大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

4 厳しい減量経営

■―借入金縮小への努力

当社にとって多くの悪条件が重なったこの時期、経営の重要課題は、工事量の確保、借入金および固定費の縮減、工事利益率の向上であり、前述の訓示や告示、通達にも指摘されたところである。

積極的な方策として、工事量の確保を図るため、需要創出型営業を推進し、全社員が営業マンとしてきめ細かく情報をキャッチして受注につなげること等についてはすでに触れたが、他の方策は経費節減を含む全社的な“減量経営”による利益の確保であった。

とくに増大した借入金の返済は、工事代金の取下げ率の向上とともに、企業財務の根幹を立て直すべき重要かつ緊急のテーマであった。昭和40年代後半以降、当社が積極的に進めてきた開発事業は用地取得のため多大の資金を要したが、その資金の多くが借入金によるものであったことは前章に記したとおりである。加えて、石油危機以後、工事代金の取下げ率が低下し、日常の運転資金にも難渋するようになった。このため、農林系金融機関への借入先拡大を図ったが、その調達は困難を極めたうえ、高コストを伴うものでもあり、金融費用負担はふくらんでいった。

石油危機発生後、総需要抑制策として公共投資の繰延べ、銀行貸出しの強力な規制が実施された。昭和48年(1973)12月、大蔵省から金融機関に対し、融資のあり方についての通達が発せられ、土地取得に関する資金等、緊急と認められないものに対する融資が抑制されたのである。そしてさらに、49年3月には大手金融機関11行に対し、取引先企業についての融資実態の特別調査が実施され、当社も特別調査の対象企業とされた。

当社では48年以降、不動産投資については、開発計画区域内残地の買収は部分的に続行するが、きわめて限定して行うこととし、分譲不動産の取得についても新規事業は原則として取りやめることとした。このほか、会社施設への投資を中止するなど不急の支出を抑制していった。

しかし、工事代金の回収が悪化し、立替金が急激にふくらむなど資金繰りの厳しさは、かつて経験したことのないほどであった。51年3月期には借入金残高は2,983億円と3,000億円の一歩手前までふくらみ、総資産に対する借入金の割合は4割を超え、またその年度の売上高に対しては7割までになり(通常2割までが適正割合とされる)、金融収支は110億円のマイナスとなった。

このような事態に直面し、当社は緊急の課題として膨張した借入金の縮減に立ち向かった。その方策として、次項に述べるように工事代金取下げの促進、そして手持不動産の売却に当たったのである。この間、政府の金融政策は不況脱出に向けて転換し始め、50年4月以降、公定歩合は8次にわたって引下げが行われ、53年3月には、戦後最低の3.5%にまで下がった。また51年7月以降、当社はプライムレートの適用を受けることができるようになったが、これらは、金利負担に苦しむ当社にとっては慈雨ともいえるものであった。

不動産の処分等による資金余剰は、最優先で借入金の返済に充当され、手元流動性預金積増しの課題を残しながらも、半期に100億円前後の返済を行い、これを漸減させていった。こうしてようやく、57年3月末には借入金残高は当面の目標であった2,000億円を割り込む1,788億円までになったのである。

長・短借入金残高の推移
長・短借入金残高の推移

■―工事代金の取下げ率の向上

昭和45年(1970)12月、東京本社設置後も財務・経理業務は本店経理部において引き続き全店統括業務を担当していたが、49年8月、本店経理部財務課の業務の増大、複雑化に対処するとともに、金融逼迫の情勢下、とくに工事代金の取下げ業務の重要性を考え、同課を財務第一課および財務第二課に分割した。

財務第一課においては、資金計画の立案、資金の調達・運用およびその総合調整、貸付債権の管理等を担任し、財務第二課においては、工事の月次収支予定の集計、工事代金の取下げの促進に関し工事事務所および関係部課に対する助言・援助等を担任することとした。

また、これと同時に、各店関係部門の業務分掌事項にも以下のように改正を加え、工事代金の取下げに関する業務の担任先を明文化し、全社を挙げて取下げの促進を図ることとした。

  • 本支店の請負金額を決定する部門(土木部、建築部、設備部等)が取下げの業務を分担する。
  • 工事事務所は、工事の進捗にしたがって現場において処理すべき取下げに関する業務を担任し、上記の各担当部門および経理部門その他必要な部門へ適宜連絡する。
  • 営業部門は、取下げ促進に関する援助業務を担任する。
  • 本支店の経理部門は、取下げ促進に関する助言および援助の業務を担任する。

これによって請負代金の取下げ業務は、第一次的に施工担当部門が担任することとされ、請負代金の決定、施工、引渡し、取下げを一貫して行うこととなった。

不況の深刻化と金融の逼迫化に伴い、取下げ率が低下傾向をたどるとともに、発注者の倒産があったり、手形決済期日の延長の依頼などが相次ぎ、全店的に不良渋滞化する債権が急増し、本店経理部をはじめ各店会計課の取下げ担当者はその対応に追われ、債権の保全確保に懸命の努力を払った。

