大和(JV)
<神奈川県>昭和63年12月竣工
発注 三井銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 SRC造、B1、4F、PH2F、延3万1,143㎡
三井銀行事務センター大和(JV)
<神奈川県>昭和63年12月竣工
発注 三井銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 SRC造、B1、4F、PH2F、延3万1,143㎡

昭和50年代をリードする半導体産業

半導体は「産業の米」といわれ、情報化時代を迎えてあらゆる産業に不可欠なものとなっている。

わが国における半導体産業は、トランジスタ時代、IC時代、LSI時代を経て、昭和50年代後半からは超LSI時代と技術進歩を次々展開していった。同産業は自動車産業とともに50年代の低成長時代にあって日本経済の牽引車となり、50年代後半から60年代にかけては急速な市場規模の拡大をみせ、56年(1981)には1兆円産業、59年には2兆円産業へと成長した。

半導体の設備投資はその巨大さゆえに大企業を中心に進められ、また需要の拡大、超LSI時代の本格化により設備の新増設はさらに積極的に行われ、58~59年はとくにその傾向が著しく、59年には大手9社で8,000億円を超える設備投資となった。こうした背景には、産業機械などでメカトロニクス化が大きく進んだことや、パソコン、ワープロ、ファクシミリなどのOA機器導入が大きく進展するなど需要の拡大があったからである。

日本の半導体産業の拠点は、九州、関東、近畿が主であったが、その後、東北、四国、中国さらに北陸と展開し、日本列島はいまやシリコン列島化の色彩を濃くしている。

こうしたなかで当社は、日本電気の工場として相模原・府中・玉川各事業所の各工場棟のほか、子会社の九州日本電気、山口日本電気、関西日本電気、山形日本電気などの各地の工場を建設した。また、60年代に入って、日本電気の系列会社の日本電気精器筑波事業場や日本アビオニクス横浜製作所5号棟なども建設した。

松下電子工業では生産拠点を新潟県新井工場と富山県魚津工場に集中しているが、当社はこの両工場の建設工事に携わり、同社の系列会社でも松下電子部品作州工場各棟(一部JV)・電解コンデンサ事業部新電極棟など多くの工事を行っている。

半導体および半導体と密接な関係をもつ工場としては、このほかに日本シイエムケイKIBANセンター他、日立入間電子5M(JV)、国際電気各工場および仙台研究所、日本電子機器第4工場、日立製作所小田原工場各棟(JV)、安藤電気浜北事業場ほか各工場、リョーコー工場、松下電子応用機器清原工場第1工場、任天堂宇治工場ほか各工場(一部JV)、九州電子金属K1期第1次・第2次(JV)、旭化成工業富士工場各棟、大阪チタニウム製造各棟、小松電子金属各棟、三菱電機西条工場各棟などを50年代から60年代にかけて建設した。

関西日本電気N125工場
<滋賀県>昭和60年5月竣工
発注 関西日本電気
設計 日電工務センター、日建設計
関西日本電気N125工場
<滋賀県>昭和60年5月竣工
発注 関西日本電気
設計 日電工務センター、日建設計
日本電気精器筑波事業場
<茨城県>昭和62年4月竣工
発注 日本電気精器
設計 日電工務センター、日建設計、当社
日本電気精器筑波事業場
<茨城県>昭和62年4月竣工
発注 日本電気精器
設計 日電工務センター、日建設計、当社

九州日本電気第7工場

昭和58年(1983)7月、熊本市郊外で当社設計・施工の九州日本電気新工場の工事がスタートした。SRC造、5層3階、延2万4,253㎡のIC工場棟を中心に、動力棟ほか大小八つの付属棟を約1年で建設する突貫工事であった。

基礎杭にはOJP工法による拡底杭を採用し、躯体工事ではスラブ(内壁と内柱とも)を先行打設し、2層遅れて外壁が追いかけるという手順を採用した。これは、振動をきらう建物の性格から鉄骨部材が大きく設計されているのを利用して、工程の短縮と安全な作業床の早期確保を図るのがねらいであった。これによって工程を大幅に短縮し、所期の目的を十分達成することができた。

IC工場は生産スペースの大半がクリーンルームであり、振動がない気密性の高い部屋が要求される。練り上げた施工計画とSK活動など関係部署の協力と現場員の努力によって、59年6月末、12カ月という短い工期を厳守して工事は完成した。請負金は43億1,200万円(空調設備は別途)にのぼり、所長は中原春雄であった。平成3年に入り、さらに第8工場として請負金約90億円(空調設備は別途)にのぼる大規模な工事に着手した。

ちなみに当工場はメモリー、マイコンの主力工場であり、一つの工場での生産量は世界最大級の量産工場といわれ、とくに作業用のMOSメモリー、超LSIの量産工場として、日本電気の生産体制の中心といわれている。

九州日本電気第7工場
<熊本県>昭和59年6月竣工
発注 九州日本電気
設計 当社
工事概要 IC工場棟/SRC造、5層3F、PH付、延2万4,253㎡ 動力棟/S造、2F、延2,744㎡ 付帯設備棟/S造、平家、ほか7棟、延1,235㎡
九州日本電気第7工場
<熊本県>昭和59年6月竣工
発注 九州日本電気
設計 当社
工事概要 IC工場棟/SRC造、5層3F、PH付、延2万4,253㎡ 動力棟/S造、2F、延2,744㎡ 付帯設備棟/S造、平家、ほか7棟、延1,235㎡

松下電子工業魚津工場

メモリー、マイコンの生産拠点である当工場の工事は、途中、半導体不況などのため一時中断したものの、A・B・C棟等の第1期、第2期工事が昭和62年(1987)3月に完成し、さらに平成元年にC棟の内装工事ほかの第3期工事を5カ月かけて行い、2年から3年にかけてはB棟増設の第4期工事を行った。松下電子工業のもう一つの生産拠点である新井工場はMOSメモリー、バイポーラの主力工場として56年に建設されたが、当社はこの新井工場(請負金10億3,100万円)に続いて同社の主力工場の建設を行ったのであった。

最初に着手したA棟、B棟はRC造の工場で、そのほかに福祉厚生棟、原動力棟など全14棟、総延3万5,023㎡を約半年という超突貫工事で行った。続くC棟ほか全11棟、総延2万992㎡は7カ月の中断を含め約2年で施工した。IC工場の建設はどこも工期が極端に短いことが特徴ともいえ、躯体工事では柱鉄筋はすべて先組み工法とし、梁型枠もすべて地組みとして、外壁はパネル化するなど工期短縮と高所作業の減少を図った。請負金は第1期から第4期までで総額70億3,100万円(土木工事も含む)、所長は高橋仁一から杉山宏男、大江弘に引き継がれた。

松下電子工業魚津工場
<富山県>昭和59年11月竣工(第1期)、昭和62年3月竣工(第2期)、平成元年7月竣工(第3期)
発注 松下電子工業
設計 当社
工事概要 第1期/A棟・B棟(RC造、3F)、福祉厚生棟(SRC造、2F)、原動力棟(S造、平家一部2F)、ほか全14棟、総延3万5,023㎡ 第2期/C棟(RC造、2F)、ほか全11棟、総延2万992㎡
(写真は62年撮影)
松下電子工業魚津工場
<富山県>昭和59年11月竣工(第1期)、昭和62年3月竣工(第2期)、平成元年7月竣工(第3期)
発注 松下電子工業
設計 当社
工事概要 第1期/A棟・B棟(RC造、3F)、福祉厚生棟(SRC造、2F)、原動力棟(S造、平家一部2F)、ほか全14棟、総延3万5,023㎡ 第2期/C棟(RC造、2F)、ほか全11棟、総延2万992㎡
(写真は62年撮影)

