■―電力・重化学工業の工事
昭和初期の深刻な不況は6年(1931)を底とし、満州事変以後は軍需景気、積極財政によって不況を脱出したが、産業界をはじめ社会一般に軍事的色彩が濃くなっていった。人絹糸、スフ綿など繊維業界に伸長がみられるほか、この時期には鉄鋼、金属、硫安、電気など時流を反映する重化学工業が著しく伸展した。
五大製鉄会社の合同による日本製鐵(9年)、三菱造船と三菱航空機の合併による三菱重工業(同年)の発足、理研重工業の設立、日産コンツェルンによる大阪鉄工所の吸収など重化学企業の規模拡大も相次いだ。
7年から11年にかけて、わが国の工業生産は急速に伸びたが、なかでも重化学工業の伸長が目立ち、ようやく重化学工業の時代を迎えようとしていた。戦後わが国の経済成長の牽引力となる基礎は、この時代につくられたのである。
こうした状況は建設業の繁忙をもたらし、当社の株式配当も7年の年7分を、9年には1割に回復することができたが、一方ではインフレーションによる資材、ことに鋼材の値上がりや労務費の高騰には少なからず悩まされた。
当社はこの時期、化学繊維を中心に繊維諸工場、日本電気第8、第10工場、東洋高圧工業本工場のほか、日本電力黒部川第2発電所第1工区(小屋平堰堤)、関西共同火力尼崎第1、中国合同電気三蟠、東京電燈鶴見の各発電所工事等を施工した。
これら産業施設のほか、軍関係工事、ビル建築、地下鉄工事等に携わったが、このころの特異なものに帝室博物館(現・東京国立博物館)本館工事がある。同館は7年末に着工、12年11月の竣工までに5年の歳月を費やした。設計は懸賞募集により渡辺 仁氏の作品が採用されたが、募集規定に「日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト」とあり、この時代を反映した民族主義的色彩の強いものである。中2階を含む地下2階、地上2階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、主として1階は彫刻、工芸、2階は絵画などの陳列に充てられている。延床面積は6,500坪余(2万1,500㎡)で、内装は壮麗を極めた。工事主任は佐野源次郎であった。
11年には2.26事件が起き、日独防共協定が結ばれるなど、国情は軍部中心のファシズムに傾き、非常時が喧伝され、高度国防国家建設が目指された。当社受注工事もしだいに時局を反映したものが多くなっていったのも当然の成行きであった。
11年以降、16年の太平洋戦争突入までの間、受注工事は重化学工業や、あらゆる産業の動力源である電力関係の比重が高かった。11年には三菱重工業横浜船渠工場、同東京および玉川機器製作所、川崎造船所各務原飛行機工場、日本電気三田工場のほか、東北振興電力蓬萊、東京電燈信濃川、日本電力黒部川第3などの発電所建設を請け負った。そのうち東京電燈(14年、日本発送電会社に統合)の信濃川発電所新設工事は、当時としては最大のもので、豪雪地帯であることや重機械のなかったことなどから、完成までに5年余を要する難工事であった。
12年になると日中戦争勃発の事態から諸統制法令が相次いで公布され、戦時色も一層強まった。鋼材使用制限をはじめ各種の統制、配給制は、建設業の企業活動を窮屈なものにしたが、工事も軍事施設や軍需産業部門に限られてきた。そのなかで当社が13年7月に竣工した京都競馬倶楽部は、不要不急事業最後の建造物というべきものであった。
このころの業界を最も悩ませたのは労働力の不足であった。雇入れの制限を受けたばかりか、召集、徴用で従業員は漸減した。当社の在籍者は大正8年に役員、社員、准社員を含め284名であったものが、昭和12年には1,337名に達していた。その間の休職者(主として病気による)は年間10名ないし20名であったが、13年には総数1,420名に対し88名の休職者を出した。14年には1,539名に対し140名、15年には1,718名に対し230名と毎年急増しているが、そのほとんどは応召、応徴によるものであった。
それにもかかわらず、建設工事は国の至上命令であり、業者はいずれも困難に耐え、この要請に応えた。
当社では14年に日本製鋼所室蘭製作所、日本製鐵広畑製鋼工場、同朝鮮清津工場、台湾電力円山発電所、華北東亜煙草青島工場その他、日本内地のみならず朝鮮、台湾、中国にも及んで受注した。また15年にも日本鋼管大阪工場、三菱電機大阪工場、神戸製鋼所本事務所・同各工場、住友金属工業和歌山工場、華北塘沽港函船渠および岸壁その他を受注した。
この間15年3月、国鉄の大阪駅本屋が竣工した。これは13年7月受注し、当初の計画では6階建であったが、時局の緊迫により工事を3階までで打ち切って、一応完成としたもので、すでに6階まで組立てを終わっていた鉄骨は解体し、軍需用に転用された。
軍事施設、軍需産業を中心に建設業界は多忙であったが、11~15年の主要業者10社の平均年間工事施工高は左表のとおりで、当社が第1位を占めた。