大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和40年~昭和45年ころ

東名高速道路の完成と急速に伸びる都市高速道路

名神高速道路に続いて、東京~小牧間347㎞の東名高速道路が昭和37年(1962)に着工された。東名高速道路では名神で得られた経験を生かしてさらに改善を加え、44年には全線が開通するに至った。

名神高速道路の建設に際し、自動車の機械の特性と運転者の生理的・心理的側面を考慮して、交通工学的な考え方を導入したクロソイド曲線(渦巻形の一種)による線形計画は東名時代には完全に定着した。こうして流れるような曲線の道路線形が実現し、また透視図法を活用して、運転者から見て快適でかつ安全に運転できる道路線形や周辺の地形・景観にマッチした線形が実現した。さらに名神・東名での土工量総計約9,300万㎥、舗装面積延900万㎡に達する膨大な工事によって得た豊富な経験を通じて、設計法、機械化施工、品質管理などの技術も大きく前進した。

一方、都市交通の混雑を緩和しようと建設が開始された都市高速道路も、首都高速道路では東京オリンピック時(39年10月)には供用延長32.8㎞となり、続いて43年には48.1㎞まで延伸、横浜羽田線(1期)13.7㎞が開通して東京と神奈川が結ばれた。阪神高速道路も39年の初の開通から42年には環状線が、45年には大阪池田線と西宮神戸線が全線開通し、さらに万博に向け42~45年度に総額3,725億円の巨費が集中投資され、大阪地区48.8㎞、兵庫地区25.3㎞の計74.1㎞が供用となった。

当社がこれらの高速道路で施工した代表的工区および大都市内・周辺道路での工事は次のとおりである。

<東名高速道路>

豊田工区(JV)、秦野工区(JV)、佐久米工区(JV)、愛鷹西工区(JV)

<首都高速道路>

T13、K11工区高架橋、第618高架橋下部、第455工区、第456工区

<阪神高速道路>

福島第1工区

<その他の高速道路>

中央高速道路大鶴工区(JV)、中国高速道路豊中東工区(JV)、九州高速道路植木工区(JV)

<その他の道路>

尾道大橋(下部工)、西湘バイパス小八幡改良、新宿副都心11号高架道、東京都放12立体交差工事

東名高速道路秦野工区(JV)
<神奈川県>昭和43年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東名高速道路秦野工区(JV)
<神奈川県>昭和43年8月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東名高速道路佐久米工区(JV)
<静岡県>昭和43年10月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団、芦原義信建築設計研究所(浜名湖サービスエリア施設)
東名高速道路佐久米工区(JV)
<静岡県>昭和43年10月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団、芦原義信建築設計研究所(浜名湖サービスエリア施設)
東名高速道路愛鷹西工区(JV)
<静岡県>昭和43年11月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
東名高速道路愛鷹西工区(JV)
<静岡県>昭和43年11月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
尾道大橋(下部工)
<広島県>昭和42年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団(基本設計)、当社(実施設計)
尾道大橋(下部工)
<広島県>昭和42年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団(基本設計)、当社(実施設計)

都市問題―1

急がれる高速鉄道・上下水道・流通施設の整備

昭和30年代に都市への人口集中が急速に進んだが、とくに東京や大阪等の大都市においては、流入人口の多くが郊外または近郊都市に定住し、都心部に通勤・通学するといった住形態が進行した。必然的に郊外から都心への輸送需要の増大と輸送の長距離化を招き、輸送事情は年を追って悪化した。こうした事態に対処するため、都市内における交通の路面電車からバス・地下鉄への転換、都市近郊鉄道の輸送力増強、都心と近郊を結ぶ直通相互乗入れが強力に推進されることになり、40年代前半も東京・大阪を中心に地下鉄工事が相次いだ。続いて名古屋・札幌にも地下鉄が初めて登場し、さらに国鉄・私鉄でも整備増強工事が進んでいった。

こうしたなか、東京の地下鉄に初めて円形シールドが採用され、この実績を踏まえ40年代に入ってから地下鉄でもシールド工法が急速に普及した。

40年代前半における当社の都市高速鉄道(地下鉄のほか国鉄・私鉄を含む)の代表的な施工例は以下のとおりである。

<東京地下鉄>

東西線呉服橋工区、千代田線小川町工区(以上営団)、都営地下鉄浅草線中延第1工区

<大阪地下鉄>

四ツ橋線西梅田停留場及び線路、千日前線第5工区・同線鶴橋停留場・同線日本橋・難波停留場、堺筋線日本橋筋1・2丁目間及び日本橋停留場・同線南森町樋之上町間

<名古屋地下鉄>

東山線星ケ丘駅

<国鉄>

中央線中野荻窪間線増9~12工区高架橋、大崎電車区、京葉線羽田隧道多摩川付近(JV)、武蔵野線荒川高架橋、総武本線増船橋駅高架橋、大阪駅-1番線高架化・0番線昇降場新設工事

<私鉄>

阪神電鉄新淀川橋梁、近鉄難波線日本橋・難波停留場、京阪電鉄天満橋~野江間高架複々線第3工区、泉北高速鉄道第1工区、東武鉄道伊勢崎線玉の井高架橋

この間、地方では、40年代前半に国鉄羽越本線三瀬羽前水沢間路盤、同篠栗線第1工区路盤、同追分線第1追分隧道、同北陸本線浦本隧道、同宮守線普甲隧道、国鉄広島駅などの鉄道工事を施工している。

都市への人口集中によって、以上のような交通問題のほかにも下水道・駐車場・公園などの環境問題が顕在化し、さらに水不足への対応、流通施設の整備なども急を要した。こうした動きに対して、当社もこの種の工事に従事する機会が多くなったが、以下はこれらに関する40年代前半(一部46年)に竣工した代表的な工事である。

<上・下水道施設>

吹田市泉浄水所拡張第1期その他、川崎市水道第7期拡張導水路(その2)、大阪市豊野浄水場凝集沈澱池、利根大堰、北九州市伊佐座取水場、名古屋市山崎東部下水処理場

<洪水・高潮対策施設>

神戸市高潮対策和田岬工区、兵庫県鮎屋川ダム、安治川大水門、建設省芝川水門改築(46年竣工)

<流通施設>

金沢市中央卸売市場、東大阪トラックターミナル、京浜2区トラックターミナル荷扱場、千葉県食品流通センター、船場センタービル7号館、大宮髙島屋配送センター、板橋トラックターミナル荷扱場(JV)

<駐車場>

池袋西口地下駐車場・同拡張、八重洲広場八重洲第二自動車駐車場2期

このうち、川崎市水道第7期拡張導水路は、全長25.5㎞のうち当社は4.7㎞を担当、シールド工法で施工した。利根大堰は、既設ダムと新設予定のダムや河口堰と総合調整し、右岸の取水施設によって、東京都と埼玉県に上水道、埼玉・群馬県に農業用水を供給する施設で、全幅692m、12基のゲートが設けられている。安治川大水門は、大阪市を高潮の被害から守るために設けられたもので、世界最大級の水門として幅員57mの鋼製アーチ型水門と幅員15mのフラット型ゲート副水門から成る。

なお、東京都小台下水処理場は39年に完成しているが、それまで東京の下水を処理していた芝浦、三河島、砂町の3施設に新たに加わった新鋭下水処理場で、北区、板橋区、豊島区方面の人口増加が著しい地域の下水を処理するものであった。

トラックターミナルは、貨物輸送の重点が鉄道から自動車に移るとともに激しくなってきた都市内交通の混雑緩和策の一つとして設けられたもので、大阪・東京を中心に、この時期相次いで建設された。船場センタービル7号館は、東西1㎞にわたる高架道路下の空間を利用した10棟のビルの一つで、屋上は築港深江線と阪神高速道路東大阪線になっており、地下は荷捌場や駐車場なども完備している繊維問屋街である。そのユニークな立地とともに、大阪の流通機構近代化に大きな役割を果たしたといわれている。