進む市街地再開発事業とターミナルの整備

昭和30年代後半以降、都市への人口・産業の集中に起因する都市問題の解決にあたり、しきりに再開発の必要性が叫ばれ、これに応えて「土地区画整理法」(30年4月施行)、「住宅地区改良法」(35年5月施行)、「防災建築街区造成法」(36年6月施行)の再開発3法が整備された。さらに44年(1969)、現在の「都市再開発法」が制定されたのであるが、このほかにも総合設計制度や特定街区制度など再開発を進めるためのさまざまな制度がある。

54年、「都市再開発法」施行10年を迎えたが、この間、全国で多くの再開発事業が企図されながら、調査・企画など準備期間中の費用の裏付けがなく実施に結びつかなかった事例が多かった。そこで、54年にはこれらに対する促進補助、また再開発基金制度設置による準備期間運営のための金融機関借入れに対する保証制度がスタートし、民間再開発関係コンサルタントによる再開発コーディネーター協議会も発足、55年は再開発元年といわれた。こうして、「都市再開発法」に則った再開発は急増したが、当社の施工した市街地再開発事業(平成4年3月末までの受注物件)は右表のとおりとなっている。

こうした市街地再開発事業が駅周辺の整備を目的としたものが多かったのと呼応するかのように、駅自体の整備もこのころ巨大化の一途をたどり、ホテルやショッピングセンター、駐車場など複合化かつ高層化、大規模化したターミナルビルが50年代後半から60年代にかけて多数登場したのであった。

金沢市香林坊第一地区第一種市街地再開発事業(金沢東急ホテル・KOHRINBO109)(JV)
<石川県>昭和60年8月竣工
発注 金沢市香林坊第一地区市街地再開発組合
設計 RIA・TEA設計共同企業体
金沢市香林坊第一地区第一種市街地再開発事業(金沢東急ホテル・KOHRINBO109)(JV)
<石川県>昭和60年8月竣工
発注 金沢市香林坊第一地区市街地再開発組合
設計 RIA・TEA設計共同企業体
所沢駅西口第一種市街地再開発事業「ワルツ」(JV)
<埼玉県>昭和61年3月竣工
発注 所沢市
設計 タカハ都市科学研究所
所沢駅西口第一種市街地再開発事業「ワルツ」(JV)
<埼玉県>昭和61年3月竣工
発注 所沢市
設計 タカハ都市科学研究所
赤羽駅西口地区第一種市街地再開発事業「アピレ・赤羽アボード1」(JV)
<東京都>昭和61年3月竣工
発注 住宅・都市整備公団
設計 住宅・都市整備公団
赤羽駅西口地区第一種市街地再開発事業「アピレ・赤羽アボード1」(JV)
<東京都>昭和61年3月竣工
発注 住宅・都市整備公団
設計 住宅・都市整備公団
芦屋駅北地区第一種市街地再開発事業第2地区(ラポルテ)(JV)
<兵庫県>昭和61年10月竣工
発注 芦屋市
設計 環境再開発研究所
芦屋駅北地区第一種市街地再開発事業第2地区(ラポルテ)(JV)
<兵庫県>昭和61年10月竣工
発注 芦屋市
設計 環境再開発研究所

大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)

3代目の駅舎であった旧大阪駅は当社施工で昭和15年(1940)完成したものであった。大阪の玄関にふさわしい顔と機能をもった近代的ビルを、という国鉄および大阪市民の大きな期待を担って、54年10月新しい大阪ターミナルビルが着工した。高さ122m、延約14万㎡のこの日本最大のターミナルビルは、上部をホテル、下部を百貨店、専門店、駅コンコースとする複合ビルとして計画され、施工は当社(幹事会社)と鹿島建設、清水建設、竹中工務店、間組の5社JVが担当した。

解体工事にあたっては、旧本屋の北面外壁が線路の建築限界に接し、さらにその庇と電車の架線を吊るプラットホーム上屋が線路中央上部で連結した構造となっていたため営業線直近かつ直上の作業を伴い、また地下部分解体終了(55年8月末)まで駅中央コンコースと梅田地下街を結ぶ交通量15万人/日の中央地下連絡道路部分がそのまま旅客通路として使用されていたため、電車停止時間帯の深夜作業など、慎重のうえにも慎重な施工が要求された。

55年1月から開始したOWS工法による地中連続壁は大阪市内で初めての深さ46m、厚さ1m、全長321mというスケールで、土留め・遮水壁とともに本体杭としても使用するウォール ファウンデーション工法であった。また、拡底杭は、旧駅本屋のウエル地業(直径2.6~3.1m)の間隙をぬって配置され、旧ウエルと拡底部の隙間が20~30㎝という設計であったため、施工精度の確保に細心の注意を要した。さらに旧駅舎解体の着工遅れなどから地中梁の解体、切梁兼作業床の構築、拡底杭と続いた工事では4カ月以上の工期短縮を余儀なくされ、多数の大型重機や機材を投入しての凄絶な作業状況が約2カ月続いた。高い地下被圧水への対応を十分に行いつつ、無事ウォールファウンデーション杭36基、OJP工法による拡底杭ほか71基の施工は56年3月末に完了した。

続く躯体工事は地下1階をベースとした逆打ち工法で施工し、地上2階床から地下4階までのSRC造部分および耐水版、基礎梁と、地上27階のS造部分を同時に進めた。地下工事は国鉄高架営業線に直近していたため、駅高架構造物の挙動や変状を常時監視・把握するための綿密な計測管理も実施した。また鉄骨工事では、作業性や安全性を考慮して大梁、小梁、デッキプレートを1ユニットに地組みして建方するなどの工夫を行った。

最盛期には100名を超すJV関係職員が携わったこの大プロジェクトも、58年4月27日に大丸百貨店および専門店が、5月1日に大阪ターミナルホテルがオープンし、ここに完成をみた。請負金は73億5,224万円、設備・鉄骨部材製作、テナント工事は別途で、所長は新開信之であった。なお、当工事は59年BCS賞を受賞した。

大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)
<大阪府>昭和58年4月竣工
発注 日本国有鉄道、大阪ターミナルビル
設計 日本国有鉄道、安井建築設計事務所
工事概要 S造一部SRC造、B4、27F、PH3F、延13万8,500㎡ (左下写真はホテルのラウンジ)
大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)
<大阪府>昭和58年4月竣工
発注 日本国有鉄道、大阪ターミナルビル
設計 日本国有鉄道、安井建築設計事務所
工事概要 S造一部SRC造、B4、27F、PH3F、延13万8,500㎡ (左下写真はホテルのラウンジ)

浜松駅前12街区第一種市街地再開発事業(ホテル棟のみJV)

当地はすでに土地区画整理事業が行われており、昭和54年(1979)11月に土地所有者・借地権者・借家権者約20名が共同ビル化を進めるため街づくり促進協議会を発足させた。当社は、このころから当協議会に協力、事業計画書を提出して市街地再開発事業の手法で開発することを提案した。56年準備組合が設立され、当社は正式にコンサルタント業務を受託して当再開発の事業化を強力に推進していった。業務の主な内容は、事業計画の作成、基本設計、実施設計、権利変換計画作成、権利変換に伴う権利者との折衝、資金計画作成、テナント・デベロッパーの誘致、補助金申請業務などで、一部転出者の土地および借地権の先行取得も行った。

61年1月再開発組合が正式に発足し、再開発ビルはホテル棟とオフィス棟とに決定した(地下1階と地上2階を渡り廊下で接続し一体の建物として計画)。ホテル棟には名鉄ホテルが入居し、当社(幹事会社)と大成建設のJVがその施工に当たり、オフィス棟は第一生命ほかが入居し、当社が単独で施工した。

施工中はホテルの相次ぐプラン変更や労務事情の悪化、また国の補助金を受けるための資料作成など苦労が多かったが、63年3月無事竣工した。「再開発工事は長い年月が必要で、地域に密着した営業活動とアフターケアの連携プレーが大変重要だという意味で学ぶべきことの多い工事でした」と当事業に携わってきた谷口昌幸所長は述べている。請負金は70億5,882万円であった。

