大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

7 労務安全体制の整備

■―重大事故の発生

役職員が総力を結集、経営立直しに苦闘しつつあった昭和51年(1976)の2月、5月、6月の3回にわたり、東京本社、仙台支店、名古屋支店管内の現場において、図らずも重大災害が続発、十数名の死者を出した。栃木県・大瀬橋工事事務所における一酸化炭素中毒事故、山形県・朝日工事事務所におけるメタンガス爆発事故、岐阜県・平湯工事事務所における土砂崩壊事故がそれである。

これらの事故の被害者はいずれも季節労働者であったこともあって、新聞、放送等のマスコミが大々的に報道しただけでなく、折から開会中の第77国会においても、衆議院農林水産委員会の取り上げるところとなった。

また、監督官庁である建設省および労働省も、重大事故が実質4カ月の間に集中発生したことに強い関心を示し、当社に対して報告書の提出と責任者の出頭を命じた。さらに事故の直接関係者はいずれも業務上過失致死傷、労働安全衛生法違反の容疑によって書類送検された。

■―労務安全衛生機構の大幅改正と安全への努力

重大事故の続発によって、当社は社会的批判の対象となる一方、安全衛生管理に対して法律的、行政的にも厳しく責任を追及された。いずれの事故も刑事責任については不起訴処分となり、刑事罰は免れたのであるが、当社自身が深く反省、自戒したことはいうまでもない。

昭和47年(1972)6月、労働安全衛生法が制定され、災害防止に関する特定元方事業者の責任が明確化されたのに伴い、当社では同年12月、全支店の土木部、建築部、工務部など施工計画担当部門にそれぞれ労務課を新設した。また、50年4月には「安全衛生管理規程」を制定し、安全管理に万全を期した。にもかかわらず重大事故が短期間に続発したため、早急に社内体制の見直しを行い、51年7月、労務安全衛生機構の大幅改正を実施した。

改正の要点は次のとおりである。

1 工事現場の安全衛生管理を指導・監督するため、施工担当部門から独立した部・課、すなわち各店に土木、建築安全監督部・課を新設し、技術系職員を配属した。

2 全店の安全衛生に関して総合的な管理を行うため、土木本部および建築本部(東京本社)に安全管理部を設けた。

3 工事機械の安全衛生に関する指導・監督を行うため、機械工場に安全監督課または担当次長を置き、全店的管理業務を行う部門としては機械部に安全管理課を新設した。

4 労務部・課を労務安全部・課と改称し、対外活動と安全衛生に関する実施事務等を担当することとした。

また、事故発生直後の51年2月、中央安全衛生総括責任者赤野副社長は「災害防止の徹底について」の通達を発し、5月には、大林社長より「工事現場における事故の絶滅について」と題する示達が行われた。

一方、大阪労働基準局では、8月下旬、本店管内の各工事現場を一斉査察し、続いて本店に対する店社査察を実施した。さらに9月には、全国20カ所の労働基準局管内において、当社の土木現場に対して特別査察が行われるなど、監督官庁の行政指導はきわめて厳しいものであった。

事故の続発は社長示達が指摘したとおり、当社の信用を低下させ、企業活動にも支障を生じたことは否定すべくもなかった。これら工事を発注した栃木県、東北農政局、中部地方建設局はもとより、他の官公庁からも工事入札の指名停止、あるいは指名回避の処置も受けた。

また、内部的には業績の回復を目指し、全力を傾けつつあった従業員、とくに営業部門の士気に少なからぬ影響を及ぼした。このように三大事故がもたらした有形、無形の損害は、はかり知れないものがあったが、反面、これによって教訓を得たことも事実であった。

翌52年における安全成績は、単独工事における事故死亡者は1名で、その後はこのような大事故の発生をみていない。これは安全管理体制の整備、充実を物語るとともに、協力会社の末端に至るまで危機感が浸透し、安全をすべてに優先させた努力の成果ではあったが、いまなお忘るべからざる教訓として銘ずべきである。

安全パトロールで訓示する大林社長
安全パトロールで訓示する大林社長
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