大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第4章 激動する国情のなかで

昭和恐慌から敗戦への道

昭和時代は大正を引き継いだ後、史上最長の64年を記録した。そして明らかに性格の違う前半と後半とに二分される。本章に述べるのはその前半、すなわち不況、恐慌に始まり、昭和20年(1945)8月の太平洋戦争終結までであり、その特徴は何といっても、わが国の大陸進出から引き続いた戦争の時代であったという点にある。

戦争は総力戦の時代であり、政治、経済、社会、日常生活のすべてが戦争遂行のために奉仕させられた。そして戦争が終わると、そのすべてが戦争から解き放たれて、全く新しい道を歩むことになった。昭和史はここで180度の転回を遂げる。

昭和元年はわずか1週間で終わり、2年に入ると未決済震災手形(関東大震災の被災地で振り出され、震災前に銀行が割り引いたもの)の処理のため、2法案が議会に提出されたが、その審議中の蔵相発言がもとで、東京、横浜の銀行を中心に激しい取付け騒ぎが起こった。震災手形を多くもっていた台湾銀行は整理に入り、そのあおりで三井、三菱に迫るとみられていた鈴木商店が破綻した。

この金融恐慌のさなかに公布された「銀行法」によって、銀行界は五大銀行時代に移り、産業界でも大資本の地位は圧倒的となった。

金融恐慌の収束後、世界は4年10月、ニューヨークの株式大暴落をきっかけに、史上かつてない大恐慌に見舞われた。このさなか予定どおり金解禁を実施したわが国は、緊縮政策、金解禁によるデフレ効果に加え、世界恐慌の高波をかぶり、深刻な不況に沈み、とくに農村の疲弊は大きかった。

鉱工業生産指数は6年を底に、8年から回復過程に転じている。

このような情勢下にあってわが国は大陸における勢力の拡大を図り、6年9月に満州事変が勃発した。日中の紛争はさらに中国本土に拡大し、12年には日中戦争となって、わが国は準戦時体制に入った。

国内でも政党政治・財閥不信のなかで、青年将校、右翼などによる5.15事件(7年)、財界人暗殺など暗い事件が続き、2.26事件(11年)を境に軍部中心のファシズムの時代となった。

7年に満州国を建国し、これをめぐって8年には国際連盟を脱退、国際的な孤立化を招き、さらにわが国の大陸政策は欧米との緊張関係を高めた。

物資、資金は軍需優先の時代となり、12年9月には統制が始まり、13年4月公布の「国家総動員法」は政府に広範な統制、動員の権限を与えるものであった。言論、思想の取締りも厳しくなっていった。

ヨーロッパにおいては独伊の全体主義国家と英仏など自由主義国家との対立が顕著となり、わが国は15年9月、独伊と三国同盟を結び、ここに世界は二大陣営に分かれ、第2次世界大戦を戦うことになった。ヨーロッパでは14年にすでに戦争が始まり、16年12月わが国は米英に宣戦布告し、戦火は全世界をおおった。

そして18年にイタリアが、20年に入りドイツ、日本が相次いで敗れた。わが国は緒戦の優勢がしだいに覆され、20年になると東京はじめ全国の都市は大空襲にさらされて、人、家屋、生産設備とも甚大な被害を受け、衣食もまた乏しく、ついに8月、無条件降伏した。長く苦しい戦争は終わったが、その先には戦後の苦難が待ち受けていた。

建設業も戦時統制下に

昭和の前半は建設業界にとっても激動の時期であった。

大正時代末期に起こった発電所建設ブームは昭和初期まで引き継がれ、4年(1929)ごろまで建設業界にはかなりの工事量があった。一方、社会的には不景気風が吹き荒れて、5年から8年にかけては企業の倒産も多く、大量の失業者を巷にあふれさせていた。

このような状況に、政府は6年から時局匡救失業対策事業を直営工事で行い、請願によって公共工事を請け負った場合、一定割合の失業者を使用することを義務づけた。これは失業救済には有効であったが、一面、ようやく芽生えた機械化施工の芽をつむことになり、合理化の遅れをもたらした。

今日の「労働者災害補償保険法」の原型をなしたといわれる労働者災害扶助法、同責任保険法は7年1月から施行されたが、強制加入は土木建築業に限られたため、実質的には土木建築労働者災害扶助法であった。この法案提出までには、元請業者に責任をもたせるという当初法案をめぐって業界の反対が展開された結果、業界の意向を相当取り入れた法律となった。

そのころから、業界も急速に戦時色を強めていく。軍への協力体制強化のため、建設工事力の集中強化、業界の機構整備などが求められ、実施されていった。

昭和12年(1937)、日中戦争勃発に伴って諸種の経済統制が始まり、10月、鉄鋼工作物築造許可規則が公布され、不要不急の民間建造物に鉄鋼の使用が禁止され、14年11月には木造でも100㎡以上の住宅新築は禁止された。大陸での戦火拡大、日米間の一触即発の事態を受けて、軍の動員、軍需優先策が強行され、人、物資はすべてそこへ投入されることになり、太平洋戦争に入ってからは、さらにそれが徹底されることになった。

戦争は限りない破壊行為であるとともに、一面では限りない建設、生産力拡充を必要とする。したがって建設業界には極限までの協力が求められ、業界もまたこれに応えた。中国大陸、南方占領地における軍用諸施設、軍需工場の建設に挺身し、そのために犠牲となった者は当社も含めて少なくない。

日本内地においても事情は同じで、軍需工場、飛行場、大規模地下壕をはじめ軍施設の建設に繁忙であった。

軍ではこうした事態を予測し、15年秋、陸軍省出入りの業者を集めて軍建協力会設立を言い渡し、16年2月に同会は結成された。海軍工事に関しても17年3月、海軍施設協力会が設立され、両協力会は軍発注施設工事の配分はもとより、統制物資の配給権までいっさいの強力な権限をもっていた。両協力会は後に社団法人となり、さらに20年3月、戦時建設団の発足によって解散した。

一方、業界団体としては16年5月、日本土木建築工業組合連合会、19年2月、日本土木建築統制組合が結成されていた。こうした多元的な受注機構を一元化するための戦時建設団の発足であったが、時すでに遅く、間もなく終戦を迎えた。

軍工事中心の時代にあっても、国策的な官、民の大工事はいくつか遂行された。黒部川、信濃川各発電所工事、17年6月貫通の関門海峡トンネル工事、東京、大阪の地下鉄工事などがそれである。

やがて20年の終戦の混乱を経て、業界は戦後の復興にいち早く立ち上がっていくのである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top