浜松駅前12街区第一種市街地再開発事業(第一生命日通ビル、名鉄ホテル)(ホテル棟のみJV)
<静岡県>昭和63年3月竣
発注 浜松駅前12街区第一種市街地再開発組合
設計 善本コンサルティングオフィス
工事概要 第一生命日通ビル/SRC造、B1、14F、延1万4,236㎡ 名鉄ホテル/SRC造、B2、14F、PH付、延2万3,104㎡ (左下写真は名鉄ホテル・ロビー)
浜松駅前12街区第一種市街地再開発事業(第一生命日通ビル、名鉄ホテル)(ホテル棟のみJV)
<静岡県>昭和63年3月竣
発注 浜松駅前12街区第一種市街地再開発組合
設計 善本コンサルティングオフィス
工事概要 第一生命日通ビル/SRC造、B1、14F、延1万4,236㎡ 名鉄ホテル/SRC造、B2、14F、PH付、延2万3,104㎡ (左下写真は名鉄ホテル・ロビー)

あべの橋ターミナル整備計画(JV)

当計画は、上本町ターミナル整備事業(都ホテル大阪を含む)とともに近鉄のターミナル整備計画の二大拠点の一つであった。プロジェクトは南大阪線の立体化工事とともに駅の拡張工事と刷新、周辺の街とのかかわり方の改善、百貨店その他の店舗の拡張と旧店舗の再生等がその主なものであった。

このうち、近鉄南大阪線高架化工事(3.4㎞)は第1工区933mを、当社、奥村組、大日本土木との3社JVで担当し、営業線の直上直下で、高架にする部分では非常に狭い線路間での仮線工事を行い、駅部では地下2~4階に地下駅などを構築する工事を行った。線路切替えはこの間10回にも及んだ。

一方、ターミナルビルの工事は大きく増築工事と改修工事に分けられ、前者を当社(幹事会社)、奥村組、大日本土木の3社JVで、後者を当社(幹事会社)、大日本土木のJVで行った。

ターミナルビル増築工事は、昭和61年(1986)6月から本格的な躯体工事に着手したが、電車が往来している上での工事であり、また現場内に入り込んでいる一般歩行者用の地下道などを確保しつつの難工事となった。しかもこの施工期間途中で、8階建から11階建へと3階分の追加工事(約2,200㎡の増床)が発注されたが、工期は当初のままという要請を受け、この結果、直営業者、店装業者を含め最大1日1,800名を超える作業員を抱えての作業が続いた。

一方、2社JVで行った改修工事は、増築工事と並行して進めたが、当工事の重要なポイントは、既存百貨店を営業しながらの内外装全面リフレッシュ工事と、あべの橋駅を営業しながらの1階コンコース全面改装工事であった。すべての工事を無事故無災害で完了、請負金は土木工事が56億6,400万円、建築工事が143億9,270万円で、設備工事は別途であった。所長は藤波 絃(土木工事)と前田年久(建築工事)である。

あべの橋ターミナルビル(JV)
<大阪府>昭和63年10月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 S造およびSRC造、B4、11F、PH3F、延11万4,844㎡
あべの橋ターミナルビル(JV)
<大阪府>昭和63年10月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 S造およびSRC造、B4、11F、PH3F、延11万4,844㎡

昭和50年代後半の大型オフィスビル

昭和50年代の後半、建設業は冬の時代のさなかにあったが、民間オフィスビル需要は明るさがみられた。57年(1982)春に底を打ったビル需要は、その後堅調に増加傾向をたどり、とくに東京での需要の高まりは、61年以降のビル建設ラッシュの予兆であった。

同じころ、わが国の貿易黒字は急速に拡大し、その額は60年度には57年度の5.6倍強もの増加となり、61年度には9.6倍の897億ドルにも達した。

こうしたことも一つの背景となって、国際的な金融市場を形成しつつあった東京に、外資系金融企業が新しいオフィスを求め始めた。そしてまた、多くの企業が情報化時代の到来に対応して管理機能を東京に集中させはじめたのであった。このほか、輸出関連企業など業績向上の著しい企業の本社新築、リニューアルもみられ、オフィスビル需要は着実に拡大していった。

当社の施工により50年代後半~61年に竣工した銀行ビルとして、広島興銀ビル(JV)、三菱銀行本店(JV)が55年に完成したのに続き、北陸銀行室町中央ビル(JV)、日本銀行大阪支店営業所本館改築(JV)、沖縄銀行本店(JV)、福岡相互銀行本館増改築、駿河銀行本店(JV)、チェースマンハッタン銀行乃木坂オフィスビルディングが代表的なものであった。

自社ビルとしては東京ガス横浜ビルディング、日本電信電話公社神戸料金局(第2期)(JV)、野村證券本社別館ビル、トヨタ自動車東京ビル(JV)、住友商事丸の内ビル(名古屋)(JV)、島野工業本社社屋、日立本社ビル(JV)、農協ビル(大阪)、ニチメンビルディング(JV)、三菱重工業神戸造船所3号館(JV)、TIS東京センタービル(JV)、NTT白鬚ビル(JV)、キヤノン下丸子本社C棟D棟、レナウン大阪支店新町別館、トーヨコ新本社ビル(JV)、福島県農協会館、NTT品川TWINS(JV)があった。

賃貸オフィスビルとしては国際新赤坂ビル東館、第38興和ビル(興和インターナショナル)、日比谷国際ビルヂング(JV)、秀和芝パークビル(JV)、近鉄堂島ビル(JV)、蚕糸会館、船場東洋ビル(JV)、オーク札幌ビル、野村不動産大阪ビル(JV)、明治池袋ビル、オーク仙台ビル、赤坂エイトワンビル、オーク南麻布ビルディング、天神三井ビルディング(JV)、御堂筋センタービル(JV)、興和築地ビル、D.S.K.ビル、淡路町大阪ビルヂング(JV)、第三松豊ビルディング、オーク池袋ビルディングがあった。(保険会社のビルは前章にて既述。)

三菱銀行本店(JV)
<東京都>昭和55年6月竣工
発注 三菱銀行
設計 三菱地所
三菱銀行本店(JV)
<東京都>昭和55年6月竣工
発注 三菱銀行
設計 三菱地所
日比谷国際ビルヂング(JV)
<東京都>昭和56年10月竣工
発注 三菱地所
設計 三菱地所
日比谷国際ビルヂング(JV)
<東京都>昭和56年10月竣工
発注 三菱地所
設計 三菱地所
近鉄堂島ビル(JV)
<大阪府>昭和58年3月竣工
発注 近鉄不動産
設計 日建設計
近鉄堂島ビル(JV)
<大阪府>昭和58年3月竣工
発注 近鉄不動産
設計 日建設計
農協ビル(大阪)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 全国農業協同組合連合会、全国共済農業協同組合連合会
設計 全国農協設計
農協ビル(大阪)
<大阪府>昭和58年10月竣工
発注 全国農業協同組合連合会、全国共済農業協同組合連合会
設計 全国農協設計
船場東洋ビル(JV)
<大阪府>昭和58年7月竣工
発注 東洋不動産
設計 当社
船場東洋ビル(JV)
<大阪府>昭和58年7月竣工
発注 東洋不動産
設計 当社
野村不動産大阪ビル(JV)
<大阪府>昭和58年12月竣工
発注 野村不動産
設計 野村不動産
野村不動産大阪ビル(JV)
<大阪府>昭和58年12月竣工
発注 野村不動産
設計 野村不動産
ニチメンビルディング(JV)
<大阪府>昭和59年2月竣工
発注 ニチメン
設計 大建設計
ニチメンビルディング(JV)
<大阪府>昭和59年2月竣工
発注 ニチメン
設計 大建設計
NTT白鬚ビル(JV)
<東京都>昭和59年12月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
NTT白鬚ビル(JV)
<東京都>昭和59年12月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
第三松豊ビルディング
<大阪府>昭和61年5月竣工
発注 松豊土地建物
設計 当社
第三松豊ビルディング
<大阪府>昭和61年5月竣工
発注 松豊土地建物
設計 当社
レナウン大阪支店新町別館
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 レナウン
設計 日建設計
レナウン大阪支店新町別館
<大阪府>昭和60年11月竣工
発注 レナウン
設計 日建設計
秀和芝パークビル(JV)
<東京都>昭和57年7月竣工
発注 秀和
設計 秀和(意匠設計)、松井源吾+泉諭設計事務所(構造設計)
秀和芝パークビル(JV)
<東京都>昭和57年7月竣工
発注 秀和
設計 秀和(意匠設計)、松井源吾+泉諭設計事務所(構造設計)
赤坂エイトワンビル
<東京都>昭和60年2月竣工
発注 美松
設計 当社
赤坂エイトワンビル
<東京都>昭和60年2月竣工
発注 美松
設計 当社
三菱重工業神戸造船所3号館(JV)
<兵庫県>昭和59年8月竣工
発注 三菱重工業
設計 当社
三菱重工業神戸造船所3号館(JV)
<兵庫県>昭和59年8月竣工
発注 三菱重工業
設計 当社
福島県農協会館
<福島県>昭和61年10月竣工
発注 福島県農業協同組合中央会、福島県信用農業協同組合連合会、福島県経済農業協同組合連合会、福島県共済農業協同組合連合会、福島県厚生農業協同組合連合会
設計 全国農協設計
福島県農協会館
<福島県>昭和61年10月竣工
発注 福島県農業協同組合中央会、福島県信用農業協同組合連合会、福島県経済農業協同組合連合会、福島県共済農業協同組合連合会、福島県厚生農業協同組合連合会
設計 全国農協設計