大阪地下鉄四ツ橋線西梅田停留場及び線路
<大阪府>昭和40年9月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
大阪地下鉄四ツ橋線西梅田停留場及び線路
<大阪府>昭和40年9月竣工
発注 大阪市
設計 大阪市
近鉄難波線日本橋・難波停留場
<大阪府>昭和45年3月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 近畿日本鉄道(土木)、安井建築設計事務所(建築)
(写真は近鉄難波駅)
近鉄難波線日本橋・難波停留場
<大阪府>昭和45年3月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 近畿日本鉄道(土木)、安井建築設計事務所(建築)
(写真は近鉄難波駅)
川崎市水道第7期拡張導水路(その2)
<神奈川県>昭和42年7月竣工
発注 川崎市
設計 川崎市
川崎市水道第7期拡張導水路(その2)
<神奈川県>昭和42年7月竣工
発注 川崎市
設計 川崎市
利根大堰
<埼玉県・群馬県>昭和43年6月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団
利根大堰
<埼玉県・群馬県>昭和43年6月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団
安治川大水門
<大阪府>昭和45年3月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
安治川大水門
<大阪府>昭和45年3月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府
船場センタービル7号館
<大阪府>昭和45年2月竣工
発注 大阪市開発公社ほか
設計 大阪市、大阪建築事務所
船場センタービル7号館
<大阪府>昭和45年2月竣工
発注 大阪市開発公社ほか
設計 大阪市、大阪建築事務所
板橋トラックターミナル荷扱場(JV)
<東京都>昭和45年12月竣工
発注 日本自動車ターミナル
設計 久米建築事務所
板橋トラックターミナル荷扱場(JV)
<東京都>昭和45年12月竣工
発注 日本自動車ターミナル
設計 久米建築事務所
八重洲広場八重洲第二自動車駐車場2期
<東京都>昭和44年5月竣工
発注 八重洲駐車場
設計 日建設計工務、平沢建築設計事務所
八重洲広場八重洲第二自動車駐車場2期
<東京都>昭和44年5月竣工
発注 八重洲駐車場
設計 日建設計工務、平沢建築設計事務所
東京都小台下水処理場
<東京都>昭和39年11月竣工
発注 東京都
設計 東京都
東京都小台下水処理場
<東京都>昭和39年11月竣工
発注 東京都
設計 東京都

都市問題―2

集合住宅からニュータウン建設まで

わが国の年間住宅建設戸数は、昭和41年(1966)に初めて100万戸を超えた。住宅投資も経済の成長率を上回る増加を続け、43~45年度間では経済成長率実質12.9%に対し、住宅投資は年率実質17.0%の伸びを示した。45年度の投資額は5兆5,000億円となり、国民総生産に占める比率は7.5%、用地費を含めた場合は7兆円を大きく超えた。政府も40年を初年度とする第1次住宅建設5カ年計画の目標670万戸を、45年からの第2次5カ年計画においては950万戸と改め、建設計画の推進に努めた。しかし、その計画は大半を民間投資に依存するものであった。

さらに、高度成長の進行に伴う急速な都市への人口流入は深刻な住宅問題を生み、これに対して日本住宅公団では大都市近郊で大規模な住宅開発を進め、40年度には5万戸、46年度には8万戸と、その住宅建設戸数を伸ばしていった。こうしたなかで、従来の現代長屋風の団地から地区センターを中心とする都市的な機能をもち、その合理的な配置、適切な交通計画、環境計画などを求めたニュータウンが構想され建設されていった。

このころ住宅開発事業が一つの産業分野として注目されるようになり、大規模な宅地開発が行われるようになった。当時、東京付近では東京都の西部地区、千葉県の北総地区、神奈川県の湘南地区等で盛んに開発が行われていたが、当社が施工したその代表的なものに野村不動産鎌倉住宅地開発、同丸山住宅地造成、昭和興成湘南三笠台団地造成、住友商事湘南桂台宅地造成があった。

一方、関西では、神戸白川土地区画整理事業、クラレ不動産宝塚中山台宅地造成、野村不動産岸和田住宅地造成、日生住宅三日市団地造成、野村不動産学園前住宅造成などが代表的なもので、ほかに静岡で野村不動産寺分住宅地開発や広島県可部住宅団地造成の工事を行った。

こうした宅地開発とともに、高層集合住宅も、公団や公社等による一般庶民向けのもののほか、マンション、コーポラスなどと呼ばれる高級住宅が増加した。これらはデラックスな外観、空調設備、エレベータ、ガレージ等を完備し、従来の集合住宅の概念を変えるものであった。一方、企業でも社宅・寮を建設して住宅難に対応した。

以下はこの時期に竣工した当社施工の代表的な各種集合住宅である。

<日本住宅公団>

新千里北町団地、東京大島6丁目団地C・D棟、千葉幸町団地第39住宅、豊田本町公団住宅

<民間集合住宅>

メゾン甲子園、興和不動産ホーマット・レックス、シーボニア油壺マンション第1期・第2期、第百生命不動産クレセントマンション(JV)、御影グランドハイツ、青山日生ハイツ、夙川アンビロン、原宿パークマンション

<社宅・その他>

トヨタ自動車工業第二大林和風寮・同永覚アパートおよび社宅、宇部興産堺社宅・寮、日産自動車上大岡家族アパート・同第2期、日立製作所枚方団地、東京芝浦電気駒岡第1・第2寮、米国大使館館員アパート

クラレ不動産宝塚中山台宅地
<兵庫県>昭和45年3月竣工
発注 クラレ不動産
設計 クラレ不動産
クラレ不動産宝塚中山台宅地
<兵庫県>昭和45年3月竣工
発注 クラレ不動産
設計 クラレ不動産
日本住宅公団大島6丁目団地C・D棟
<東京都>昭和45年4月竣工
発注 日本住宅公団
設計 日本住宅公団、市浦建築設計事務所
日本住宅公団大島6丁目団地C・D棟
<東京都>昭和45年4月竣工
発注 日本住宅公団
設計 日本住宅公団、市浦建築設計事務所
メゾン甲子園
<兵庫県>昭和43年7月竣工
発注 住友商事
設計 日建設計工務
メゾン甲子園
<兵庫県>昭和43年7月竣工
発注 住友商事
設計 日建設計工務

エネルギーの大量需要に応えて

火力と原子力および都市ガス

わが国の経済の規模が自由世界第2位になったのは昭和43年(1968)のことである。電力の消費量はそれよりもひと足早く、39年にイギリスを追い越して第2位に躍り出た。38~43年度間の発電電力量の年平均増加率は欧米先進国が5~7%程度であったのに対し、わが国は11%ととび抜けて高かった。この原因は、わが国の産業構造が電力多消費型であったこと、その産業が高度成長を続けていたこと、先進国に比べて遅れていた民生用エネルギーの電化が高度成長の波に乗って一気に進行したことなどであった。

電力需要の異常な伸びに対処するため、大規模な発電所の建設が進み、41年に400万㎾であった発電所の新規着工は、43年に786万㎾、45年には1,733万㎾と増え続けた。しかも水力と火力の電源構成が38年に完全に逆転し、新たに開発される電力供給の主流は石油火力であった。しかし石炭産業の衰微のもたらす重大な影響を考え、電力・鉄鋼・ガス業界などへの石炭の長期取引量を増加させる措置がとられ、当社がこの時期施工した電源開発高砂火力発電所2号機はこの措置に基づく石炭火力発電所であった。

また、電力会社のものとしては最初の原子力発電所であった当社施工の関西電力美浜原子力発電所1号機が45年7月に完成し、次いで47年2月には2号機も完成した。同発電所の原子炉はウェスチングハウス社の加圧水型軽水炉で、出力は1・2号機合わせて84万㎾、型式もまた日本最初のものであった。

以下は40年代前半(一部46年)に竣工した当社施工の代表的な発電所・変電所である。

<火力発電所>

中部電力武豊火力発電所本館、関西電力尼崎東火力発電所、中国電力下関発電所本館、東北電力八戸火力発電所3号機本館、電源開発高砂火力発電所2号機本館、東京電力鹿島火力発電所第1期、関西電力高砂発電所土木工事、東北電力新仙台火力発電所1号機本館

