大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

2 創業の機をつかむ

■―阿部製紙所工場の受注と創業

徳川時代の大阪は政治の中心地江戸と対照的に、商人の町であり、天下の台所として商業、金融の中心市場であった。諸藩の蔵屋敷が集まり、諸国物資の集散地でもあり、これらを扱う大商業資本家を輩出し、その富の上に上方文化の花が開いた。

幕末の動乱から明治の初めの大変動期には一時的な衰退を余儀なくされたが、明治10年代半ば以降、商業都市的性格から工業都市へと指向し、政府もこの政策を推進した。20年(1887)ごろからは事業熱も高まり、鉄道、紡績、皮革、鉄工業などの会社が次々に創立された。純粋に民間による鉄道建設も行われ、とくに紡績は盛んとなって、わが国紡績業の中心となった。

14年には大阪鉄工所(現・日立造船)が開業、21年には地元財閥である住友家が滋賀県醒井に製糸場を設け、神戸に樟脳製造所を設けた。このほかメリヤス、ブラッシュ、製紙などの諸工業が勃興したのもこのころであった。

由五郎が帰阪したのはこの時期であり、鉄道、軍港築造、公共建築、産業施設など建設需要は大いに起こっていたが、これに応ずべき請負業者は昔ながらの棟梁、親方出身者たちであった。この過渡期に大規模工事の要求に応えられるのは大阪では政府の御用達商人藤田組くらいであった。26年に前述のとおり大阪土木会社ができたが、藤田はこのときすでに手をひいていた。大阪土木も不振であり、由五郎にとってこうした状況は、事業を始めるにあたっては有利であった。

25年1月18日、由五郎は近江出身の豪商阿部一族の阿部製紙所工場新設工事の落札に成功した。帰阪後、小請負などを行っていた由五郎にとって、独立、飛躍の機会が訪れたのである。ようやく初志を貫徹し、独立の請負業者になれたとの思いから、由五郎はそれから7日後、1月25日を創業の日と定めたのは先述のとおりである。時に由五郎28歳、店舗は西区靱南通4丁目62番地(現・西区西本町2丁目5番24号)にあり、住居を兼ねていた。

この落札は、古い因習の残る業界の羨望と嫉視の的であった。由五郎はそのなかにあって、将来の運命をかける意気込みで、工事に全力を集中し、施主の満足するものを仕上げた。当社最初の施工であるこの工事は、西成郡川北村西野新田(現・此花区西九条)の工場敷地整地と煉瓦造工場および石造倉庫10棟の建設工事であった。

このとき由五郎を助けた部下に、麴屋時代の同僚福本源太郎や小原伊三郎、下里熊太郎らがいる。また同製紙所の幹部松本行政氏は、26年にその甥伊藤哲郎を由五郎に託して入店させた。伊藤は後述の白杉嘉明三(初名亀造)とともに、やがて当社の柱石となった。

これらの事実は由五郎が人と接するに誠実であって、その信頼を得る人柄であったことを裏付けている。

同製紙所工場は30年に火災で焼失したが、そのとき由五郎はその復旧工事の下命を受け、また27年には同じく阿部家より金巾製織四貫島工場建設を受注した。これらのことも、由五郎の誠実施工に徹した人柄への信任にほかならないといえる。

創業当時の店舗
創業当時の店舗
阿部製紙所工場 <大阪府>明治25年8月竣工
阿部製紙所工場 <大阪府>明治25年8月竣工

■―新進業者として台頭

当社は今日、100年の歴史を誇り、大手業者の一角にあるが、当時はまだ、かけ出しの一小業者にすぎなかった。明治25年(1892)の創業から27年までの3年間に受注したのは、阿部製紙所のほか、26年3月の朝日紡績今宮工場建設など、1年1件程度にすぎない。

由五郎がにわかに多忙となるのは27~28年の日清戦争を経て、軍関係工事が急増し、産業界にも起業熱が高まり業界が繁忙となってからである。政府の産業振興策も日清戦争後、再び積極化していた。

28年の大阪硫曹工場、大阪府第二尋常中学校(現・三国丘高校)に続き29年には一挙に大和紡績、朝日紡績能美島、日本刷子、近江麻糸紡織、日本絹糸紡績、尼ケ崎紡績、日本繊糸の各工場、近江銀行、讃岐鉄道延長線第1工区の9件を受け、大阪以外にも進出した。このうち近江麻糸紡織や近江銀行が阿部氏の資本系列であるのをみても、由五郎が着々と信用を築いていったことをうかがい知ることができる。