国際新赤坂ビル東館

当ビルは国際自動車の発注、三菱地所設計のツインタワービルの1棟で、東館は地下3階、地上24階で当社が、西館は地下3階、地上18階で大成建設がそれぞれ単独で施工した。各棟の施工業者は別々であったが、設備的には一つの建物で、東館には特高変電設備、発電機設備、空調プラント設備が設置され、西館には上水および中水道設備が設置された。熱源は、東館の地下3階に東京ガスが設置した地域冷暖房施設によっている。また、両館の足元には、地下掘込み式のサンクンガーデンが設けられ、歩道と一体化した人工地盤の緑豊かなパブリックスペースとなっている。

東館は延4万7,900㎡であったが、東京でも有数の商業地・赤坂で、しかも25カ月の短期間に完成しなければならないということで、昭和53年(1978)9月の着工前の計画段階から軟弱地盤への対応、根伐残土および工事用資機材の搬出入の調整が最大の問題点であった。軟弱地盤の対応としては、山留壁にOWS壁を採用し、根伐残土および資機材の搬出入は西館工事と使用ルートを分けることによって輻輳を避けた。請負金は122億5,058万円、所長は岸 隆司であった。

国際新赤坂ビル東館
<東京都>昭和55年9月竣工
発注 国際自動車
設計 三菱地所
工事概要 S造一部RC造およびSRC造、B3、24F、PH付、延4万7,900㎡
国際新赤坂ビル東館
<東京都>昭和55年9月竣工
発注 国際自動車
設計 三菱地所
工事概要 S造一部RC造およびSRC造、B3、24F、PH付、延4万7,900㎡

トヨタ自動車東京ビル(JV)

当ビルは、隣接して水戸徳川家の庭園であった小石川後楽園があり、この周辺の貴重な景観を壊さぬよう、とくに配慮された設計となっている。具体的には総合設計制度の適用を受け、形を単純化して敷地の南側に寄せて配置し、後楽園寄りの地下階上部には庭園を、後楽園沿いの部分には遊歩道を設け、また容積の4割を地下(地下5階)とすることで高層棟の高さ(地上19階)を抑え、7,905㎡の敷地の78%は空地という配置である。このように当建物は緑との調和を重視しただけでなく、建物に自然採光を積極的に取り入れ、外気利用による空調をはじめ高い効率の省エネルギー化も実現している。さらにはグレードの高い耐震設計や、非常時にはこの地域一帯への消火活動にも利用できる総容量100tの地下貯水槽を備えるなど、地域社会への調和と貢献も明確に意識したビルとなっている。

施工は当社(幹事会社)、竹中工務店、清水建設の3社JVで、工期は昭和55年(1980)2月から24カ月と、地下が5階もあるビルとしては異例の短工期であった。土留めにはOWS工法を用いたが、その面績は1万358㎡に及び、36年大阪の新大ビル建設工事でのOWS工法実用化からちょうど150万㎡を突破する記念すべき工事となった。地下掘削では高層棟部分の地下5階分を先行掘削し、この地下躯体が構築され上階に鉄骨が上がり始めると地下階のみの部分の掘削を進めるなど、工期短縮を掘削工事で実現し、さらに躯体工事でも数々の工夫を行い、57年1月予定どおり竣工した。請負金は86億9,950万円、内外装用花崗石と昇降機など一部設備機器は支給であった。所長は松井家弘である。

トヨタ自動車東京ビル(JV)
<東京都>昭和57年1月竣工
発注 トヨタ自動車
設計 日建設計 工事概要 S造およびRC造一部SRC造、B5、19F、PH付、延4万8,910㎡ (左下写真は玄関ロビー)
トヨタ自動車東京ビル(JV)
<東京都>昭和57年1月竣工
発注 トヨタ自動車
設計 日建設計 工事概要 S造およびRC造一部SRC造、B5、19F、PH付、延4万8,910㎡ (左下写真は玄関ロビー)

興和築地ビル

隅田川のほとり、東京でのウォーターフロント開発の先がけともいえる同ビルは、延約4万㎡の超高層大型オフィスビルながら、旧建物の解体を含め工期は約27カ月と厳しい条件下、昭和58年(1983)9月工事はスタートした。道路が敷地の1面にしかなく、しかも築地市場の近くとあって、時間によっては車の通行が困難な立地であった。

解体に続く地下工事では、地下水位が高いため、土留めと止水を兼ねて四周ともOWS工法による地中連続壁(1万7,906㎡)を築造し、さらにディープウェルを6カ所設置して地下水対策とした。敷地には旧建物の基礎となっていた長さ15mに及ぶ松杭がビッシリ打たれたままとなっており、さらに旧護岸も敷地を横断していたため、このOWS工事は大いに難航した。

外壁は煉瓦色のタイル打込みPC板で、その縦連層の外装が人目を引き、また約2,800㎡の公開空地にある大樹や高い滝は、近隣住民に憩いの場を提供している。請負金は107億1,516万円、所長は須藤 昭であった。

興和築地ビル
<東京都>昭和60年10月竣工
発注 興和不動産
設計 日本設計事務所
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B2、24F、PH付、延4万645㎡
興和築地ビル
<東京都>昭和60年10月竣工
発注 興和不動産
設計 日本設計事務所
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B2、24F、PH付、延4万645㎡

大学新設ブーム再び

昭和62年(1987)に公私立大学8校、短大12校が開校したが、これは、第1次ベビーブームのとき誕生した団塊の世代が大学進学時期を迎えた40年代前半以来の新設ブームであった。このほかに大学の学部増設13校、短大の学科増設12校もあり、さらに63年には流通科学大学など新設16校が開校した。大学・短大の新設申請も増え続け、62年度~平成元年度の間に計60件が認可を受けた。一方、地域振興の目玉として自治体の大学誘致熱も高まっていった。こうしたなか、平成元年春の大学・短大の進学率は女子が史上最高の36.8%を記録し、男子(35.8%)を初めて上回った。

58年以降の当社が施工した新設大学・短大などの校舎は、創価女子短期大学(校舎棟・体育館)、神田外語大学(JV)、姫路獨協大学、東京工科大学12号館(研究棟)、流通科学大学(JV)、石巻専修大学校舎等(JV)などがその代表的なものであった。