<水力発電所>

電源開発大津岐発電所桧枝岐工区

<原子力発電所>

関西電力美浜発電所1号機本館

<変電所>

東京電力新宿変電所本館

都市ガスの需要もまた、旺盛な住宅建設やめざましい生活水準の向上に支えられて急増し、クリーンエネルギーということで工業用、ビル冷暖房用においてシェアを広げていった。当社施工の大阪瓦斯堺工場はこうした増大するガス需要に応えるもので、38年の第一炉団に続き、この時期、第二炉団、第三炉団を増設した。この施設は、隣接する八幡製鐵堺製鉄所に製鉄用コークスの全量とコークス炉ガスを供給し、製鉄所からはコークス炉の燃料と都市ガス混入用の高炉ガスの供給を受けるというもので、「鉄と都市ガスのコンビナート」を形成するものであった。また大阪瓦斯千里エネルギーセンターは、大阪府企業局の計画に基づき、千里ニュータウン中央地区に都市ガスによる本格的地域冷暖房を行うべく建設されたものであった。このほか、当社は45年に同社酉島工場コークス炉の改修工事も行っている。

東北電力八戸火力発電所3号機本館
<青森県>昭和33年10月竣工(1、2号機)
昭和43年6月竣工(3号機)
発注 東北電力
設計 東北電力
(写真左から1、2、3号機)
東北電力八戸火力発電所3号機本館
<青森県>昭和33年10月竣工(1、2号機)
昭和43年6月竣工(3号機)
発注 東北電力
設計 東北電力
(写真左から1、2、3号機)
関西電力尼崎東火力発電所
<兵庫県>昭和41年9月竣工
発注 関西電力
設計 関西電力
関西電力尼崎東火力発電所
<兵庫県>昭和41年9月竣工
発注 関西電力
設計 関西電力
東京電力新宿変電所本館
<東京都>昭和44年7月竣工
発注 東京電力
設計 東電建築
東京電力新宿変電所本館
<東京都>昭和44年7月竣工
発注 東京電力
設計 東電建築
大阪瓦斯堺工場
<大阪府>昭和38年12月竣工(第一炉団)
昭和41年12月竣工(第二炉団)
昭和43年9月竣工(第三炉団)
発注 大阪瓦斯
設計 大阪瓦斯
(写真は昭和42年3月撮影)
大阪瓦斯堺工場
<大阪府>昭和38年12月竣工(第一炉団)
昭和41年12月竣工(第二炉団)
昭和43年9月竣工(第三炉団)
発注 大阪瓦斯
設計 大阪瓦斯
(写真は昭和42年3月撮影)

重厚長大産業のさらなる拡大

鉄鋼・造船・重機工場の増設

昭和41年(1966)から45年半ばまで続いた好景気のなかでも、驚異的な生産の伸びを遂げたのは鉄鋼業であった。粗鋼生産の伸びは41年度24.3%、42年度23.7%、43年度12.5%で、44年度には22.2%、8,703万tに達し、輸出も順調に拡大した。鉄鋼各社は次々と設備投資を行ったが、以下は40年代前半(一部46年)に竣工した当社施工の代表的な製鉄所である。

●鉄鋼

<住友金属工業>

和歌山製鉄所Ⓓ工場・同第二転炉工場・同第二製鋼連続鋳造設備、名古屋工場405建家、小倉製鉄所第二転炉、鹿島製鉄所HK圧延工場・同原料岸壁・同第一製鋼工場第1期

<神戸製鋼所>

加古川工場製鋼工場・同熱延工場

<日本鋼管>

福山製鉄所分塊熱延工場(第2工区)・同厚板工場・同大形第二分塊工場第2工区・同コークス設備第3期、第4期・同第二大形工場・同第二熱延第1工区

<川崎製鐵>

水島製鉄所厚板工場・同大型条鋼工場第2工区・同熱間圧延工場・同大型条鋼工場第2工区および増設・同第二棒鋼工場、千葉製鉄所第二冷延工場増築

<大同製鋼>

知多工場新線材工場・同製鋼工場増築

<八幡製鐵・新日本製鐵>

君津製鉄所コークス炉・同条鋼センター、大分製鉄所コークス炉

<その他>

東海製鐵冷延工場増築、海南鋼管第一製管熱間工場、吾嬬製鋼所千葉製造所条鋼工場、日本製鋼所室蘭製作所第四鉄構工場

このうち、住友金属工業和歌山製鉄所では、当社は33年に戦後初の工事に従事して以来、引き続き土木・建築で多くの工事に携わってきた。このうち最大のものは36~38年に行った転炉工場工事で、次いで41年から42年にかけて第二転炉工場ほか焼結設備、鋳型棟、鋳型ヤード、送風発電所、第二製鋼連続鋳造設備を建設し、これらに伴う土木工事も相次いで行った。

神戸製鋼所加古川工場は、銑鋼一貫工場として播磨臨海工業地帯に建設され、厚板工場、高炉、製鋼工場、ペレット、発電所などの工事があり、45年1号高炉の火入れを行った。当社はこのうち厚板工場の第2工区(JV)、工作工場、製鋼工場、熱延工場を施工したが、熱延工場は請負金30億円を超える大規模なものであった。

日本鋼管福山製鉄所は、備後工業特別地域の中核をなす地に年間粗鋼1,500万tの生産を目標に計画され、高炉、転炉、分塊、熱延、冷延などの基幹施設の建設を一挙に行う他に例をみないダイナミックなものであった。このうち、当社は第1期のコークス炉(94門)と分塊熱延工場、第2期のコークス炉(120門)と厚板工場、第3期のコークス炉(104門)を施工し、さらに引き続いて第4期のコークス炉(175門)、第二熱延工場、第二大形工場を施工し、工事は40年代後半まで続いた。

川崎製鐵水島製鉄所は、38年新産業都市に指定された水島市の製鉄・石油コンビナートの中心をなす工場で、30年代後半にも各種工事を行ってきたが、41年に着手した厚板工場および大型条鋼工場はとくに大規模な工事であった。

大同製鋼知多工場は、名古屋市南部に隣接する臨海工業地帯、知多半島横須賀町(現・東海市)にあり、新線材工場および製鋼工場増築工事は、30年代後半から続いている同製鋼工場建設の一連の工事であった。知多工場のほとんどの工事は当社が施工しており、請負金は当時すでに計100億円を超えていた。

八幡製鐵君津製鉄所は、京葉工業地帯の重要な一環をなし、粗鋼年産1,000万tを目標として建設されたが、当社は42年からこの第1期計画の高炉2基に要するコークス工場を設計・施工で担当した。

一方、造船業では40年代に息の長い第3次輸出船ブームが続き、とくに世界的な原油タンカーの大型化に応えてわが国の造船業界は建造施設の大型化を急いだ。また、これらのほかに化学・機械など各分野でも技術革新のための投資が盛んに行われ、大型設備投資が相次いだ。

40年代前半に竣工した当社施工の造船・重機工場のうち、代表的なものは次のとおりである。

●造船・重機

日立造船堺工場船殻工場、川崎重工業坂出船殻工場(JV)、石川島播磨重工業相生工場第三ドック、三菱重工業広島造船所重機械工場・同高砂製作所ポンプ冷機部工場

以上の工事のほかにも、三菱化成工業坂出工場コークス炉第1期、三菱油化四日市川尻分工場PC土建、アジア石油横浜製油所貯油槽などがあった。このうち、香川県坂出市にある三菱化成工業は、瀬戸内海の二つの島の間を埋め立てて開発された番の州工業地帯にあり、コークス工場、ガスタービン火力発電所、原油精製工場、アルミ精煉工場、同加工工場等のコンビナートを形成しているが、当社は坂出コークス炉第1期工事を45年に終え、続いて40年代後半に第2期、第3期工事を行った。