また、このころ大阪の業界は固定した顧客をもつ者が多く、入札を軽視する傾向があったが、新参者の由五郎には固定した顧客といえる者はなく、積極的に入札によって工事を請け負い、それを手がかりに信用を増大し、さらに業績をあげることに努めるほかなかった。

当時ようやく本格化した洋風建築や鉄道、橋梁などの工事は業界の様相を一変させた。これに耐えうる能力のある者は生き残り、そうでない者は没落する以外に道はなかった。由五郎が新参のハンディキャップを負いながら、よく先発業者をしのぐことができたのは、この変動期に処する鋭い洞察力と絶えざる努力のたまものにほかならない。また、その人柄にひかれて次々に多くの支持者が現れ、由五郎を助けたことも忘れてはならない。

いま、その一、二をあげると、創業期に資金的に面倒をみてくれた亡父徳七の友人、片山和助氏、材木の供給や資金面で援助を惜しまなかった堀江の材木商佐々木伊兵衛氏などである。

由五郎は創業に際し、棟梁、親方の経験もなく、大資本や権力の背景もなかった。ただ、なにがしかの経験による請負業の管理能力と先見性のみが力であった。しかし事業には資金が必要である。これを助けたのが片山氏で、創業に際し5,000円の資金を提供し、母美喜の蓄えと自己資金1,000円を合わせたものが、由五郎の旗上げの資金となった。

佐々木氏は店を訪れる由五郎の態度、材質への吟味などに心を打たれ、両人の間には深い男の友情が生まれた。由五郎が分不相応の大仕事に挑戦できた陰には、佐々木氏の友情、恩顧があったのである。

こうして由五郎の人柄を信用する人々に助けられ、誠実施工を旨としつつ、時代の潮流に応じて積極的に入札に加わり、事業の基盤を固めていった。

30年に大阪舎密工業、大阪製薬、毛斯綸紡織の各工場や九州倉庫会社の倉庫、阿部製紙所火災復旧工事、31年に大阪府第三尋常中学校、同第四尋常中学校、日本繊糸寄宿舎、京都の大日本武徳会演武場を請け負い、同年6月には、当社の歴史にとっても大きな意味をもつ大阪市築港の大工事を受託するに至った。

賞金返上の美談

創業の翌年、第2番目の工事として入札により受注した朝日紡績今宮工場の請負額は4万3,000円であったが、後に追加工事を加えて総額8万3,000円に達した。朝日紡績は明治21年創立の今宮紡績が、翌年難波紡績に継承され、さらに26年、日野九郎兵衛氏を社長として新発足したものである。綿業勃興の機運に乗じて新工場建設に着手しただけに、発注者にとって最大の関心事は竣工の期日であった。

工期は3月2日から10月15日までの契約であったが、由五郎がまだ実績のない29歳の青年請負師であることに対し、会社側では若干の不安をもった。しかし、すでに資金的に裏付けを得た彼は、十分の自信をもって確約し、万一工期が遅れた場合、遅延日数1日について1,000円の違約金を支払うことを自発的に申し入れた。これに対して会社側も、期日前に完成した場合、1日について2,000円の賞金を提供することを約した。

こうして、時間と仕事との競争が開始された。由五郎は雨の日も風の日も現場に立ち、自ら指揮をとった。そして煉瓦造の工場、倉庫など18件は期日に先立つこと3日、10月12日に完成した。日野社長は約束どおり賞金を与えたが、彼はそれをそのまま、落成祝いとして朝日紡績に贈った。このことは会社側に大きな感銘を与えたばかりか、美談として広く伝えられ、大林の名を高からしめた。

明治29年5月、朝日紡績は広島県能美島に新工場を建設するに際し、その施工を由五郎に特命している。

朝日紡績今宮工場 <大阪府>明治26年10月竣工
朝日紡績今宮工場 <大阪府>明治26年10月竣工
大阪硫曹工場 <大阪府>明治29年5月竣工
大阪硫曹工場 <大阪府>明治29年5月竣工
大和紡績工場 <奈良県>明治30年6月竣工
大和紡績工場 <奈良県>明治30年6月竣工