また、学部増設に伴う建設工事としては、上野学園校舎、岡山女子短期大学第3期、帝塚山大学経済学部校舎、早稲田大学所沢校地人間総合科学部・人間総合研究センター棟(JV)、慶應義塾(慶應大他)藤沢新学部(第1期)研究講義棟D・E・図書館棟(JV)、関東学院大学小田原校(JV)などがあり、また移転に伴う工事としては、法政大学多摩校地(JV)、同志社大学田辺キャンパス(JV)、東洋英和女学院短期大学校舎(JV)、大阪電気通信大学四條畷学舎などがあった。

ほかに明治大学100周年記念図書館・駿河台研究棟(JV)、東京電機大学神田校舎(11号館)、城西大学総合体育館・学生ホール、札幌学院大学A・C・D棟、高野山学園大学校舎、拓殖大学管理研究棟(JV)、大阪産業大学本館(JV)、甲南大学理学部棟、千葉敬愛短期大学、武庫川女子大学薬学部学舎、甲南女子大学芦原講堂・学生会館、大同工業大学図書館・白水実験棟他、KDN街区ビル(エステック)(JV)、創価大学松風センターおよび工学部棟、芝浦工業大学斉藤記念館およびシステム工学部棟、国立音楽大学6号館(JV)、文理学園NB∪情報センターなど多数にのぼった。

また、予備校建設工事も相次ぎ、その代表的なものには高宮学園津田沼ビル(代々木ゼミナール)、浜田ビル(駿台予備学校横浜校)、早稲田予備校仙台13時ビル、白水三条ビル(河合塾京都校)、佐鳴学院総本部ビル、文理学院新館(河合塾)(JV)などがあった。さらに高校の工事も相次ぎ、精華学園泉北学舎、兵庫県立川西北陵高等学校、近畿大学附属和歌山高等学校(JV)、佐野日本大学高等学校管理棟・研究棟、聖パウロ学園がその代表的なものであった。

そのほか、福岡雙葉学園本館・小学校・体育館他がこの時期完成し、平成に入り岩崎学園新横浜校舎・新横浜2号館(JV)、スタンフォード日本センター、愛媛県生涯学習センター、駿台ホテル観光事業専門学校・芦屋芸術情報専門学校などが完成している。

これらに先立って57年10月国立音楽大学講堂(59年BCS賞受賞)なども完成した。

東京電機大学神田校舎(11号館)
<東京都>昭和59年5月竣工
発注 東京電機大学
設計 松田平田坂本設計事務所
東京電機大学神田校舎(11号館)
<東京都>昭和59年5月竣工
発注 東京電機大学
設計 松田平田坂本設計事務所
同志社大学田辺キャンパス(JV)
<京都府>昭和61年2月竣工(建築工事)
昭和62年2月竣工(土木工事)
発注 同志社
設計 (土木)日建設計、牧草コンサルタンツ (建築)日建設計
(左下写真は研究棟〈正面〉と図書館〈右〉)
同志社大学田辺キャンパス(JV)
<京都府>昭和61年2月竣工(建築工事)
昭和62年2月竣工(土木工事)
発注 同志社
設計 (土木)日建設計、牧草コンサルタンツ (建築)日建設計
(左下写真は研究棟〈正面〉と図書館〈右〉)
KDN街区ビル(エステック)(JV)
<東京都>平成元年8月竣工
発注 工学院大学、第一生命、日本生命
設計 日本設計事務所
KDN街区ビル(エステック)(JV)
<東京都>平成元年8月竣工
発注 工学院大学、第一生命、日本生命
設計 日本設計事務所
東京工科大学12号館(研究棟)
<東京都>昭和62年6月竣工
発注 日本電子工学院
設計 久米建築事務所
東京工科大学12号館(研究棟)
<東京都>昭和62年6月竣工
発注 日本電子工学院
設計 久米建築事務所
関東学院大学小田原校(JV)
<神奈川県>平成3年2月竣工
発注 関東学院
設計 教育施設研究所
関東学院大学小田原校(JV)
<神奈川県>平成3年2月竣工
発注 関東学院
設計 教育施設研究所
流通科学大学(JV)
<兵庫県>昭和63年2月竣工
発注 中内学園
設計 日本設計事務所
流通科学大学(JV)
<兵庫県>昭和63年2月竣工
発注 中内学園
設計 日本設計事務所
早稲田予備校仙台13時ビル
<宮城県>昭和62年2月竣工
発注 早稲田学園
設計 砧建築綜合研究所、当社
早稲田予備校仙台13時ビル
<宮城県>昭和62年2月竣工
発注 早稲田学園
設計 砧建築綜合研究所、当社

姫路獨協大学

姫路獨協大学は、文部省が提唱する公私協力方式第1号の大学で、姫路市が官民一体となって誘致運動を展開した大学であった。当社の設計によるキャンパスは、斜面の高低差を巧みに利用した三つの広場を中心に、アカデミックな場とコミュニケーションの場が有機的に広がるよう設計されている。キャンパスには当社開発の光LAN利用のBILCON-∑NETを導入しているが、これは施設管理としての空調や防災・防犯システムおよび教育システム、OA機器とも連携したものである。こうして「インテリジェント・キャンパス」の名にふさわしい大学として、昭和62年(1987)4月、2学部600人からスタートした。

工事に先立って旧施設(県畜産試験場)の解体、土地造成整備が行われ、本部棟の工事が始まったのは60年11月であった。厳しい工期ながらも全工期無災害を樹立し、62年労働大臣進歩賞を受賞し、さらに第1回姫路市景観賞も受賞した。請負金は53億7,680万円、所長は難波喬雄で、設計は落合正明であった。

姫路獨協大学
<兵庫県>昭和62年3月竣工
発注 獨協学園
設計 当社
工事概要 本部棟/SRC造、B1、10F、PH2F、延1万5,085㎡
校舎棟/RC造、4F、PH付、延1万1,210㎡
体育館/RC造一部S造、B1、2F、延2,515㎡ ほか総延2万9,574㎡
姫路獨協大学
<兵庫県>昭和62年3月竣工
発注 獨協学園
設計 当社
工事概要 本部棟/SRC造、B1、10F、PH2F、延1万5,085㎡
校舎棟/RC造、4F、PH付、延1万1,210㎡
体育館/RC造一部S造、B1、2F、延2,515㎡ ほか総延2万9,574㎡

武庫川女子大学薬学部学舎

平成元年(1989)、学院創立50周年の記念事業の一環として、老朽化していた薬学部の新校舎建設が計画された。新校舎は建設地が東洋不動産の敷地であった関係上、東洋不動産が総合請負し、当社に設計・施工で発注した。

敷地約1万3,270㎡に管理・研究棟、実習棟、講義棟、図書館棟の4棟、総延2万㎡余を建設するもので、昭和61年8月工事に着手した。静かな環境のなかでの工事のため近隣問題に手間どったものの、その後、工事は順調に進み、PHC杭の中掘り工法や大スパン部のPC工法など技術面でも工夫を行って施工に当たった。

設備面では空調、照明、衛生設備に可能なかぎり省エネルギー手法を取り入れ、高度情報化へ対応した数々の設備を設け、また、実験廃水・廃気の中和・洗浄、脱臭処理、薬品類保管の管理システムなど薬学部に特徴的な設備も完備している。さらに設備・防災・防犯管理を一体化したコンピュータによる総合管理システムを導入し、時代のニーズに応えるだけでなく、近未来をも意識した最新技術を採用し「インテリジェント・キャンパス」を実現している。請負金は62億2,710万円、所長は内藤晴道で、設計は市嶋久嗣であった。