また、アジア石油横浜製油所貯油槽は、わが国初の大型半地下式原油タンク(11万7,000㎘)で、当社はその地下部分を設計・施工で担当した。内径65m、深さ20mの地下タンク部を、OWS工法による地中連続壁の土留壁と逆巻き工法によるコンクリート側壁の組み合わせによって構築したものであったが、これは技術的に大いに注目を浴び、その後のLNGや石油地下タンク建設の先鞭をつけるものとなった。

このように、30年代後半に本格化した重厚長大産業を中心とする臨海工業地帯の開発は40年代にも続き、工業立地のための大規模な工場敷地造成や臨海埋立地造成工事が相次いだのであった。当社施工の代表的な工事は、東洋不動産の近江八幡工場集団敷地造成、名古屋西部木材港泊地浚渫、岸和田臨海工業地帯造成、兵庫県東播磨港伊保地区埋立地造成などであり、40年代後半まで続いた鹿島臨海工業地帯の各種工事にも携わった。

住友金属工業和歌山製鉄所第二転炉工場
<和歌山県>昭和42年9月竣工
発注 住友金属工業
設計 日建設計工務
住友金属工業和歌山製鉄所第二転炉工場
<和歌山県>昭和42年9月竣工
発注 住友金属工業
設計 日建設計工務
神戸製鋼所加古川工場製鋼工場・熱延工場
<兵庫県>昭和45年8月竣工(製鋼工場)
昭和45年9月竣工(熱延工場)
発注 神戸製鋼所
設計 日建設計
(左写真が製鋼工場、左下写真が熱延工場)
神戸製鋼所加古川工場製鋼工場・熱延工場
<兵庫県>昭和45年8月竣工(製鋼工場)
昭和45年9月竣工(熱延工場)
発注 神戸製鋼所
設計 日建設計
(左写真が製鋼工場、左下写真が熱延工場)
日本鋼管福山製鉄所分塊熱延工場(第2工区)
<広島県>昭和41年10月竣工
発注 日本鋼管
設計 日建設計工務
日本鋼管福山製鉄所分塊熱延工場(第2工区)
<広島県>昭和41年10月竣工
発注 日本鋼管
設計 日建設計工務
川崎製鐵水島製鉄所大型条鋼工場第2工区
<岡山県>昭和43年5月竣工(昭和45年9月増設工事竣工)
発注 川崎製鐵
設計 日建設計工務
川崎製鐵水島製鉄所大型条鋼工場第2工区
<岡山県>昭和43年5月竣工(昭和45年9月増設工事竣工)
発注 川崎製鐵
設計 日建設計工務
八幡製鐵君津製鉄所コークス炉
<千葉県>昭和44年7月竣工
発注 八幡製鐵
設計 八幡製鐵
八幡製鐵君津製鉄所コークス炉
<千葉県>昭和44年7月竣工
発注 八幡製鐵
設計 八幡製鐵
石川島播磨重工業相生工場第三ドック
<兵庫県>昭和43年8月竣工
発注 石川島播磨重工業
設計 当社
石川島播磨重工業相生工場第三ドック
<兵庫県>昭和43年8月竣工
発注 石川島播磨重工業
設計 当社
兵庫県東播磨港伊保地区埋立地
<兵庫県>昭和43年1月竣工
発注 兵庫県
設計 兵庫県
兵庫県東播磨港伊保地区埋立地
<兵庫県>昭和43年1月竣工
発注 兵庫県
設計 兵庫県

生産性の向上を目指して

間断なき更新・拡張を続ける工場

昭和40年代前半のいざなぎ景気のなかにあって、日に進み日に新たなる技術革新は工場施設の間断なき更新・拡張を促した。このため、1工場に十数年間継続設置という異例に長く設置された工事現場もあった。とくに、このころでは前述の鉄鋼に加えて繊維、電機にそうしたものが多く、繊維の代表が帝人松山工場で、ことに同テトロン工場は新技術の導入に伴って絶えず改造工事が行われた。電機の代表が日本電気府中事業場、多摩川事業場、相模原事業場の各工場で、ここでも何年にもわたって工事が進んだ。

40年代前半(一部46年)に竣工した当社施工の代表的工場のうち、繊維・自動車・電機・薬品・食品などの工場は次のとおりである。

<繊維>

近藤紡績所浜松工場、栄輝岡山工場、日本エステル岡崎工場F1工場・同岡崎工場F3工場、新光エステル愛知工場および第2期、東洋レーヨン東海分工場・同三島工場第4製糸工場、三菱アセテート富山工場2期、クラレ西条工場SE工場第2期

<自動車>

日産自動車追浜工場プレス工場増築・同追浜工場第三工場・同座間工場第二プレス工場・同座間工場第一工機圧型工場・同栃木工場プレス工場、トヨタ自動車工業高岡工場プレス工場・同高岡工場プレス、ボディ工場増設・同堤工場プレス、ボディ工場、ダイハツ工業京都工場プレス工場

<電機>

国際電気羽村工場、松下電器産業奈良工場、明電舎沼津工場回転機工場、東京芝浦電気深谷工場第4期増築、日本電気府中事業場第7工場・第8工場、九州日本電気熊本工場、松下電子工業長岡工場C棟、北海道松下電器千歳工場、日立電子旭工場、ダイキン工業滋賀工場(JV)

<薬品>

武田薬品工業湘南工場第二工場・同大阪工場A1北工場増築

<食品>

麒麟麦酒高崎工場仕込醸造工場・同高崎工場増設、朝日麦酒札幌工場、昭和産業神戸工場穀物サイロ、林兼産業第二食品工場、日本製粉東京工場パレット倉庫、不二家ハイカップ工場

<その他>

東洋陶器中津工場(JV)、大阪セメント伊吹工場6号キルン、小野田セメント藤原F5新工場、旭硝子管球硝子工場高砂工場、ブリヂストン・ベカルト・スチールコード栃木工場、ブラザー工業瑞穂ミシン工場、東洋運搬機滋賀工場第2ブロック、協和ガス化学中条工場内PG工場

このうち、麒麟麦酒高崎工場は当社が初めて同社の工場を担当した工事であり、朝日麦酒札幌工場は同社念願の北海道進出を実現した工場であった。

また、この時期の各企業の代表的な研究所として、丸善石油幸手中央研究所、武田薬品工業研究開発本部第3棟・同研究所増築、吉富製薬研究所、倉敷レイヨン中央研究所、川崎製鐵千葉技術研究所、タキイ種苗研究農場第1期、さらにはトヨタ自動車工業技術6号館(46年竣工)があった。このほか、40年代前半には、電力中央研究所我孫子水理研究所、財団法人化学及び血清療法研究所(熊本)等の研究所施設の工事もあった。

東洋レーヨン三島工場第4製糸工場
<静岡県>昭和45年9月竣工
発注 トーレ・エンジニアリング
設計 日建設計
(写真は工事中)
東洋レーヨン三島工場第4製糸工場
<静岡県>昭和45年9月竣工
発注 トーレ・エンジニアリング
設計 日建設計
(写真は工事中)
日産自動車栃木工場プレス工場
<栃木県>昭和46年3月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
日産自動車栃木工場プレス工場
<栃木県>昭和46年3月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
トヨタ自動車工業高岡プレス工場
<愛知県>昭和42年8月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
トヨタ自動車工業高岡プレス工場
<愛知県>昭和42年8月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
日立電子旭工場
<愛知県>昭和45年9月竣工
発注 日立電子
設計 当社
日立電子旭工場
<愛知県>昭和45年9月竣工
発注 日立電子
設計 当社
トヨタ自動車工業提工場プレス、ボディ工場
<愛知県>昭和45年4月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
トヨタ自動車工業提工場プレス、ボディ工場
<愛知県>昭和45年4月竣工
発注 トヨタ自動車工業
設計 トヨタ自動車工業
麒麟麦酒高崎工場仕込醸造工場
<群馬県>昭和40年3月竣工
発注 麒麟麦酒
設計 三菱地所
麒麟麦酒高崎工場仕込醸造工場
<群馬県>昭和40年3月竣工
発注 麒麟麦酒
設計 三菱地所
国際電気羽村工場
<東京都>昭和42年4月竣工
発注 国際電気
設計 東京建築事務所
国際電気羽村工場
<東京都>昭和42年4月竣工
発注 国際電気
設計 東京建築事務所
丸善石油幸手中央研究所
<埼玉県>昭和44年4月竣工
発注 丸善石油
設計 当社
丸善石油幸手中央研究所
<埼玉県>昭和44年4月竣工
発注 丸善石油
設計 当社

