橋梁工事に新たな1ページ
本四架橋から横浜ベイブリッジへ
本州と四国の間を陸路で結ぼうという構想は遠く明治中期からあったが、本格的な調査が開始されたのは昭和30年代半ばのことであった。44年(1969)に神戸~鳴門間、児島~坂出間、尾道~今治間の3ルートが閣議決定され、45年の本州四国連絡橋公団の設立とともに48年同時着工に向けて準備が進められた。しかし、石油危機で工事が一時延期され、その後、経済情勢の好転に伴い、50年12月に尾道・今治ルートで大三島橋、51年7月に神戸・鳴門ルートで大鳴門橋など、各地で橋梁工事が着工のはこびとなった。
53年着工の児島・坂出ルート(道路、鉄道併用)の瀬戸大橋の全橋は、63年4月10日、一斉に開通し、本州と四国が初めて陸路で結ばれた。このルートは全長13.1㎞、うち海峡部が9.4㎞、総工費1兆1,300億円、9年6カ月をかけて完成した。当社の主な担当工区は、南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区でピア3基とアンカレイジ1基(JV)、番の州高架橋下部工(その6)(JV)などであった。
わが国の橋梁工事の歴史に新たな1ページを加えた瀬戸大橋のほかに、当社が50年代以降手がけた主な橋梁は、当社として初めてのフレシネー式カンチレバーPC橋である東予道路新中山川大橋(愛媛)、ディビダーク式カンチレバーPC橋である黒川大橋(中筋第一橋)(上部工とも)(高知)や宮ケ瀬大橋上部工(神奈川)、日本最長1,760mの桁橋である東三河臨海道路三河港大橋(下部工)(JV)(愛知)、また世界最大級の斜張橋である横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)、その景観デザインが秀逸と全国から注目された隅田川に架かる歩行者専用橋の桜橋(JV)(上部工とも)があった。このように建設技術・工法はもちろん、景観的にもバラエティに富む日本の代表的な橋梁の建設がこの時期相次いだ。
このほか、福岡県鐘ケ江大橋、島根県松江第三大橋(くにびき大橋)、広島県内海大橋(JV)(上部工とも)、大和工業西汐入川横断橋(栄鋼橋)(上部工とも)(兵庫)、片品川橋(JV)(群馬)、中国電力大崎発電所大崎上島~長島連絡橋、大阪府道路公社鳥飼仁和寺大橋、大阪市菅原城北大橋(JV)、阪神高速湾岸線新淀川第2工区(JV)・同線中島第1工区(JV)の各橋梁工事の下部工も手がけた。
なお、片品川橋(JV)(60年度)、桜橋(JV)(60年度)、南北備讃瀬戸大橋(JV)(63年度)、横浜ベイブリッジ(JV)(平成元年度)には土木学会田中賞(作品部門)が授与された(カッコ内は受賞年度)。
南北備讃瀬戸大橋下部工中工区・北工区(JV)
昭和53年(1978)10月10日、本州四国連絡瀬戸大橋の起工式が香川、岡山両県会場で同時に行われた。瀬戸大橋は五つの島を足場に六つの橋を架けるのであるが、最初に着手したのが四国側の南北備讃瀬戸大橋であり、この下部工には四つのピアと三つのアンカレイジが含まれる。このうち、当社、大成建設、前田建設工業、東亜建設工業の4社JVは、中央支間990mの吊橋である北備讃瀬戸大橋のピア1基(3P)と、中央支間1,100mの吊橋である南備讃瀬戸大橋のピア2基(5P、6P)、そして南北の吊橋の共用のアンカレイジ1基(4A)を施工した。この海峡部は吊橋で渡海し、橋桁の上部は道路4車線、下部は鉄道複々線で設計され、橋桁の下端から海面までは65mもあり、巨大タンカーでも楽に通過できる高さである。
海峡の潮流は5.4ノット、1日2回、瀑布のように音をたてて流れる海中で工事は進んだ。基礎は設置ケーソン工法をとり、最大のケーソンである6Pは長さ38m×幅59m×高さ55mで鋼製二重隔壁の浮体構造であった。