武庫川女子大学薬学部学舎
<兵庫県>昭和62年10月竣工
発注 武庫川学院、東洋不動産
設計 当社
工事概要 管理・研究棟/RC造、B1、5F、PH付、延8,970㎡
実習棟/PRC造一部RC造、B1、5F、PH付、延5,314㎡
講義棟/PRC造、4F、PH付、延4,158㎡
図書館/RC造、2F、延1,528㎡ ほか総延2万2,427㎡(左下写真はエントランスホール)
武庫川女子大学薬学部学舎
<兵庫県>昭和62年10月竣工
発注 武庫川学院、東洋不動産
設計 当社
工事概要 管理・研究棟/RC造、B1、5F、PH付、延8,970㎡
実習棟/PRC造一部RC造、B1、5F、PH付、延5,314㎡
講義棟/PRC造、4F、PH付、延4,158㎡
図書館/RC造、2F、延1,528㎡ ほか総延2万2,427㎡(左下写真はエントランスホール)

医療施設の大規模化

戦後一貫して伸び続けてきた病院数の増加率が、昭和60年(1985)は戦後最低となった。しかし、ベッド数100床以上の中・大型病院は逆に増え、初めて全病院の過半数を超えた。これは小規模病院の経営が難しくなっている現実を反映しており、以降、病院の大型化は一段と進んでいった。一方、各県ごとに病床数などを定める地域医療計画づくりが始まったことにより駆け込み増床する病院が増え、61年には全国の病院・病床数はその対前年増加率が6年ぶりに上昇に転じた。

60年以降当社が施工した代表的な病院として、静岡赤十字病院(増改築)、高知赤十字病院病棟、東京医科大学新病院(JV)、岡山大学医学部附属病院外来診療棟、名古屋徳洲会病院、尼崎病院(移転)(JV)、県立がんセンター新潟病院(JV)、聖隷三方原病院2号館、春日部市立病院、青森市民病院(JV)、医仁会武田総合病院、東京大学医学部附属病院本院新中央診療棟、下関市立中央病院(JV)、三楽病院(JV)、神戸リハビリテーション病院、札幌ひばりが丘病院、小松市民病院(JV)、東大和病院、弘前大学医学部附属病院病棟、公立学校共済組合近畿中央病院病棟(第2期)、東海記念病院、横浜市立大学医学部附属病院救命救急センター(JV)、島津メディカルプラザ、大阪大学医学部附属病院病棟・診療棟(I及びIの2)(JV)、明石市立市民病院(JV)、庄内余目病院、東邦大学医学部附属佐倉病院(JV)、済生会兵庫県病院がある。

平成4年現在、(仮称)大阪市総合医療センター(JV)、大阪警察病院(JV)、聖路加国際病院(JV)など、かつてない大規模な病院を建設中である。また、愛媛県医療技術短期大学、順天堂医療短期大学など看護や医療技士などの養成学校や、大規模な老人ホーム浴風会南陽園も建設した。

静岡赤十字病院(増改築)
<静岡県>昭和60年2月竣工
発注 日本赤十字社静岡赤十字病院
設計 内藤建築事務所
静岡赤十字病院(増改築)
<静岡県>昭和60年2月竣工
発注 日本赤十字社静岡赤十字病院
設計 内藤建築事務所
公立学校共済組合近畿中央病院(第2期)
<兵庫県>平成元年5月竣工
発注 公立学校共済組合
設計 内藤建築事務所
公立学校共済組合近畿中央病院(第2期)
<兵庫県>平成元年5月竣工
発注 公立学校共済組合
設計 内藤建築事務所
東京医科大学新病院(JV)
<東京都>昭和60年12月竣工
発注 東京医科大学
設計 伊藤喜三郎建築研究所
東京医科大学新病院(JV)
<東京都>昭和60年12月竣工
発注 東京医科大学
設計 伊藤喜三郎建築研究所
庄内余目病院
<山形県>平成3年6月竣工
発注 インターナショナル・ホスピタルサービス
設計 新都計画
庄内余目病院
<山形県>平成3年6月竣工
発注 インターナショナル・ホスピタルサービス
設計 新都計画
青森市民病院(JV)
<青森県>昭和62年6月竣工
発注 青森市
設計 佐藤武夫設計事務所
青森市民病院(JV)
<青森県>昭和62年6月竣工
発注 青森市
設計 佐藤武夫設計事務所
浴風会南陽園
<東京都>平成3年3月竣工
発注 浴風会
設計 信設計事務所
浴風会南陽園
<東京都>平成3年3月竣工
発注 浴風会
設計 信設計事務所

東京大学医学部附属病院本院新中央診療棟

旧東大病院は昭和28年(1953)以降段階的に整備してきたもので、これらの諸施設の老朽化に伴い改築計画が立案され、当社はこのうち新中央診療棟と、病院施設全体へのエネルギー供給を目的とした設備管理棟2棟ほかを施工した。59年5月、既存建物(10棟)の解体に取りかかったが、この段階で江戸遺跡が発見され、以降1年にわたって工事が中断した。

61年7月、建物全体の50%の発掘調査が完了した時点で工事を再開した。当建物では、たとえば核医学部では放射性同位元素(RI)に対する防御および管理区域内の汚染防止対策、放射線部ではX線の遮蔽対策、また中央手術部ではクリーン度の確保や電磁波シールドルームの性能確保など各部門ごとに異なった機能が要求され、現場はそれぞれ問題点の把握に始まり、改善策の検討、試験施工まできめ細かに対応しながら品質管理に取り組んだ。

工事は最終的には3年半に及んだが、その間、打設中のコンクリートの天端位置や充塡状況などの確認作業を自動化したセンサーの開発に成功、品質向上と省力化を実現し、当社の第3回SKサークル大会で金賞を受賞した。また、このセンサーは特許申請し、商品名「ぴかりコン」として売り出された。請負金は45億3,000万円(設備工事は別途)、所長は塩釜寅男であった。

東京大学医学部附属病院本院新中央診療棟
<東京都>昭和62年8月竣工(設備管理棟)
昭和62年10月竣工(新中央診療棟)
発注 東京大学
設計 新中央診療棟/岡田新一設計事務所、東京大学 設備管理棟/東京大学、日本技術開発
工事概要 設備管理棟/RC造、B2、2F、PH付、ほか総延4,352㎡ 新中央診療棟/SRC造、B1、4F、PH2F、ほか総延1万6,891㎡
(写真は新中央診療棟)
東京大学医学部附属病院本院新中央診療棟
<東京都>昭和62年8月竣工(設備管理棟)
昭和62年10月竣工(新中央診療棟)
発注 東京大学
設計 新中央診療棟/岡田新一設計事務所、東京大学 設備管理棟/東京大学、日本技術開発
工事概要 設備管理棟/RC造、B2、2F、PH付、ほか総延4,352㎡ 新中央診療棟/SRC造、B1、4F、PH2F、ほか総延1万6,891㎡
(写真は新中央診療棟)

ゆとり追求・豊かさ実感(1)

文化・芸術・スポーツ・イベント施設の建設

昭和60年(1985)の『建設白書』では「国民総生産、消費水準といったフロー面ではかつてに比べ格段に豊かになった。しかしながら、国民生活の現状をみると、高度で多様な消費生活を享受する一方で、時間的にも空間的にも十分なゆとりに欠ける面もみられる。基礎的なニーズの充足をみたいま、真の豊かさは生活のゆとりの中にこそ実現されるものであり、このため、その基盤となる生活空間の総合的な質の向上が求められている」と述べている。一方、所得の向上は人々のレジャー志向を顕在化させ、余暇支出を急速に伸ばしていった。こうした状況を背景に、この時期、各種博物館や科学館、図書館などの文化関係施設や、音楽・美術など芸術を楽しむ施設、そしてスポーツ施設、イベント会場なども多く建設されていった。