相次いで皇室関係工事を受注

戦後の皇室関係工事の最初は、多摩東陵(昭和27年竣工)であったが、30年代に入るとお濠端復旧、東宮御所、吹上御所と相次いで工事を受注した。

皇居お濠端復旧工事は33年(1958)9月の狩野川台風によりお濠端に多くの土砂崩れを生じたものを復旧する工事であった。とくに被害のひどかったのは桜田門から半蔵門にかけての外濠であった。

東宮御所(建設省発注)は、皇太子殿下御成婚を前に、赤坂大宮御所内に造営したもので、当社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、戸田組、間組の7社JV(幹事会社は交替)で施工した。基本設計は東京工業大学教授・谷口吉郎氏によるもので、RC造で屋根は銅板葺き、表公室、奥私室、事務室、車庫の4棟が渡り廊下でつながれている構成であった。

吹上御所は、当社単独で施工し、RC造、地上2階、延1,330㎡で、工事中には昭和天皇が21回も現場に臨まれ、そのつど工事関係者の労をねぎらわれた。

続いて新宮殿工事に39年6月着手し、当社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の5社JVが施工を担当した。幹事会社は年度ごとに交替したが、所長は工事期間中交替せずに当社の取締役府川光之助が当たった。

基本設計は東京芸術大学教授・吉村順三氏、実施設計は宮内庁臨時皇居造営部で、日本古来の宮殿の伝統を尊重し、素朴簡素であるとともに、国民に親しまれるものであることを主眼とされた。屋根は緩やかな勾配と深い軒の出をもつ銅瓦葺きとし、外観は、中世の木造漆喰塗り壁の美を、メタルカーテンウォールによって再現した高床形式となっている。室内は日本特産の銘木と裂地を用い、調度品もすべて国産で、清楚な意匠とすぐれた工芸技術によって完成された。SRC造一部RC造、地下2階、地上2階、延3万5,790㎡、完成は43年10月であった。

43年3月には京都御所(復原)の工事に着手し、20年に延焼防止対策として撤去されていた清涼殿と諸大夫の間を結ぶ渡廊、紫宸殿と小御所を結ぶ撞木廊下、小御所と清涼殿を結ぶ御拝道廊下、非蔵人廊下、通廊下、長押塀などを復原し、2次工事では御常御殿申ノ口、迎春殿渡廊、御湯殿、御新建などを復原した。49年3月、新築建物延1,418㎡、改築整備建物延669㎡ほかの全復原工事は完成した。

46年3月には伊豆下田の須崎御用邸も完成したが、ここは両陛下がおくつろぎになる場所であることから、できるだけ目立たず、美しい自然環境にとけこむように配慮された。設計・監理ともに宮内庁管理部であるが、基本設計には芸術院会員・吉田五十八、東京大学名誉教授・平山喬の両氏が参画し、耐震構造については東洋大学教授・素木三郎氏が指導した。なお、53年から56年にかけては葉山御用邸の工事にも携わった。

東宮御所(JV)
<東京都>昭和35年3月竣工
発注 建設省
設計 谷口吉郎、宮内庁、建設省
東宮御所(JV)
<東京都>昭和35年3月竣工
発注 建設省
設計 谷口吉郎、宮内庁、建設省
新宮殿(JV)
<東京都>昭和43年10月竣工
発注 宮内庁
設計 吉村順三(基本設計)、宮内庁(実施設計)
新宮殿(JV)
<東京都>昭和43年10月竣工
発注 宮内庁
設計 吉村順三(基本設計)、宮内庁(実施設計)
京都御所(復原)
<京都府>昭和45年3月竣工(第1次)
昭和49年3月竣工(第2次)
発注 宮内庁
設計 宮内庁
京都御所(復原)
<京都府>昭和45年3月竣工(第1次)
昭和49年3月竣工(第2次)
発注 宮内庁
設計 宮内庁

高層化・高度化するビル建築

企業の発展に伴い、昭和30年代後半に続き、この時期も多くのオフィスビルが建設された。こうしたビルでは、「建築基準法」の改正によって高層化・巨大化の傾向が著しくなったことはすでに述べた。超高層ビルは普及したといえないまでも、10階、15階の建物は一般化し、外装、内装ともにデラックスとなり、設備も高度化した。地域冷暖房も、万国博会場で試みられたのを機として、大阪瓦斯が千里ニュータウンで本格的にこれを実施(大阪瓦斯千里エネルギーセンター・45年竣工)、わが国におけるこの種の施設の先駆をなした。

また、大型電算機の普及により、耐震、防湿等の特別な機能を要請されるようになり、そのための専用建物も建設された。

これらのうち当社の施工の代表的なものは、北海道拓殖銀行札幌事務センター、三井銀行事務センター、北陸銀行コンピュータセンターなどであった。

40年代前半に完成した当社施工の代表的オフィスビルは次のとおりである。

<東京>

第百生命本社(JV)、東京銀行本店分館、日本銀行本店新館増築第1期(JV)、城南信用金庫本店、住友生命四谷ビル、野村江戸橋ビル、電通本社、主婦の友ビル、国際ビル・帝国劇場、経団連会館(JV)、パレスサイドビル(JV)、伊藤忠商事東京本社増改築、東京武田ビル、住友商事美土代ビル、第一大久保ビル、電通恒産ビル、国際山王ビル、日本橋東洋ビル、興和一ツ橋ビル、永楽ビル増築・山陽パルプビル、タイムライフビルディング、NHK放送センター第2期(JV)

<大阪>

三和銀行本店別館、大阪三菱ビル、住友生命本町ビル、日本生命東館、日生日立ビル、桜橋東洋ビル、住友ビル第2別館、大阪化学繊維会館、大阪ガスビル増築、茨木ビル・永大ビル、大阪駅前第一ビル第1期

<その他>

毎日西部会館、名古屋長銀ビル、大和銀行神戸支店、日本生命四条ビル、日本生命仙台ビル、神戸市腕塚5丁目ビル、名古屋近鉄ビル(JV)、熱海駅前第一ビル、横浜東洋ビル、福岡武田ビル、名古屋興和ビル、小松駅前防災ビル

このうち電通本社は、東京における特定街区第1号の指定を受け、容積制限も600%から780%に増加することを認められたビルで、設計は丹下健三氏であった。

パレスサイドビルは、毎日新聞東京本社と米誌で著名なリーダーズダイジェスト社を収容することを主眼として建設されたもので、東西に長い矩形の主屋を2列に雁行させ、これに直径22m、高さ66mの円筒型コア棟を二つ配し、エレベータや洗面所などは全部このコア棟に収容されている。これは不整形な敷地を効果的に使用した、すぐれた計画といわれた。

国際ビル・帝国劇場は、主として芝居やミュージカル向きの劇場と貸オフィス、貸店舗も内包する、当時、都内の独立の建物としては最大の床面積をもつものである。また大阪三菱ビルは、三菱銀行・三菱商事の関西における本拠で、高さ67mの高層ビルである。

なお、このうちの国際ビル・帝国劇場(43年)、パレスサイドビル(JV)(43年)、電通本社(44年)、城南信用金庫本店(47年)に加え、名古屋商工会議所(JV)(44年)もBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

