大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

1 全社規模の機構改正

■―受注体制の強化

戦後の経済成長は建設業界をうるおしたが、一方で業者の乱立も招き、昭和25年(1950)に3万といわれた業者は41年には12万と大きく膨張した。40年不況時にはさすがに建設投資も伸び悩み、受注競争はいよいよ激しくなった。民間需要の停滞に悩む業界では、景気の下降を支える公共投資に大手業者も目を注ぐようになり、とくに地域格差解消のための地方投資が盛んになると、地域中小業者との競争も激化した。

当社でも経済成長に伴って業績は向上したが、今後に見込まれる建設需要と激しい受注競争に対処するため、社内体制を整備する必要があった。このため、40年から41年初めにかけて、営業体制、受注体制の強化を中心とする大幅な機構改正を行った。

まず40年3月、本店土木本部に営業調査課、同建築本部営業部と東京支店営業部に調査課を設置し、9月には、本店建築本部の調査課を営業調査部に昇格させた。これら調査部門は一般建設需要の調査や、工事計画情報の総合監理にあたり、工事受注を助けるものであった。また、従来営業と称する部門のなかった福岡、広島両支店の土木部および建築部に、仙台、札幌両支店の土木部に、それぞれ営業課を置いた。

6月には住宅公団、住宅供給公社等の集合住宅を専門に担当する集合住宅部も発足させた。これまで大手業者はこの分野を2次的な活動分野としていたが、住宅建築の将来を見通しての設置であった。7月、各地連絡事務所を出張所に昇格させ、9月には工事現場の主任制を改めて工事事務所長制とした。これは現場の人員管理の効率化を図るとともに、営業活動強化の一端としてとられた改正で、工事事務所長は現場の責任者であるだけでなく、その地域における積極的な工事獲得の任務も与えられた。

40年7月には神戸支店を新設し、翌41年2月、本店と神戸支店、東京支店と横浜支店、広島支店と岡山支店の間に母子店制度をとった。これは工事の獲得と人員の配属に関し、それぞれの母店の指示を受けることとし、業務処理の迅速化と効率化を図ったものである。これに伴い、従来横浜支店に属した静岡県における業務は、一部を除いて名古屋支店の所管となった。

当時の神戸支店
当時の神戸支店

■―施工体制の整備

経済の高度成長は完全雇用からさらに人手不足の事態を招き、建設業における労務者不足は増大し、昭和38年度の全産業における技能労働者不足数約110万人のうち、12万5,000人が建設技能労働者で、不足率も全産業の平均18.1%に対して30.3%とずば抜けて高かった。

この問題は労務を直接管理する下請業者自体の問題として検討しなければ解決できない課題であるため、39年(1964)5月、大林社長は社内の下請技術改善委員会に対し、さらに本質的に研究することを指示した。そしてこの問題も含め下請業者の体質改善を図るため、40年2月、同委員会を下請対策委員会(委員長=専務取締役荒川初雄)に拡大改組した。

下請対策委員会では、技術指導、機械化指導、幹部育成、経営指導、制度研究の各専門委員会に分担して研究を重ね、41年3月、「下請対策」を正式に決定した。土木本部と建築本部はこの対策に基づいて、労務管理を含めた下請業者の指導育成に当たることとなり、関係各部門の協力を得て、実施可能なものから順次着手していった。

その一つとして43年4月、箕面市に大林組建設工大阪研修所(45年、大林組建設工大阪高等職業訓練校と改称)を開設した。

この研修所は当社が敷地と施設を提供し、下請業者が組合を結成して、職業訓練法に基づく認定事業内共同訓練を自主的に行うもので、職種は建築大工である。訓練生の資格は、組合員である下請業者に雇用された中学新卒の男子で、定員は50名、全寮制を採用し、食費、宿泊費、授業料、教材費は組合と組合員が負担するが、訓練期間中は給料を支給する。訓練は、1週間のうち1日は訓練所で学科の講義を受け、5日間は雇用主である下請業者の工事現場で実技の訓練に当たるが、普通学科(社会、数学、国語、体育)のほか、専門学科には、建築工学概論、設計製図、建築構造、構造力学、材料、施工法、計画、設備、積算の各科目がある。期間は3カ年で、学科の講師には府下高校の教師を委嘱し、当社職員も一部の型枠工事について指導するなど協力した。訓練を終了して職場の戦力となった者も多く、勤続報償金制度を設ける等の施策を講じて訓練生の定着に努めたのであった。しかし、その後職業訓練校は、高校進学者の増加に伴う入校者数の著しい減少などの事由により、53年度以降の募集を打ち切り、56年8月閉校のやむなきに至った。

さらに44年2月、大林社長は下請協同組合の結成の是非、労働組合運動の展望など当面の問題について下請対策委員会に検討を求めた。同委員会は、同年3月新設された労務部を中心に、これらの対応策を取りまとめ、45年4月その方策が決定され実施に移された。

38年1月、工作所を機械工場と改め、本店機械部の管下に置いたことは先に述べたが、施工の機械化が進み工事機械の保有量も増大してきたことから、42年12月、大阪機械工場の重機部門を枚方市招提1055番地の新築工場に移転した。東京機械工場も翌43年2月、川越市南台1丁目に11万㎡の敷地を購入、新工場を建設して全面的に移転した。新工場は事務所、職員住宅、工務員寮等の施設を含めて総面積は1万9,000㎡である。このころから建設市場では工事機械のリース制が普及し、トラッククレーン、レッカー、発電機等の汎用性のあるものはリースも利用するようになった。

また、40年2月に設置された仮設機材委員会は、仮設機材の保有量の増大傾向と、その運用・取扱いが会社業績に重大な影響を及ぼすとして、この際、その業務を一元化して、合理的、効率的な運営を図ることを答申した。その結果、41年8月、本店および東京支店に仮設機材課が新設され、これまで機械部が所管していたパイプ支柱等の鋼製仮設機材はすべて仮設機材課に移管された。

大阪機械工場
大阪機械工場
東京機械工場
東京機械工場
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