58~61年の当社施工の代表的博物館には、苫小牧市博物館・同埋蔵文化財調査センター(JV)、彦根城博物館(JV)があり、図書館では福島県立図書館が大きなものであった。公共文化センターとしては、紀南文化会館(JV)、九州厚生年金会館(JV)、岸和田市立文化会館、三郷市文化会館、三原リージョンプラザ(JV)、岐阜市文化センター(JV)、宇治市文化センター、下北文化会館があり、さらにクラブ関西や私立学校教職員共済組合の広島ガーデンパレスなど各団体の施設も施工した。また、大阪に大槻清韻会能楽堂が58年3月に竣工し、東京に国立総合児童センター「こどもの城」(JV)が完成したのも60年9月のことであった。

スポーツ施設では、枚方市立総合体育館、岩出町民総合体育館(和歌山県)、仙台市民体育館(JV)がその代表的なもので、前述の三原リージョンプラザ(JV)にも体育館が含まれていた。

各団体が大規模な保養所を建設する例も出始め、当社施工の代表的なものとして、厚生年金大沼保養所(JV)がある。公園整備も相次ぎ、名古屋港公園の整備に伴う名古屋港ポートビル(JV)のほか、兵庫県立高砂海浜公園、兵庫県稲見町天満大池公園、横須賀市三笠公園(JV)(62年3月竣工)なども施工した。また、大阪国際見本市新会場「インテックス大阪」(JV)、ツイン21MIDシアター(大阪)などイベント会場の建設にも当社は携わっている。さらに神戸市ではユニークな福祉施設「しあわせの村」を建設、当社は造成工事や医療施設工事などを担当、各々60年9月、63年4月完成した。

これらのうちインテックス大阪(JV)(61年)、九州厚生年金会館(JV)(61年)、苫小牧市博物館・同埋蔵文化財調査センター(JV)(62年)、ツイン21(62年)、彦根城博物館(JV)(63年)はBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

苫小牧市博物館・同埋蔵文化財調査センター(JV)
<北海道>昭和60年9月竣工
発注 苫小牧市
設計 都市設計研究所
苫小牧市博物館・同埋蔵文化財調査センター(JV)
<北海道>昭和60年9月竣工
発注 苫小牧市
設計 都市設計研究所
宇治市文化センター
<京都府>昭和59年9月竣工
発注 宇治市
設計 佐藤武夫設計事務所
宇治市文化センター
<京都府>昭和59年9月竣工
発注 宇治市
設計 佐藤武夫設計事務所
九州厚生年金会館(JV)
<福岡県>昭和59年2月竣工
発注 社会保険庁
設計 安井建築設計事務所
九州厚生年金会館(JV)
<福岡県>昭和59年2月竣工
発注 社会保険庁
設計 安井建築設計事務所
枚方市立総合体育館
<大阪府>昭和58年3月竣工
発注 枚方市
設計 枚方市
枚方市立総合体育館
<大阪府>昭和58年3月竣工
発注 枚方市
設計 枚方市
岐阜市文化センター(JV)
<岐阜県>昭和59年9月竣工
発注 岐阜市
設計 板倉建築研究所
岐阜市文化センター(JV)
<岐阜県>昭和59年9月竣工
発注 岐阜市
設計 板倉建築研究所

福島県立図書館

福島市の信夫山を背にした大学移転跡地約6万㎡に、県立の図書館と美術館を中心とする文化と憩いの場の建設が計画され、当社はこのうち図書館工事を単独で施工した。支保工不要のオースト床版や型枠兼用の断熱材打ち込み壁を採用し、また先付けタイル(2,650㎡)では桟木法や目地ます法を大小のタイルにより使い分けて能率的に精度よく施工した。昭和59年(1984)3月無事竣工、請負金は22億7,827万円、所長は菅原勝男であった。

福島県立図書館
<福島県>昭和59年3月竣工
発注 福島県
設計 石本建築事務所
工事概要 SRC造、3F、PH付、延9,138㎡
福島県立図書館
<福島県>昭和59年3月竣工
発注 福島県
設計 石本建築事務所
工事概要 SRC造、3F、PH付、延9,138㎡

大阪国際見本市新会場「インテックス大阪」(JV)

市制100周年記念事業の一環として、大阪市が港区にあった国際見本市会場を南港の一角に新たに建設したもので、あたかも御堂筋にガラスの屋根を架けたかのようなインテックスプラザを中心に、7棟の展示館とセンタービル、アーケード・回廊で構成されている。全体は延7万4,918㎡、このうち当社(幹事会社)と松村組のJVが担当したのは、インテックスプラザ、センタービル、5号館、アーケード・回廊その他の延2万4,962㎡で、着工は昭和59年(1984)2月であった。

工事のハイライトは、この会場のシンボルともいえるインテックスプラザの、わが国初の恒久的な鉄骨骨組膜構造物の施工であった。直径89㎜のパイプ6,593本と、最大18カ所の接続ネジ穴をもつボールジョイント1,685個で構成された立体トラスによる半円筒型鉄骨フレーム(約40m×70m×高さ30m)に、テフロンコーティングした半透明の膜を全面に張ったものである。

高さ4mのRC造独立柱に支えられる鉄骨フレームは、10ブロックに分割し、地上で組み立て、これをクレーンで最高高さ30mまで吊り上げた。またアーチの上部は、高さ25mに内部移動式足場を設置し、この足場上で組立てを行った。一方、膜は、鉄骨フレームの外部に巨大なアーチ型移動足場を設置して、膜を特殊治具にロール状に巻いて張っていった。請負金は63億5,253万円、所長は村上英憲であった。なお、当工事は61年BCS賞を受賞した。

大阪国際見本市新会場「インテックス大阪」(JV)
<大阪府>昭和60年4月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市、東畑建築事務所
工事概要 管理棟(センタービル)/RC造一部SRC造、B1、2F、PH付 5号館/S造一部SRC造、3F インテックスプラザ/S造一部SRC造、1F一部2Fほか総延2万4,962㎡
(写真はインテックスプラザ)
大阪国際見本市新会場「インテックス大阪」(JV)
<大阪府>昭和60年4月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市、東畑建築事務所
工事概要 管理棟(センタービル)/RC造一部SRC造、B1、2F、PH付 5号館/S造一部SRC造、3F インテックスプラザ/S造一部SRC造、1F一部2Fほか総延2万4,962㎡
(写真はインテックスプラザ)

海外での日本企業受注1兆円の大台へ

日本の建設業の海外での受注高(日系の海外現地法人の受注分を含む)は、1983年度(昭和58年度)に初めて1兆円を突破した。受注先は東南アジア、中東などの発展途上国が主体であったが、米国、オーストラリアなどに対する受注活動が本格化してきたことも寄与している。しかし、1986年度になると海外工事はスローダウンして、1兆円の大台を割り込み、受注先も過半は米国やオーストラリアが占めた。発展途上国のリスクを避けて先進国での受注活動を進めた結果がここにきて現れてきたのである。こうしたことが日米建設摩擦を招き、今度は日本への海外企業の参入問題がクローズアップされ始めた。

当社における海外工事にもこうした傾向ははっきりとみられ、シンガポールではNOLビルディング、デルフィオーチャードビルディング、ツンセンター、ウルパンダン下水管渠、トレジャリービルディング、タンピネス地区サンドピット処理が、インドネシアではマニンジョウ水力発電所土木(JV)、スミットマスタワー(JV)が、サウジアラビアでは現地法人SJCC社による外交官団地造園工事、ジュベイル工業都市住宅地開発702―C01工区、当社施工の在サウジアラビア日本大使館など、この時代の最後を飾るかのような大型工事が1983~1986年に次々完成したのであった。また、タイではNMB(ミネベア)タイランドアユタヤ工場(第2・第3・第4期及び独身寮)、アメリカンインターナショナルタワー(AIA新オフィスビル)(以上タイ大林)、PTTガス分離プラント(タイ大林と当社のJV)、バンコック送水トンネル5B工区(当社施工)などの工事がこの時期竣工した。

