■―電力復興と発電所工事
終戦当時、壊滅状態に近かった電力が、ようやく回復の緒についたとき、朝鮮戦争ブームに際会した。そこで産業界を支える電力の復興は刻下の急務とされ、電力再編成が急がれた。昭和13年(1938)、電力国家管理の目的でつくられた日本発送電会社は、26年5月、電気事業再編成令に基づいて再分割され、全国に九つの電力会社が発足した。
さらに民間企業では困難と思われる大規模な電源開発は、国家事業とすべきとして、27年9月、特殊法人電源開発株式会社が設立された。全国区の電力会社1社と地域別の9電力会社の10社体制が確立されたのである。
そして政府は、28年10月、電力5カ年計画を決定した。この5カ年計画の内容は、28年度から32年度までに8,071億円を投入し、水力、火力合わせて約512万㎾を開発しようとするものであった。
戦前のわが国の水力発電はほとんど水路式によるもので、貯水式は少なかったが、戦後はアメリカのニューディール政策当時のテネシー渓谷開発計画(TVA)等に範をとり、多目的ダムを指向するようになった。これは戦時中、山林が乱伐されて河川が荒廃し、連年水害が続出したことから、また農業用水の不足対策としてもダムを必要とするに至ったためである。当社でも早くからこのことを予測し、大型ダム工事受注のための準備を進めていた。
25年9月、砂防ダムとしては全国一の規模といわれた渡良瀬川砂防足尾堰堤工事を建設省から受注するや、骨材プラントの機械化、バッチャープラントの設置、ケーブルクレーンの使用等、ダム建設技術の蓄積と改善に全力を傾け施工に当たった。これらの努力は、28年6月、電源開発・糠平ダム(北海道)の受注となって実り、それまでに培った経験が工事に生かされた。この工事は当社にとって、社運をかけるほどの大工事であり、ダムばかりでなく土木全般にわたる戦後の立ち遅れを回復する大きな契機となった。糠平ダムに続き、建設省・美和ダムの大工事も受注した。
水力電源の開発と並行して、火力発電所の建設も次々と手がけ、30年代の数多くの大発電所完成へとつながっていった。
糠平ダムの建設(昭和28年6月~31年6月)
糠平ダムは電源開発が創立当初に手がけた北海道十勝川水系開発計画の中核をなし、その建設に当社は社運を賭する意気込みで当たった。同ダムは直線式溢流型コンクリート重力式、堤高76m、堤頂長290m、堤体積47万㎥、湛水面積808万㎡(周囲32㎞)、有効貯水量1億6,000万㎥で、当時わが国第5位の規模であった。
そのころ建設省のダム工事指名入札には堤高50m以上の実績を必要とし、糠平でも電発がこの方針を採用するといわれたが、当社は日本電力黒部川発電所小屋平堰堤(昭和11年竣工)の49mの実績が最高であったため、大林社長は白杉相談役とともに旧知の高碕電発総裁を訪ねて配慮を懇請した。その熱意が認められて当社は指名入札参加を許され、激しい競争の結果、工事を獲得したのであった。
ダム工事としては前例のない低気温圏(最低-32℃)の工事となり、コンクリート工事は年間7カ月に限られ、その養生には大いに苦労した。また骨材もダム建設現場の音更川、十勝本流には乏しく、現地の山で岩石を採取、砕石50万㎥、砕砂24万5,000㎥を生産、投入した。掘削には最新鋭重機類を用い、沖縄から経験あるオペレーター十数名を招いた。
コンクリート工事の期間が限られるため、両岸の山肌に土砂運搬用の道路をつくり、両岸と川底の掘削を並行して進めて工期を短縮し、寒冷地における高堰堤短期施工の新記録を樹立した。
現地最高責任者として30年6月まで取締役藤井虎男が駐在したが、その後工事事務所長齋藤 雄、同次長上山敏夫が相次いで病に倒れ、工事の完成を見ずして職に殉じたため、常務となった藤井が再び赴任し、所長を務めた。
この間、大林社長、白杉相談役、徳永常務(土木担当)らはしばしば現場を訪れ、職員・作業員を激励、鼓舞したのであった。