三井銀行事務センター
<東京都>昭和44年7月竣工
発注 三井銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
三井銀行事務センター
<東京都>昭和44年7月竣工
発注 三井銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
東京銀行本店分館
<東京都>昭和41年9月竣工
発注 東京銀行
設計 三菱地所
東京銀行本店分館
<東京都>昭和41年9月竣工
発注 東京銀行
設計 三菱地所
電通本社
<東京都>昭和42年6月竣工
発注 電通
設計 丹下健三+都市建築設計研究所
電通本社
<東京都>昭和42年6月竣工
発注 電通
設計 丹下健三+都市建築設計研究所
国際ビル・帝国劇場
<東京都>昭和41年9月竣工
発注 三菱地所、帝国劇場
設計 三菱地所、阿部事務所、谷口吉郎
国際ビル・帝国劇場
<東京都>昭和41年9月竣工
発注 三菱地所、帝国劇場
設計 三菱地所、阿部事務所、谷口吉郎
三和銀行本店別館
<大阪府>昭和41年12月竣工
発注 三和銀行
設計 三和銀行
三和銀行本店別館
<大阪府>昭和41年12月竣工
発注 三和銀行
設計 三和銀行
大阪ガスビル増築
<大阪府>昭和41年8月竣工
発注 大阪ガスビルディング
設計 安井建築設計事務所
大阪ガスビル増築
<大阪府>昭和41年8月竣工
発注 大阪ガスビルディング
設計 安井建築設計事務所
パレスサイドビル(JV)
<東京都>昭和41年10月竣工
発注 パレスサイドビルディング
設計 日建設計工務
パレスサイドビル(JV)
<東京都>昭和41年10月竣工
発注 パレスサイドビルディング
設計 日建設計工務
大阪三菱ビル
<大阪府>昭和44年8月竣工
発注 三菱銀行
設計 三菱地所
大阪三菱ビル
<大阪府>昭和44年8月竣工
発注 三菱銀行
設計 三菱地所
名古屋長銀ビル
<愛知県>昭和41年2月竣工
発注 長銀ビルディング
設計 松田平田坂本設計事務所
名古屋長銀ビル
<愛知県>昭和41年2月竣工
発注 長銀ビルディング
設計 松田平田坂本設計事務所
毎日西部会館
<福岡県>昭和40年10月竣工
発注 毎日西部会館
設計 日建設計工務
毎日西部会館
<福岡県>昭和40年10月竣工
発注 毎日西部会館
設計 日建設計工務
住友生命本町ビル
<大阪府>昭和41年3月竣工
発注 住友生命
設計 日建設計工務
住友生命本町ビル
<大阪府>昭和41年3月竣工
発注 住友生命
設計 日建設計工務
城南信用金庫本店
<東京都>昭和45年9月竣工
発注 城南信用金庫
設計 佐藤武夫設計事務所
城南信用金庫本店
<東京都>昭和45年9月竣工
発注 城南信用金庫
設計 佐藤武夫設計事務所
名古屋商工会議所(JV)
<愛知県>昭和42年9月竣工
発注 名古屋商工会議所
設計 日建設計工務
名古屋商工会議所(JV)
<愛知県>昭和42年9月竣工
発注 名古屋商工会議所
設計 日建設計工務

官民合同で都市再開発を促進

このころ、社会資本の充実を図るため、都市再開発や交通関係事業に官民合同の方式をとる政策が進められた。前章で述べたように、都市再開発については横浜駅西口、東京池袋駅周辺において当社は大きな役割を果たしたが、これらはいずれもそこをターミナルとする私鉄が事業主体として進めたものであった。これに対し、このころからの市街地再開発は地方公共団体が民間の協力を求め、政府支援のもとに行う方式がとられるようになり、当社も千葉県船橋市駅前その他を施工した。

船橋駅前再開発は、東京のベッドタウンとして急速に都市化が進みつつあった船橋駅前の再開発で、国鉄・京成・東武と鉄道3線が集中し、限界状態にあった交通混雑を解消することを主眼に、まず南口駅前にあった工場の移転を機に開発に着手した。駅前整備とともに地下街・地下駐車場が設けられ、船橋駅前ビルには西武百貨店が入居した。その後、付近に建設した2棟のビルも完成、のち北口再開発にも着手することとなった。

また同種工事では、大阪駅前市街地改造事業として昭和45年(1970)竣工した大阪駅前第一ビルをはじめ、万博開催にあたり駅前周辺を整備した阪急茨木市駅前地区改造(茨木ビル・永大ビル)や熱海駅前第一ビルも同様の工事であった。

こうしたなか、43年には新「都市計画法」が公布され、44年には「防災建築造成法」と「市街地改造法」が一つになって「都市再開発法」が誕生した。一方では民間施行による再開発事業として、防災建築街区造成事業があり、当社施工の代表的なものが新大阪センイシティー(当社は2号ビルをJVで施工)や小松駅前防災ビルであった。地下街として、この時期、当社が手がけたものには上に述べた船橋駅前地下街のほかにドージマ地下センターや松山市駅前地下街の新たな建設があり、ミナミ地下センター第1期、ウメダ地下センター第2期、京阪電鉄京橋停留場・ショッピングモールの新装・拡充があった。さらにターミナルビル内の店舗改装・改築・増築工事では、近鉄上本町ターミナルビル第1期(近鉄百貨店)(JV)、東京駅八重洲本屋・鉄道会館(大丸百貨店)増築、近鉄百貨店阿倍野店増築ならびに阿倍野橋駅改造、池袋パルコ(旧・東京丸物百貨店)などがあった。

このほか、40年代前半(一部46年)の店舗としては、髙島屋東京店増築第2期、池袋西口協同ビル、ダイエー湊川店、志沢デパート、南海ビル増築(髙島屋大阪店)、甘糟西口ビル(横浜岡田屋)、向ケ丘ショッピングワールドなどが代表的な施工例である。

船橋駅前ビル
<千葉県>昭和42年8月竣工
発注 湯浅商店
設計 当社
船橋駅前ビル
<千葉県>昭和42年8月竣工
発注 湯浅商店
設計 当社
大阪駅前第一ビル
<大阪府>昭和43年11月竣工(第1期)
昭和45年4月竣工(第2期)
発注 大阪市
設計 東畑建築事務所
(写真は第2期工事完成後)
大阪駅前第一ビル
<大阪府>昭和43年11月竣工(第1期)
昭和45年4月竣工(第2期)
発注 大阪市
設計 東畑建築事務所
(写真は第2期工事完成後)
茨木ビル・永大ビル
<大阪府>昭和45年4月竣工
発注 茨木市
設計 茨木市
茨木ビル・永大ビル
<大阪府>昭和45年4月竣工
発注 茨木市
設計 茨木市
ドージマ地下センター
<大阪府>昭和41年7月竣工
発注 堂島地下街
設計 当社
ドージマ地下センター
<大阪府>昭和41年7月竣工
発注 堂島地下街
設計 当社
熱海駅前第一ビル
<静岡県>昭和42年1月竣工
発注 熱海市
設計 佐藤武夫設計事務所
熱海駅前第一ビル
<静岡県>昭和42年1月竣工
発注 熱海市
設計 佐藤武夫設計事務所
ウメダ地下センター
<大阪府>昭和38年11月竣工(第1期)
昭和45年3月竣工(第2期)
発注 大阪市、大阪地下街
設計 大阪建築事務所
(写真は昭和45年撮影)
ウメダ地下センター
<大阪府>昭和38年11月竣工(第1期)
昭和45年3月竣工(第2期)
発注 大阪市、大阪地下街
設計 大阪建築事務所
(写真は昭和45年撮影)

近代的設備を完備する病院

医療の進歩に即応して、近代的設備を完備した大病院が建設され始めたのもこのころからであった。大学の付属病院でいち早くそうした傾向が見られ、昭和30年代から工事が続いている東京大学医学部附属病院に続き、大阪大学医学部附属病院も30年代の第1期に続き新病棟第2期・診療棟などを施工した。さらに横浜市立大学医学部病院・第2新館、徳島大学医学部附属病院病棟・臨床研究室、弘前大学医学部附属病院外来診療棟及び臨床研究棟が、このころの代表的な大学病院工事であった。

企業が経営する病院や医療法人の病院なども大規模化したが、その一つに当社施工の住友病院がある。当病院は35年(1960)に竣工し、同年BCS賞を受賞しており、43年には増改築工事も行った。国公立病院としては、国立熱海病院、関東逓信病院第二診療棟がその代表であり、そのほか、大阪回生病院、長崎聖フランシスコ病院、石巻赤十字病院改築なども当社が施工した。

