大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 企業体制の整備

■―新店舗開設、社内組織・規程制定

芳五郎は明治38年(1905)2月、大阪財界の雄、岩下清周氏と交際をもったが、後述するように、事業家としては岩下氏に教えられるところが大きかった。そうした影響もあり、また事業も拡大してきたので、このころから芳五郎は機構の明確化、規程類の制定など、企業体制の整備に着手した。

まず38年6月、西区靱南通の店舗を難波橋南詰の東区北浜2丁目27番地ノ乙(現・中央区北浜2丁目5番)に移した。これは将来の発展に備えて商業地域の中心に店舗を構えたものである。

同時に西区境川に電力による製材工場を開設した。従来の尻無川河口の小さな木挽工場を廃し、集中処理による自家製材で合理化を図り、貯木機能ももたせたのである。

また機構の整備も行った。すなわち、店主の下に理事、支配人、部長の職を設け、工務、会計、庶務の3係を置いた。また稟議書の制度を定め、諸事書類とすることとし、用紙も制式を決めて使用するようにした。

40年11月には次のような「店員服務規程」を制定して公表した。今日でもそのまま通じる原則であり、とくに綱紀の厳正に意を用い、業界の弊風を打破し、近代経営を目指した意欲を汲みとることができる。

  • 店員は本店諸規則および店主、上役の命令を遵守し、忠実勤勉を旨とし職務に従事あるべし
  • 店員は品行方正にして、貧汚の所為あるべからず
  • 店員は職務の内外を問わず、謹慎懇切を主とし、粗暴の言行あるべからず
  • 店員は機密に属する事項を漏洩せざるはもちろん、店主、上役の承諾を得ずして、文書、帳簿等を他人に開示すべからず、ただし退職後といえどもまた同じ
  • 左の三項はあらかじめ店主の承諾を得べし
  • 名誉職もしくは会社の役員となり、また商工業をいとなむこと
  • 職務に関し慰労、謝儀その他の名儀をもって、他人の贈遺を受くること
  • 下請、出入り商工者もしくは本店関係の諸職工と宴席をともにし、またはその饗応を受くること

続いて翌41年3月に「会計事務取扱心得」、4月に「店員兵役中手当支給ノ件」、6月に「支店出張所勘定科目例」、9月に「会計検査員心得ノ件」と相次いで諸規程を制定し、事業の拡大に対応する諸規律の確立を図った。

37年6月、主として陸軍との連絡のため、東京常駐事務所を京橋区金六町白魚川岸11号地(現・中央区銀座1丁目)に開いたが、規模も小さく獲得工事も数える程度であった。本格的に東京進出を意図した芳五郎は、39年4月、これを支店に昇格し、42年4月、麴町区内幸町1丁目3番地(現・千代田区内幸町2丁目)に移転、植村克己を主任として送った。

このころ陸軍工事を一段落し、主力を鉄道工事に転じ、44年には東京中央停車場建設工事を獲得して、東京はおろか全国の業者にその存在を認識させるのである。

北浜の新店舗
北浜の新店舗
新年始業式後の記念撮影(明治39年)。前列左から5人目が大林芳五郎
新年始業式後の記念撮影(明治39年)。前列左から5人目が大林芳五郎

■―合資会社の設立

明治42年(1909)7月1日、合資会社大林組が設立された。これは岩下氏の示唆によるものといわれる。その示唆の内容は明らかではないが、このころ芳五郎は岩下氏の後援を得て実業界進出に意欲を示していた。そのためにも組織を整備して責任を明らかにし、同時に業務分掌規程も明文化した。事業の発展に伴い、経営の近代化を図ったのである。

合資会社大林組の資本総額は50万円、有限責任社員は芳五郎(出資額30万円)と長男義雄(同10万円)、無限責任社員は伊藤哲郎、白杉亀造の2名(各5万円)であった。業務執行社員には伊藤、白杉が就任し、芳五郎は相談役の地位についた。これは、芳五郎が実業界活動を行う余裕を生み出そうとしてのことと思われる。

歴史ある建設業者は、個人企業から出発して合名会社あるいは合資会社となり、さらに株式会社組織をとったものが多く、当社の場合もそうである。しかし法人組織となった時期は最も早く、この年5月に合名会社となった竹中工務店とともに、わが国業界の先がけをなした。

大阪の美術建築と難波橋

このころ施工した工事のなかで記憶されるべきものに次の工事がある。

明治43年3月北浜5丁目に建てた帝国座は、新派の先駆者川上音次郎が岩下氏の斡旋で依頼してきたものである。前年開場した東京の有楽座に次ぐ関西最初の洋風劇場であり、当社施工の初の劇場建築である。この工費20余万円は、翌年11月川上の急死により大部分が回収不能となったが、芳五郎は心から彼の死を悲しみ、金銭については口にしなかったといわれる。

翌44年6月完成した千日前の芦辺倶楽部は、帝国座に続く劇場建築であった。このほか、大正3年10月竣工の大阪倶楽部は、後に改築されたが、大正初期を代表する美術建築として著名である。4年5月完成の難波橋は、鉄筋コンクリート造で橋側外部を花崗岩で飾り、美術的に構成されている。基礎構築の際の締切り用にアメリカから鋼矢板を輸入して使用したが、これがわが国におけるこの工法の最初とされている。

帝国座 <大阪府>明治43年3月竣工
帝国座 <大阪府>明治43年3月竣工
難波橋 <大阪府>大正4年5月竣工
難波橋 <大阪府>大正4年5月竣工
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