■―阿部製紙所工場の受注と創業
徳川時代の大阪は政治の中心地江戸と対照的に、商人の町であり、天下の台所として商業、金融の中心市場であった。諸藩の蔵屋敷が集まり、諸国物資の集散地でもあり、これらを扱う大商業資本家を輩出し、その富の上に上方文化の花が開いた。
幕末の動乱から明治の初めの大変動期には一時的な衰退を余儀なくされたが、明治10年代半ば以降、商業都市的性格から工業都市へと指向し、政府もこの政策を推進した。20年(1887)ごろからは事業熱も高まり、鉄道、紡績、皮革、鉄工業などの会社が次々に創立された。純粋に民間による鉄道建設も行われ、とくに紡績は盛んとなって、わが国紡績業の中心となった。
14年には大阪鉄工所(現・日立造船)が開業、21年には地元財閥である住友家が滋賀県醒井に製糸場を設け、神戸に樟脳製造所を設けた。このほかメリヤス、ブラッシュ、製紙などの諸工業が勃興したのもこのころであった。
由五郎が帰阪したのはこの時期であり、鉄道、軍港築造、公共建築、産業施設など建設需要は大いに起こっていたが、これに応ずべき請負業者は昔ながらの棟梁、親方出身者たちであった。この過渡期に大規模工事の要求に応えられるのは大阪では政府の御用達商人藤田組くらいであった。26年に前述のとおり大阪土木会社ができたが、藤田はこのときすでに手をひいていた。大阪土木も不振であり、由五郎にとってこうした状況は、事業を始めるにあたっては有利であった。
25年1月18日、由五郎は近江出身の豪商阿部一族の阿部製紙所工場新設工事の落札に成功した。帰阪後、小請負などを行っていた由五郎にとって、独立、飛躍の機会が訪れたのである。ようやく初志を貫徹し、独立の請負業者になれたとの思いから、由五郎はそれから7日後、1月25日を創業の日と定めたのは先述のとおりである。時に由五郎28歳、店舗は西区靱南通4丁目62番地(現・西区西本町2丁目5番24号)にあり、住居を兼ねていた。
この落札は、古い因習の残る業界の羨望と嫉視の的であった。由五郎はそのなかにあって、将来の運命をかける意気込みで、工事に全力を集中し、施主の満足するものを仕上げた。当社最初の施工であるこの工事は、西成郡川北村西野新田(現・此花区西九条)の工場敷地整地と煉瓦造工場および石造倉庫10棟の建設工事であった。
このとき由五郎を助けた部下に、麴屋時代の同僚福本源太郎や小原伊三郎、下里熊太郎らがいる。また同製紙所の幹部松本行政氏は、26年にその甥伊藤哲郎を由五郎に託して入店させた。伊藤は後述の白杉嘉明三(初名亀造)とともに、やがて当社の柱石となった。
これらの事実は由五郎が人と接するに誠実であって、その信頼を得る人柄であったことを裏付けている。
同製紙所工場は30年に火災で焼失したが、そのとき由五郎はその復旧工事の下命を受け、また27年には同じく阿部家より金巾製織四貫島工場建設を受注した。これらのことも、由五郎の誠実施工に徹した人柄への信任にほかならないといえる。