横浜市立大学医学部病院
<神奈川県>昭和42年11月竣工
発注 横浜市
設計 創和建築設計事務所
横浜市立大学医学部病院
<神奈川県>昭和42年11月竣工
発注 横浜市
設計 創和建築設計事務所
住友病院
<大阪府>昭和35年2月竣工(昭和43年1月増改築工事竣工)
発注 住友病院
設計 日建設計工務
(写真は増改築後撮影)
住友病院
<大阪府>昭和35年2月竣工(昭和43年1月増改築工事竣工)
発注 住友病院
設計 日建設計工務
(写真は増改築後撮影)

通信の発展と局舎の整備

高度成長は郵便・電話などの通信をも急速に増加させた。郵便でのこのころの特徴としては、ダイレクトメールなど業務通信の増加が目立ち、昭和40年代中ごろには全体の70%を占めるようになった。一方、電話の普及は25年度(1950年度)には戦前最高であった18年度の108万台を超えたが、その後20年間で15倍という著しい増え方であった。市内電話のダイヤル化も95%となり、プッシュホンも大都市を中心に普及し始めた。

こうした動きに呼応して電話局や郵便局局舎の建設もこの時期に多く、また老朽化の著しい官公庁関係の工事も進んだ。40年代前半に竣工した当社施工の代表的な庁舎・局舎は次のとおりである。

<電信・電話局>

第二丸の内電話局、鹿児島市外電話局、新福島電話局、新霞ガ関電話局、横浜西電話局、新熱田電話局、一ツ橋総合ビル(竹平加入電信局総合建物)、近畿電気通信局庁舎

<郵便局>

博多郵便局、木挽町郵便局

<その他の庁舎>

名古屋港湾合同庁舎、参議院議員会館、仙台市庁舎、通産省総合庁舎、福岡地方合同庁舎

このうち、新霞ガ関電話局の工事では軟弱地盤に対しOWS壁と逆打ち工法で対応したが、当工法なくしては克服できない難工事といわれた。また、一ツ橋総合ビルは日本電信電話公社と住友商事の共同発注によるビルで、中層棟と高層棟からなり、両棟は地下で一体となっており総延7万3,000㎡に達した大規模オフィスビルであった。なお、仙台市庁舎(42年)と一ツ橋総合ビル(47年)はBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

一ツ橋総合ビル(竹平加入電信局総合建物)
<東京都>昭和45年9月竣工
発注 日本電信電話公社、住友商事
設計 日本電信電話公社、日本総合建築事務所
一ツ橋総合ビル(竹平加入電信局総合建物)
<東京都>昭和45年9月竣工
発注 日本電信電話公社、住友商事
設計 日本電信電話公社、日本総合建築事務所
仙台市庁舎
<宮城県>昭和41年2月竣工
発注 仙台市
設計 山下寿郎設計事務所
仙台市庁舎
<宮城県>昭和41年2月竣工
発注 仙台市
設計 山下寿郎設計事務所
近畿電気通信局庁舎
<大阪府>昭和44年3月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
近畿電気通信局庁舎
<大阪府>昭和44年3月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
通産省総合庁舎
<東京都>昭和43年5月竣工
発注 建設省
設計 建設省
通産省総合庁舎
<東京都>昭和43年5月竣工
発注 建設省
設計 建設省
参議院議員会館
<東京都>昭和40年5月竣工
発注 建設省
設計 建設省
参議院議員会館
<東京都>昭和40年5月竣工
発注 建設省
設計 建設省

進学率の上昇に対応

戦後、新教育制度の実施に伴い、全国に新制大学が開設されたが、校舎その他の学園施設については、ほとんど旧来のものがそのまま転用された。国民所得の上昇と進学率の上昇につれ、学生数が増えるとともに収容力が不足し、各大学とも施設の拡張を要するようになり、また新規に開設する学校も相次ぎ、そのため学校建築が盛んになった。これが顕著に現れたのは昭和37年(1962)ころからで、当時、当社が従事した学校関係工事は全国で数十にのぼっていた。以下はそのうち40年代前半(一部46年)に完成した代表的な学校建築である。

弘前大学医学部実験室・同研究室、埼玉大学理工学部実験室・同研究室、城西歯科大学本館・同体育館、芝浦工業大学大宮校舎、獨協大学校舎・同図書館、青山学院中等部校舎、武蔵野音楽大学記念館、東京音楽大学高校及び学生寮、創価大学(第1期)、京都工芸繊維大学繊維学部校舎、大阪樟蔭女子大学増築、四天王寺学園女子短期大学、大阪大学産業科学研究所、近畿大学体育館、甲南女子学園高校中学校校舎、東洋文化学園高等学校

また、この時代は、産業界の各分野で従業員の研修教育を行う傾向が強くなった。これら企業の研修施設で当社施工の代表的なものとしては、東京電力研修総合施設、三和銀行研修所、大阪瓦斯岩崎トレーニングセンターがあった。

創価大学(第1期)
<東京都>昭和46年3月竣工
発注 創価学会
設計 創造社
創価大学(第1期)
<東京都>昭和46年3月竣工
発注 創価学会
設計 創造社
近畿大学体育館
<大阪府>昭和46年3月竣工
発注 近畿大学
設計 安井建築設計事務所
近畿大学体育館
<大阪府>昭和46年3月竣工
発注 近畿大学
設計 安井建築設計事務所

第2次ホテルブーム

昭和40年代、ホテルの年平均成長率は、軒数で16.0%、客室数で16.2%にも及び、同時期における旅館の年平均増加率が軒数で1.0%、客室数で4.0%にとどまったのに対し、ホテルの成長はきわめて急速であった。そして44年(1969)から万博を目指してホテルの開業ブームが起こり、東京オリンピックに向けた前回のブームに次ぐものとして“第2次ホテルブーム”と呼ばれた。このブームの特徴としては、ホテル需要の広がりとホテルの大型化があげられる。旅行の大衆化はホテルの利用層を拡大し、また、いわゆるビジネスホテルの急成長が始まったのもこのころである。運営技術の発展とともに、1,000室規模のホテルが登場した。新本館が完成した帝国ホテルもその一例で、従来からある別館を加えると、1,400室というマンモスホテルとなった。また、航空会社がホテルへ進出し始めたのもこの時期である。

40年代前半に竣工した当社施工の代表的なホテルは、次のとおりである。

横浜ドリームランド・ホテルエンパイア、上野ステーションホテル別館、都ホテルガーデンウィング、志摩観光ホテル新館、宝塚ホテル増改築、京都グランドホテル、東洋ホテル、京都オリエンタルホテル(現・京都東急イン)、大阪コクサイホテル増築(JV)、帝国ホテル新本館(JV)、博多城山ホテル、ドゥシットタニーホテル(躯体工事)(バンコック)、サーフライダーホテル(ホノルル)、プリンセス・カイウラニタワーホテル増築(同)

このうち、40年竣工のホテルエンパイアは地上21階で、霞が関ビルに先がけ建設省高層建築物構造審査会の審査を通過した日本における超高層建築の第1号であり、京都ロイヤルホテルは当社も出資して建設されたホテルであった。帝国ホテル新本館は、旧建物がF・ロイド・ライト氏設計による名建築の誉れが高かったため、その解体に際し一部を愛知県明治村に移築するなどして工事が行われたが、新本館は46年BCS賞を受賞した。ちなみに、京都ロイヤルホテルの建つ地にあった京都聖ザビエル天主堂も明治村に移されている。大阪の東洋ホテルも大規模なホテルで、800人宿泊が可能なホテルとしてオープンした。