ピーク時の52年4月には、発注者の倒産、経営不振などいわゆる資金事情の悪化に起因して、契約条件どおりの工事代金の支払いを受けられず渋滞していた債権(受取手形を含む)が、総額400億円に達した。当時の月間施工高は350億~370億円程度であり、1カ月の施工高を上回る渋滞債権を抱えていたことになる。当社が大変な苦境にあったことを裏付けている。

財務第二課では、毎月全店会計部課長会議を開催するなどの諸施策を強力に実施してきたが、これに続き取下金回収計画の制度を設けた。いわば取下げ業務に関する目標管理制度の導入ともいうべきもので、要素別に細分化した取下げ目標値を設定し、その進行状況を絶えずチェックすることによって細かな管理が可能となり、これにより取下げ促進の効果が相当あがった。

また52年11月、岡田副社長名による通達により、請負工事契約の審査体制を充実し、決裁基準の細目も定められた。これにより工事受注時における契約条件の審査に一定のルールが設けられ、その後の不良債権の発生防止と取下げ条件の改善に大いに役立った。

以上の諸施策を含め全社を挙げた努力が続けられ、一方、景況もしだいに安定化したこともあって、取下げ率は51年9月期における60.2%を底に上昇に転じ、55年2月、経理部の本店業務の東京移管とこれに伴う東京本社財務部の新設を契機に一段と改善され、55年9月期には71.3%を記録し、念願の70%の大台に乗せた。

渋滞工事代金債権についても、債権保全措置の奏効、工事請負契約審査体制の確立の一方、金融情勢の好転もあって、56年10月には160億円にまで減少した。

取下げ率の推移
取下げ率の推移

■―不動産に関する見直し

石油危機後、当社経営を苦境に陥れた最大の原因は手持不動産の売却難と、不動産購入に充てた膨大な借入金の利子負担であった。この点はつとに反省され、不動産関連事業の見直しが急がれた。

昭和50年(1975)1月4日の社長訓示「戦後最大の試練の年を迎えて」の中で、このことについて次のように述べている。

「手持不動産の資金化―現在当社は、相当量の営業用不動産及び販売用不動産を保有しておりますが、これらの取得は殆んど借入金によっており、現在のような高金利・金詰りの時にあっては資金上相当の負担となっております。したがって関係部門においては、手持不動産をよく検討し、期待利益を少々下廻っても売却を促進するほか、手持不動産にかかるプロジェクトの実施を強力に推進するなど手持不動産の資金化に努力願いたいのであります。

新規投資の抑制―不動産・施設などに対する新規の投資は極力これを抑制することであります。全く皆無というわけにもいかないでありましょうが、現在以上に借入金を増すことは避けなければなりません。したがって、営業用・販売用の不動産に関する新たな投資については、事前にその効率など万全の検討を尽し、真にやむを得ない場合は、手持不動産を売却してその範囲内で購入するなど実質借入金の増大にならないようあらゆる工夫をしていただきたいのであります。」

さらに50年10月、社報号外をもって示達された社長告示「会社の現状について役職員諸君に訴える」の中でも、非常事態に対処する四つの基本方針の一つとして「不動産の売却を促進し、金融費用の負担の軽減をはかる」があげられ、次のように述べている。

「不動産取得の資金を借入金に依存している現状に鑑み、営業用・開発用その他会社所有不動産の売却を促進して金融費用の負担の軽減をはかる。但し、着手中の開発プロジェクトについては、採算面をきびしく検討し、計画的かつ重点的に事業を絞って推進する。」

これを受けて同年11月、開発事業本部長は「非常事態に対処するための具体的方策について」の通達を管理職あてに発し、開発用不動産の売却と開発事業の見直しについて、細かく具体的な指示を行った。

また時期を同じくして、営業本部長、東京本社建築本部長、本店建築本部長も連名で同題名の通達を管理職あてに出し、手持営業用不動産の売却促進について、具体的指針を示した。

こうして当社は開発用不動産、営業用不動産を問わず、すべてを見直し、減量経営を強力に推し進めることになった。

■―新規採用者の大幅縮減

高度成長期には社業の急成長に伴い、従業員数も大幅な伸びを続けた。しかし石油危機に遭遇し経済環境が一変するなかで、非常事態を宣言するほどの業績の落込みをみたこの時期、当社は厳しい減量経営、現場業務の効率化、常設部門の省力化を余儀なくされた。とくに新規採用者の縮減や常設管理部門従事者の営業・現場部門への配置転換を進めた。

新卒男子定時採用者数は、昭和48年度(1973年度)に500名台に乗り、続いて49年度は過去最高の602名になったが、50年度からは一転して251名、51~53年度は42名、39名、69名と100名を割り、54年度にようやく100名台を回復し、200名台となるのは57年度であった。

この時期の新規採用者の大幅な縮減は、当社従業員の年齢構成をいびつにし、後年少なからぬ問題を残したのである。

しかし、そうせざるを得なかった状況にあったことは、当時の当社の窮状を端的に物語っている。

過去最高の602名(男子職員)が入社した昭和49年の入社式
過去最高の602名(男子職員)が入社した昭和49年の入社式
新規採用者の推移(男子職員)
新規採用者の推移(男子職員)
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