朝鮮戦争に続く約5年間は、建設技術の面において、戦時中の空白を挽回して戦前の水準に復帰し、昭和30年(1955)以降に本格化する各種技術の下地が形成された時期であった。
沖縄工事に触発された施工の機械化は、まず土木工事の面から始まり、次いで建築工事に及んだ。
重機械類は、初めのうちは特別調達庁が保有する米軍の払下げ品や、建設省など官庁が購入したものを貸与され、直轄工事で使用していたが、やがて業者自身が保有するようになった。ダムの建設が盛んになるに伴い、インパクトクラッシャー、削岩機(デタッチブルビット)、大型ショベルダンプ等の輸入や製作が行われるようになってきた。コンクリートフィニッシャー、被牽引タイヤローラーが用いられるようになったのも、道路工事の大型化、近代化に歩調を合わせるものであった。
当社の25年3月決算における工事機械保有高は取得価格で2,311万円にすぎなかったが、技術革新の進展に伴い大型機械が相次いで導入された。これらの新鋭重機械類の購入によって、5年後の30年9月決算における機械保有高は取得価格で9億785万円に達している。
経済の復興とともにビル建築工事も活発化し、地下工事では鋼製切梁も使用され始め、ブルドーザー、パワーショベル、ドラグラインなどが導入された。28年のNHK東京放送会館新館工事では、さらにベルトコンベヤー、バケットコンベヤー等も使用され、同年着工した東京駅八重洲本屋・鉄道会館工事では、当時ダム工事に使われ始めていた全自動バッチャープラントが採用され、コンクリート工事の管理面が著しく向上した。
日本における土質工学が新しい展開をみせたのもこの時期からで、地盤調査や土質改良の技術も進歩し、電気探査法、不撹乱試料のサンプリング法、標準貫入試験などが実用化され、サンドドレーン工法が紹介された(26年)。ウエルポイント、ジーメンスウエル工法などの新しい水替え工法が実用化され、排水用ポンプが改良されたのもこの当時で、地下工事の様相は大きく変貌した。
基礎工法としては、サンドドレーン工法に次いで既成杭打込みにジェットドリフター工法、30年にデルマーグ社のディーゼルハンマー杭打機が導入された。構造技術の面では、プレストレストコンクリート(PC)の実用化がある。26年、PC枕木が鉄道で試用され、PC道路橋、PC鉄道橋も施工されるようになった。いずれもプレテンション方式をとっているが、28年にはポストテンション方式が実用化された。
現場練りコンクリートが生コンクリートに置き換えられるという画期的現象が起こったのも、この時代であった。当社が生コンクリートを最初に用いたのは、27年の東京の帝国(のち三井)銀行阿佐ケ谷支店工事である。アメリカの道路工事などに使用されていたAEコンクリートが建築工事にも使われるようになり、29年8月には、防衛庁庁舎の新築工事に天然の軽量骨材を用いたコンクリートを試用した。電気的な方法を利用するコンクリートの非破壊試験法も紹介された。
わが国の業者がベニヤ型枠の存在を知ったのは沖縄工事に際してであるが、当社が初めて試みたのは25年12月、大阪中央放送局堺放送所新築のときである。防衛庁庁舎工事では、サッシュ先付けの大型パネル工法を用い、東京駅八重洲本屋・鉄道会館やマミヤ光機の工事などではメタルフォームを試用した。28年11月、大阪市安治川サイロ工事に採用した滑動型枠(スライディングフォーム)は、広く業界の注目を集めた。コンクリート地肌の美を強調するコンクリート打放し工法が流行し始めたのもこの当時からである。これはコンクリートの品質や型枠の精度の向上に資することが多く、当社では社内技術者のために『打放しコンクリート施工指針』を刊行した。
体育館や紡績工場がシェル構造、無窓建築を採用する傾向も増加した。当社では28年10月、シェル構造の松山体育館(愛媛県民館)を施工し、初めて鉄筋のガス圧接工法を採用した。また、このころからいわゆるカーテンウォール工法が採用され始めた。同時に、ビルの冷暖房設備が一般化し、その結果、熱線吸収ガラスの使用、ドリゾールその他の断熱材料の利用など、建築物の質的充実が促進された。塗料、防水、接着用として、また内装材として、高分子系材料も開発された。
30年に開発された軽量型鋼は、断面効率がよいこと、取扱いが簡便であることなどの利点から、木材に代わる材料として急速に普及し、異形鉄筋の製造も始まった。
25年に大林社長は戦後の技術革新、機械化工法の実情を視察するためアメリカに出張し、その導入と実用化の意思を強くしたが、それがこうした当社の工法近代化、重機械装備につながった。
さらに29年には平田昌三を土木工事視察のため欧米に出張させたほか、同年取締役研究室長(設計部長兼務)小田島兵吉は、日に日に進む技術革新に備えるため、東京支店設計部の富田哲輔を伴い、設計業務の視察に欧米に赴いた。こうして、先進技術に学び、かつこれを取り入れて、当社の技術革新の基礎がつくられていったのである。
大林社長の戦後初渡米
大林社長は戦後の進駐軍工事、沖縄工事等によって、技術革新、機械化工法の時代がわが国にも到来することを確信し、先進国アメリカの実態を視察することにした。当時の渡航は今日ほど自由ではなく、GHQ・外務省の厳しい審査手続きを経てようやく許可を得たのであった。
昭和25年9月27日、大勢の見送りを受け大阪を出発、東京に向かった。しかし東京駅でもたらされたのは、大阪駅まで見送ってくれた実母ふさの危篤の報であった。急ぎ帰阪したが、すでに不帰の客となっていた。突然のことで悲嘆にくれたが、弔いもそこそこに再び東京にもどり、同月30日あわただしくアメリカに飛び立った。
葬儀のことはむろん気がかりであったが、ここで渡米の機会をのがすことは大林組の発展にとって大きなマイナスになると考え、意を決してアメリカに向かったのである。
アメリカでは、大林賢四郎と親交の深かったニューヨークの松井保生建築事務所を訪ね、同氏の助言と紹介を得て3カ月間、宿泊費も含め1日10ドルという厳しい制約のなかで、全米各地の主要な現場をまさに身をもって見聞した。
まず、アメリカの繁栄を象徴するかのような蛍光灯の明るさに感激し、生コンに驚き、ブルドーザー、タワークレーンの巨大さに感嘆した。当時のわが国では、蛍光灯はなく、コンクリートは“現場練り”という状況であった。「こういうものを勉強して早く日本に入れなければいけないと、このとき痛切に感じました。それと同時に情報は大事だなと思いました。アメリカへ行って実情を見て、これでは日本が負けるのは当たり前だと……。だから、こういうアメリカの技術を勉強して、さらにわれわれの努力によってアメリカに負けないように、経済、産業を盛り立てて日本が力をつけるように努力をする、またするだけの甲斐があるのだという気持を強くしました」と語っている。
このときの大林社長の体験が、その後の当社の技術導入、技術開発の推進に大いに貢献することとなったのである。