横浜ドリームランド・ホテルエンパイア
<神奈川県>昭和40年3月竣工
発注 日本ドリーム観光
設計 当社
横浜ドリームランド・ホテルエンパイア
<神奈川県>昭和40年3月竣工
発注 日本ドリーム観光
設計 当社
東洋ホテル
<大阪府>昭和44年10月竣工
発注 東洋ホテル
設計 当社
東洋ホテル
<大阪府>昭和44年10月竣工
発注 東洋ホテル
設計 当社
帝国ホテル新本館(JV)
<東京都>昭和45年2月竣工
発注 帝国ホテル
設計 高橋建築事務所
帝国ホテル新本館(JV)
<東京都>昭和45年2月竣工
発注 帝国ホテル
設計 高橋建築事務所
京都グランドホテル
<京都府>昭和44年10月竣工
発注 京都グランドホテル
設計 当社
京都グランドホテル
<京都府>昭和44年10月竣工
発注 京都グランドホテル
設計 当社
大阪コクサイホテル増築(JV)
<大阪府>昭和45年1月竣工
発注 国際見本市協会
設計 当社、竹中工務店
大阪コクサイホテル増築(JV)
<大阪府>昭和45年1月竣工
発注 国際見本市協会
設計 当社、竹中工務店

盛り上がる万博ムードのなかで

昭和45年(1970)の大阪万博に向け、その会場施設ばかりでなく、一挙に進んだ高速道路の整備、ホテルの建設ラッシュ、「万国博に原子の灯を」の合言葉のもとに建設された関西電力美浜発電所1号機など、その波及効果はさまざまな分野にわたった。

大阪国際空港ターミナルビルの建設もそうしたものの一つであった。ジェット機の採用、国際線の乗入れ増加等の航空事業のめざましい発展のなかで、当計画は、戦前の木造施設に代わり、管制塔を含むターミナルビルの建設、滑走路・誘導路の新設、エプロンエリアの整備、貨物ターミナル等の建設をする拡張計画であった。当社はこのうち国内線旅客ブロックと付属棟の施工を担当し、44年に完成した。なお、高速道路、ホテル、原子力発電所の建設については別項で述べている。

万博ムードとともにレジャーという言葉が国民に浸透し始めたのもこのころであった。レジャー関連施設として、当社は日通伊豆富士見ランドプロムナード、京都競馬場スタンド増築および栗東トレーニングセンター廐舎、相模鉄道那須別荘地造成、シーボニア油壼マンション(1期・2期)、毎日放送ミリカホール、蔵前国技館改修工事をこの時期施工した。さらに官公庁発注の東京国立博物館東洋館、横須賀市文化会館、岐阜市文化センター、名古屋市瑞穂プールなども施工している。このうち、大阪国際空港ターミナルビルディング国内線ブロック(45年)、岐阜市文化センター(43年)、名古屋市瑞穂プール(44年)はBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

また、創価文化会館(東京信濃町)、戦没学徒記念若人之広場(淡路島)、成田山新勝寺大本堂、中宮寺本堂宝蔵庫など宗教建築やメモリアル建造物の工事が出始めたのも、この時期の特徴であった。巨大な宗教建築として注目を浴びていた大石寺正本堂(JV)の工事も、47年10月の完成を目指して盛んに工事を進めていた。

関西電力美浜発電所1、2号機本館
<福井県>昭和45年7月竣工(1号機本館)
昭和47年2月竣工(2号機本館)
発注 関西電力
設計 関西電力、米国ウェスチングハウス社、
新日本技術コンサルタント
(写真は昭和46年6月撮影)
関西電力美浜発電所1、2号機本館
<福井県>昭和45年7月竣工(1号機本館)
昭和47年2月竣工(2号機本館)
発注 関西電力
設計 関西電力、米国ウェスチングハウス社、
新日本技術コンサルタント
(写真は昭和46年6月撮影)
東京国立博物館東洋館
<東京都>昭和43年10月竣工
発注 建設省
設計 谷口吉郎、建設省
東京国立博物館東洋館
<東京都>昭和43年10月竣工
発注 建設省
設計 谷口吉郎、建設省
成田山新勝寺大本堂
<千葉県>昭和43年3月竣工
発注 成田山新勝寺
設計 吉田五十八建築研究室
成田山新勝寺大本堂
<千葉県>昭和43年3月竣工
発注 成田山新勝寺
設計 吉田五十八建築研究室
大阪国際空港ターミナルビルディング国内線ブロック
<大阪府>昭和44年1月竣工
発注 関西国際空港ビルディング
設計 安井建築設計事務所
大阪国際空港ターミナルビルディング国内線ブロック
<大阪府>昭和44年1月竣工
発注 関西国際空港ビルディング
設計 安井建築設計事務所
岐阜市文化センター
<岐阜県>昭和42年1月竣工
発注 岐阜市
設計 坂倉準三建築研究所
岐阜市文化センター
<岐阜県>昭和42年1月竣工
発注 岐阜市
設計 坂倉準三建築研究所
中宮寺本堂宝蔵庫
<奈良県>昭和43年5月竣工
発注 中宮寺奉賛会
設計 吉田五十八建築研究室
中宮寺本堂宝蔵庫
<奈良県>昭和43年5月竣工
発注 中宮寺奉賛会
設計 吉田五十八建築研究室
名古屋市瑞穂プール
<愛知県>昭和42年6月竣工
発注 名古屋
設計 名古屋市
名古屋市瑞穂プール
<愛知県>昭和42年6月竣工
発注 名古屋
設計 名古屋市
大石寺正本堂(JV)
<静岡県>昭和47年10月竣工
発注 正本堂建設委員会
設計 連合設計社、青木繁研究室、桜井建築設備研究所
大石寺正本堂(JV)
<静岡県>昭和47年10月竣工
発注 正本堂建設委員会
設計 連合設計社、青木繁研究室、桜井建築設備研究所

賠償工事から商業ベースへ

戦後の海外工事は、1954年(昭和29)からのいわゆる「賠償工事」に始まった。当社のこうした工事には、カンボジア農・牧・医センター(1964年竣工)を皮切りに、インドネシア・スマトラ島パレンバン市のムシ大橋(1965年)、同ジャカルタ市内のサリナ百貨店(1966年)があった。

商業ベースで行われた工事の最初はマレーシア・プライ火力発電所土木工事(1965年)であったが、本格的なものは、1966年に完成したバンコックのAIAビルであり、SEATO本部ビル(バンコック)、在タイ日本国大使館事務所、タイ・サイアム・クラフト・ペーパー製紙工場、ドゥシットタニーホテル(躯体工事)(バンコック)、タイ帝人テトロン工場、ジュロン火力発電所基礎(シンガポール)、タニヤビル(バンコック)へと続いていった。

このように東南アジアを中心に海外進出を果たした当社であったが、ハワイではサーフライダーホテル(ホノルル)とプリンセス・カイウラニタワーホテル増築など日本企業所有のホテル建設に携わり、アメリカ進出への足がかりとした。

ムシ大橋
<インドネシア・スマトラ島>1965年4月竣工
発注 富士車輛
設計 富士車輛、当社
ムシ大橋
<インドネシア・スマトラ島>1965年4月竣工
発注 富士車輛
設計 富士車輛、当社
サーフライダーホテル
<米国・ハワイ州>1969年5月竣工
発注 京や
設計 ウインバリイ・ウイズナン・アリソン・アンド・トン事務所、ローリック オノデラ アンド キンダー設計事務所

プリンセス・カイウラニタワーホテル増築
<米国・ハワイ州>1970年10月竣工
発注 京や
設計 ローリック オノデラ アンド キンダー設計事務所、当社

(写真左端に見えるのがサーフライダーホテル、写真中央の高層棟がプリンセス・カイウラニタワーホテル)
サーフライダーホテル
<米国・ハワイ州>1969年5月竣工
発注 京や
設計 ウインバリイ・ウイズナン・アリソン・アンド・トン事務所、ローリック オノデラ アンド キンダー設計事務所

プリンセス・カイウラニタワーホテル増築
<米国・ハワイ州>1970年10月竣工
発注 京や
設計 ローリック オノデラ アンド キンダー設計事務所、当社

(写真左端に見えるのがサーフライダーホテル、写真中央の高層棟がプリンセス・カイウラニタワーホテル)
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