各ケーソンの支持地盤高は海面下10~50mで、とくに4Aは島全体を削って水面下10mまで掘削して島がなくなったほど大規模なものであった。この地域の岩盤は風化花崗岩で4カ所とも大小の海上作業足場(SEP)を使用して穿孔し、その後、装薬・発破を行った。このあと、日本で最大級のグラブ式浚渫船で浚渫を行い、硬い基盤を露出させ、とくに5P、6Pについては浚渫後、海上作業足場に大口径(直径2,500㎜)掘削機を搭載して海底面を平らに仕上げ、岩盤面に直接ケーソンを設置した。ケーソンの設置精度は高く、2~3㎝内におさめることができた。ちなみに、最後の沈設であった6Pケーソンは58年6月設置を完了した。
続いてケーソン内に大粒径粗骨材を投入し、その後、プレパックドコンクリートは毎時240㎥のモルタルをプラント船で4昼夜の連続運転で注入し打設した。異常寒波で注入ホース内の水が凍結したり、6PではSEPの手摺に波しぶきが凍ってつららとなり、甲板は滑って歩けない状態になったり、またSEP船体を水平に保つ傾斜計の水配管が凍結し作用しなくなったりするという厳しい海象条件下での施工であった。「この復旧作業を寒風吹く荒波の上で命綱を使って行っているうちに夜が明けたことを今でも思い出します」と、所長はこの時の様子を後に語っている。
南北の吊橋の共用アンカーである4Aのコンクリート躯体工事を最後に、60年3月、すべての橋脚が完成し、上部工施工へと手渡した。厳しい海象、大水深に挑んだ当工区巨大海中基礎の施工規模は、海底岩盤掘削25万㎥、コンクリート量は51万㎥に達した。請負金は102億2,000万円、所長は守屋研治であった。
横浜ベイブリッジ(下部工)(JV)
平成元年(1989)9月、本牧埠頭から横浜国際航路を横断して大黒埠頭に至る全長860mの横浜ベイブリッジが供用を開始した。本橋は、世界最大級の斜張橋であるとともに、当社、鹿島建設、東亜建設工業の3社JVが担当した下部工においても幾多の新技術を駆使して超大型の多柱基礎を実現し、橋梁建設技術の発展に大きく寄与した。
建設地点は、水深約12m、その下に約50mの厚さで軟弱粘土層が堆積し、長大橋を支える主塔部基礎は、直径10m、長さ75mの基礎柱9本で構成され、厚さ12m、平面寸法54m×56mの大型フーチングを支持するという、従来の技術的通念を超える基礎構造物であった。その建設は、まず、完成後には基礎フーチングの外殻となる中空のPCバージをドックで製作し、浮上・曳航して現場に運び、建設地点の海上に固定し、このPCバージを作業台として基礎柱を施工した後にPCバージの中詰めコンクリートを打設して一体化するという施工方式を採用した。PCバージは総重量1万5,800tに及び、浮体式海洋構造物としても過去に例のない大規模なもので、その設計・施工はわが国のコンクリート技術に新しい1ページを加えるものとして注目された。直径10mの基礎柱の構築は、オープンケーソン工法を用い、ケーソン内部をコンピュータにより遠隔制御する水中掘削機で掘削し、傾斜を修正しつつ最大加圧力3,600tのジャッキでケーソンを圧入する新工法を開発し、施工が可能となった。
横浜ベイブリッジ下部工工事は、各工程が実験工事の繰返しといっても過言ではない新たな施工条件へのチャレンジであったが、昭和56年の着工後約6年を経てほぼ完了し、上部工工事へと引き継がれ、平成元年春、上部工中央径間閉合を迎えた。架橋地点から横浜市内が一望でき、夜間はライトアップされ、横浜港のシンボルにふさわしい新たな景観が創出された。請負金は61億9,570万円、所長は牛島 達である。