■―人材の結集

“事業は人なり”とはすでに言い古された言葉であり、その真理は古今を通じて変わらない。当社100年の歴史も一面ではこの真理を証明するものにほかならない。由五郎がいかにすぐれた人物であれ、一人の力をもってその大をなしえたのではなく、多くの人材に助けられたのはいうまでもない。由五郎が偉大であったのは、これらの人物を集めてその能力を発揮させるとともに、その心服をかち得た点にある。

明治期の重要施工工事については次節に述べるが、この時期、由五郎を助けた人材は多く、当社の基礎を固めるうえに大きな力となった。創業当初には四天王と呼ばれた下里熊太郎、菱谷宗太郎、小原伊三郎、福本源太郎がおり、間もなく伊藤哲郎、白杉亀造の両人材を得た。

この時代は、日本における産業革命期ともいうべき時期で、各分野の進歩、改革はめざましいものがあり、建設業の形態も従来の棟梁・親方的請負ではすまされなくなった。工事の規模や工法の変化に対応するには、正規の教育を身につけた新人を必要とし、経営もまた組織化されなければならなかった。由五郎がいち早くこれを見きわめ、それに対応する姿勢をとったのは、その天分もあったろうが、一つには由五郎が部外の出身で、過去にとらわれなかったためかもしれない。

日露戦争中から戦後にかけ、軍工事を大量に受注したころには、さらに人材が集中した。そのすべてを列挙することは避けるが、船越欽哉と岡 胤信について簡単に触れておく。この両名を招いたのは、由五郎の技術者重視のあらわれであった。

船越は工部大学校造家学科出身で、当時きわめて少数の工学士の一人として海軍技師、呉鎮守府建築課長の要職にあった。それが明治38年(1905)大林組に入ったことは、業界に衝撃を与えたのみでなく、請負業を賤業視した世間を驚かせた。

岡もまた工学博士で、学位をもって業界入りした最初の人である。彼は東京帝国大学土木学科を卒業して内務省に入り、高等官三等に昇進した後、大阪市に転じ築港事務所工務課長になった。それを由五郎は明治42年、年俸4,500円の高給で迎えた。

船越、岡のように、当時この道の権威とされた人々が、一個人の経営する大林組に入ったのは、単に経済的条件のみではありえない。優遇は技術者尊重と信頼のあらわれであり、由五郎の技術者尊重と信頼の精神が彼らを強く動かしたからにほかならなかった。

次に白杉亀造(昭和14年より嘉明三)について記しておかなければならない。当社歴代の多くの人材のなかにあって、白杉は群を抜く特異の人物というべきであろう。

白杉は宮津市の出身、代々藩主御用の紺屋職という旧家の出である。維新の改革後、大阪に出て家業再興を図ったが、思うにまかせず郵便局勤めをしながら機会を待っていた。郷土の先輩で、当時由五郎の下に副支配人をしていた長田桃蔵の所に、しばしば相談に訪れていたところから由五郎にも知られ、明治31年春、由五郎以下4~5人連れの高津神社への花見にお供をした。このとき白杉の運命に転機が訪れた。

名物湯豆腐の鍋を囲みながらの談笑のあと、由五郎は白杉に語りかけた。「君のことはよく聞いて知っている。家業再興の決意は立派であるが、よく考えなさい。いまはそういう商売はご時世におくれているのではないか。ここから窓の外をよく見なさい。この下町のたくさんの家が50年、100年の将来には大廈高楼に建て替わる時が必ずくる。建築界の前途は洋々だ。おれの所へきて一緒にやらないか」

そういって白杉の前に差し出された手を、「よろしくお願いします」といいながら白杉は思わず握りしめていた。白杉は23歳、由五郎はひとまわり上の35歳であった。

それから白杉の大林とともに歩む人生は、昭和50年8月、100歳の天寿を全うするまで続いた。その間、由五郎の側近として精励して以来、大林家三代の社長に仕え、最高幹部の一人として幾多の功績を積んだ。

伊藤哲郎
伊藤哲郎
船越欽哉
船越欽哉
岡 胤信
岡 胤信
入社当時の白杉亀造(明治33年)
入社当時の白杉亀造(明治33年)
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