一方、米国ではサンフランシスコ市下水道工事(1983年竣工)に続いてその拠点を各地に広げ、ストロベリートンネル(ユタ州)、ドローストンネル及び開水路(コロラド州)、放射性廃棄物処理テストプラント立坑トンネル(ニューメキシコ州)、フェニックス・カサグランデハイウェイ排水トンネル(JV)(アリゾナ州)など次々と公共土木工事を行う一方、東部地域での本格的なビル建設の第1号工事であったエバートラストビルが1986年10月完成した。

また、日本経済の発展とともにODA工事も活発化し、ビルマで看護学校、タイで中央造林研究所および訓練センターなどの工事に携わった。そして、中国では戦後初の本格的工事であった上海虹橋国際空港ターミナルビル増改築が1984年10月完成するなど、当社の活躍の舞台は世界各地へ広がっていった。

デルフィオーチャードビルディング
<シンガポール>1984年12月竣工
発注 ヤマシンエンタープライズ
設計 アーバンライフ建築事務所
デルフィオーチャードビルディング
<シンガポール>1984年12月竣工
発注 ヤマシンエンタープライズ
設計 アーバンライフ建築事務所
NOLビルディング
<シンガポール>1983年12月竣工
発注 ネプチューン・オリエントライン
設計 アーキテクト61
NOLビルディング
<シンガポール>1983年12月竣工
発注 ネプチューン・オリエントライン
設計 アーキテクト61
ツンセンター
<シンガポール>1985年1月竣工
発注 アイランド・インヴェストメント・エイジェンシイ
設計 R.S.Pアーキテクト・プランナーズ・アンド・エンジニアーズ
(写真手前ブルーのビルがツンセンター)
ツンセンター
<シンガポール>1985年1月竣工
発注 アイランド・インヴェストメント・エイジェンシイ
設計 R.S.Pアーキテクト・プランナーズ・アンド・エンジニアーズ
(写真手前ブルーのビルがツンセンター)
タンピネス地区サンドピット処理
<シンガポール>1986年6月竣工
発注 シンガポール政府住宅開発局
設計 シンガポール政府住宅開発局
(写真は工事中)
タンピネス地区サンドピット処理
<シンガポール>1986年6月竣工
発注 シンガポール政府住宅開発局
設計 シンガポール政府住宅開発局
(写真は工事中)
バンコック送水トンネル5B工区
<タイ・バンコック市>1983年6月竣工
発注 バンコック首都圏水道局
設計 Camp Dresson & Mckae
バンコック送水トンネル5B工区
<タイ・バンコック市>1983年6月竣工
発注 バンコック首都圏水道局
設計 Camp Dresson & Mckae
エバートラストビル
<米国・ニュージャージー州>1986年10月竣工
発注 エバートラスト・アーバン・リニュアル
設計 志水正司建設事務所
エバートラストビル
<米国・ニュージャージー州>1986年10月竣工
発注 エバートラスト・アーバン・リニュアル
設計 志水正司建設事務所
マニンジョウ水力発電所土木(JV)
<インドネシア・西スマトラ州>1983年7月竣工
発注 インドネシア政府鉱山エネルギー省
設計 エレクトロワット、日本工営
(写真は取水口)
マニンジョウ水力発電所土木(JV)
<インドネシア・西スマトラ州>1983年7月竣工
発注 インドネシア政府鉱山エネルギー省
設計 エレクトロワット、日本工営
(写真は取水口)
アメリカンインターナショナルタワー(AIA新オフィスビル)(タイ大林)
<タイ・バンコック市>1985年5月竣工
発注 アメリカン・インターナショナル・アシュアランス
設計 SAA+DD
アメリカンインターナショナルタワー(AIA新オフィスビル)(タイ大林)
<タイ・バンコック市>1985年5月竣工
発注 アメリカン・インターナショナル・アシュアランス
設計 SAA+DD
フェニックス・カサグランデハイウェイ排水トンネル(JV)
<米国・アリゾナ州>1987年4月竣工
発注 アリゾナ州交通局
設計 アリゾナ州交通局
フェニックス・カサグランデハイウェイ排水トンネル(JV)
<米国・アリゾナ州>1987年4月竣工
発注 アリゾナ州交通局
設計 アリゾナ州交通局
ジュベイル工業都市住宅地開発702―C01工区(SJCC)
<サウジアラビア・ジュベイル市>1985年12月竣工
発注 ジュベイル・ロイヤル・コミッション
設計 ベクテル社
(写真は工事中)
ジュベイル工業都市住宅地開発702―C01工区(SJCC)
<サウジアラビア・ジュベイル市>1985年12月竣工
発注 ジュベイル・ロイヤル・コミッション
設計 ベクテル社
(写真は工事中)
上海虹橋国際空港ターミナルビル増改築
<中国・上海市>1984年10月竣工
発注 上海錦江集団
設計 上海工業建築設計院
上海虹橋国際空港ターミナルビル増改築
<中国・上海市>1984年10月竣工
発注 上海錦江集団
設計 上海工業建築設計院

トレジャリービルディング

1962年(昭和37)、シンガポールに進出して以来築き上げてきた当社に対する大きな信頼感と全社を挙げての営業活動とが結実し、このプロジェクトを受注したのは1983年5月であった。翌6月から、地下5階、地上52階、高さ231m、延13万3,700㎡の超高層ビルを32カ月で完成させるという超突貫工事がスタートした。

地下掘削は逆巻き工法で構築するコンクリート山留壁と、それを支持するアースアンカー工法を採用し、切梁なしのオープンカットであったが、地盤は泥岩をはさんだ石灰岩が45度の傾きで幾層にも重なる複雑さで、一度空気に触れるとボロボロに崩れる始末の悪いものであった。地下水位も高く、当ビルの低層部では浮上がりを押さえるアンカーが必要であった。100年間保証、1本当たりの設計耐力110t、総本数1,014本のこのパーマネントアンカーの施工は地下躯体工事での最大の難工事となった。

さらに、当建物のコアウォールは、水平・垂直両荷重のすべてを支持する文字どおりコアとなっていて、その厚さ1.65m、直径24mの円筒状のマスコンクリートは硬化時に異常な硬化熱が発生する。この硬化熱による内部クラック防止のため特別な調合計画が要求された。そこで技術研究所の指導のもとに試験調合を半年繰り返し、中庸熱セメントの氷によるミキシングで要求どおりの生コン製造にこぎつけた。

また、当ビルは、高層部が前述のコアウォールから放射状に突き出た16本のカンチレバー(長さ12m)で床スラブを支えるという特異な構造となっている。そのため、このカンチレバーの材質および工場加工、現場での品質管理には細心の注意を払った。

このほか、外装カーテンウォールは、スラブ先端の積載荷重による垂直変位32㎜を吸収するため、伸縮調整する特殊ジョイント仕様にし、同じ理由から室内間仕切壁も天井高変位に対応するため、高さ調節可能な仕様とするなど、技術的に挑戦することの多かったプロジェクトであった。

「発注者は商売にたけた華僑、設計者は合理主義者の米国人、構造設計は頑固な英国人、これら異なる民族性ゆえに生ずるお互いの誤解、偏見、怒り……に明け暮れた3年間でした」とは、工事を振り返っての溝口哲也所長の感想である。請負金は2億7,800万シンガポールドル(邦貨約319億7,000万円)であった。

トレジャリービルディング
<シンガポール>1986年6月竣工
発注 シンガポール・トレジャリービルディング
設計 アーキテクト61(基本設計)、ヒュー スタビンズ&アソック事務所(実施設計) 工事概要 S造、B5、52F、延13万3,714㎡
(左写真は工事中)
トレジャリービルディング
<シンガポール>1986年6月竣工
発注 シンガポール・トレジャリービルディング
設計 アーキテクト61(基本設計)、ヒュー スタビンズ&アソック事務所(実施設計) 工事概要 S造、B5、52F、延13万3,714㎡
(左写真は工事中)
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